聚楽第 (京都市上京区)
The ruins of Jurakudai
聚楽第 聚楽第 
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「聚楽第址 此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」の石標、聚楽第本丸東端堀北よりに当たる。
 上京区大宮通中立売北西角、京都西陣職業安定所(ハローワーク西陣)
辻向かい


「此付近 聚楽第址」の石標、本丸西端堀の中ほどに当たる。
 親正小学校東北角、上京区浄福寺通中立売下ル菱丸町173
、中立売通裏門南西角


「聚楽第鵲(かささぎ)橋之旧蹟の旧跡」の石標、本丸南の南二ノ丸の東南角に当たる。
 松永稲荷社、松屋町町出水通上ル東


西ノ丸の西にあった聚楽第外堀の西北端に当たる。埋め戻された外堀1があったとみられ、町中にも下り坂が北から南へ続いている。
 土屋町中立売下ル


聚楽第外堀の側面の勾配



「此付近 聚楽第南外濠跡」の石標、本丸南西の外堀に当たる。
松林寺門前、上京区智恵光院通出水下ル分銅町575



松林寺、山門から境内へは下り坂となっており、聚楽第の南西にあったという南外濠跡とみられている。幅50m。


松林寺門前の裏門通も南への下り坂になっている。

お土居と聚楽第




大名屋敷地区「聚楽第武家地 上杉景勝屋敷跡」の石標
黒門通一条上ル西


大名屋敷地区、「黒田如水邸址」
一条猪熊南西角



大名屋敷地区、「千利休居士聚楽屋敷跡」
 晴明神社、上京区晴明町



大名屋敷地区「諸侯屋敷 一条下がり松遺跡」、一条小町北東角(堀川通の西二筋)。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉は、大内裏旧跡地の内野(うちの、上京区)に聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)という平城を築いた。内野は、平安時代末期、1227年の大内裏火災以来の荒れ地となっていた。 
 秀吉は、わずか半年で城を完成させた。天守を持つ、黄金の瓦で彩られた城だったという。城は関白の政庁という政治的な意味も担った。秀吉が築造した御土居と聚楽第により京都は、平安遷都以来初めて、羅城都市になる。だが、聚楽第は、築城からわずか9年を経て徹底的に破却され消えた。その詳細については、いまもわかっていない。
◆歴史年表 
安土・桃山時代、1585年、豊臣秀吉により、大内裏旧跡地内野(うちの)に聚楽第の造営が始まる。
 1586年、2月、築城が本格化する。周辺に第一期の城下町が形成される。藤戸石が聚楽第に移される。
 1587年、9月、聚楽第は完成する。9月23日、秀吉は母・大政所、正室・北政所とともに大坂から移る。落成記念として北野大茶会が催された。
 1588年、4月14日、第107代・後陽成天皇の5日間の行幸が行われる。禁裏から聚楽第まで行列が続き、警護に将兵6000人があたった。秀吉は、天皇の前で諸大名から誓紙を取り、臣従の誓いを立てさせた。
 1589年、2月、聚楽第の南鉄門で、秀吉に世継ぎが生まれないことを揶揄する落首事件が起こる。5月20日、秀吉は鶴松の誕生を目前にして、南二ノ丸馬場に皇族、公家、諸大名ら300人を集め、金銀を与えるという金配りを行う。5月27日、鶴松が誕生している。
 1590年、2月、秀吉、鶴松が聚楽第に入る。9月、秀吉は小田原城落城、奥羽閉廷後、聚楽第に凱旋した。11月、秀吉は朝鮮通信使と引見する。
 1591年、2月、千利休は秀吉により聚楽第を出され、淀を経て堺に蟄居を命じられ、その後、自害させられる。利休の首と木像が聚楽大橋に晒されたともいう。3月3日、帰国した天正遣欧使節を伴い、インド副王使節でイエズス会のヴァリニャーノ巡察師、ルイス・フロイスらが、聚楽第で秀吉、秀次と謁見する。インド副王ドン・ドゥアルテ・メネーゼスの親書と献上品を手渡した。
 12月、秀吉は後継の甥・秀次に関白職と聚楽第を譲る。新関白の秀次は聚楽第に入り、秀吉は伏見城に移る。都市改造の「京中屋敷替え」により、聚楽第東方、京都御所に隣接して大名屋敷地区が設けらた。城下町の聚楽町も形成された。
 1592年、1月、後陽成天皇の2度目の行幸が行われる。
 1593年、本丸北に、北ノ丸が新たに築造されたとみられている。4月、秀次は観能する。11月、秀次は書写している。
 1594年、3月、秀吉が聚楽第に入る。
 1595年、7月3日(旧暦)、聚楽第で関白秀次に対して、前田玄以、富田知信、増田長盛、石田三成らが詰問する。7月8日、前田玄以は聚楽第に入り、秀次を伏見に招致、関白職、左大臣の職を解いた。秀次は聚楽第を出る。7月15日、秀次は高野山で、謀反の疑いにより秀吉の命で自害となる。8月、聚楽第の建物のみならず、基壇、堀まで徹底的に破却、埋め戻される。その後、大名屋敷、城下町聚楽町住民一部が伏見の聚楽第町(聚楽町)に集団で移り住む。
 1596年、醍醐寺の義演が荒廃振りを目にして落涙したという。(『義演准后日記』)
 1598年、藤戸石は、新庄越前奉行の下300人の人夫により醍醐寺の三宝院に移された。
 17世紀(1601-1700)初頭まで、跡地で勧進能などが催された。
 現代、1991年、聚楽第遺構の本丸「東堀」の一部が発掘され、堀の遺構が初めて確認された。金箔の付着した瓦約600点が出土した。
 2002年、出土した金箔瓦は国の重要文化財に指定された。
 2012年、京都府埋蔵文化財調査研究センターは、聚楽第本丸南堀の石垣の一部が、上京区須浜町で発掘されたと発表した。石垣は花崗岩が2段に積まれ、高さ80㎝、一つの石の高さと幅は40-50㎝で全部で6列確認された。周辺では金箔が施された瓦片3個も見つかっている。
◆豊臣秀吉 安土桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1536/1537-1598)。尾張国の織田信秀足軽・木下弥右衛門の子に生まれた。小猿と呼ばれ日吉丸と称した。7歳で父を亡くす。1551年、出奔し、今川氏の家臣・松下之綱、織田信長に足軽として仕えた。1561年、織田家の弓衆・浅野長勝養女ねねを娶る。信長に従い、各所で転戦し戦功をあげる。1582年、本能寺の変では、山崎で明智光秀を仇討する。1583年、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。1584年、織田信雄・徳川家康との小牧・長久手の戦いでは敗れた。大坂城を拠点とし、紀州根来・雑賀、四国、九州を制した。1585年、禁裏での初の茶会を催す。1586年、禁裏での茶会で黄金の茶室を持ち込む。1587年、バテレン追放令、北野大茶湯、1588年、聚楽第に後陽成天皇を招く。1590年、小田原の北条氏を破り天下統一した。関白、太政大臣に進み豊臣の姓を賜った。1591年、関白職を秀次に譲る。朝鮮を攻めた文禄・慶長の役(1592-1598)は敗れた。1598年、盛大な醍醐の花見の後、伏見城で亡くなった。
 「普請狂」と称された。1587年、聚楽第、1590年、三条大橋の架橋、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、京都の都市改造・御土居築造、伏見の城下町化、宇治川の整備、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。
◆豊臣秀次 安土・桃山時代の武将・豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ、1568-1595)。父は三好吉房、母は豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀。初め宮部継潤の養子、後に三好康長(笑厳)の養子となる。1584年、小牧・長久手の戦で指揮を誤り戦死者を多く出す。1585年、羽柴の名字を許され、秀吉の諱の一字より秀次と名乗り、近江八幡山の城主となる。1591年、秀吉は淀殿との間に生まれた鶴松を3歳で失う。秀吉は秀次を養子とし、関白職を譲り豊臣家を継がせる。だが、1593年、淀殿が秀頼を生むと、次第に秀吉と秀頼の間に亀裂が入る。1595年、秀吉は秀次に反逆の疑いをかけ、高野山青厳寺へ追放し、さらに切腹の命を下した。秀次は自害する。秀次の五家臣も殉職している。なお、秀次については暗殺説もある。
 秀次は多才な人物で剣術や歌道に秀で、名筆・古典籍を収集するなどしたという。
◆千利休 室町時代-安土・桃山時代の茶人・千利休(せん の りきゅう、1522/1521-1591)。堺の魚問屋田中与兵衛の子に生まれた。書院台子の茶を北向道陳に、1540年頃、10歳代で武野紹鴎に茶の湯を学ぶ。1544年、初の茶会記録が残る。1574年、織田信長の茶頭の一人となる。1582年、豊臣秀吉の茶頭となり側近政治に関与する。1586年、秀吉の関白就任御礼の禁中献茶に秀吉の後見として茶を点てた。正親町天皇より「利休」の号を賜る。1587年、北野大茶湯にも演出に関わる。1590年、秀吉の小田原攻略に従軍した。小田原より古田織部に自作の竹花入、書状を送る。1591年、大徳寺山門事件の責任をとり秀吉に切腹を命じられ、京都葭屋町聚楽の屋敷内で自刃した。
 村田珠光以来の侘び茶を大成し、茶会の形式、点前作法、茶道具、茶室露地、懐石などに創意を凝らし、茶の湯の典型を示した。墓所は大徳寺聚光院にある。
◆聚楽第 豊臣秀吉は、安土・桃山時代、1590年に都市改造を行い、短冊形の町割りにより寺院を集めた寺町、寺之内を再編した。さらに1591年、御土居(22.5㎞)を築造する。外郭を御土居で囲み、聚楽第を中心としてその周辺を上京・下京、内裏、寺之内、寺町、本願寺などの巨大寺院で防御する都城の構造になっていた。また、武家町、公家町、寺町など身分により居住地を区分することの初例になる。都市防御と税徴収増の効果も意図した。聚楽第は、旧来の勢力を排し牽制しながら、天守も築かれたことから、視覚的な威圧効果も狙っていた。
 聚楽第とは、「楽しみを聚(あつむる)第(やしき)」の意味だったという。聚楽第はわずか9年で建物は破却され、堀まで埋め戻された。また、材は他に流用されたといわれ、その場所についてはまだ確定していない。
 聚楽第は平安京北東部の一画、北西が最も高い低い段丘地に築城された。この地が選ばれたのは、秀吉が平安京大内裏(平安宮)を意識していたためという。平城の城郭であり居館としての聚楽第は、本丸周囲の内郭と大名屋敷地区の外郭に分けられた。外郭は元誓願寺通、堀川通、押小路通、千本通内に存在したとみられている。
 内郭の周囲は内堀と外堀で囲まれていた。東西360m、南北700mあったと推定されている。長方形の本丸(東西170m、南北310m)の外堀の位置は、北は一条通(平安京一条大路)、東は元大宮通(平安京大宮大路)、南は下長者町通北付近、西は裏門通付近に囲まれた地に位置していたと推定されている。堀の規模は、東堀では深さ8.4m、幅40m(東堀26mとも、南堀43m、西堀30m、北堀20m)あったとみられている。広さは本丸が12万㎡、全体で26万8000㎡あった。
 本丸南に曲輪(馬出し)となる南二ノ丸(東西110m、南北80m、380m)、本丸南西隅に秀次居館の西ノ丸(東西60m、南北80m、周囲280m)が堀内に築かれ、それぞれに門が構えられていた。また、本丸南西にも二重の外堀が3つあったとみられている。東西の外堀1、その内に東西の外堀2、それに隣接する形で南北の外堀3などがあったとみられている。秀次の時、1593年、本丸北に北ノ丸(東西85m、南北105m、380m)が新たに築造されたとみられている。
 本丸四隅に櫓が建ち、天守は本丸西北隅にあったとみられている。そのほか、御幸御殿、舞台、遠侍、書院、長局などが建てられていた。本丸西南隅には、山里丸という庭園の一画もあり、茶室も設けられていたとみられ、軍事的な施設以外の文化施設の意味も持っていた。
 1991年に大宮通中立売下ル和水町で、人為的に埋められた堀が発見された。堀跡は、西から東下がりに埋められ地表面下5.3mの平坦面まで重なりあっていた。堀遺構からは、大量の金箔瓦(重文)である軒丸瓦、軒平瓦、鬼板瓦、熨斗瓦などが発掘された。建物の軒先、棟は黄金の瓦で彩られていたとされている。フロイスも『日本史』の中で、「ことごとく金が塗られていた」と記している。これらの瓦は、山崎城、近江・坂本城の瓦を流用したもので、短期に金箔として聚楽第で再利用したとみられている。
 2016年、表面波探査により、本丸などの外側、東、西、北に5つの外堀が確認された。秀次が城を軍事拠点として改修しようとしていたとみられる。堀の深さ8m、幅30-40㎝。城の範囲は東西760m、南北800mに拡大された。
◆大名屋敷 安土・桃山時代、1591年の京中屋敷替えにより、聚楽第東方に大名屋敷地区が設けられている。この位置は、北は一条通、東は東の洞院通、南は下立売通、西は堀川通内で、東端は内裏に近接していた。地区内北寄りに佐竹義宣、織田信雄、浅野長政、前田利家などの諸大名屋敷が配置されていた。また、側近の千利休の屋敷(黒門通から猪熊通の元誓願寺下ル付近一帯)もあった。
 また、周辺に地名の名残りとして秀吉側近・黒田如水(1546-1604)の如水町(にょすいちょう)、五大老の一人・宇喜多秀家(1572-1655)の浮田町、ほかに小寺町、飛弾殿町、田村備前町、福島町、中書町、直家町、山里町、下山里町、加賀屋町、直家町、主計町(かぞえちょう)、弾正町、日暮通、黒門通などがある。
 なお、大名屋敷で使われた金箔瓦(重文)が、新町通下立売上ル両御霊町より出土している。
落首事件 安土・桃山時代、1589年2月、聚楽第の南鉄門で秀吉に世継ぎが生まれないことを揶揄する落首事件が起こる。
 その内容については判明していない。秀吉は激怒し、警護の番士、石山本願寺(大坂本願寺)に隠れていた一味などを捕縛、鼻を削ぎ、耳を落として磔に処した。
◆藤戸石 秀吉は聚楽第に名石の藤戸石を運び込んだ。その名は謡曲「藤戸」に由来する。1184年、源平合戦は倉敷と対岸の藤戸で繰り広げられた。源範頼の軍勢に対し、平行盛の軍は小島湾の藤戸に布陣する。平氏が周辺の船をすべて取り上げたため、源氏方の佐々木盛綱は馬で海の浅瀬を渡り攻めようとし、地元の漁民にその場所を聞き出した。だが、平氏方に秘密が漏れることを封じるために、漁師は殺害される。息子を失った漁師の老婆はその恨みを述べる。漁師は藤戸石の上で殺されたともいう。石は、「浮州岩」といわれた巨岩ともいう。
 石は「源氏の勝利石」として京都に運び込まれた。その後、室町時代の管領・細川氏の屋敷に置かれた。織田信長は、細川の屋敷より移し、二条第(武家御城)の15代将軍・足利義昭に献上する。1573年に二条第は破却され、その後の行き先については不明とされている。1586年、秀吉により聚楽第に運び込まれている。石は庭園の州浜池の畔に置かれたという。聚楽第破却後、1598年、秀吉は後陽成院行幸に備え、醍醐・三宝院庭園に移し、いまも据えられている。
◆聚楽第跡地 安土・桃山時代、1595年の聚楽第、大名屋敷の破却・移転により、跡地では頻繁に勧進能が行われるようになる。たとえば、1599年にも催されている。また、江戸時代、1608年には歌舞伎なども演じられ、跡地は四条河原と並ぶ芸能興行の場と化していた。
 聚楽第破却後、聚楽町の一部は伏見に移転するが、残った町は、近世前期、聚楽組に編成された。その後、江戸時代、1619年、聚楽川東組、西組が上京中に加わり、惣町としての聚楽町が消滅する。その後、各々は上京中の川東組(後に上川東組、下川東組に分裂)、聚楽組として存続した。
 堀は埋め戻され、また、周辺町家の塵芥で埋まったという。堀跡では、巨大化して生育した牛蒡(ごぼう)が見つかり、その後栽培が始まった。この京野菜の一つ「堀川牛蒡(聚楽牛蒡)」は、長さ80㎝、重さ1㎏、直径5-6㎝もなり、内部が空洞になっている。煮込み料理に使われる。現在は、「京の伝統野菜」として種子保存されている。また、「聚楽蕪菁(かぶら)」は、「内野蕪菁」ともいわれ、中世-近世に、大内裏跡内野、聚楽第跡地で作られていた。
 跡地の地下からは、粘土質の聚楽土(じゅらくつち/じゅらくど、京土)が採取された。かつては、土壁の下塗り、上塗りに使われていた。現在は、京壁、茶室などの上塗り用に使われている。色調により黄聚楽、白聚楽、黒聚楽などの種類がある。現在では、西陣の跡地付近での工事の際に、地下2-3mにある粘土層から30cm-2m部分が採取される。天日乾燥、石臼での粉砕の後、篩いにかけた粉末を使う。
 楽焼の創始者・長次郎(?-1589)はもとは瓦職人だった。樂家は、聚楽第近くに居を構え、利休屋敷も聚楽第内にあった。天正年間(1573-1592)、利休の指導により、聚楽土を使って作陶し「聚楽焼」と呼ばれた。後に「楽焼」「楽茶碗」とも称された。二代目・常慶の父、田中宗慶が、秀吉より聚楽第からとった「樂」の印章を贈られ家号にしたともいう。当初の赤楽は、唐土(とうのつち、鉛釉<なまりゆう、えんゆう>)、長石粉を混ぜ、半透明の白釉を聚楽土にかけて、800度程度の低温度で焼き上げた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』『信長・秀吉、京の城と社寺』『京の城』「特別展 京の城」『伏見学ことはじめ』『京都まちかど遺産めぐり』『京都時代MAP 安土桃山編』『京の伝統野菜』


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参考文献 『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』 日本史研究会 編 
2001年 文理閣、森島康雄「聚楽第と城下町」
平安京オーバレイマップ
 「聚楽第址」石標 京都市上京区梨木町 

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