宝福寺 (京都市伏見区) 
Hofuku-ji Temple
宝福寺  宝福寺
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山門、朱塗りの四脚門


山門扁額「寶福禅寺」









本堂






金比羅堂(坐禅堂)

 宝福寺(ほうふくじ)は、江戸時代には、「木挽町(こびきちょう、旧名)の金毘羅さん」と呼ばれた。号を久祥山という。 
 曹洞宗永平寺派。本尊は釈迦如来。金比羅大権現は、開運厄除、安産子授、五穀豊穣などの信仰を集めている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 かつて、「伏見九郷」の内の森村(桃陵町、豊後橋界隈、御香宮の南)にあり、浄土宗だったという。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。
 その後、大椋(おおぐら)神社(伏見区弾正町付近?)の神官寺、また末寺だった瑞応院(ずいおういん)に寺号を移した。
 1559年、出雲国野崎浦城主・野崎備前守は、伏見滞在の折、寺の荒廃を知り自ら開基になった。真言宗の久祥院(きゅうしょういん)と改め、富明(ふみょう)法印を住持としたという。
 安土・桃山時代、1594年、豊臣秀吉の伏見城築城にともない、大椋神社、村落も住吉町に移される。久祥院は現在地に移転した。その際に、宝福寺は末寺になり久祥山宝福寺と称した。
 1599年、曹洞宗の宝福寺(薩摩国川辺郷)11代・日孝芳旭(ほうきょく)を招いて再再興された。久祥山宝福寺と山号、寺号を改め、曹洞宗に改宗した。
 江戸時代、1620年、寺社奉行・山口駿河守により、伏見城内の学文所前にあった金毘羅堂、城鎮守神の金比羅大権現などを境内に移した。
 近代、1868年、境内一帯は、鳥羽・伏見の戦いの激戦地になり、寺も損壊する。
 現代、1973年、金比羅堂が再建された。
◆仏像 本堂に、最澄(767-822)作という平安時代(藤原時代、平安時代中後期とも)の「聖観音像」が安置されている。柔和で整った顔立ち、体躯より、渡来仏とみられている。かつて、旧三栖村にあった旧竜谷寺の遺仏という。寺は、安土・桃山時代、1598年に喜運により創建され、宝福寺末になる。江戸時代、天保年間(1830-1843)、観音像は竜谷寺に遷され、近代、1873年に宝福寺に遷された。観音像についての伝承がある。豊後国竹田の岡城初代城主・中川秀成(1570-1612)は、伏見に赴任した。1595年、妻は待望の嫡男・采女(うねめ)を授かる。だが、子は7歳で病により夭逝する。妻は悲しみのあまり出家して観音堂屋敷に移り、亡き子の冥福を祈った。ある時、一人の女性が庵を訪れた。女性は、伏見の町家に美しい姿の観音像が祀られていると告げた。尼は早速、その観音像を譲り受け観音堂に安置したという。
 本堂に、中国風の「釈迦像」、「十六羅漢像」を安置する。
 金毘羅堂左には、秘仏の本尊「金毘羅大権現像」が安置されている。金毘羅大権現、稲荷大明神、不動明王の三尊が合体した珍しい像とされている。白狐の背に烏天狗が直立し、右手に剣、左手に縄を持つ。背に赤い火焔を背負い、背中より烏天狗様の翼が生えている。変形茶吉尼天像、仏教的な稲荷神になる。信濃国の神仏習合神・飯縄大権現(いづなごんげん/いいづなごんげん)に類似するという。かつて、伏見城内の御舟入山学問所(伏見城学問所)前に安置されていた。豊臣秀吉が築城に際して祭祀し、怨敵降伏(朝鮮侵攻祈願)、航海安全を祈念したという。秀吉は、宝福寺の住職を伏見城に招き、大般若経を転読させていたという。江戸時代、1620年に寺社奉行・山口駿河守が伏見城より、金比羅堂、羅漢像2体、陰陽石とともに当寺に遷したという。遷されてから後、三十石船で伏見港に着いた旅人は、「木挽(こびき)町の金毘羅さん」と親しんだ。また、「子授けの金毘羅さん」と呼ばれた。
 金毘羅堂の羅漢体2体は、平安時代末-鎌倉時代初期に来日した、南宋の工人・陳和卿(ちん なけい、生没年不詳)作ともされる。陳は、重源に招かれ、東大寺復興に関わっている。
 金毘羅堂内中央のもう一つの秘仏「雙身歓喜天」は、厨子内に安置されている。象頭人身で抱擁した双身像になっている。
◆天狗面 金比羅堂の軒下に、木彫の天狗面が掲げられている。かつて、面に触れると祟りがあると恐れられていた。現在は、子授けの信仰も集めている。
◆陰陽石 現在は堂内に安置されている陰陽石(子授けの石)は、伏見城より移された。豊臣秀吉・淀君が子授成就に祈願し、嫡子・棄丸(後の秀頼、1593-1615)を授かったという。以来、子授け、安産の信仰を集めている。
 陽石(左)が男性、陰石(右)が女性を表し、子宝祈願の際に、男女はそれぞれ相手方の石を跨いで雙身歓喜天に祈願する。
◆道元 境内に「入越足跡夢街道慕古(もこ)の旅発願寺」の石標が立てられている。
 道元(1200-1253)は、1233年、深草に興聖寺を開いた。だが、比叡山よりの弾圧を受ける。1243年7月16日、道元は宇治を出発し、7月末に越前・吉峰寺に入ったとみられている。越前国の地頭・波多野義重の招きによるもので、越前志比荘に移った。途中、朽木の領主・佐々木信綱の招きに応じ、朽木にも立ち寄り、後の興聖寺となる。1244年、道元は傘松に大佛寺(永平寺)を開いている。 
 1996年、当寺の大雄慶康住職が、道元の入越足跡を行脚することを発願した。宇治の興聖寺から福井の永平寺までの250kmを、宝福寺秘蔵の道元禅師御頂相を笈館に納め、先々で経をあげ座禅を組みながら踏破した。
 その後も、「慕古の旅」(8月下旬より)は続けられている。
◆伏見九郷  室町時代の『看聞御記』に伏見九郷とあり、山村・舟戸荘村・久米村・法安寺村・即成就院村・石井村・北尾村・北内村、森村の9か村をいう。森村は桃陵町、豊後橋界隈にあったという。村々は、伏見城築造の際に強制移住となったという。
◆鳥羽・伏見の戦い 境内一帯は、1868年の鳥羽・伏見の戦いの激戦地のひとつになった。幕府軍は鳥羽方面より退却し、会津軍は伏見奉行所より退却して、高瀬川河口で集結した。
 これに対して、官軍(薩摩、長州、土佐)は、竹田街道、伏見街道より進撃し、両軍は毛利橋で戦闘になる。
 幕府軍が淀方面に退却して戦いは終結した。この時、当寺を含め、付近の多くの家屋が焼失している。
◆年間行事 御本尊御開帳法要(金毘羅大権現と雙身歓喜天像が開帳される。)(5月第1日曜)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『新版 京・伏見 歴史の旅』『京のご利益めぐり』『稲荷信仰と宗教民俗』


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「入越足跡夢街道慕古(もこ)の旅発願寺」の石標
 宝福寺 〒612-8357 京都市伏見区西大文字町  075-611-6037
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