浄禅寺 (鳥羽地蔵) (京都市南区) 
Jozen-ji Temple
浄禅寺 浄禅寺
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「南無延命地蔵大菩薩」


重修恋塚碑、江戸時代、1647年、永井日向守直清が林羅山に撰させ袈裟の貞女を讃えた碑。








本堂




本堂



本堂



観音堂



観音堂



観音堂、平安時代、9-10世紀の十一面観世音菩薩(京都市指定文化財)


 浄禅寺(じょうぜんじ)は上鳥羽の旧西国街道に面して建つ。平安京の推定されている鳥羽作道(現在の千本通)の沿道とされる。恋塚浄禅寺(こいづかじょうぜんじ)、鳥羽地蔵とも呼ばれている。山号は恵光山(えこうざん)という。
 浄土宗西山禅林寺派、総本山・永観堂の末刹寺(末寺)。本尊は阿弥陀如来立像。
 地蔵堂に六地蔵巡りの一つ4番、鳥羽地蔵を安置する。京洛六地蔵巡り第2番札所。家内安全、安産祈願の信仰がある。
◆歴史年表 
創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、1182年、1144年とも、文覚上人(1139-1203)の開基によるともいう。袈裟御前の墓、その護持のための知法庵が結ばれたことに始まるという。当初は法相宗、真言宗ともいう。(寺伝)
 1158年、第77代・後白河天皇の勅命により、鳥羽地蔵の六角の地蔵堂が庵の傍に建てられる。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、浄土宗に転じ、浄禅寺と改めた。
 江戸時代、1711年、1713年とも、火災により焼失する。
 天保年間(1830-1844)、再建される。
 近代、1881年、1888年とも、地蔵堂、観音堂が境内に移された。旧地は現在地の北の街道筋にあったという。
 現代、1987年、昭和期(1926-1989)とも、現在の本堂が再建される。
◆文覚 平安時代-鎌倉時代初期の真言宗の僧・文覚(もんがく、1139-1205)。俗名を遠藤盛遠(もりとお)といった。「荒法師」といわれた。摂津国の武士の家に生まれる。幼くして両親を失う。摂津源氏傘下の摂津国・渡辺党の武士で、上西門院(鳥羽天皇皇女)に仕える北面の武士になる。1159年、18歳で従兄弟で同僚の渡辺渡(わたる、渡辺左衛門尉源渡)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺したことから出家し、文覚と称した。那智、熊野で修行する。荒廃していた神護寺に入り、1173年、再興のために、第77代・後白河天皇に勧進を強訴し、不敬罪で伊豆国に配流された。その地で知り合った源頼朝に平家打倒の挙兵を促したという。盛遠は、密かに京都に戻り、後白河院の院宣を得て頼朝に伝えた。1192年(1185年)、鎌倉幕府成立後、頼朝、後白河院の庇護を受ける。神護寺再興を果たし、東寺 高野山などの修復も手がけた。頼朝の死後、1199年、後鳥羽上皇(第82代)により佐渡国へ再び流罪となる。一度許されて京都に戻る。1205年、謀反を疑われ三度目となる対馬に流され客死した。
 弟子に神護寺復興を継いだ上覚、孫弟子に高山寺開山の明恵らがいる。
◆袈裟御前 平安時代末期の女性・ 袈裟御前(けさごぜん、?-1157?)。詳細不明。実在したかどうかも不明。北面の武士・源渡(わたる)の妻となる。美女であり、北面の武士・遠藤盛遠(後の文覚)に横恋慕された。夫の命を守るために、身代りになり盛遠に殺されたという。
◆永井直清  安土・桃山時代-江戸時代の武士・永井直清(ながい なおきよ、1591-1671)。徳川家康に仕えた永井直勝の次男として生まれた。幼くして徳川秀忠に仕え、1615年、大坂の夏の陣でも活躍した。1633年、要衝地の淀川右岸・勝竜寺城(長岡京市)に直清、左岸・淀城(京都市)に兄・尚政が入る。直清は京都所司代、大坂城代の代行も勤めた。1649年、高槻城藩主となる。1650年、畿内の大洪水では、水を排出する井路などの治水事業に取り組んだ。
 1654年-1656年、平安時代の歌人の各所の墓、廟堂などを顕彰する碑を建立し、銘文は林羅山に依頼している。泉涌寺塔頭・悲田院に葬られた。
 以後、近代まで13代にわたり永井家が高槻藩主を務めた。1793年、直清の霊を祭神とした永井神社が、高槻の野見神社内に建立されている。
◆仏像・木像・石像 本堂安置の本尊「阿弥陀如来像」(98cm)は、平安時代の慈覚大師作という。
 江戸時代作の「善導大師像」(90cm)、江戸時代作の「文覚上人」(90cm)、江戸時代作の「袈裟御前坐像」(35cm)、「遠藤盛遠像」が安置されている。
 観音堂に、平安時代、9-10世紀の「十一面観世音菩薩」(174cm)(京都市指定文化財)を安置する。江戸時代作の「三十三体観音菩薩」(30cm)、江戸時代作の「役行者」(50cm)がある。
 地蔵堂に平安時代の小野篁作という「地蔵菩薩像」(227cm)がある。
 境内に江戸時代作の「石造地蔵菩薩」、鎌倉時代の「石造如来」2体がある。
◆建築 本堂、観音堂、地蔵堂などが建つ。
◆鳥羽地蔵 地蔵堂の鳥羽地蔵は、平安時代、852年、小野篁が木幡山桜の大木より六体の地蔵尊像を刻んだうちの一つという。室町時代作ともいう。右手に錫状、左手に宝珠を掲げた立像で、極彩色、截金文様を施す。等身大丈六(2m)、寄木造。
◆恋塚 江戸時代、1647年、摂州高槻の領主・永井日向守直清(1591-1671)が儒学者・林羅山(林道春)(1583-1657)に撰させ、袈裟御前の貞女を顕彰したという碑が境内にある。恋塚は袈裟御前の首を埋めた塚ともいう。
 文覚、袈裟御前にまつわる伝承がある。
 
◆伝承 文覚、袈裟御前にまつわる伝承がある。
 渡辺の橋が完成し、その供養が行われた日に、城南離宮警固の北面の武士・遠藤盛遠は警備に当たった。その際に、従兄弟で同僚の渡辺渡の美しい妻、袈裟御前に心奪われる。
 盛遠は、袈裟を呼び寄せるために、袈裟の母(盛遠の叔母)・衣川(ころもがわ)を刀で脅して密会を迫った。病を装った母のもとを袈裟は訪ねる。袈裟はすでに事情を察していた。老いた母は、武士の手にかかり死ぬよりは、我が娘の手により死にたいと告げた。困惑した袈裟は、一計を案じる。盛遠に会い、夫が寝入った際に、夫の首を取るようにと盛遠に持ち掛けた。
 盛遠は、闇夜にまぎれて夫婦の寝室に忍び込む。袈裟は、刀の使い手である夫に普段より大目の酒を勧めていた。盛遠は闇の中で、手筈通りに濡れた髪を手掛かりとし、枕元に置かれた烏帽子を目印にした。
 盛遠は、濡れ髪に触れて渡の首を刎ねる。そのまま首を袖に包み、外へ出て月光に照らしす。だが、そこに浮かび上がったのは、渡の首はなく愛する袈裟の顔だった。袈裟は、自らの髪を濡らし、夫の烏帽子を自らの枕元に置いて灯火を消していた。母への孝養と夫への愛(貞節)から、その身代わりになって果てた。辞世「露深き浅茅が原に迷う身のいとど暗路に入るぞ悲しき」。
 盛遠は、愛しい女性の首を抱き、邸内の赤池で血を洗い、袈裟の塚を立てたという。盛遠は、己の非道を深く恥じ、直ちに出家し文覚と称した。その後、袈裟の夫・渡、袈裟の母・衣川も出家し、ともに袈裟の菩提を弔ったという。この渡とは、俊乗房重源ともされる。文覚は、墓を「恋塚」と名付けたという。
 話は、『平家物語』『源平盛衰記』にある。芥川龍之介の小説『袈裟と盛遠』(1918)では、袈裟は酷い女として描かれた。明治期の長唄『鳥羽の恋塚』、菊池寛原作で、衣笠貞之助監督の映画「地獄門」(1953)などの題材になった。
 『雍州府志』(1648)には、近世、上鳥羽に碑が立てられたと記されている。これは、鯉塚とされる。中古、上鳥羽の大池中に大きな鯉がおり、時々妖怪を成したという。里人がこれを殺したため塚が築かれた。この鯉塚を恋塚と誤ったものとしている。『都名所図会』(1780)にも同様の記述がある。
 なお、恋塚寺にも「恋塚」がある。
◆六地蔵巡り 六地蔵巡りは8月22日、23日の両日に、洛外6寺の地蔵尊を巡る。六地蔵とは、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」の六道に迷い苦しむ衆生のために発願されたものという。
 由来、場所については諸説あり、変遷も見られる。平安時代初期、小野篁(802-853)は、冥土で生身の地蔵菩薩に出逢い、その教えにより蘇生した。852年、篁は、木幡山の桜の大木より6体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(現在の大善寺)に安置したとされる。(『都名所図会』)
 1157年、保元年間(1156-1159)、都で疫病が流行した際に、第77代・後白河天皇は、都の出入り口に6体の地蔵尊を祀るように平清盛に命じた。西光法師(?-1177)が、京洛の街道口6か所(七道の辻とも)毎に、地蔵菩薩を造ったという。卒塔婆の上に道場を建て、像を安置し「廻り地蔵」と名付けて供養した。地蔵尊に、疫病退散、都往来の路上安全、福来結縁の祈願が行われ、法師は廻地蔵と名付けたという。(『源平盛衰記』中「西光卒塔婆事」。『六地蔵縁起』、大善寺、 江戸時代、1665年)。
 地蔵尊が置かれた場所は、四ノ宮河原(東海道、三条口)、小幡の里(伏見街道、五条橋口)、造道(つくりみち、鳥羽街道、東寺口)、西七条(西国街道、丹波口)、蓮台野(丹波街道、長坂口)、深泥池(みぞろいけ、鞍馬街道、鞍馬口)、西坂本(敦賀街道、大原口)だったという。(『源平盛衰記』中「西光卒塔婆事」)
 室町時代、七道の辻は、西院、壬生、八田(やだ)、屋根葺、清和院、正親町(おおぎまち)、西洞院に置かれた。
 江戸時代、6所にそれぞれ六角円堂を建て、地蔵菩薩を安置したという。場所は、四ノ宮河原、六地蔵の里、上鳥羽、御菩薩(みぞろ、深泥池)、桂の里、常盤院になる。寛永年間(1661-1673)、ほぼ現在の六地蔵巡り、6か寺になる。
 昭和期(1926-1989)初期、六地蔵会が発足し、現在の六色の札(お幡)が生まれた。参詣者は、各寺の六色の札を玄関に吊るし、1年間の疫病退散、家内安全、福徳招来の護符にする。初盆には水塔婆供養し、3年間巡拝すると六道の苦を免れるとされた。
 現在は、1番-大善寺(伏見六地蔵、奈良街道)。2番-浄禅寺(鳥羽地蔵、西国街道・上鳥羽)。3番-地蔵寺(桂地蔵、丹波街道)。4番-源光寺(常盤地蔵、周山街道)。5番-上善寺(鞍馬口地蔵、若狭街道・鞍馬口通)。6番-徳林庵(山科地蔵、東海道・四ノ宮)になる。いずれも旧街道口に当る。
 かつて六地蔵巡りでは、地蔵尊を背負い、六斎念仏、賽の河原地蔵和讃などを唱えながら廻ったという。大善寺の地蔵尊は6所に安置された地蔵尊の根本像になり、寺号も六地蔵と呼ばれるようになった。なお、智恵光院(上京区)地蔵堂に安置されている丈六の六臂(ろっぴ)地蔵像は、京都の六地蔵尊すべてを巡礼するのと同じ功徳があるといわれている。
◆文化財 江戸時代の「縁起絵巻」。
 版木「鳥羽恋塚碑銘」、「恋塚碑」の撰文が刻まれている。江戸時代、寛永17年(1640)の銘。
 「恋塚碑(袈裟御前塔)」は、江戸時代、1647年に願主・永井日向守直清により立てられた。儒者・朱子学者・林羅山(1583-1657)の撰文による。
 法制学者・教育者・細川潤次郎(1834-1923)が袈裟御前を讃えて建立した石碑があり「激揚貞風」と刻まれている。
◆恋塚 五輪塔は、袈裟御前の墓とされ、「袈裟の首塚」、「恋塚」とも呼ばれている。 
◆赤池 境内の南、国道1号線(京阪国道)と府道202号線の交差点付近を「赤池(あかいけ)」と呼ぶ。伝承がある。
 遠藤盛遠が、袈裟御前の首を斬った後、ここで太刀の血を洗ったという。池水が鮮血で赤く染まり、「赤池」と呼ばれた。(『山城名勝志』)
◆年間行事 六地蔵めぐり・地蔵盆(上鳥羽橋上六斎念仏鉦講が奉納されている。)(8月22日-23日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『新版 京のお地蔵さん』『古都歩きの愉しみ』『京都の寺社505を歩く 下』『京の寺 不思議見聞録』『京都大事典』『京都の地名検証』『京の福神めぐり』『週刊 京都を歩く 41 伏見・大山崎』


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地蔵堂

地蔵堂

地蔵堂、鳥羽地蔵菩薩

地蔵堂

水子地蔵

六地蔵巡り

袈裟御前の首塚(恋塚)、袈裟御前の供養塔という宝筐院塔 

五輪塔(恋塚)、袈裟御前の墳墓ともいう。

クスノキの大木


【参照】「赤池」の地名が残る。
 浄禅寺 〒601-8136 京都市南区上鳥羽岩ノ本町93  075-691-3831 
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