木戸孝允旧邸・達磨堂 (京都市中京区) 
former residence of KIDO Takayoshi,Daruma-do
木戸孝允旧邸・達磨堂 木戸孝允旧邸・達磨堂 
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「明治天皇行幸所 木戸邸」の石標


「明治天皇行幸所 木戸邸」の石標


「木戸孝允旧跡」の石標


木戸孝允旧邸




木戸孝允旧邸、丸窓と障子


木戸孝允旧邸、東、南


木戸孝允旧邸、邸内より見た前庭、南側。



木戸孝允旧邸、前庭、かつて鴨川、東山の景観が得られたという。



木戸孝允旧邸、二階への階段
 幕末から近代にかけて勤皇の志士、新政府高官として活躍した木戸孝允(桂小五郎)の旧邸が鴨川畔に保存されている。孝允の京都別邸として使われ、ここで最晩年を過ごした。 
 後に、その子・忠太郎により達磨堂が併設され、日本一という達磨関連の蒐集物で知られている。
◆歴史年表 近代、1869年、木戸孝允は鴨川畔の近衛家下屋敷を買い取り京都別邸にする。
 1877年、1月、第122代・明治天皇の行幸に伴い孝允は入洛する。その後、胃腸の持病により倒れる。
 5月6日、孝允は危篤に陥り、その報を聞き、妻・松子は東京を発つ。
 5月10日、松子は馬車を乗り継ぎ京都着、別邸で木戸の看病を続けた。 
 5月19日、孝允を京都滞在中の明治天皇が見舞う。
 5月26日、孝允に脳病の発作があり、胃病により亡くなる。
 その後、子・忠太郎が住した。
 1927年、忠太郎は達磨堂を新築し、達磨コレクションを陳列する。
 1933年、11月、旧邸は明治天皇に関する史跡として、史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟指定された。
 1943年、旧邸は忠太郎により京都市に寄贈される。
 現代、1948年、6月、明治天皇関係史蹟(明治天皇聖蹟)とともに史蹟指定が解除された。
 現在、京都市職員厚生施設になっている。
◆木戸孝允 江戸時代後期-近代の政治家・木戸孝允(きど たかよし/こういん、1833-1877)。萩に生まれる。長州藩医・和田昌景の子。1840年、桂九郎兵衛の養子になる。1849年、吉田松陰の門下、1852年、江戸に出て剣術の斎藤弥九郎の練兵館(神道無念流)に入り塾頭になる。その後、蘭学、造船術も学ぶ。1860年、長州藩の軍艦・丙辰丸船上で水戸藩士・西丸帯刀らと「丙辰丸盟約」を結び、尊王攘夷に加わる。1862年、藩命により京都・長州藩邸へ入り情報収集を行う。1863年、八月十八日の政変後、京都に潜伏。1864年6月、池田屋事件では難を逃れた。7月、蛤御門(禁門の変)で但馬・出石に潜伏。1865年、一旦長州帰藩。1866年、京都・薩摩藩邸で坂本龍馬立会により薩摩藩・西郷隆盛らと「薩長同盟」を結ぶ。1868年、太政官出仕、「五箇条の御誓文」の革案作成に関与した。大久保利通、西郷らと討幕挙兵について協議した。1869年、版籍奉還建白実現に関わる。1870年、新政府の参議、1871年、西郷とともに廃藩置県を成す。岩倉使節国の全権副使として米欧視察。1873年、帰国後、憲法制定を建言した。西郷、板垣らの征韓論に対して大久保、木戸らの内治派は国力が充実していないとして強硬に反対した。1874年、台湾出兵に反対し参議を辞する。1875年、政府に復帰し地方官会議の議長になる。その後再び辞職した。維新三功臣(ほかに西郷隆盛、大久保利通)の一人。この地で亡くなる。
 墓は霊山護国神社内墓地にある。
◆木戸忠太郎 近代の満鉄技術者・木戸忠太郎(1871-1959)。木戸孝允の養子。母は松子の妹・信、父は土佐藩士・松本順造の子ともいう。1874年、3歳で木戸孝允の養子になったという。1886年、松子没後、一高、東京帝大理学部から満鉄に入る。地質課長の任に就き、1909年、満州鞍山の鉄鋼脈を発見したという。尾崎紅葉、柳田国男、巖谷小波ら文学者とも交流したという。
◆木戸松子 江戸時代後期-明治時代初期の女性・木戸松子(きど まつこ、1843-1886)。父は若狭小浜藩士・木崎(生咲)市兵衛、母は医師・細川益庵(太仲)の娘・末子。父は町奉行の祐筆をしており、藩内事件の責により妻子を残し京都へ出奔する。一家離散し母は実家に戻る。その後、母の再婚に伴い、1851年-1852年、上洛、一条家諸大夫の次男・難波常二郎(恒次郎)養女になる。1856年、14歳で三本木「吉田屋」より舞妓に出され、2代目・幾松の芸妓名を継ぐ。置屋「瀧中」に属した。勤皇芸者として売れっ子になる。1861年-1862年、桂小五郎(木戸孝允)と出会う。1864年池田屋事件後、二条大橋に潜んだ桂に握り飯を届けたという。1864年-1865年、出石に潜伏した桂を迎えに行く。1870年、孝允と結婚、長州藩士・岡部富太郎の養女になり、木戸松子と名乗る。社交界に登場し鹿鳴館で注目を浴びた。1877年、孝允没後、出家し翠香院と号した。晩年は三本松の寓居に暮らした。
 墓は夫・孝允とともに霊山護国神社内墓地にある。
◆建築 敷地南端部分に孝允が別邸として使った小規模な木造二階建て家屋が残る。敷地はかつて東の鴨川まで広がり、船着き場があったという。別邸は、近衛家下屋敷「河原御殿」といい、江戸時代後期のものという。建物の材質、意匠などは、京都御苑の九条家「拾翠亭」に由来するという。近世の公家邸遺構になる。1923年に達磨堂建築の際に別邸は改築され、ほかの建物は移築されている。なお、一時、京都市による職員会館改築に対して、周辺住民の反対の声が上がったという。 
 現存している別邸は宝形造、桟瓦葺、1階は屋根の下屋をおろしている(1階にも屋根付)。北西隅に玄関があり、1階は長押部分がなく、樟縁天丼を張る。10畳一間のみで南、東、北に障子がある。北の丸窓の障子と四角の障子が対の意匠として配置されている。三方に縁、東に現在は芝生が張られた前庭があり、かつて鴨川と東山を望むことができたという。2階へは玄関近くの北西隅の急な階段で上がる。北に6畳出床と、隣室の3畳次の間の2室がある。東に東山の山並みをいまも望むことができる。
 達磨堂は別邸の北に建てられている。1927年、木戸忠太郎により建てられた。寄棟造、妻入、四周に下屋をおろす。屋根に達磨の鬼瓦が載る。南向き正面に方1間入母屋造の前室を取り、ここが入口になっている。平屋の和風意匠で奥行深く平面形式であり、1階のほぼ全面が陳列室になっている。採光用の高窓が工夫され、天井中央に大ガラスを張る。また、南に達磨形の窓が開けられ凝っている。
◆達磨堂 達磨堂は、木戸忠太郎の達磨関連蒐集物の陳列堂として建てられた。忠太郎は1909年、満鉄勤務時代の大連で初めて起上り達磨を手に入れた。以来、蒐集を始めたという。郷土人形、玩具、日用品、装飾品、書画など達磨に関するものを50年間にわたり集めた。その数は1万-3万点ともいう。達磨の人形は世界各地に及び、ロシアのマトリョーシカなども見られる。忠太郎をモデルにした眼鏡をかけた珍しい達磨もある。
 その眼鏡の達磨を手に持つ本人肖像も掛けられている。入り口に、日本画家・下村観山(1873-1930)の衝立「達磨図」などもある。
◆石標 敷地周辺に3基の石標が立つ。「木戸孝允旧跡」1基、「明治天皇行幸所木戸邸」2基になる。
 「明治天皇行幸所木戸邸」の石標は、明治天皇が孝允を見舞った建物史跡のものになる。1933年11月に史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定された。1948年6月、明治天皇関係史蹟(明治天皇聖蹟)とともに指定解除される。この石標は1936年に立てられた。


*普段は非公開。
*参考文献 『京都 歴史案内』『京都市姓氏歴史大辞典』『おんなの史跡を歩く』『京都大事典』


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木戸孝允旧邸、二階、6畳出床(左)と隣室の3畳次の間。

達磨堂

達磨堂扁額「達磨堂」

達磨堂、達磨形の鬼瓦

達磨堂

達磨堂

達磨堂の陳列室

達磨堂

達磨堂

達磨堂

達磨堂

敷地に立てられていた「今出川橋」の橋脚

【参照】木戸孝允銅像、京都ホテルオークラ

【参照】「桂小五郎幾松寓居跡」の石標、中京区木屋町通通御池上ル東側上樵木町(料亭幾松)

【参照】桂小五郎幾松寓居跡、桂小五郎(木戸孝允)と幾松(松子)が暮らしたという屋敷跡。現在は料亭「幾松」がある。
 新撰組の探索に備え、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井、幾松の間の天井には大きな石が仕掛けられていたという。
 1864年池田屋事件後、潜伏していた桂は二条大橋の下に乞食姿で身を隠し、幾松は握り飯を作り届けていたという。新撰組の近藤勇らが屋敷に踏み込んだ際に、幾松は二階の長持ちに桂を隠し、近藤に啖呵を切り引き下がらせたという。その長持ちもある。松子は木戸孝允没後、ここに暮らしたという。
 1810年、国の有形登録文化財に指定されている。

【参照】料亭「幾松」

【参照】料亭「幾松」

【参照】木戸孝允墓、霊山護国神社

【参照】木戸松子墓、霊山護国神社

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 木戸孝允旧邸・達磨堂 〒604-0901 京都市中京区末丸町284番地
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