地蔵寺 (桂地蔵) (京都市西京区)
Jizo-ji Temple
地蔵寺 (桂地蔵)  地蔵寺 (桂地蔵)
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愛宕山常夜灯




薬師堂、鎌倉時代初期作の石造薬師如来像が祀られている。


薬師堂









日比地蔵尊、第二次世界大戦でのフィリピン、日本、アメリカ軍戦没者の菩提を弔う。また、フィリピンと日本の親善を祈願して建立された。
 地蔵寺(じぞうじ)は、桂川の西、旧山陰道沿いにある。桂地蔵寺、桂地蔵とも呼ばれている。山号は久遠山という。
 浄土宗の寺院。本尊は地蔵菩薩。
 京洛六地蔵巡りの一つ、第3番札所。十一面観世音菩薩は、京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第23番札所。24番念仏寺の十一面観世音菩薩もともに安置されている。京の通称寺霊場39番、桂地蔵。
 安産祈願があり、岩田帯が授与される。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 付近は、丹波から桂川で運ばれ集積されていた材木の波止場だったという。
 平安時代、公卿で桂大納言と呼ばれた源経信(1016-1097)の別邸「河原堂山荘」が営まれたという。その後、薬師石造薬師如来像が祀られ、寺に改められたという。後に、地蔵尊を安置した。
 また、三十六歌仙の一人・伊勢(872- 938)の住居があったともいう
 鎌倉時代、1416年頃かそれ以前、創建されたとみられる。この年、地蔵尊に奇瑞があり、多くの参詣者で賑わう。風流拍ものも奉納された。(『看聞御記』)
 室町時代、付近に寄棟造の御堂があり、薬師如来、十二神将が祀られていた。こらの仏像を護るために寺が創建されたともいう。
◆源経信 平安時代後期の公卿・源経信(みなもと の つねのぶ、1016-1097)。権中納言道方の子。大納言、桂大納言と称された。1065年、蔵人頭、1091年、大納言。1094年、大宰権帥(副長官)となり、大宰府で亡くなる。
 漢詩、和歌に秀でた。日記『帥記』では、白河天皇の大堰川行幸の際に、漢詩、和歌、奏楽の3船が出され競わせた際に、経信はわざと遅れて着き、どの船でもよいと答えたという。この逸話により嵐山の三船祭が始まったという。
◆地蔵・仏像 地蔵堂に鎌倉時代作とみられる「地蔵菩薩」が安置されている。右手に錫状、左手に宝珠を掲げている。顔には胡粉を塗る。翻波式衣文、寄木造。半丈六、像高2.58mあり、6地蔵のなかで最大になる。
 いつくつかの伝承が残る。平安時代、852年、小野篁が、木幡山の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻んだとされ、桂地蔵尊像は、最下部の部分を用い、姉井菩薩と呼ばれたという。また、七条桂川畔に丈六の土の地蔵尊が安置されていた。三途に落ちないために、千人の筆跡を集め地蔵の肌に張り、胎内に経文や石を納めたという。病で亡くなった僧がおり、冥土より蘇った。閻魔王宮で恩返しを申し出ると桂川の道の修繕を依頼した。僧は寄付を募り道を修復したという。(「地蔵菩薩霊験記」)
 本堂の札所本尊の「十一面観世音菩薩」は、かつて歓喜寺(桂朝日町)の本尊であり、廃寺になり遷された。もう一体の「十一面観音」は、かつて御霊神社(桂久方町)にあり、その後遷された。二十四番の中桂山念仏寺の本尊になっている。
 脇檀に「阿弥陀如来立像」を安置する。来迎弥陀の三尺(像高0.9m)、鎌倉時代作。
 薬師堂に、鎌倉時代の石仏が安置されている。
◆六地蔵巡り 六地蔵巡りは8月22日、23日の両日に、洛外6寺の地蔵尊を巡る。六地蔵とは、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」の六道に迷い苦しむ衆生のために発願されたものという。
 由来、場所については諸説あり、変遷も見られる。平安時代初期、小野篁(802-853)は、冥土で生身の地蔵菩薩に出逢い、その教えにより蘇生した。852年、篁は、木幡山の桜の大木より6体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(現在の大善寺)に安置したとされる。(『都名所図会』)
 1157年、保元年間(1156-1159)、都で疫病が流行した際に、第77代・後白河天皇は、都の出入り口に6体の地蔵尊を祀るように平清盛に命じた。西光法師(?-1177)が、京洛の街道口6か所(七道の辻とも)毎に、地蔵菩薩を造ったという。卒塔婆の上に道場を建て、像を安置し「廻り地蔵」と名付けて供養した。地蔵尊に、疫病退散、都往来の路上安全、福来結縁の祈願が行われ、法師は廻地蔵と名付けたという。(『源平盛衰記』中「西光卒塔婆事」。『六地蔵縁起』、大善寺、 江戸時代、1665年)。
 地蔵尊が置かれた場所は、四ノ宮河原(東海道、三条口)、小幡の里(伏見街道、五条橋口)、造道(つくりみち、鳥羽街道、東寺口)、西七条(西国街道、丹波口)、蓮台野(丹波街道、長坂口)、深泥池(みぞろいけ、鞍馬街道、鞍馬口)、西坂本(敦賀街道、大原口)だったという。(『源平盛衰記』中「西光卒塔婆事」)
 室町時代、七道の辻は、西院、壬生、八田(やだ)、屋根葺、清和院、正親町(おおぎまち)、西洞院に置かれた。
 江戸時代、6所にそれぞれ六角円堂を建て、地蔵菩薩を安置したという。場所は、四ノ宮河原、六地蔵の里、上鳥羽、御菩薩(みぞろ、深泥池)、桂の里、常盤院になる。寛永年間(1661-1673)、ほぼ現在の六地蔵巡り、6か寺になる。
 昭和期(1926-1989)初期、六地蔵会が発足し、現在の六色の札(お幡)が生まれた。参詣者は、各寺の六色の札を玄関に吊るし、1年間の疫病退散、家内安全、福徳招来の護符にする。初盆には水塔婆供養し、3年間巡拝すると六道の苦を免れるとされた。
 現在は、1番-大善寺(伏見六地蔵、奈良街道)。2番-浄禅寺(鳥羽地蔵、西国街道・上鳥羽)。3番-地蔵寺(桂地蔵、丹波街道)。4番-源光寺(常盤地蔵、周山街道)。5番-上善寺(鞍馬口地蔵、若狭街道・鞍馬口通)。6番-徳林庵(山科地蔵、東海道・四ノ宮)になる。いずれも旧街道口に当る。
 かつて六地蔵巡りでは、地蔵尊を背負い、六斎念仏、賽の河原地蔵和讃などを唱えながら廻ったという。大善寺の地蔵尊は6所に安置された地蔵尊の根本像になり、寺号も六地蔵と呼ばれるようになった。なお、智恵光院(上京区)地蔵堂に安置されている丈六の六臂(ろっぴ)地蔵像は、京都の六地蔵尊すべてを巡礼するのと同じ功徳があるといわれている。
◆桂地蔵の伝承 阿波の貧者の夢中に、地蔵が立ち、荒廃している桂地蔵を修復するように告げたという。貧者は桂に住した。だが、通り掛りの西岡の竹商人と争い、商人は貧者、地蔵に斬りつけた。だが、腰が萎えたため改心し、地蔵に奉仕した。その後、その霊験を聞きつけた参詣者が押し寄せた。
 また、貧者と数人が申し合わせての謀とされ、足利義持により捕えられた。竹商人のみは、嫌疑を認めず赦免され、地蔵に仕えたともいう。
◆宝篋印塔 鎌倉時代の、石造、宝篋印塔がある。
◆年間行事 六地蔵めぐり・地蔵盆<桂六斎念仏(国の重要無形民族文化財>が奉納される。)(8月22日-23日)、薬師盆(9月8日)。 


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『洛東探訪』『京都の寺社505を歩く 上』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『新版 京のお地蔵さん』『京の福神めぐり』


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子安地蔵

水子地蔵


六体地蔵尊

稚児養育地蔵尊
 地蔵寺 〒615-8071 京都市西京区桂春日町9   075-381-3538
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