般舟院(般舟三昧院) (京都市上京区) 
Hanshu-in Temple
般舟院 般舟院
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「禁裏道場蹟」の巨大な石標


「指月山 般舟院」の寺号板


本堂、収蔵庫


本堂


般舟院陵、境内の西、嘉楽中学校を挟んである。


式子内親王(1149-1201)の塚?(中央の石仏)、この奥に五輪塔があるという。
 今出川通沿い、嘉楽中学校の前に「禁裏道場蹟」の大きな石碑が立っている。その北に、般舟院(はんしゅういん/はんじゅういん)、般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)がある。 
 近代以前は、「御黒戸四箇院」と呼ばれ、宮中の仏事を司る寺院四寺(ほかに廬山寺<上経区>、二尊院<右京区>、遣迎院<北区>)の一つになっていた。山号は指月山(しげつざん)という。
 天台宗延暦寺派。本尊は阿弥陀如来像。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、伏見指月の里(豊後橋北、般若院屋敷)に、官人・歌人の橘俊綱(1028-1094)の邸があった。
 康和年間(1099-1104)、藤原基頼が上立売大宮近くの私邸を仏堂とした。勅願寺になり、持明院としたともいう。
 その後、邸は離宮・伏見殿になる。
 室町時代、1428年、第102代・後花園天皇は伏見殿(三条公光第とも)で即位したという。(「般若三昧院記」)
 第103代・後土御門天皇(1442-1500)は、幼い頃この殿に過した。後に継ぐ。
 1464年、応仁・文明の乱(1467-1477)後とも、後土御門天皇の即位後、天皇は二尊院の善空により菩薩大戒を受け、堂宇を建て勅願寺とした。当初は天台、真言、律、禅(浄土とも)の兼学だった。寺は歴代二尊院住持により兼帯された。般舟三昧法を修したことから寺号になる。
 文明年間(1469-1487)、離宮に仏閣が建てられ、般舟三昧法を修しその勅額を掲げたことに始まるともいう。
 1489年、後土御門天皇は、尊形を模して和歌一篇を題し当院に残した。以後、院の追善追福の法が修される。
 1517年、後土御門院忌を修し、覚雅が導師になり御経供養を行う。(『宣胤卿記』)
 安土・桃山時代、1595年、1594年、天正年間(1573-1592)とも、豊臣秀吉の伏見築城に伴い大歓喜寺旧地の現在地(千本今出川)に移る。その後も、禁裏道場として皇室歴代の尊牌を安置した。
 江戸時代、亡くなった歴代天皇は泉涌寺に葬られ、追薦法要は当院で修された。
 1684年、東福門院7回忌法要が、泉涌寺とともに執り行われる。(「徳川実記」)
 1730年、西陣焼けで焼失する。
 1866年、御霊殿を改築する。
 1867年、第121代・孝明天皇の中陰法要を行う。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈が行われる。
 1869年、太政官布告により、泉涌寺、般舟院以外での菊の紋章使用が禁じられる。
 1876年、官令により、寺の維持に適性を欠いたとして、歴代皇室の尊位牌は泉涌寺に遷された。寺地は校地になる。以後、宮内庁からの保護料下付も停止になる。かつて広大な境内を有した寺地も縮小された。
◆橘俊綱 平安時代の官人・歌人の橘 俊綱(たちばな の としつな、1028-1094)。父は摂政・関白・太政大臣の藤原頼通の次男、母は藤原祇子(藤原頼成の娘)。讃岐守・橘俊遠の養子に出される。尾張守、丹波守、播磨守などを歴任、位階は正四位上。作庭に優れ『作庭記』の著者の一人とされる。伏見の別邸も作庭した。歌人としても知られ、伏見の別邸で歌会を催した。笙・琵琶などにも優れた。『後拾遺和歌集』に入集。
◆善空 室町時代の僧・善空(ぜんくう、?-1492)。恵篤善空、諡号は円慈和尚。二尊院善空とも称された。三鈷寺14世。嵯峨の13代・二尊院、白河遣迎院、摂津生瀬・浄橋寺の兼帯。第103代・後土御門天皇の信篤く、1471年、大無量寿経四十八願を講じ た。1475年、天皇に授戒する。1479年、天皇が伏見に建立した般若三昧院の開山。学僧として知られ多くの西山末疏を書写した。現在は失われた「如法念仏」を整えた。『顕浄抄』を著す。
◆後土御門天皇 室町時代の第103代・後土御門天皇(ごつちみかど てんのう、1442-1500)。第102代・後花園天皇の第1皇子、母は藤原孝長の娘・信子(嘉楽門院)。1457年、親王宣下、1458年、元服、1464年、譲位を受けて践祚、1465年即位礼。応仁・文明の乱(1467-1477)により室町第が仮御所となる。1471年より親政開始するが、内大臣・日野勝光、日野富子らとの確執、財政難で5回の退位宣言を発した。1479年、土御門内裏へ移る。朝儀再興も行う。
◆式子内親王 鎌倉時代の皇女・式子内親王(しょくし/しきし ないしんのう、1151?-1201)。第77代・後白河天皇の第3皇女。母は藤原季成の娘成子(高倉三位)。1159年、賀茂斎院の卜定を受け11年間仕えた。1169年、病気を理由に退下、三条高倉殿に移る。藤原定家が何度か訪れたという。定家との恋も囁かれた。1185年、准三宮宣下を受ける。1192年、法皇没後、戒師・法然により出家した。病になる。藤原俊成に和歌を学び、俊成の『古来風体抄』(1197)は内親王の求めに応じて執筆された。家集に『式子内親王集』。『千載和歌集』に入首。
 代表作の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」(「小倉百人一首」)の相手とは、法然であったともいわれている。法然は八条殿で女人往生を説いた。内親王が病により余命わずかとなり、法然に逢ってほしいと乞うが法然は長い手紙を返してそれを制した。
◆庭田朝子 室町時代の第103代・後土御門天皇の典侍・庭田朝子(にわた あさこ、1437-1492)。父は権大納言・庭田長賢(政賢・重賢)。近衛局と称し足利将軍家に仕えた。後土御門天皇の寵愛により、後柏原天皇・尊伝入道親王の生母となる。1504年、皇太后宮の称号が贈られた。
◆仏像 本堂に安置の平安時代作、美仏の「阿弥陀如来坐像」(重文)(62㎝)は、旧本尊で円仁(794-864)作という。結跏趺坐、上品下生の来迎印を結ぶ。木造、古色。
 平安時代作の「不動明王坐像」(重文)(81.8㎝)は、岩座に坐している。像に光をあてると火焔光により背後に龍の形が顕れるという。木造、檜の寄木造、漆箔。
◆大歓喜寺 大歓喜寺はかつて、現在の般舟院付近にあったとみられている。大聖歓喜寺(雨宝院の前身)、大歓喜寺(般舟院の前身)の二寺があった。(『応仁広記』巻五)。臨済の夢窓疎石(1275-1351)の法脈を受けた。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。その後、寺地は二転し、現在は上京区に臨在系単立尼寺が寺号を継ぐ。
◆般舟院陵 境内西の般舟院陵には天皇・皇室の20基の墓などがあり、そのうち6基が治定外となっている。
 室町時代の贈皇太后庭田朝子(1437-1492、後土御門天皇后)の陵、第102代・後花園天皇、第103代・後土御門天皇、第105代・後奈良天皇などの分骨塔がある。
 第77代・後白河天皇第3皇女で賀茂斎院の式子内親王(1149-1201)の塚という石造五輪塔がある。これらの陵は、伏見よりの移転の際に移されたとみられている。
 石仏は鎌倉時代作であり、厚肉彫り、蓮華座に定印の阿弥陀如来坐像になる。式子の墓標ともいう。付近は歌人・藤原定家(1162-1241)の時雨亭跡ともいう。石仏は陵移転以前よりあり、定家葛の墓ともいう。謡曲「定家」では、定家の式子内親王への執心が葛となり、墓に巻きついたという話になる。花崗岩製、1.4m。
 ほかに薬師如来、地蔵菩薩などが数十体がある。
◆黒戸四ヵ院 近代以前まで、御黒戸四箇院(黒戸四ヵ院)と呼ばれる4寺院があった。宮中の仏事を司り、仏殿を守った。4寺は廬山寺(上京区)、二尊院(右京区)、般舟三昧院(上京区)、遣迎院(北区)で、南北朝時代-近代以前まで続く。住職晋山には参内し、紫の衣を贈られるのを慣例とした。
 御内仏殿に黒戸を用いており「黒戸」、「黒戸の御内仏」ともいう。京都御所内には「黒戸の間」が残されている。
◆時雨亭 本堂(方丈)背後は、平安時代-鎌倉時代の歌人・藤原定家(1162-1241)の時雨亭跡ともいう。石仏はこの定家葛の墓(墳)ともいう。謡曲「定家」では、定家の式子内親王への執心が葛となり、親王の亡霊が現れ墓に絡みついた話になった。(「応仁記」「山州名跡志」)。近世、「定家の杜」があった。「定家の辻子」と呼ばれる路があった。
 時雨亭跡としてはほかに、嵯峨・常寂光寺、二尊院、厭離庵、相国寺などともいう。
◆式子・定家 式子内親王と藤原定家の逸話がある。1159年、式子は賀茂斎院の卜定を受けた。1169年、式子は、病気を理由に退下する。1181年、定家は父・俊成に伴われて御所に参上し、式子の琴を聴き二人は初めて出遭う。1192年以降、式子は病になる。定家は式子の住まいである御所大炊殿にあしげく通う。1201年、式子は亡くなる。1202年、式子の一周忌法要が営まれ、定家も参列している。(『明月記』)
 謡曲『定家』には二人の物語が綴られる。神無月の頃、北国よりの旅の僧は、京の千本辺りで暮れて時雨宿りをした。一人の若い女が現れ、ここは定家が建てた「時雨の亭(ちん)」だと僧に教えた。
 女は定家の歌を詠み、僧を式子の墓に案内した。石塔があり、「星霜ふりたるに蔦葛はひまとひ形も見え」と刻まれていた。墓全体には葛が纏わりつき、定家葛と呼ばれていた。
 式子内親王は賀茂の斎院ながら、定家と忍ぶ深い契りを結んだ。二人の仲が世に知れ、逢うこともかなわずに亡くなる。以来、定家の執心、妄執が葛になり、内親王の墓に纏わりついたという。
 女は、内親王の魂もまた安まることがなかったといい、自らが式子であると告げた。この苦しみから救済してほしい言い残して失せた。その夜、僧が読経すると、式子の霊が墓より現れた。霊は僧の法力により成仏し、舞を舞い墓に消えた。
◆文化財 妙法院宮尭恕(ぎょうじょ)親王筆「後水尾院画」がある。後水尾院の賛があり、方丈に安置されている。


*非公開、要予約
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『京都歴史案内』『京を彩った女たち』『京を彩った女たち』『洛西探訪』『週刊 仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『週刊 京都を歩く 24 下鴨』


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 般舟院 〒602-8473 京都市上京区般舟院前町151,今出川通千本東入る  075-441-1433
    般舟院陵  京都市上京区今出川通千本東入般舟院前町
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