白幽子の墓 (京都市左京区) 
The grave of Hakuyushi
白幽子の墓  白幽子の墓
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墓地内にある「南無阿弥陀佛」名号石碑、白幽子揮毫という。


「松風窟白幽子之墓」、江戸時代から近代の文人画家・富岡鉄斎(1837- 1924)筆


「白川山居穏士」


墓地の東に大文字山が見える。
 神楽岡東墓地(吉田芝墓、吉田神楽岡町)に江戸時代初期の伝説的な人物・白幽子(はくゆうし、1646-1709)の「松風窟白幽子」の墓碑が立つ。 
◆歴史年表 江戸時代、1709年に白幽子は亡くなる。遺骸は吉田神楽岡中山で火葬され、乗願寺(北白川仕伏町)の神楽岡東墓地(吉田芝ノ墓地、吉田惣墓、田神楽岡町)に埋葬された。
 近代、1901年、墓石柱が盗難に遭い、台石のみになる。
 1903年、現在地の神楽岡東墓地に、画家で儒学者の富岡鉄斎により再び墓石柱が立てられた。現在はその墓碑が残っている。
 1943年、法輪寺の後藤伊山住職が、東京・青山墓地内にある白幽子の墓石を見つけたという。京都に持ち帰り、法輪寺境内に葬った。
◆白幽子 江戸時代初期の伝説的な人物・白幽子(はくゆうし、1646-1709)。慈俊ともいう。石川丈山の弟子・石川克之(克)の弟という。自らも弟子に入り、丈山臨終に際しては、死に水を取ったという。北白川瓜生山中、清沢口の岩窟に住み、常に金剛経を誦したという。書、天文、医道、仙術にも通じたという。伝承として数百年生きたとされ、白幽子仙人、白川の仙人ともいわれた。『近世畸人伝』に載る。
 1710年、過度の禅修行により「禅病」となり、結核と神経症で心身困憊していた臨済宗中興の祖・白隠(白隠慧鶴、はくいん えかく、1685-1768)は、白幽子を訪ねる。白幽子は内観の法、観想法の「軟酥(なんそ)の法」を白隠に伝え、その病を快復させたという。白隠は『夜船閑話』、『遠羅天釜(おらてがま)』に記した。
◆白隠慧鶴 江戸時代中期の臨済宗の僧・白隠慧鶴(はくいん えかく、1685-1768)。臨済宗十四派の中興の祖。諡は神機独妙禅師、正宗国師。駿河国の生まれ。幼い頃より、地獄、極楽の説法に魅せられたという。1700年、15歳で駿河・松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家、慧鶴と名付けられた。沼津・大聖寺息道に師事した。1703年、清水・禅叢寺で修行する。雲棲しゅ宏の『禅関策進』により開眼、諸国を巡り美濃・瑞雲寺の馬翁、松山・正宗寺の逸伝、1708年、越後高田・英巌寺の性徹などに参じ、信州飯山の道鏡慧端(正受老人)の法嗣。1710年、京都の白幽子に内観法を学ぶ。ただ、白幽子と会ったことについては創作説もある。1716年(1717年とも)、松蔭寺に還る。1718年、妙心寺第一座となり白隠と号した。この時、法兄・透鱗の法嗣とした。1763年(1758年とも)、三島・龍澤寺を中興開山、1768年、松蔭寺に戻り当寺で亡くなる。墓も松蔭寺にある。
 弟子に東嶺円慈など多い。漢詩文、法話、俚謡など多く著し、書画も遺す。


*参考文献 『知られざる京のミステリースポット 巻の一 洛東編』『事典 日本の名僧』『京都大事典』
左京

  
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 神楽岡東墓地 京都市左京区吉田神楽岡  

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