光明山寺跡 (木津川市) 
ruins of Komyosen-ji Temple
光明山寺跡 光明山寺跡
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光明山寺石仏群、周辺に散乱していたものを集めたものという。11体ほどの石仏、石塔の一部などが祀られていた。


光明山寺石仏群


光明山寺石仏群


光明山寺石仏群、石塔の笠


光明山寺跡、最盛期には谷一帯、四方の山々にも多くの伽藍が建ち並んでいたという。


国見観音堂、光明仙の西、急峻な山の中腹にある。


国見観音堂、光明山寺塔頭の遺仏という観音菩薩立像が安置されている。


国見観音堂、三角の蹲踞


国見観音堂より京都市内方向の景色


国見観音堂


国見観音堂、途中の竹林


【参照】以仁王を祀る高倉神社、山城町神ノ木にあり、光明山寺の西方の山麓にあたる。かつてこの付近に光明山寺の鎮守社の鳥居があり、綺田一帯に広がる広大な境内だった。参道はこの付近より東の山へと続いていた。
 鳥居は平家物語に登場する。「案のごとく宮は参騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、光明山の鳥居のまえにて追ッつきたてまつり雨の降るやうに射まひらせければ、いづれが矢とはおぼえねど宮の左の御そば腹に矢一すぢ立ちければ、御馬より落させ給て、御頸とられさせ給ひけり…」(『平家物語』巻四「宮御最後」)
 平安時代から鎌倉時代(12世紀)、この付近の山道両脇には松が植えられ、多くの卒塔婆が立てられていたという。
 木津川市山城町綺田を流れる天神川に沿いに東へ、山道を1㎞ほど上るとやがて山間の水田地帯に至る。川の源流にあたる地は、光明仙(こうみょうせん)と呼ばれ、周囲には竹林も広がる。  
 かつてこの地に、広大な境内を有した光明山寺(こうみょうせんじ)が存在し、山岳仏教、山岳信仰の一大拠点として多くの高僧を輩出した。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 飛鳥時代、伝承として役小角(634-701)が止住したともいう。(『(笠置寺縁起』)
 平安時代、10世紀(901-1000)後半、第59代・宇多天皇勅願により、真言宗広沢流の寛朝僧正により開かれ、本尊を薬師仏としたともいう。寺院は棚倉山にあり、僧坊28宇、末山28宇、交衆20口を数えたという。(『興福寺官務牒疏』、1441)
 1041年、弘寛僧都により再建されたともいう。(『興福寺官務牒疏』)
 平安時代、11世紀(1001-1100)後半、奈良・東大寺の僧・厳ちょうにより再興されたとされる。(『東大寺要録』)。東大寺東南院三論系の念仏別所となる。 *厳ちょうの「ちょう」は王+周、厳もうとも(もうは王+罔)。
 1050年、永観が蟄居する。
 平安時代後期、1106年、光明山寺の名が『東大寺要録』中にある。
  平安時代後期-鎌倉時代、12世紀(1101-1200)、藤原氏摂関家の庇護の下、入山した静誉は堂舎・僧坊120を数えたと伝える。山岳道場としても知られ、真言密教僧が相次いで入山した。老尼僧の姿もあったという。境内は東は大峰、西は山麓、南は淀谷川、北は渋川に及び、また、南北2km、東西5kmの広さがあったともいう。四方の山々、山麓まで伽藍が建ち並んでいたという。
 1104年、関白・藤原忠実は、光明山寺四至内での樵採狩猟等を禁じた。
 1144年、実範が光明山寺で没した。
 1180年、以仁王は南都の興福寺へ向かう途中、南山城の加幡河原で平家家人の藤原景高・藤原忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた。光明山鳥居前(綺田小字鳥居付近)で戦死したという。(『平家物語』巻4)。この際に、光明山寺は平家の軍により焼かれたともいう。
 鎌倉時代、東大寺の末寺になる。
 1213年、光明山寺と綺荘との間で境界争いが起こる。
 1254年、光明山寺と古河荘の間で境相論が起こる。
 1312年、光明山寺と古河荘の間の境相論で東大寺が勝訴し決着する。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、蟹満寺は、光明山寺の庇護の下に置かれたという。
 室町時代、奈良・興福寺の末寺になる。
 文明年間(1469-1487)、応仁・文明の乱(1467-1477)では、周辺で陣取りが行われる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、笠置寺の末寺になる。
 近世初頭、衰微した。
 江戸時代前期、17世紀(1601-1700)、廃絶した。
 現代、1989年、坊院跡が発掘されている。
◆南都浄土宗 光明山寺は南都浄土教の高僧を多く輩出した。頼基、覚樹、実範、心覚、永観、明遍、静遍などがいる。
 法然が南都へ向かう途中、寺に立ち寄った可能性もあるという。
◆寛朝 平安時代中期の僧、寛朝(916-998)。第59代・宇多天皇の皇子・敦実親王の子。祖父・宇多法皇の下で出家し、寛空から両部灌頂を受けた。仁和寺、西寺、東寺などの別当に任じられ、986年、真言宗では初めて大僧正となる。989年、第64代・円融天皇の命により広沢湖畔に遍照寺を建立した。939年、平将門の乱平定の祈祷により、940年、成田山新勝寺を建立した。
 真言宗古義派の根本二流のひとつ「広沢流」の始祖、東密声明中興の祖とされる。
◆永観 平安時代後期の浄土教の僧(えいかん/ようかん、1033-1111)。文章博士源国経の子。禅林寺の深観に師事し、真言ほか各宗を学ぶ。光明山寺に隠遁した。のちに禅林寺に移る。1100年、白河院の要請で東大寺別当となる。「能治の永観」と称された。禅林寺に戻り、浄土宗八祖のひとりに数えられた。
◆静誉 平安時代後期の僧・静誉( じょうよ、生没年不詳)は、小野の曼荼羅寺で学ぶ。1105年、範俊(はんじゅん)に灌頂を受ける。近江石山寺、光明山に移る。光明山流の祖。
◆覚樹 平安時代後期の僧・覚樹(かくじゅ、1079-1139)。村上源氏の右大臣源顕房の子。東大寺東南院、法印慶信の弟子となる。1098年、維摩会の竪者となる。1129年、権律師に、1132年-1138年、少僧都に任じられる。
◆実範 平安時代後期の僧・実範(しっぱん、?- 1144)。父は参議・藤原顕実。興福寺で法相教学、醍醐寺の厳覚と高野山の教真に真言密教、比叡山横川の明賢から天台教学を学んだ。大和国忍辱山円成寺に隠棲、中川成身院を開いて真言密教・天台・法相兼学の道場とした。1122年、「東大寺戒壇院受戒式」を定めた。晩年は浄土教となり光明寺に移った。
◆明遍 平安時代後期-鎌倉時代の僧・明遍(みょうへん、1142-1224)。藤原通憲(信西)の子。1159年、平治の乱で父は斬首され、越後国に配流となる。東大寺で三論を学び、光明山に遁世した。高野山に蓮華三昧院を開く。法然に帰依し、念仏専修したともいう。
◆静遍 平安時代末-鎌倉時代前期の僧・静遍(1166-1224)。平頼盛の子。醍醐寺座主・勝賢から真言小野流、仁和寺上乗院の仁隆から広沢流を受けた。高野山の明遍、笠置の貞慶にも師事した。仁和寺に住し僧都となる。法然に帰依した。1217年、清凉寺釈迦堂炎上後に勧進説法を行う。1221年、後高倉院の院宣によって禅林寺に住した。晩年、高野山往生院に移る。
◆光明山寺・蟹満寺 麓にある蟹満寺と光明山寺との関わりは深いとされている。蟹満寺本尊の釈迦如来坐像(国宝)は光明山寺より遷されたという伝承があり、その造仏時代、経緯について議論が続いている。
 蟹満寺は山号を光明山懺悔堂と称し、本尊は観音像と釈迦像とされたという。(『山城名勝志』、1705)
 釈迦仏は、かつて光明山寺近くにあったという高麗寺で造仏され、廃絶後は光明山寺に遷された。さらにその廃絶後に、光明山寺懺悔堂の蟹満寺に遷されたともいう。また、この光明寺とは井手寺(井堤寺)であるとした説、山城国分寺を表す金光明寺とし、釈迦仏はいずれかの寺より蟹満寺に遷されたともいう。
 また、1990年の蟹満寺境内での発掘調査により、釈迦仏は蟹満寺創建時以来動かされていないとも、上記以外の別の寺より遷されたともいう。
◆遺構 光明山寺の跡地の田畑からは、礎石、石仏、石塔、土器片なども発掘されている。1989年には坊院跡が確認された。
 平安時代-鎌倉時代、11世紀末-13世紀中期の石組みの水洗便所の遺構も発見された。2時期あり、新しいものは、径20-50cm大の石を2列に組んだもので、中央に幅20cm、深さ80cm、長さ5.7mの溝が掘られていた。便所本体は2.4mあり、南側1.4mは暗渠となり、築地塀の外へ続いていた。溝は北から南に緩やか傾斜し、木樋を通して再利用した上水を溝に流し、排泄物は暗渠を通して、谷川へ落としていた。
◆遺仏 周辺の寺院に光明山寺の遺仏とされる仏像がある。
 北近くにある国見観音堂には、御堂内に鎌倉時代-南北朝時代の石造丸彫りの「観音菩薩立像」が安置されている。像高は71.5㎝、蓮弁の台座に立つ。両足は少し開く。右手は施無畏印、左手は蓮弁の弓型に湾曲した茎を掲げている。頭に宝冠を被り、金色に彩色された跡が残るという。首に三道、衣門は石仏としては複雑で、左右対称に整えられている。光明山寺の塔頭のひとつに祀られていたものという。
 光明仙の一角に、「光明山寺石仏群」がある。室町時代のものという十数体の石仏、鎌倉時代の石塔の台座、笠などが祀られている。近年、地元のボランティアの手により集められたものという。
 禅定寺(宇治田原)の平安時代中期の木造「日光・月光菩薩立像」(重文)(203㎝、207.9㎝)は、光明山寺の遺仏とも、奥山田の医王教寺の遺仏ともいう。
 十輪寺(平尾)の室町時代、1459年の絹本著色「十二天画像」は遷されたという。善福寺(田原庄名村)の「薬師仏坐像」、「十二神」も遺仏ともいう。
◆自然 天神川上流の光明仙周辺は、山間に水田が開かれている。周辺には竹林がある。1997年の京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「光明仙(光明山寺跡)」として選定された。


*光明山寺跡石仏群については、まだ整備されていませんので現時点での場所特定は差し控えます。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『山城町史 本文編』『京都・山城寺院神社大事典』


  関連・周辺蟹満寺     関連・周辺高麗寺跡    周辺      関連禅定寺(宇治田原町)      

【参照】高倉神社の西、小字鳥居には「綺田鳥居」の地名が残っている。平安時代、1180年、以仁王は興福寺へ向かう途中、南山城の加幡河原で平家家人の藤原景高・藤原忠綱らの追討軍により討たれた。場所は光明山鳥居前(綺田小字鳥居付近)という。(『平家物語』巻4)

【参照】浄妙塚、高倉神社の南にある。平安時代後期の僧・筒井浄妙(生没年不詳)は、近江・園城寺浄妙坊の寺法師。1180年の源頼政と以仁王の挙兵に従い、平氏との宇治の戦いで戦死した。この塚のさらに南に東西に流れる野田川といわれる小川がある。この川はかつて、「もんぐち(門口)川」と呼ばれた。この付近に、光明山寺の山門があったことからこの名が付けられたという。光明山寺の境内は山間の光明仙付近のみならず、この付近の綺田一帯、山里まで広がっていたとみられている。
 光明仙 木津川市山城町綺田周辺 

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