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東寺 (教王護国寺) (京都市南区) 
To-ji Temple
東寺 (教王護国寺) 東寺 (教王護国寺)
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堀、五重塔


南大門(重文)


南大門


南大門






修行大師像、網代笠に、数珠、錫状を持つ。




八島神社(八島殿)


八島神社


八島神社


八島神社


八島神社


八島神社


鎮守八幡宮


八幡宮


八幡宮




東寺、 OpenStreetMap Japan

講堂・金堂・五重塔周辺



五重塔(国宝)




中秋の名月




五重塔、宝生如来坐像




五重塔、棟を支える四角の邪鬼


五重塔初層内陣、説明板より










ハス









五重塔





本堂の金堂(国宝)


金堂、二重屋根、下屋根の正面は一段切り上げ。


金堂、中央上部に小窓がある。この窓は、南大門の楼上から阿弥陀如来の顔を拝するように設計されていたともいう。


金堂薬師三尊像、案内板より




金堂




講堂


講堂(重文)

講堂の仏像の配置、上が北になる。


講堂、諸尊、案内板より






講堂









大師堂周辺




御影堂(みえどう、西院御影堂、大師堂)(国宝)。


柱には朱色の牛玉宝印が張られている。


御影堂(大師堂)、空海に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)の儀式は、今日なお、毎日早朝6時から西院(御影堂)で行われている。









毘沙門堂


大黒堂



鐘楼


一切経蔵


大日堂


高野山遥拝所、空海は東寺を真言宗根本道場、高野山は修禅道場とした。


尊勝陀羅尼の碑


天降石

食堂周辺


食堂(じきどう)


夜叉神堂




露仏、聖観音


露仏、柳谷観音


宝蔵(重文)


宝蔵


宝蔵




宝蔵手前の蓮池、石橋に蛙石が置かれ、3匹の蛙が刻まれている。


宝物館、兜跋毘沙門天立像(重文)


宝物館、地蔵菩薩立像(重文)、案内板より






北大門(重文)






弁天堂、北大門の北東にある。


太元堂、北大門の北東。


蓮池





 小子坊(こしぼう)


本坊の勅使門、書院、客殿、小子坊などがある。




事務所(左)と庫裏


本坊


本坊




小子坊






勅使門、本坊からの眺め。


勅使門


小子坊の前庭、左の門は勅使門


小子坊北西の蓮華門(国宝)と7代目・小川治兵衛(1860-1933)作庭の庭園。


小子坊西の庭園



 灌頂院



灌頂院、東門(重文)




灌頂院(重文)







灌頂院



 山門




北大門(重文)


北総門






蓮華門(国宝)


東大門(不開門)(重文)


西門


穴門


慶賀門(東門)(重文)

 自然







境内にはクスノキなどの巨木が植えられている。


小野道風ゆかりの柳

櫛笥小路

 祭事


終い弘法、1200軒という市がたつ。


石上神社、東寺執行職(しぎょうしょく)を世襲した、空海の母方の実家・阿刀氏が奉祀する。


【参照】創建時の東寺復元図、伽藍は回廊で繋がれている。(京都市平安京創生館、説明板より)

【参照】創建時の東寺復元図模型(京都市平安京創生館、展示模型より)


【参照】東寺から出土した鬼瓦(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵)


【参照】「左寺(さじ)」銘の平瓦、東寺旧境内より出土、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)の展示より


【参照】「左寺(さじ)」銘、東寺旧境内より出土、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)の展示より


【参照】「軒丸瓦」(左)、「左寺」銘の軒平瓦、東寺旧境内より出土、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)の展示より


御土居、参考文献 『建築家秀吉』
 平安時代以来一貫して東寺(とう-じ)と称され、平安遷都以来、約1200年間にわたり同じ場所に位置している。境内は、東西255m、南北515m、伽藍が建つ敷地は東西南北255mの正方形になる。
 平安京では政治的意図を持った官大寺として建立され、「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」、「大師の御寺」、西寺に対して「左大寺」、「左寺」とも称された。正式には「金光明(こんごうみょう)四天王教王護国寺秘密伝法院」という。山号は弥勒八幡山(みろくはちまんさん)、院号は普賢総持院という。 
 「唯一残る平安京の遺構」といわれている。広大な境内を有し指定史跡になる。この地は、「京の七口」の一つである「東寺口」が開き、南下して河内、摂津、播磨へ通じる街道の起点になっていた。
 東寺真言宗・真言宗東寺派総本山。本尊は薬師如来。
 食堂の十一面観音菩薩は、洛陽三十三観音巡礼第23番札所。神仏霊場会第84番、京都第4番。毘沙門堂の毘沙門天は、日本最古の七福神巡りの都七福神まいりの毘沙門天。京都三弘法まいり(ほかに仁和寺、神光院)の一つ。大日如来(十三回忌)は京都十三仏霊場めぐりの第12番札所。金剛薬師は京都十二薬師霊場会第2番札所。五重塔の阿弥陀如来は洛陽五智如来の一つ。
 国家鎮護、諸病平癒、福徳財宝、安産、勝負運、空海が開いた日本初の私学「綜芸(しゅげい)種智院」に因み、学業成就、合格祈願などの信仰を集める。御朱印(9種類)が授けられる。
 1994年に世界文化遺産に登録された。「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン 2つ星観光地」(改訂第4版)に選ばれている。「美しき日本-いちどは訪れたい日本の観光遺産」(日本交通公社、1999年)の一つに認定された。「京都市のバリアフリー・車椅子の方にもおすすめできる神社・寺院スポット一覧 (10件)」(介護アンテナ)の一つに選ばれている。
◆歴史年表 奈良時代、783年、第50代・桓武天皇による新寺建立禁止令発布後、平安京内には官寺以外の寺院を建立することは許されなかった。
 793年、東寺、西寺に食封(じきふ)1000戸が施入された。(『東大寺要録』)
 平安時代、794年/795年、平安京遷都に伴い、都の入口だった南端の羅城門の両脇に、官立の東寺(左大寺)、西寺(さいじ、右大寺)が最初に建立された。ともに新京で政治的な意図を持っていた。二寺の五重塔は左右対称に聳え建ち、境内は8町(左京九条一坊九町-十六町)という広大な敷地を有していた。東寺は桓武天皇の発願により、兵乱鎮定、天皇の不予(病気)、災旱祈雨、平安京の左京・東国を守るという国家鎮護の意味を持たされた。日本初の密教寺院になる。
 796年、中納言・藤原伊勢人(ふじわら-の-いせひと)が東寺(また東西両寺)の造寺長官(建設工事責任者)になった。金堂が建立されたともいう。(『東宝記』『帝王編年記』)
 800年、旧4月、伊賀国山林の巨樹が、造営のために伐採されることが許可される。(『類聚国史』)
 803年以降、造営が本格化する。
 804年、旧4月、従五位下・多治比真人家継が造東寺次官に任じられたという。(『日本後記』) 
 812年、勤操少僧都が造東寺別当になる。屏風、障子、東大寺に納められていた官家功徳封物、旧2月、故布勢内親王(第50代・桓武天皇皇女)の墾田772町が東西寺に施入になる。封戸2000戸が両寺の造営に充てるために支給される。(『日本後記』)。旧12月、伊勢国大国庄などが東寺に施入になる。(「民部省符案」)
 818年、金堂が落成する。
 823年、旧1月、空海は、第52代・嵯峨天皇より東寺を与えられる。当時は金堂のみが完成していた。旧10月、朝廷は、50人の真言僧を常住させるように命じた。他宗僧侶の雑住を禁じる。(太政官符・『類聚三代格』)。空海作『三学録』に基づき学ぶことが太政官符により下され、真言密教道場になった。
 824年、空海は造東寺別当に就く。東寺は、第51代・平城天皇と愛妾・薬子の怨霊を鎮め、国家鎮護とともに、真言密教の根本道場になった。「教えの王、国を護る」の意から「教王護国寺」と呼ばれた。大師『二十五ヶ条御遺告』によるともいう。以来、律令政府の官寺として、定例の法会、祈雨、止雨の祈祷などが催された。
 825年、空海は、安吾講讃のために講堂建立を奏上し、許され着工する。(『帝王編年記』)
 826年、旧11月、空海は塔婆(五重塔)造営を勧請する。「東寺の塔を造り奉る材木を曳き運ぶ勧進の表」を朝廷に提出した。東山の材木運搬の協力を願い出た。
 828年、東寺境内に空海は、日本最初の私立学校「綜芸種智院」を創立した。儒道仏を教授し、庶民にも開放した。
 834年、空海は宮中中務省での密教の修法(息災増益の法)を行い、真言院(宮中真言院、修法院、曼荼羅道場)を設けた。
 835年、空海は、宮中真言院で玉体安穏などの修法を行い、現在も行われている「後七日御修法」の起りになる。
 836年、この頃、空海弟子・実慧(実恵)が東寺長者に任じられる。荼枳尼天(だきにてん)信仰が盛んになる。
 839年、講堂の諸仏が開眼になる。(『続日本後紀』)
 843年、旧11月、潅頂院において伝法灌頂始行、潅頂院新造ともいう。
 844年頃、潅頂院が建立されたともいう。講堂の五仏、五菩薩、五忿怒を供養する。
 元慶年間(877-885)、五重塔が完成し、伽藍は整備された。(『東宝記』)
 886年、旧3月、五重塔が落雷により焼失した。(『三代実録』)
 895年、食堂千手観音、四天王像が造立される。
 901年、宇多法皇は、灌頂院で益信により伝法灌頂を受けた。
 910年、長者・観賢は、灌頂院で御影供を始める。
 915年、観賢は、宇多法皇の院宣を得て、高野山金剛峯寺に持ち去られていた『十帖策子』を取り返した。
 918年、旧6月、落雷により金堂を焼失する。(『扶桑略記』)
 1000年、旧11月、北倉が焼失する。(『東寺宝蔵焼亡日記』)
 1055年、旧8月、五重塔が落雷により焼失した。(『扶桑略記』)
 1086年、旧10月、五重塔の落慶法要が行われる。(『扶桑略記』)
 1103年、舎利会が始まる。仏舎利安置の五輪塔を制作する。
 1127年、旧3月、南倉(宝蔵)が焼失したという。(『百錬抄』)。威儀師・覚任は真言院五大尊、十二支天を制作する。
 1189年、旧12月、後白河法皇(第77代)は、東寺の修理事始の儀を執り行い、知行国播磨国を財源に充てる。(『玉葉』)
 平安時代末期、源平合戦のために寺院は荒廃した。
 平安時代末期-鎌倉時代、建久年間(1190-1199)/1187年-1192年、神護寺の文覚(もんがく)は後白河法皇、源頼朝の援助により復興する。蓮華門が建立になった。
 鎌倉時代、弘法大師信仰が高まりをみせ、皇族から庶民まで広がる。
 1192年以降、文覚による再興が本格化する。
 1197年、塔婆、金堂、講堂、八幡宮、南大門が修造になる。源頼朝は、諸仏修理(講堂諸仏、南大門の仁王像、中門の持国天・増長天)を行い運慶一門が当たった。以来、東寺仏師職は慶派の仏師に世襲された。
 1198年、運慶が南大門仁王像を造った際に、初めて東寺大仏師職に補任された。以来、慶派の仏師に世襲された。
 1199年、頼朝の没後、文覚は失脚し、復興は中断する。
 1233年、旧10月、親厳僧正は、大師影像(康勝作)を西院(現在の不動堂)に安置する。(『東宝記』)。以後、大師信仰が広まる。御影堂で法要が始まる。
 1235年、旧11月、修造料所として肥後国があてられる。(「東寺長者補任」)
 1238年、旧12月、丹波国が寄進される。(『東宝記』)
 1239年、旧12月、宣陽門院は、伊予国弓削島庄などを寄進した。(「宣陽門院庁下支」・東寺文書)
 1240年、宣陽門院(後白河天皇皇女)により御影堂(空海が居住したという西院、後の不動堂)が創建される。旧3月、覚教大僧正は、大師影像を現在の御影堂へ遷し安置した。(『東宝記』)。以後ここで、御影供が行われる。宣陽門院は御影堂に五重小塔、舎利を奉納し、毎月晦日に舎利講を修することを命じ、大師像への生身供も定めた。
 1243年、宣陽門院により、霊夢があったとして西院で長日生身供が始まる。
 1268年、異国調伏のために、講堂で仁王経法を修する。
 1270年、旧4月、五重塔が焼失する。(『東宝記』)
 1285年、旧12月、五重塔が再建される。(「白河本東寺文書」)
 1293年、五重塔が再建されたともいう。供養がおこなわれる。(「東寺文書」)
 1306年、後宇多法皇は、灌頂院において伝法灌頂を受けた。以後、再興に尽力する。
 1312年、初の七口の伝法会衆を置く。
 1313年、後宇多法皇は山城国拝師庄などを寄進する。(東寺文書「後宇多上皇施入状」)
 1315年、伝法会が再興され、春秋2季行われた。
 1326年、後醍醐天皇は、最勝院執務職を寄進する。
 1330年、後醍醐天皇は、宝荘厳執務職を寄進した。
 南北朝時代、1333年、旧6月、配流先の隠岐、伯耆国船上山から京都に戻った後醍醐天皇は東寺に入る。(公卿補任)
 1334年、後醍醐天皇は、卒塔婆落慶供養を行う。
 1336年、旧6月、足利尊氏は、湊川の合戦に勝ち、北朝第1代・光厳天皇、豊仁親王(後の北朝第2代・光明天皇)を奉じ、東寺に本陣を敷き、後醍醐天皇勢と戦う。(「皇年代略記」群書類従)。潅頂院を上皇御所にする。尊氏は楠木正成旧領河内国新開荘を寄進する。(「東寺文書」)
 1348年、新鐘が完成した。
 1352年、足利義詮が山城国植松荘を寄進する。(「東寺文書」)
 1353年、旧6月、義詮が布陣する境内に盗賊が入り略奪する。(『園太暦』)
 1361年、塔頭・観智院が創建された。
 1376年、賢宝は安祥寺恵運請来の五大虚空像を安置する。
 1377年、足利義満が山城国東西九条女御田地頭職を寄進した。(「東寺文書」)
 1379年、旧12月、大師堂が焼失する。
 室町時代、1393年、二間観音像が東寺に遷される。
 1406年、義満は仏舎利を奉請、宝蔵を観る。
 1410年、正月、後亀山上皇(第99代)は東寺に命じて、自らの玉体安泰、増長宝寿を祈祷させた。旧11月、上皇は大和吉野山に出奔した。
 1428年、正長の土一揆で侍所の軍勢が境内に駐屯する。
 1441年、債権や債務の放棄を命じた、徳政令を求める徳政一揆(嘉吉の徳政一揆)が起こり、2000-3000人の宗徒は寺に立て籠もる。丹波口一揆も記されている。(『東寺執行日記』)。旧12月、地震があり7日間祈祷した。(「地震祈祷修僧廻請」)
 1447年、旧7月、土一揆により宗徒に境内は占拠される。旧8月、討伐軍の土岐氏の軍勢に占拠され、使用人らが殺害された。
 1454年、土一揆の際に、衆徒が境内に立て籠もり、建物のほとんどは焼失している。
 1467年、戦乱のため道具類を醍醐寺に移した。
 1486年、旧8月、文明の土一揆に境内は占拠される。旧9月、再び占拠され、幕府の細川政元の軍勢と衝突する。放火により、金堂、講堂、経蔵、中門など7棟が焼ける。(「東寺百合文書」『長興宿禰記』)
 延徳年間(1489-1492)以降、再建された。
 1491年、旧3月、講堂が立柱になる。
 1497年、講堂に大日如来像が像立された。
 1527年、足利義晴が陣を敷く。
 1563年、旧4月、五重塔を焼失している。(『御湯殿上日記』)
 1568年、旧9月、織田信長は、朝廷の誘いにより足利義昭を奉じ京に入り、東寺を宿所にする。(『言継記』)
 安土・桃山時代、1585年、旧11月、地震により伽藍が損壊した。金堂、潅頂院も倒壊する。(『宇野主水日記』)
 1589年、木食応其により伽藍の再興が始まる。
 1591年、旧9月、豊臣秀吉が寺領2030石を安堵した。
 1592年、秀吉の文禄の役(1592-1593)の際に、東寺門前には出兵の際に白砂が敷き詰められたという。
 1594年旧7月/1593年、応其により五重塔が再建される。(「東寺塔供養願文」『御湯殿上日記』)
 1596年、旧閏7月、慶長伏見大地震により、講堂、食堂、同中門、潅頂院、南大門、北八足門、東小門、鐘楼、筑地塀などを損壊している。(『義演准后日記』)。その後、応其が奉行になり再建される。
 1598年、北政所は現在の講堂を修理する。
 秀吉(1536-1598)、その正妻・北の政所(1549-1624)により再興された。
 江戸時代、1603年、旧5月、豊臣秀頼により、金堂が再建される。仏師・康正は金堂の薬師三尊を造立し、講堂の五大尊を修復する。
 1606年、金堂が完成する。(『義演准后日記』)
 1609年、観智院が勧学院になる。
 1623年、宮中で後七日御修法が復活した。
 1633年/1634年、徳川家光により潅頂院が再建された。
 1635年、五重塔を焼失する。(『続史愚抄』)
 1644年、徳川家光により現在の五重塔が再建されている。(『徳川実記』)
 1685年、加賀藩主・松雲公前田綱紀が百の桐箱を寄進する。「百合文書」の成立になる。
 1850年、旧4月、第121代・孝明天皇は、「万民安楽、宝祚長久」の祈りを、東寺など七社七寺に命じた。
 1866年、旧9月6日、宿陣していた幕府の歩兵と大手組が争い死傷者が出る。大手組が東寺に集まり鉄砲を放ち、新撰組が出動した。
 1868年、旧1月4日、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は仁和寺宮嘉彰親王を征夷大将軍に任命し、薩摩軍・征夷大将軍は新政府軍本陣が敷かれた東寺に入る。幕府征討の錦の御旗が立つ。総大将・西郷隆盛は五重塔に登り、梵鐘を合図に指揮を執る。10月、南大門、鎮守八幡宮が焼失した。神体は西院不動院に遷される。
 近代、1871年、太政官布告により、宮中後七日御修法が廃止になる。
 1873年、東寺、金剛峯寺を古義真言宗総本山、智積院、長谷寺を新義総本山にした。
 1879年、一宗一管長制になる。
 1880年、真言宗総本山になる。
 1883年、後七日御修法が再開された。
 1907年、連合各派管長会で四本山派名を改め、教王護国寺を東寺派とする。
 1930年、12月21日、終い弘法の際に食堂が焼失した。本尊・千手観音像、四天王像が焼失した。
 1934年、小子房が再建される。
 1940年、金堂の解体修理がおこなわれた。
 現代、1951年、3年をかけて講堂の解体修理がおこなわれる。
 1961年、有料拝観、一般公開が始まる。
 1963年、宝物殿が建立された。
 1965年、金堂、講堂の秘仏公開になる。
 1977年-1979年、境内の発掘調査が行われ、創建時の南大門、金堂、中門、僧房、回廊跡など基壇、根石が多数見つかっている。
 1994年、「古都京都の文化財」17の資産(社寺城)の一つとして、世界文化遺産に登録された。 
 2005年、「平成洛陽三十三所観音」が復興された。
 2012年、四国霊場八十八箇所の「京都三弘法まいり」が復活する。平安時代に始まったという京都十二薬師霊場めぐりが復活した。東面築地で発掘調査が行われる。
 2014年、東寺と石清水八幡宮の合同法要が執り行われ、初の試みとして僧侶が神道の大祓詞、神職が般若心経を唱えた。
◆藤原 伊勢人 奈良時代-平安時代前期の廷臣・藤原 伊勢人(ふじわら-の-いせんど、759-827)。男性。伊勢戸。藤原南家、父・参議・藤原巨勢麻呂の第7子。796年、鞍馬寺の起源になる堂宇を建立した。第50代・桓武天皇により造東寺長官に任命され、東寺を建立したという。阿波守。803年、従五位下。806年、安芸守、809年、斎宮頭、従五位上に昇叙、812年、右中弁。813年、因幡守、820年、正五位下、822年、散位従四位下。治部大輔。69歳。
◆空海 奈良時代-平安時代前期の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。男性。俗姓は佐伯氏、幼名は真魚 (まお) 、灌頂名は遍照金剛、弘法大師。讃岐国(香川県)に生まれた。父・豪族の佐伯田公(義通)、母・阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め、四国の大滝岳、室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥になり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず太宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都になる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり東峰に葬られた。62歳。
 空海は、中国から真言密教をもたらし、日本天台宗の開祖・最澄(伝教大師)とともに、奈良仏教から平安仏教への礎を築いた。空海による真言密教の拠点は、東寺のほかに高野山、宮中の真言院の三寺ある。空海の真言密教の神髄は、大日如来の教えに従い、あらゆる存在、性質、思考は、宇宙の絶対者である毘盧遮那仏が姿を変えたものであるとした。第52代・嵯峨天皇、橘逸勢と共に「三筆」の一人として数えられている。東寺境内に日本最初の私立学校「綜芸種智院」も創立した。唐で学んだ土木技術により、各所で灌漑、土木工事などを行い、祈雨の伝承も残っている。
◆実恵 平安時代前期の真言宗僧・実慧(じつえ/じちえ、786-847)。男性。実恵、別名は檜尾(ひのお)僧都、諡号は道興大師。讃岐(香川県)の生まれ。大安寺・泰基から法相宗を学ぶ。空海に師事した。神護寺の寺主になる。827年、河内・観心寺を開く。835年、師を継いで日本第2の阿闍梨と称された。836年、東寺長者2代になる。843年、東寺の伝法・結縁の灌頂を創始し、真紹に授法した。高野山の経営にも尽力した。著『檜尾口決』など。62歳。
◆観賢 平安時代前期-中期の真言宗の僧・観賢(かんげん/かんけん、854/853-925)。男性。俗姓は秦氏/伴氏、通称は般若寺僧正。讃岐国(香川県)の生まれ。872年、真雅(空海の実弟)の許で出家・受戒した。東寺の聖宝より三論・真言密教を学び、895年、灌頂を受けた。900年、仁和寺別当になる。弘福寺別当・権律師になり、延喜年間(901-923)、東寺長者・法務・検校を歴任・兼任した。919年、醍醐寺初代座主(ざす)・金剛峰寺座主になった。空海への諡号を賜るために朝廷に働きかけ、921年、空海に諡号「弘法大師」を得て、後の大師信仰に道を開く。923年、権僧正に任じられる。著『大日経疏鈔』。72歳。
 事相(密教修法)・教相(密教理論)に通じた。分裂しかけた真言宗を東寺中心に統合し、天台密教に対抗した。般若寺を創建した。最澄(伝教大師)に先を越された空海のために、諡号を朝廷に奏請した。空海が唐から請来した『三十帖冊子』を東寺の経蔵に納めている。
覚教 平安時代後期-鎌倉時代中期の真言宗の僧・覚教(かくきょう、1167-1242)。男性。通称は左大臣僧正。父・三条実房。真言宗仁和寺真乗院の印性に従い出家した。1188年、守覚法親王から灌頂を受け、真乗院2世を継ぐ。仁和御流真乗院方を開く。後、東寺長者、護持僧になる。1239年、大僧正に昇る。1240年、東寺で大師像を移し、御影堂として御影供を行う。76歳。
◆文覚 平安時代後期-鎌倉時代前期の真言宗の僧・文覚(もんがく、1139-1203)。男性。俗名は遠藤盛遠(もりとお)。摂津源氏傘下の摂津国(大阪府・兵庫県)・渡辺党。第74代・鳥羽天皇皇女・統子内親王(上西門院)に仕える北面の武士だった。従兄弟で同僚の渡辺渡(わたる、渡辺左衛門尉源渡)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺したことから出家し、文覚と称した。神護寺再興のために、第77代・後白河天皇に強訴し、伊豆国に配流されている。その先で、後の鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝と知り合い、平家打倒の挙兵を促したという。その後、頼朝、後白河法皇の庇護を受け、東寺など各地の寺院を修復する。頼朝死後、後鳥羽上皇(第82代)により、佐渡国流罪になりその地で客死した。65歳。
◆宣陽 門院 平安時代後期-鎌倉時代中期の宣陽 門院(せんよう-もんいん、1181-1252)。女性。名は覲子(きんし)。父・後白河法皇(第77代)、母・寵妾・丹後局(高階栄子)の第6皇女。1189年、内親王、准三宮。1191年、天皇の生母でなく、后位につかない内親王として初めて院号を受ける。1192年、法皇は死の直前に御所六条殿、持仏堂の長講堂、膨大な荘園群(長講堂領)を女院に譲与した。六条西洞院を御所にした。法皇・後鳥羽天皇の近臣が後見した。1196年、源通親(みちちか)と結び、九条兼実(かねざね)を失脚させた。1200年、第82代・後鳥羽天皇の子・雅成親王を養育する。1205年、長講堂で出家し、性円智と称した。1221年、雅成は承久の乱で鎌倉幕府により但馬に流される。その後、関白・近衛家実の娘・長子(鷹司院、第86代・後堀河天皇の中宮)を養女にした。後、九条道家との政争に敗れた。仁和寺菩提院・行遍を信任し、1238年、行遍が供僧設置を図る東寺に所領寄進した。1251年、上西門院領を鷹司院に譲与する。1252年、伏見殿で没した。72歳。
 長講堂領は後深草上皇に伝領され、持明院統の経済基盤になる。両統迭立の原因になった。熱心な弘法大師信者で、行遍により伝法灌頂を受け、東寺復興に尽くした。
◆運慶 平安時代後期-鎌倉時代前期の仏師・運慶(うんけい、1150?-1223)。男性。父・定朝5代目という慶派の康慶(こうけい)。1176年、奈良円成寺・大日如来像を造立した。1186年、北条時政のために静岡願成就院・阿弥陀如来・不動・毘沙門天像、1189年、和田義盛のために神奈川浄楽寺・阿弥陀三尊・不動・毘沙門天像を造立した。東大寺・興福寺焼亡後の復興造営に参加し、1196年、大仏殿の虚空蔵菩薩像、持国天像を造立した。1197年、高野山不動堂・八大童子像、1203年、快慶と合作の東大寺南大門・金剛力士像を造立した。法印になる。1208年、興福寺北円堂の諸像、1212年頃、奈良興福寺・北円堂弥勒・無著(むじゃく)・世親(せしん)像を制作し、法橋から法眼に昇る。1216年、源実朝の持仏堂本尊の造立した。現存の運慶仏は31体とされている。
 七条仏所の総帥。奈良時代の写実と平安時代初期の重量感をとり入れた。武士階級に喜ばれ、鎌倉彫刻に多大の影響を与えた。子の湛慶、康勝、康弁、康慶弟子・快慶などが慶派を引き継ぐ。
◆康勝 鎌倉時代前期-中期の仏師・康勝(こうしょう、?-1237)。男性。初名は康海。父・仏師・運慶の4男。1198年頃、父、兄・湛慶・康弁とともに東寺の仁王・二天像を造立した。1208年、興福寺北円堂の四天王の北方天像、1223年、地蔵十輪院の四天王を制作した。1232年、代表作の法隆寺金堂の銅造阿弥陀三尊、1233年、東寺の弘法大師像、傑作とされる六波羅蜜寺の空也上人像(年代不明、在銘「僧康勝」)がある。
 慶派正系であり、七条仏所を継ぐ。作風は写実、復古主義であり、東大寺・興福寺の再興に活躍した。
◆後宇多 天皇 鎌倉時代中期-後期の第91代・後宇多 天皇(ごうだ-てんのう、1267-1324)。男性。世仁(よひと)、大覚寺殿。父・第90代・亀山天皇、母・左大臣・藤原実雄の娘・京極院藤原佶子(きつし)の第2皇子。1274年、8歳で即位した。父・亀山上皇による院政が敷かれる。即位は、亀山天皇系(大覚寺統)、後深草天皇系(持明院統)の対立の端緒になった。文永の役(モンゴル来襲)が起こる。1275年、後深草上皇(持明院統)は、幕府に働きかけ、皇子・煕仁(ひろひと)親王を皇太子にした。1281年、弘安の役(モンゴル来襲)が起こる。1287年、煕仁親王(第92代・伏見天皇、持明院統)に譲位後、1298年、胤仁(たねひと)親王(第93代・後伏見天皇、持明院統)が続けて即位した。1301年、後宇多上皇は幕府に抗議し、両統迭立により第1皇子・邦治(くにはる)親王(94代・後二条天皇、大覚寺統)を即位させた。院政を執る。1306年、弾助より灌頂を受けた。1307年、姈子内親王が没し、悼み、仁和寺で落飾する。金剛性と称し、大覚寺に入寺、門跡になる。1308年、第2皇子・尊治(たかはる)親王(96代・後醍醐天皇、大覚寺統)は、第95代・花園天皇(持明院統)の皇太子に立つ。亀山上皇は自らの皇子・恒明(つねあき)親王を推し、大覚寺統の内部にも対立が生じた。東寺灌頂院で伝法灌頂を受法した。1318年、後宇多上皇は伏見上皇(持明院統)と談合し、皇子・尊治親王(96代・後醍醐天皇、大覚寺統)の即位させ、第94代・後二条天皇の第1皇子・邦良(くによし)親王(大覚寺統)を皇太子に立てた。当初は院政を敷く。1321 年、院政を廃して後醍醐天皇の親政にした。
 弘法大師(空海)に深く帰依した。雷雨の中、高野山にも自力で登った。大覚寺の付近に宮室があり、密教の研究に専念する。伽藍僧坊の造営、法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、称号の授与に関する権限を大覚寺に与える「永宣旨(えいせんじ)」を出した。春秋に灌頂法を行う。日記に『後宇多天皇宸記』、宸筆の『庄園敷地施入状』『後宇多天皇宸記』などがある。和歌は『続後拾遺集』『新後撰集』などに収められている。
 大覚寺御所で亡くなる。58歳。陵墓は蓮華峰寺陵(右京区)になる。
 法皇は、東寺で伝法灌頂を受けた。6カ条の事書をしたため東寺再興を誓った。山城国拝師庄など四カ所の所領を寄進している。東寺教学の充実に尽力し、伝法会、勧学会が確立され学僧が輩出した。
◆宅磨 勝賀 鎌倉時代の絵仏師・宅磨 勝賀(たくま-しょうが、 ?-?)。男性。俗名は為基、通称は真乗房、 澄賀。父・詫間派(宅磨派、宅間派)の祖・為遠。弟は為久。絵所の役に任じられ、法橋、後に法眼に叙せられた。宅間法眼と呼ばれる。1169年頃-1209年頃、神護寺・東寺の仏像制作などに携わる。高山寺の明恵に帰依した。明恵が夢に見た春日・住吉社の神相を筆写し、神罰により落馬して没したという。東寺に「十二天図屏風」が残る。
◆賢宝 南北朝時代-室町時代前期の真言宗の僧・賢宝(げんぽう、1333-1398)。男性。東寺の杲宝のもとで出家し、1359年、伝法灌頂を受けた。その後、杲宝、その師・頼宝が未完の密教哲学の研究を続けた。43年間を費やし『大日経疏演奥鈔』を完成させた。死の直前まで校閲に余念がなかったという。1389年、法印権大僧都になる。著100部以上。66歳。
 東寺の密教哲学研究を完成させた。杲宝・頼宝とともに「東寺三宝」といわれた。「希代の学僧」と称され、教学の東寺とも称すべき一時代を築いた。『大日経疏演奥鈔』は、現在でも『大日経疏』研究の指針になっている。弟子に宗海、仁重など。
宮本 武蔵 安土・桃山時代-江戸時代前期の剣客・宮本 武蔵(みやもと-むさし、1584-1645)。男性。美作国(岡山県)、播磨(兵庫県)の生まれともいう。父・武芸者・平田無二斎の次男ともいう。剣術に優れ、13歳で新当流の有馬喜兵衛との勝負に勝って以来、以後一度も負けなかったという。21歳の時に上洛した。1612年、舟島(巌流島)で佐々木小次郎と決闘、大坂の陣(1614-1615)に参戦、小倉藩主小笠原忠真の客分として、1637年、島原の乱では軍監として出陣した。肥後熊本藩主・細川忠利に招かれ熊本千葉城址に住み、『兵法三十五箇条』、霊巌洞で『五輪書』を執筆した。二刀流(円明流、二天一流、宮本流)の開祖。書画などにも優れていた。61歳。
 一乗下り松での決闘の際に、東寺に隠れたという。塔頭観智院には武蔵筆という「鷲図」などがある。
◆康正
 安土・桃山時代-江戸時代前期の仏師・康正(こうしょう、1534-1621)。男性。大仏師大夫法印康正、定朝21代と称した。父・康秀の子という。1577年、教王護国寺(東寺)大仏師職を継ぐ。1585年、日吉神社の神像を製作した。1602-1604年、豊臣秀頼の命で代表作の東寺金堂・薬師三尊像、十二神将像を造像した。88歳。
 蓮華王院本堂(三十三間堂)、東寺講堂の五大尊、四天王像などの修理も行う。
◆前田 綱紀 江戸時代前期-中期の外様大名前田 綱紀(まえだ-つなのり、1643-1724)。幼名は犬千代、初名は綱利(つなとし)、号は顧軒、松雲、梅墩、香雪、法号は松雲院。江戸の生まれ。父・4代藩主・前田光高、母・徳川家光養女・阿智姫(水戸徳川頼房の娘)の長男。1645年、父の急死により3歳で襲封し前田家5代になる。祖父・前田利常(3代藩主)が後見し、のち、岳父・保科正之が後見した。1651年より、加賀藩農政の基本政策・改作仕法を実施し、1654年、正四位権少将兼加賀守になる。1656年、改作仕法を完成させた。1658年以降、綱紀の親政になり権中将になる。1693年、農民の田畑の売買を容認する切高仕法を実施する。1669年、若年寄を設けた。1686年、藩政の最高執政機関を年寄・家老・若年寄で構成する。1689年以後、五節の佳事に御三家並に江戸城白書院で将軍に謁見できる待遇を得た。1690年、年寄役八家の制を確立、奥小姓組・足軽・小者に至る再編成をした。1692年-1695年、飛騨高山藩金森氏改易により高山城在番を勤めた。1693年、参議、切高仕法などを行う、1706年、従三位になる。1722年より、能登国内の幕府領を預地として支配した。1723年、退隠し、翌年、江戸邸で病死した。著『桑華字苑』『古蹟文徴』など。82歳。
 治政は79年にわたり、加賀藩「中興の英主」といわれた。農政大改革により、検地、租税制度を整え、新田開発、職制軍制・改正、非人小屋創設、防火制度などを行う。学問を好み、木下順庵・室鳩巣(むろ-きゅうそう)・稲生若水らを招き学問を振興した。古文書・古書の収集を行い、蔵書により前田家尊経閣文庫の基をつくる。東寺伝来の古文書『百合文書(ひゃくごう-もんじょ) 』、三条西家蔵書の整理・保存に尽力した。金沢城内に細工所を設け、加賀象眼・蒔絵などを奨励し、能は宝生流を招いた。
◆講堂の仏像・木像 講堂内陣須弥壇には、21体の密教仏像が3列(前列8体、中列5体、後列8体)にわたり安置されている。後補の「五智如来」、「五菩薩(中尊は後補)」、「五大明王(五忿怒)」、「四天王」、「梵天」、美仏の「帝釈天」になる。
 これらの群像彫刻は、中央の悟りを開いた最高位の仏「如来部」に5体がある。10段階の悟りの最終段階に達しており、開いた蓮台に坐している。右(東)に悟りの修行をする仏「菩薩部」に5体、左(西)に大日如来の化身で忿怒の「明王部」に5体が配置されている。
 このうちの15体が空海が実際に指示して造型させた仏像という。材は檜になる。これら主要な尊像の頭部内には、銅製の筒内に舎利2粒(空海が唐より持ち帰った80粒の仏舎利の一部ともいう)、梵字真言、名香(白檀、龍脳)などが納められている。
 ◈中央に「五智如来坐像」、室町時代後期、1493年に康珍作の「大日如来坐像」(284㎝)(重文)は最高の悟りを表し、智拳印を結んでいる。それを中心に、江戸時代の復興作の「如来部(五大如来、五仏)」には「四如来」の「宝生」(南東)(140㎝)(重文)、「阿閦」(北東)(136㎝)(重文)、「不空成就」(北西)(135㎝)(重文)、「阿弥陀」(南西)(136.7㎝)(重文)が安置されている。
 この五仏は、自性輪身(じじょうりんじん)といわれ、悟り真理そのものの姿を表す。室町時代後期、1486年の戦乱で五智如来は焼失している。なお、現代、2000年、大日如来台座下より護摩を焚いた跡が発見されている。
 ◈右(東)の「菩薩部(五大菩薩)」は、室町時代後期、1486年の戦乱で焼失し、江戸時代に後補の「金剛波羅密多」(中央)(197.2㎝)、平安時代前期、839年作の「四菩薩」の「金剛宝」(南東)(93.4㎝)(国宝)、「金剛薩埵」(北東)(96.4㎝)(国宝)、「金剛業」(北西)(94.6㎝)(国宝)、「金剛法」(南西)(95.86㎝)(国宝)が安置されている。
 五菩薩は、正法輪身(しょうぼうりんじん)といわれ、救いを求める衆生の願に従い、慈悲の面を持つ。インド的な表現が残る。衆生救済のために五智如来が菩薩に化身した。出家前の釈迦如来が描かれ、宝冠をかぶる。開きかけの蓮台に坐している。奈良時代後半の木心乾漆造の流れをくむ。木造、4菩薩は針葉樹材の一木造、乾漆、彩色。
 ◈左(西)の「明王部(五大明王)」、平安時代後期、839年作の「不動明王」(中央、173㎝)(国宝)は弘法大師様といわれる。
忿怒の形相で弁髪を垂らし、顔を右に向け、上の歯で下の歯を噛み、瑟瑟座(しつしつざ)に坐している。右手には宝剣、左手には羂索を握り、真っ赤な火焔を背負う。不動明王像としては日本最古になる。
 「四明王」の4面8臂の「降三世(ごうざんぜ)」(南東、174㎝)(国宝)、3面5目6臂の金剛夜叉」(北東、172㎝)(国宝)、6面3目6臂6足の「大威徳」(北西、143㎝)(国宝)、1面3目8臂の「軍荼利(ぐんたり)」(南西201㎝)(国宝)になる。
 五大明王は、教令輪身(きょうりょうりんじん)といわれ、教化に従わない難化の衆生を導くため怒りの面を表している。上半身裸形の憤怒像であり、女性的な肉体を持つ特徴がある。不動明王以外は多面多臂を持つ。多聞天など周囲の天部は、これらの仏を守護している。鎌倉時代前期、1197年の運慶らによる修理の際に、頭部内より舎利、真言が見つかっている。
 木造、乾漆、彩色。
 ◈さらにその周囲に、平安時代後期、839年作の仏教の守護神である「天部(四天王)」の「持国天」(南東、187.7㎝)(国宝)、「多聞天」(北東、197.9㎝)(国宝)、「広目天」(北西、171.8㎝)(国宝)、「増長天」(南西、182.5㎝)(国宝)が安置されている。
 持国天と増長天は名作と謳われ、多聞天は地天女の掌に乗り、二鬼神が控える。ほかは二邪鬼を踏む。広目天、多聞天は後補が多い。
 木造、乾漆、彩色、截金、漆箔。
 ◈持国天と多聞天の間、講堂須弥檀両端中央東に平安時代作の4面3目4臂の「梵天坐像」(101㎝)(国宝)は4羽の鵞鳥が支える蓮華座に乗る。本面以外頭部は後補になる。
 「二天」の広目天と増長天の間に甲姿で象に乗る半跏像の3目の「帝釈天半跏像」(105.2㎝)(国宝)の6体が控えている。頭部、右手、左足は後補。木造、彩色。
 ◈如来とは、悟りを開いた存在、菩薩とは仏になろうと修行をする者、その如来、菩薩を守護する明王、さらにヒンズー教の神、梵天、帝釈天、四天王が配置されている。
 空海によれば、真言密教を口伝することはできないとされ、そのため曼荼羅により密教世界を具現化させた。さらに、東寺独特唯一の「立体曼荼羅」によりそれを表現した。ここには、真言密教根本曼荼羅の「金剛界曼荼羅(五智如来、五菩薩)」と鎮護国家修法の「仁王経曼荼羅(五菩薩、五大明王)」が一体化されている。また、伽藍配置全体も、曼荼羅の再現ともいう。行者は、曼荼羅の前で修法を行い、大日如来と一体化する即身成仏を果たし、その法力を発揮するものという。
◆仏像・木像 ◈灌頂院は、真言宗寺院で最も重要な堂舎になる。正堂内部、北壁、東壁、西壁に「真言八祖」が描かれている。南壁には、「金胎両部の大日如来」が種字で表されている。身舎の板壁は、大曼荼羅が掛けられる。
 ◈金堂内陣に、「薬師三尊像」の「薬師如来坐像」(288㎝)が安置されている。安土・桃山時代、1603年に七条仏所の仏師・康正作による。薬師如来は右手は施無畏印、左手は与願印、手に薬壺を持たず、奈良時代の古い様式であるという。光背には7体の化仏がある七仏薬師如来になる。木造、寄木造、玉眼、漆箔。
 右側に「日光菩薩」(290㎝)、左側「月光菩薩」(289㎝)(重文)が安置されている。
 ◈金堂内陣の「十二神将像」(重文)は、薬師三尊像の台座裳懸座周囲に安置されている。干支を載せた眷属であり、安土・桃山時代、仏師・康生作になる。十二神将像は、如来を守り、如来の願いを成就する働きがある。この様式は奈良時代のものという。
 ◈五重塔初層内陣は、心柱そのものを大日如来に見立てる。須弥壇上四方には「金剛界四仏」(東に「阿閦(あしゅく)如来、北に「不空成就如来」、西に洛陽五智如来の一つ「阿弥陀如来」、南に「宝生如来)」、その間に「八大菩薩」、四天柱に「両界曼荼羅尊像」、四方の壁に「真言八祖像」(南西より龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏三蔵、一行禅師、恵果阿闍梨、弘法大師)、側柱に「八大龍王」(難陀、跋難陀、娑伽羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅)が描かれている。これらは四如来とともに曼荼羅(立体曼荼羅)を形成している。寺伝では長谷川等竹筆とされている。心柱の基部には、空海が唐から持ち帰ったという仏舎利が納められているという。各層傍らに水瓶(すいびょう)があり、教えを水に例え水を注ぐように伝えてきたことを示している。
 五重塔の初層は、毎年正月三が日のみ一般公開されている。
 ◈御影堂の南西奥間に「不動明王坐像」(123cm)(国宝)がある。平安時代前期(9世紀)作とされる。空海自作と伝えられ、造像時の姿をいまも見せているという。空海の念持仏という。12世紀初頭以来、最古の秘仏とされてきた。
 不動明王は、空海が高野山に向う時、東の門まで見送りにきたという。その仏の足跡に蓮の花が咲いたという。そのため大門は蓮華門ともいわれている。いまも毎朝6時、朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が行われている。毎月21日には御影供が行われている。木造、彩色。(非公開)。
 ◈宝物殿の「兜跋(とばつ、刀拔、都跋)毘沙門天立像」(189.4㎝)(国宝)は、かつて遣唐使によりもたらされた。西域の吐蕃(チベット)にあったともいう。平安京羅城門楼上に安置されていた北方の守護神という。異説もある。唐時代(9世紀)、また9世紀半作ともいう。
 頭に鳳凰の四面宝冠、長套、裳の上に甲冑、胸当て、腰当て、手に海老籠手(えび-ごて)、腰に獅噛(しかみ)、西域風の金鎖甲、足に沓、脚絆を身につける。左手に宝塔、右手に鉾(戟)を掲げ持つ。両足を台座中央に座った女の地天(地神)、左に尼藍婆(にらんば)、左に毘藍婆(びらんば)が支えている。
 木造、材は中国産の魏氏桜桃による。彩色、漆箔、目に黒石嵌入、練物盛上。
 ◈宝物殿の「千手観音立像」(584.6㎝)(重文)は、かつて食堂の本尊だった。平安時代前期作、聖宝が関わり、第59代・宇多天皇の御願により造像された。(「醍醐寺根本僧正伝」)。平安時代前期、894年-899年/909年に造られたという。開眼供養は、宇多天皇が行幸し行われたという。像内に877年銘の檜扇(ひおうぎ)、白毫孔に金属舎利容器が納入されていた。近代、1930年の火災で損傷し、現代、1966年-1968年に修復されている。
 木造、彩色、漆箔。
 ◈食堂に、「四天王立像(持国天、増長天、広目天、多聞天)」(3m)(国宝指定解除)がある。平安時代前期作の会理僧都の作という。近代、1930年の火災で損傷し炭化した。手足は焼失し、表面を樹脂加工している。かつて、旧本尊・千手観音立像を、現在は十一面観音菩薩を守護している。
 ◈食堂の現在の本尊は「十一面観音像」であり、近代、1933年に明珍恒男作による。洛陽三十三観音巡礼第23番札所の札所本尊になる。画の釈迦三尊像と不動三尊像は、1936年に大畑桑丘人筆による。
 ◈鎌倉時代前期作の「観音菩薩」(24.9㎝)(重文)、「梵天」(21.7㎝)(重文)は、かつて宮中清涼殿二間に安置され「二間観音」とも呼ばれた。白檀の檀像、衣に截金文様、台座彩色、光背は銅製透彫。
 ◈収蔵庫の八幡神像の「八幡三神像」(国宝)は、かつて鎮守社八幡宮の神体であり、1868年の火災により宮殿焼失した際に、西院御影堂に遷された。平安時代(9世紀前半)作の日本最古最大、等身大を超える坐像であり、僧形1体、女神2体になる。同木古材より木取りしたとみられる。神像現存最古とみられる。木造、一木造、彩色。像高109-114cm。付属して上半身裸形の「男神坐像」(85cm)がある。武内宿禰像といい12世紀以後の作とみられ、裸形像の中で最も古い。
 ◈「地蔵菩薩立像」(162.4㎝)(重文)は平安時代前期(10世紀後半)作になる。かつて西寺より遷されたという。
 ◈「僧形文殊坐像」(70.9㎝)(重文)は、平安時代前期作になる。聖僧文殊としては最古例という。弘法大師作ともいう。
 ◈「夜叉神(やしゃじん)立像」(重文)は平安時代前期作で対になる。弘法大師が刻んだともいう。かつて南大門の左右に安置されていた。旅人の失礼に罰を与えたため中門(金堂前燈籠付近)に遷されたという。(『東宝記』)。安土・桃山時代、1596年、中門倒壊後、夜叉神堂が建てられ遷された。ともに目をむき、眼光鋭く異形の表情をしている。東の炎髪の「阿形」(193㎝)は、雄夜叉であり、文殊菩薩を本地仏にする。西の巻髪の「吽形」(204㎝)は、雌夜叉であり、虚空蔵菩薩を本地仏にする。2体共に両手、足先は失われ、腰に獣皮(木造)を巻く。体部分に空いた無数の孔は蜂の巣跡という。桧材、一木造。
 ◈大師堂の本尊「弘法大師坐像」(83.3㎝)(国宝)は、北間に安置されている。鎌倉時代中期、1233年に長者・親厳大僧正の願により運慶の子・康勝作になる。(『東宝記』) 。
 空海の42歳の姿を刻んだという。椅子(後補)に坐す真如親王様であり、左手は膝上で掌を仰ぎ念珠(水晶製・後補)を、右手は屈臂して胸前で五鈷杵(木製、左右二材製、漆箔仕上げ)を執り五鈷杵を持つ。頭躰幹部は左右二材よりなり、内刳、割首する。面部を割矧ぎ玉眼嵌入する。躰部背面に板材(左右二材)を当て、両躰側部、両脚部に各一材を矧ぐ。裙先・袈裟の体部周囲への広がり部に数材を矧ぎまわす。像底地付から最大13.2㎝の高さの位置に、棚状の刳り残しを作る。像内面相部中央・腹部中央に巻子が縦に取り付けられている。像内面部、腹部に巻物が納められているという。
 木造、彩色、檜材の寄木造、内刳、像底を刳り残す、玉眼。表面は、錆下地、彩色仕上げ、現状は黒漆地。
 なお、雨宝院(上京区)にも、弘法大師像が安置されている。像は南を向き口を開いている。「阿吽汗かきの大師」と呼ばれた。「汗かき」とは、汗をかくようなことでも、必ず衆生を救済する意味とされた。東寺の大師像も同様の像であり、こちらは北を向いていたという。かつて、2つの大師像は互いに向き合い、金剛力士像のように雨宝院の像は「阿」を、東寺の像は「吽」を示して安置されていたという。
 ◈毘沙門堂に「毘沙門天像」(40cm)、脇侍は「吉祥天」、「善賦師童子」になる。都七福神の一つ。
 ◈境内の露仏「聖観音像」は、戦時中に金属供出になり、現代、1951年に復元された。
 ◈境内の露仏「観音像」は、柳谷観音の分身で、境内に勧請された。
◆曼荼羅 曼荼羅(まんだら)は、古代から中世のインド亜大陸、東南アジアで用いられていたサンスクリット語になる。「本質、真髄」を意味する「マンダ」と、所有の「ラ」よりなる。「マンダラ」は、「本質の所有、宇宙の真理・摂理」を意味している。真言密教では、すべての生命源が大日如来を中心としているとされる。
 曼荼羅図には「金剛界」と「胎蔵界」があり、物質的な「五大(地、水、火、風、空)」を表すのが金剛界、さらに、精神的な「識大(しきだい)」を表すのが胎蔵界とされる。前者は男性的な智の原理、後者は女性的な理の原理に基づくという。両界は表裏一体とし、双方を合わせた「六大」を「両界曼荼羅」と称する。
 金剛界曼荼羅図は、9つの正方形の区分があり、縦2列で描かれている。全体で大日如来による救済と悟りの過程が描写される。最上段右端の大きな円輪内に大日如来が描かれている。そのほかの8つの区分内にも大日如来、菩薩など総計で1461尊が描かれている。
 胎蔵界曼荼羅図は、中央の正方形内の蓮華中に大日如来が描かれる。さらにその外側の四角い枠内に、如来、菩薩、明王など総計で400尊が広がる。
◆建築 境内は、平安時代の条坊制に基づき、南北に地割されている。境内の位置は平安京造営時そのままといわれている。
 ただ、建物が直線状に並ぶ伽藍配置は、奈良時代以降のものという。現在、真南の南大門の北に金堂、講堂、食堂(じきどう)、北大門と直線上に並んでいる。このうちの金堂、講堂、食堂の三伽藍は、三宝(仏、法、僧 [僧伽、そうぎゃ、さんが])という仏教の3つの宝にそれぞれ出会う場所とされている。
 おもな現在の伽藍は、南大門(重文)、金堂(国宝)、講堂(重文)、食堂、五重塔(国宝)、潅頂院(重文)、御影堂(国宝)、大師堂(国宝)、蓮花門、北大門、慶賀門、北総門、平安時代の山内最古の宝蔵(重文)などがある。
 
◈「南大門」(重文)は、当初、5間2間の二階建だったという。近代、1868年に焼失し、1895年に蓮華王院(桃山時代)の西門を移築した。旧西門は、安土・桃山時代-江戸時代の慶長年間(1596-1615)、安土・桃山時代、1601年の建立ともいう。八脚門としては国内最大になる。
 三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺。
 ◈「東大門(不開門)」(重文)は、鎌倉時代前期、1198年、文覚上人の大勧進によって再建された。南北朝時代、1336年、南朝方の新田義貞(1301-1338)が、東寺に本陣を敷いた足利尊氏(1305-1358)を攻めた。尊氏は門を閉めて難を逃れたという。以来、門は閉ざされ「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれる。寺では開けてはならない門と伝えられている。また、新田軍が放った矢の跡が残るという。ただ、室町時代前期、1423年の大風、江戸時代前期、1605年の地震で破損して開いたという。1605年に豊臣秀頼が大修理を加えたという。
 高さ8.7m、間口11.6m、奥行き9.7m。三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺。
 ◈「東門 」は、鎌倉時代前期、1185-1274年に建立された。
 四脚門、切妻造、本瓦葺。
 ◈「北大門」(重文)は、鎌倉時代前期に再建され、安土・桃山時代、1601年に補修された。同年頃、建立されたともいう。
 三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺。
 ◈「北総門」(重文)は、鎌倉時代前期、1185-1274年に建立された。
 四脚門、切妻造、本瓦葺
 ◈「慶賀門(東門)」(重文)は、勅使が使用したとされている。鎌倉時代前期、1198年/1185年-1274年に文覚により再建された。二重虹梁、蟇股、天井は組天井。三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺。
 ◈「蓮華門」(国宝)は、小子坊西側、庭奥にある。不開の門であり、山内最古の門になる。鎌倉時代前期、1191年/建久年間(1190-1199)、文覚(1139-1203)により再建された。鎌倉時代に再建される。
 晩年の空海(774-835)が高野山に発つ際に、御影堂(西院)の不動明王が門まで来て見送ったという。不動明王の足跡には蓮華が咲いたという。懸魚は魚の尻尾の形をしている。建物を火災から守るために、水に縁のある魚の形をした妻飾りを懸けて火伏のまじないにした。また、水をかけるに通じている。
 三間一戸、切妻屋根、本瓦葺、八脚門。
 ◈本堂の「金堂」(国宝)は、平安時代前期、796年に伽藍として最初に創建された。平安時代中期、918年、落雷により焼失した。室町時代後期、1486年に焼失する。1585年に地震で倒壊した。現在の建物は、安土・桃山時代江戸時代前期、1606年/1603年に豊臣秀頼により再建された。
 境内最大の建物で東大寺大仏殿様の様式を受け継ぐ。空海が東寺を拝領した際に、唯一完成していた伽藍になる。当初、講堂と金堂の周囲は廻廊により繋がれていた。建物は安土・桃山時代建築、細部に唐、和風の様式も取り入れられている。組物は裳階が挿肘木三手先・中備に平三斗の大仏様、天竺様。本屋に和様・四手先組物。内部外陣は化粧屋根裏、内陣は折上組入天井。内部の組物は和様四手先の大仏様の折衷下は挿肘木の大仏様、天竺様。一重裳階付、採光のための裳階中央を切り上げは、東大寺大仏殿、平等院鳳凰堂にも見られる。小屋根の下にある両開きの扉は、法会の際に散華したという。
 7間5間/5間3間、一重裳階付、入母屋造、本瓦葺。
 ◈「講堂」(重文)は、平安時代前期、824年/823年-835年/839年に建立された。室町時代後期、1486年に焼失し、1491年に再建された。安土・桃山時代、1596年、伏見大地震により倒壊している。1598年に北政所が復元修理した。現代、1951年-1953年、解体修理された。当初、講堂と金堂の周囲は廻廊により繋がれていた。礎石のみは創建当時のものという。仏教を学ぶ場になる。外陣は棹縁天井、内陣は折上格天井。
 9間4間、一重、入母屋造、本瓦葺(一部に行基瓦)。
 2000年の諸尊の修理の際に、須弥壇の下から薄い木を焼いた跡が発見された。講堂の基礎工事後、須弥壇の基礎ができあがった段階で、空海が鎮壇のために護摩を焚いた跡ともいう。
 ◈「五重塔」(国宝)は、初代が平安時代前期、883年/元慶年間(877-885)に創建された。886年、平安時代後期、1055年に焼失した。2代目は1086年に再建された。鎌倉時代中期、1270年に焼失する。3代目は1293年に再建、室町時代後期、1563年に焼失した。4代目は安土・桃山時代、1594年に再建され、江戸時代前期、1635年に焼失した。現在のものは5代目になる。江戸時代前期、1644年/1643年に徳川幕府3代将軍・徳川家光(1604-1651)により再建される。
 基壇上部から相輪頂部までの高さは55m/57mあり、国内に現存の塔の中で最も高い。五重塔は釈迦の骨を納める舎利塔を意味する。内部は礎石の上に方形の心柱、格狭間入りの須弥壇が設けられている。天井が折上組格天井になる。壁は極彩色に施されている。礎石の上に立つ心柱そのものが真言密教本尊・大日如来を表す。その周囲に4仏が配される。塔は落雷などによる火災での焼失の記録はあっても、地震による倒壊の記録は残っていないという。4代目の塔は、安土・桃山時代、1596年のマグニチュード7.5の「慶長伏見地震」でも倒壊しなかった。江戸時代に国学者・本居宣長(1730-1801)が最上階まで上がっている。(『在京日記』)
 塔は耐震構造になる。各層は、積み上げ構造といわれる軸部、組み物、軒の木材同士の切り組み、単純な釘打ちによる「柔構造」になっている。このため、振動は接合部で吸収され、さらに下層上層部は互い違の振動を起こし、ここでも揺れを吸収する。地震、大風による振動が、上下各層が各々左右に交互に動く「スネーク・ダンス」により、力が相殺される。さらに大きな振幅は、心柱が各層の横ずれが過剰になることを防ぐ閂(かんぬき)のような役割を果たしているとみられる。
 初層内部は、側柱、長押にも極彩色の文様が施されている。心柱(ヒノキ材)は、江戸時代前期、1692年に下の部分が50㎝(45㎝)ほど一度切り下げられ、外廻りの柱も20㎝縮められているという。これは、木組み部分し収縮したが、心柱は変わらなかったための処置だった。このため、須弥壇下の心柱の彩色がずれている。
 軒は各重三手先の和様斗栱(ときょう)、二重以上高欄付。三間五重塔婆、本瓦葺。
 
塔の棟を支える四角の邪鬼がある。再建の時、彫り師が遊び心で造ったともいう。また、天邪鬼の力で塔を持ち上げる意味付けが行われたともいう。
 
◈「御影堂(みえどう)」(国宝)は、「不動堂」、「西院御影堂」、「大師堂」とも呼ばれる。南北朝時代、1379年の火災で焼失した。1380年に建立された。1390年/1395年に北に増築の前堂(西院御影堂、中門)と、1380年に再建の後堂(不動堂)により、後堂東南を伝法院という。「西院」には、かつて空海(774-835)が住み、講堂の立体曼荼羅を構想し、造営工事の指揮を執った。その住房を仏堂にした。不動明王座像を本尊し、不動堂と呼ばれた。後に弘法大師座像をも安置したので大師堂、御影堂とも称された。現在も弘法大師像(1233)が安置されている。反対側南面には、空海の持念仏で、空海自作と伝えられ日本では最古の秘仏の不動明王像(国宝)(非公開)が安置されている。
 後堂(1380)、前堂(1390)、中門により構成され、建具は蔀戸や妻戸、縁には高欄を廻らす。寝殿造の意匠も残る。軒まわりは簡素な垂木。後堂は7間4間、一重、入母屋造、北面西側端2間庇、すがる破風造、東面向拝1間。前堂は4間5間、一重、北面入母屋造、棟違屋根、檜皮葺。中門は、2間1間、一重、西面切妻造、東面前堂に接続。総檜皮葺。
 ◈「大黒堂」は、かつて、御影堂での生身供用の調理を行っていた。祀られている三面大黒天という大黒天(大地の神)は、毘沙門天(北方の守護神)、弁財天(財宝を司る神)、吉祥天の三尊が合体している。三神のご利益を一度に授かることができるという。
 ◈「食堂(じきどう)」は、平安時代前期、843年までには建立されていたという。近代、1930年焼失し、1933年(1934年とも)に再建された。かつて、僧侶が食事をとる建物であり食堂(しょくどう)の語源になった。南北朝時代、足利尊氏はここに陣を敷いている。
 四国八十八ヶ所巡礼、洛陽三十三所観音霊場などの納経所、写経の場になっている。
 
◈「小子坊(しょうしぼう)」は、鎌倉時代に、空海(774-835)に帰依した第91代・後宇多天皇(1267-1324 )が真言密教の修行道場として開いた庵に始まる。かつて西院大師堂の一面にあり、南北朝時代、1336年/建武年間(1334-1336)に光厳上皇(北朝第4代)(1313-1364)が政務を執った。足利尊氏(1305-1358)は、千手堂に移住したという。近代、1934年に空海の千百年御遠忌にあたり現在地に再建された。
 内部には正面「鷲の間」「牡丹の間」、北の「枇杷の間」「瓜の間」(西瓜・胡瓜の絵)、南の「雛鶏の間」「勅使の間」の6室がある。襖絵は現代の画家・堂本印象(1891-1975)による。襖絵48面、壁画2面になる。「勅使の間」には、金地極彩色画「渓流に鶴」「日輪山嶽図」がある。勅使の間では、真言宗最高の秘儀といわれる「後七日御修法(ごしちにち-みしほ)」(1月8日-14日)が行われ、天皇の御衣を入れる唐櫃が置かれている。庭園の「澄心苑」は7代目・小川治兵衛(1860-1933)の作になる。
 木曽ヒノキの材による。入母屋造。
 ◈「灌頂院(かんじょういん)」(重文)は、東寺にしか現存しない。真言堂とも呼ばれ、真言宗寺院で最も重要な堂舎になる。当初は平安時代前期、843年(844年とも)頃に建立された。843年には、太政官符で実恵に対し、東寺で最初の伝法灌頂が許可されている。当初は、5間4間の正堂に、7間2面の礼堂が付属していた。
 鎌倉時代、文覚(1139-1203)により修復される。安土・桃山時代、1585年に伏見大地震により損壊した。江戸時代前期、1634年に徳川家光(1604-1651)により改築されている。弘法大師が修行した唐の青竜寺にならい、密教修行の道場として建立された。近代、1883年より、灌頂(伝法灌頂、密教の奥義を弟子へ伝える儀式)、修法、「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」(1月8日-14日)も行われている。
 灌頂道場としては最大になる。内部は前3間が外陣、後ろ4間が内陣、正堂(北部、5間4面、四半瓦敷)と前2間が礼堂(南部、7間2面、板敷)、その間の東西の相の間(1間)からなり双堂(双堂形式)という。なお、平安時代の創建時には、正堂、礼堂は別棟だったとみられている。正堂内東に胎蔵界、西に金剛界の両界曼荼羅が掲げられる。壁に金剛薩埵菩薩、真言八祖像、両界の大日如来の種字がある。7間7間。一重、寄棟造、本瓦葺。閼伽井がある。非公開。
 ◈灌頂院の築地塀の「東門」(重文)の柱の角は面取の古式になる。東門蟇股、斗の下左右に雫状の彫り込みが見られ、これは唐招提寺金堂の巻き込み部の影響がある。
 ◈灌頂院の「北門」(重文)は、鎌倉時代前期-中期、1185-1274年に建立された。
 四脚門、切妻造、本瓦葺
 江戸時代前期の「灌頂院門」に梅鉢懸魚がある。
 ◈「宝蔵」(重文)は、東寺最古の建築物とみられている。平安時代後期に建立された。創建時には、南倉、北倉の2棟あり、空海(空海)が唐の国師・恵果から授かった密教法具、両界曼荼羅、犍陀穀糸袈裟(けんだこくしけさ)、仏舎利、五大尊などの宝物を収蔵していた。平安時代中期の1000年に北倉、平安時代後期、1127年に南倉で火災があり、その後、移築されたともみられている。鎌倉時代前期、1086年-1184年に建立ともいう。周囲は堀で囲まれ、火事の延焼に備えていた。
 現存するのは南倉になる。再建に際して、火災後の南倉の建材を再利用したともいう。屋根瓦の多くは、平安時代の創建当時の唐草瓦による。南面に二重の板扉があり、扉の取付け方法は、平等院鳳凰堂と同じになる。床は拭板敷で、床板は金堂の扉か羅城門の扉の転用ともされる。盗難の傷痕が残る。
 校倉(あぜくら)造倉庫。3間3間、寄棟造、本瓦葺。
 ◈「毘沙門堂」は、平安京の羅城門の二階に祀られていた兜跋毘沙門天(国宝)を安置するために、江戸時代後期、1823年に建てられた。入母屋造、銅板葺。
 ◈「夜叉神堂」は、食堂の南にある。もとは南大門の左右に祀られていた。堂に参らずに通り過ぎると罰に当たるといわれた。その後、金堂前の中門に遷された。室町時代後期、1486年、土一揆で南門焼失し、その後、現在地に遷された。西(左)に雌の夜叉、東に雄の夜叉を祀る。歯痛平癒の信仰を集める。堂前の雨だれに白豆を埋めて祈る。成就すればお礼に割飴を供える。
 ◈「大日堂」は、現代、2000年に再建された。かつては、江戸時代前期、1697年に御影堂の礼拝堂として建立された。近代以降、第50代・桓武天皇(737-806)、第52代・嵯峨天皇(786-842)、足利尊氏(1305-1358)などの位牌の尊牌堂になる。その後、役行者(?-?)作という胎蔵界の大日如来坐像が本尊として安置され大日堂になった。現在いまは、先祖供養などの回向所となっている。
 入母屋造、本瓦葺。
 ◈「毘沙門堂」は、平安京の羅城門の二階に祀られていた兜跋毘沙門天(国宝)を安置するために、江戸時代後期、1823年に建てられた。現在は、1994年に新造された毘沙門天像が安置されている。脇侍は不動明王像、愛染明王像になる。毘沙門天像は京都の都七福神(毘沙門天)の一つ。入母屋造、銅板葺。
 堂横の「天降石(撫石)」は、天より降りた石とされる。石を撫で体の悪い部分を擦ると病が治るという。
 
◈「弁天堂」は、北大門の北東にある。弁財天を祀る。江戸時代後期、天保年間(1830-1843)に創建された。かつて毎年土用丑の日に、轉読大般若の御法楽が捧げられていた。「東寺泥」という池の泥(現在の亀池、蓮池)を授けていた。泥を皮膚に塗ると、冬に霜やけにならないとされた。
 
◈「太元堂」は、北大門の北東にある。近代、1929年に現在地に遷された。現在の神泉殿の本堂は、旧利生殿になる。太元帥明王を安置する。かつて利生殿に祀られていた。
 ◈「鐘楼」は、南北朝時代、1348年に完成した。
◆梵鐘 「梵鐘」は、足利尊氏(1305-1358)の寄進といわれている。寺の開門を告げる。現在の鐘は複製になる。
 165.2Hzあり雅楽の「平調(ひょう-じょう)」になる。
◆空海と最澄 平安時代前期、804年、最澄(767-822)は短期の還学生(げんがくしょう)として、留学僧・空海(774-835)らとともに唐に渡り、805年に帰国する。809年、空海も禁を犯し、20年の予定を2年に切り上げて帰国し、高雄山寺に入る。最澄は、空海入洛が実現できるように陰ながら尽力した。最澄は、帰国後1か月にもならない空海のもとに弟子・経珍をやり、空海が唐から持ち帰った経籍12部を借覧し、その後も借り続けた。
 最澄は年下の空海により、812年、高雄山寺で金剛界、胎蔵界の結縁灌頂を受けている。最澄は、空海に伝法灌頂も授けるように申し出るが、空海は3年はかかるとした。やむなく、最澄は、811年、最愛の弟子・泰範を空海の元に送り、密教を学ばせる。だが、泰範は、空海の弟子になり最澄の元には戻らなかった。その後、最澄は空海と決別する。
◆文化財 国宝25件・81点、重要文化財は52件・23603点、未指定文化財は5万点といわれている。
 ◈紙本墨書「風信帖(弘法大師筆尺牘[せきとく、漢文の書状])」(尺牘三通)(国宝)(28.8×157.9㎝)は、平安時代(9世紀)の草書体になる。「三筆」の一人・空海が最澄に宛てた書状であり、空海真筆の名品といわれる。3通あり、平安時代前期、810年代初頭に差し出されたとみられている。その後、延暦寺に伝えられ、後に東寺に寄進された。
 1通目は「風信雲書、天より翔臨す。これを披き、これを閲するに、雲霧を掲ぐるが如し(風に運ばれ雲に乗じ便りが届いた。拝読すると疑問が解け、雲、霧が晴れるようです)」で始まる。最澄の手紙と贈り物に謝礼を述べ、比叡山よりの下山を望む。
 ほかに、空海が公卿・歌人・藤原冬嗣より書状を受けたこと、会見を約束した「忽披帖」、比叡山を訪れることを告げた「忽恵帖」(国宝)があり日本最高峰とされている。
 ◈「弘法大師遺告(ゆいごう)」(国宝)は、空海が亡くなるに際して、弟子たちに真言宗の行く末を示した。
 ◈紙本墨書「弘法大師請来目録」(国宝)は、空海が唐から持ち帰った経典、密教法具、書、曼荼羅などを記した目録であり、朝廷に提出した。
 ◈『東宝記』12巻、1冊は、南北朝時代-室町時代作になる。観智院で発見された。創建以来の600年の東寺の歴史が記されている。
 ◈絹本著色「両界曼荼羅図(西院曼荼羅/西院本両界曼荼羅)」(国宝)は、現存最古(9世紀)の彩色曼荼羅になる。宮中の真言院で行われていた後七日御修法で金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅は用いられていたという。「伝真言院曼荼羅」と呼ばれてきた。近年は、東寺内の西院で懸用されたことから、「西院本曼荼羅」とも称されている。
 ◈絹本著色「五大尊像」5幅(国宝)は、平安時代後期、1127年作になる。宮中での「後七日御修法」で掛けられた仏画になる。不動明王など五大尊像が揃ったものとしては最古になる。153×128cm。
 ◈絹本著色「十二天屏風(十二天像)」六曲屏風一双(国宝)は、鎌倉時代前期、1191年作になる。長者・俊証僧正が宅間勝賀に描かせたという。仁和寺守覚法親王による梵字とされ、立像で描かれる異例の作になる。伝法潅頂の際に使われた。130.2×42.1cm。
 ◈絹本著色「十二天画像(屏風)」(国宝)は、平安時代後期、1127年作になる。長者・勝覚が威儀師覚仁に命じ、小野経蔵の弘法大師筆とされる像を模写したという。宋画の影響を受けた筆線に特徴がある。灌頂の儀式に用いられていた。
 方位の神であり、平安時代以降の密教では四方に加え、四維、上下、日月をまとめ12の守護神とした。風天(西北)、水天(西)、羅刹天(西南)、閻魔天(南)、火天(東南)、帝釈天(東)、伊舎那天(東北)、毘沙門天(北)、梵天(上)、地天(下)、月天、日天になる。
 144.2cm×126.6cm。京都国立博物館所蔵。
 ◈「犍陀穀糸袈裟(綴織七条袈裟)」(国宝)は、唐時代、9世紀作になる。恵果料・空海相伝、空海が恵果より授かった袈裟で、弘法大師自身も使用した。使い捨てられた布を洗い清め、継ぎ合わせて織物にしている。
 絹、116.8×237cm。京都国立博物館寄託。
 ◈「海賦蒔絵袈裟箱」(国宝)は、平安時代作になる。犍陀穀糸袈裟を納めていた袈裟箱であり、波、水鳥、魚、亀などが描かれている。
 ◈「御影堂棟札」(国宝)、江戸時代作。
 ◈絹本著色「真言七祖像」7幅(国宝)は、唐代(平安時代)作になる。真言宗の祖師7人の肖像画で、空海が真言宗の第七祖、唐の恵果より授かった。5幅は空海が宮廷画家・李真に描かせ持ち帰った。空海は賛と行状文を書いた。梵名、法名は飛白体による。
 ◈絹本著色「不空像」(国宝)は唐時代の僧、恵果の師による。
 ◈絹本著色「龍智像」(国宝)はインド僧。
 ◈平安時代の「海賦蒔絵袈裟箱」(国宝)、鎌倉時代の「紫檀塗螺鈿金銅装舎利輦」(国宝)、「横被」(国宝)。 
 ◈平安時代前期(9世紀)の「天蓋」(国宝)は、八葉蓮華、外縁吹き返し蓮弁に宝相華文などがある。西院御影堂、不動明王像上に飾られていた。
 ◈「弘法大師像(談義本尊)」(重文)は鎌倉時代後期、1313年に施入れされた。後宇多法皇の賛が入る。
 「宋版一切経」(重文)は、南宋時代作。
 ◈「東寺観智院金剛蔵聖教類」1万5402件(重文)は、奈良時代- 江戸時代の 東寺観智院宝蔵「金剛蔵」に伝来した聖教類になる。質量ともに日本最大の聖教遺品とされている。
 塔頭・観智院では南北朝時代に初代・杲宝、2代・賢宝らが聖教類の書写・蒐集を行い、聖教の基礎が作られた。江戸時代に第12代・杲快、13代・賢賀によって修理、分類が行われた。
 撰述、書写、比叡山・南都などの仏教典籍類などがある。書写本としては、三宝(頼宝、杲宝、賢宝)の著述本、自筆本、草稿本があり、杲宝の講義、賢宝が筆録した『悉曇字(しったんがく)記抄』、賢宝が杲宝の書状の紙背に書写した『仏頂最勝陀羅尼経』、杲宝筆『東寺長者補任』などがある。
 古写本としては、霊厳寺和尚円行本と伝える平安時代前期の最古本『悉曇章』、平安時代説話集の『注好選』の1152年の写本、俊乗房重源の伝来と伝える宋版『般若心経疏』などがある。
 ◈南北朝時代の「弘法大師行状絵詞」全12巻(重文)。
 ◈「東寺光明真言講過去帳並現在帳」(重文)。
 ◈「東寺稲荷御出講枡(おいでこうます)」(重文)。室町時代後期、永正16年(1519年)旧9月作、周善等、連署刻銘。
 ◈木造彫刻「獅子狛犬」(重文)。
 ◈古文書「東寺霊宝蔵文書」8巻、27冊、200通、1鋪(重文)は、南北朝-安土・桃山時代の 東寺霊宝藏に納められていた。寺内組織運営に関する引付、寺領関連の訴訟文書が多い。
 ◈銅製鍍金「密教法具」(国宝)は、唐時代(8世紀)作になる。「五鈷鈴(ごこれい)」、「五鈷杵(ごこしょ)」は、「金剛盤」の上に安置する。恵果が帰国する空海に贈ったものとされ、現在でも後七日御修法で大阿闍梨が用いる。
 ◈羅城門遺構といわれる三彩の鬼瓦も、東寺所蔵(京都国立博物館展示)になっている。東寺宝蔵の床板(長さ5.6m、幅2m、厚さ7.5m)は、羅城門扉の転用とされる。
 ◈画軸「稲荷大明神」は、かつて当寺とゆかり深い伏見稲荷大社の本願所、愛染寺にあったという。荼枳尼天(だきにてん)、亀頭の聖天、弁財天の合体尊であり、三天和合尊を描いている。三面十二臂像であり、白狐に乗る。
 ◈「教王護国寺五重小塔」(重文)は、大師堂内陣に安置されている。鎌倉時代中期、1240頃作になる。南北朝時代、1340年に宣陽門院(後白河天皇御子)が施入した。現代、1955年の堂修理で発見された。5尺3寸(2m)余の小さい五重塔で、精巧にできている。三間五重塔婆、本瓦形板葺。
 ◈「金銅羯磨(こんどうかつま) 」(重文)は、鎌倉時代初期作になる。御修法道具として伝来した五鈷鈴、五鈷杵、金剛盤の三種と共に伝えられてきた。十字型の法具であり、中央鬼目のまわりに蓮弁をめぐらして座としている。四方に八角形三条の紐を約した八用素弁の方蓮把付きの三鈷を出している。鈷は匙面取りを施し、形は張り強く、中子はやや長い。
 鋳銅製鍍金、径16.5㎝ 中央鬼目径3.5㎝ 厚1.9㎝ 鈷張5.0㎝、4口。
 ◈「法会所用具類」(重文)は、鎌倉時代作になる。法会所用具類であり、蛮絵袍、袴、大口などの染織品、楽器、持物、竜頭、行道面を含む。
 ◈「御影堂牛王宝印版木」(重文)は、南北朝時代作。
 ◈「金銀字法華経宝塔図」(重美)は、高麗時代作。
◆障壁画 小子房内部には近現代の画家・堂本印象(1891-1975)による水墨画の障壁画がある。正面「鷲の間」に鋭い眼光の鷲図、「牡丹の間」に牡丹図、北の「枇杷の間」、「瓜の間」に西瓜・胡瓜図、南の「雛鶏の間」に雛鳥図がある。襖絵48面、壁画2面になる。
 「勅使の間」には、金地極彩色画の「渓流に鶴」「日輪山嶽図」がある。
◆東寺文書・東寺百合文書 東寺は多くの庄園を領有した権門寺院であり、運営は僧侶集団が自治的に運営を行い、活動の記録を大切に保管してきた。「東寺文書」(3万通以上)は、東寺に伝来した奈良時代-江戸時代初期の文書群の総称をいう。8世紀-18世紀までの1000年間にわたる膨大な古文書群になる。
 中世には、東寺の僧侶によって文書は厳密に管理され、寺僧組織の責任者の手許、西院御影堂の文庫・宝蔵に保管されていた。寺僧組織の責任者の手許に置かれていた文書は、日々の事務・会議の運営のために必要なものだった。西院御影堂の文庫には、重要文書の正文が納められていた。重要文書の写し・会議の議事録である評定引付などは、「手文箱」と呼ばれる文書箱に入れられて保管されていた。寺僧組織ごとにいくつかの文書箱あり、整理分類されて目録も作成されていた。 中世以来、文書の収集・管理が行われている。 
 現在、「東寺文書」には、1.東寺所蔵の「東寺文書」(重文)、2.京都府立京都学・歴彩館所蔵の「東寺百合文書」(国宝)、3.京都大学文学部博物館所蔵の「教王護国寺文書」(重文)、4.琵琶湖博物館所蔵の「東寺文書」(重文)がある。いずれも百合の箱に納められていた。
 ◈「東寺文書」(81巻547通)は宸翰(しんかん)・六芸(りくげい)・千字文(せんじもん)・五常(ごじょう)などに分類されている。
 江戸時代中頃に、巻子(かんす)・懸幅(かけふく)に仕立てられた。
 ◈京都府立京都学・歴彩館所蔵の「東寺百合(ひゃくごう)文書」(3863巻、1172冊、6帖、67幅、2万5000点)(国宝)は、宝蔵、御影堂に伝来した寺院文書で、奈良時代-江戸時代の多分野に渉る国内最大数になる。東寺学衆と供僧の寺家文書の仏事、法会、祈祷、評定引付、寺領の各機関、寺領経営、寺僧組織、各荘園内文書、公武との交渉文書が多い。もっとも充実しているのが、14世紀-16世紀の文書であり、鎌倉時代後期、1297年の永仁の徳政令文書全文なども揃う。
 江戸時代に入り、文書は歴史書・地誌としての価値が高まる。加賀藩の第5代藩主・松雲公・前田綱紀(つなのり)(1643-1724)は、学問に強い関心を示し、日本各地に家臣を派遣して書物を求めた。江戸時代前期、1685年、綱紀は、後藤演乗らに命じ、東寺からも文書を借り出し、古文書の目録・文書の模写を行う。1697年11月に、綱紀は百の桐箱(国宝)を寺に寄進し、宝蔵に納められた。文書はわずか半日で、整理選別を行わずに箱(函)に入れられている。
 「百合」の「合」は合わせ蓋箱の数詞であり、「百合(100個)の桐箱」の意味になる。ただ現存は、片仮名46箱、平仮名48箱の計94箱になる。ただ、「ナ箱」を納める1合は後補とみられる。「大般若経桐箱」は、大般若経600巻のうち現存の597巻が6合の箱に納められている。桐箱縦39.5×横55.5×高さ78.3㎝。
 近代以降、東京大学史料編纂所で整理・目録作成・影写本の作成などが行われた。1925年から『大日本古文書東寺文書』として刊行されている。現代、1967年、京都府に譲渡される。旧京都府立総合資料館所蔵になり、整理・修理作業が続けられてきた。現在、桐製箪笥92棹に収蔵されている。この間に、図書、マイクロフィルム、デシタル化事業が進められた。
 現代、1980年に重文指定され、1997年、国宝に指定された。2015年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は「世界の記憶(世界記憶遺産)」に登録した。
 ◈「琵琶湖博物館所蔵の東寺文書」は、「東寺文書(107通)7巻、3冊、94通」(重文)になる。中世の古文書の一部であり、「大谷雅彦氏所蔵文書」(1949年に氏により整理)として知られ、1996年3月に琵琶湖博物館の所蔵になり、2007年6月に滋賀県指定文化財、2009年7月には重要文化財に指定された。 琵琶湖博物館所蔵の「東寺文書」は、「東寺百合文書」などの一部だったと考えられている。
 1号文書「尼妙蓮譲状」は、江戸時代後期、寛政年間(1789-1801)に松平定信(1758-1829)の命により調査・筆写されたとされる。「白河本」(国立国会図書館所蔵)に写しがあり、寛政年間までは東寺に所蔵されていたとみられる。江戸時代に、御上神社(滋賀県野洲市)の社家・大谷家に移されたとみられる。  
 平安時代後期、1170年より江戸時代前期、1613年までの史資料になる。平安時代1通、鎌倉時代7通、南北朝時代21通、室町時代71通、安土・桃山時代6通、江戸時代1通により構成される。多くは領地に関わるもので、寺内の運営・宗教活動に関わるものも含まれる。院宣(いんぜん)、令旨(りょうじ)、請文(うけぶみ)、内検帳(ないけんちょう)、算用状(さんようじょう)、引付(ひきつけ)、巻数返事(かんずへんじ)などがある。関係地域は京都のほか、近江国、山城国、若狭国、遠江国などになる。なお、1号文書を除いて裏打ち(裏に和紙を貼って厚く丈夫にすること)がなされておらず、中世そのままの形で残されている。
 ◈「教王護国寺文書」(354巻約3000通)は、近代、1937年頃に東寺で確認された。東京大学史料編纂所の目録から漏れたものを一部に含む。東寺の宗教活動・寺史、平安時代以降の政治・経済・社会などの資料がある。
◆鎮守社 ◈「八島神社(八島殿)」の祭神は、東寺の地主神とも、大己貴神(おおなむちのみこと)ともいう。八島社は、大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)に由来する。東寺の創建以前よりこの地に祀られていた。空海は、東寺の伽藍建立に先立ち、この神へ祈願したという。
 ◈「鎮守八幡宮」は、平安時代前期、810年に、平城太上天皇の変(薬子の変)後、第代・嵯峨天皇と空海の相談により宇佐八幡宮が勧請されたという。(『東宝記』)。平城太上天皇の変(薬子の変)は、平安時代前期、809年、第52代・嵯峨天皇(786-842)即位後、平城上皇愛妾・藤原薬子(?-810)は、嵯峨天皇の同母兄・平城上皇(774-824)の再即位のため、兄・仲成(764-810)と図り兵を挙げようとし鎮圧された事件をいう。
 空海が彫ったともいう日本最古の神像・「僧形八幡像」、二尊の「女神像」が安置されている。「男神像(武内宿禰)」が付属している。奈良時代、777年、宇佐八幡神が僧になり、仏法僧に帰依したという神仏習合の伝承に基づいている。戦勝祈願の社として名高く、足利尊氏も祈願に訪れたという。現代、1992年に再建された。
 入母屋造、銅板葺。
◆文学 東寺にまつわる説話も多い。平安時代の『三宝絵詞』『栄花物語』、『今昔物語集』、鎌倉時代『古今著聞集』に、源仲兼を襲う妖怪の話がある。室町時代の謡曲『羅生門』に渡辺綱の鬼退治がある。『御伽草子』では、和泉式部が寺の門前に子を捨てる。『小式部』、『弥兵衛鼠』は、塔に暮らす白鼠の話になる。
◆東寺長者 「東寺長者(とうじの-ちょうじゃ)」は、東寺の長官であり、勅任により平安時代前期、836年に実慧(786-847)が任じられたのを最初とする。後に、仁和寺、大覚寺、三宝院、勧修寺などの門跡から選ばれ、一の長者から四の長者まであった。
◆東寺仏師職 「東寺仏師職(とうじ-ぶっししきし)」は、鎌倉時代前期、1198年に運慶(?-1224)が東寺南大門仁王像を造立した際に、初めて補任された。以後、その系統の慶派の仏師に世襲された。奈良・興福寺仏師職と並ぶ伝統と権威のある仏師職とされた。運慶の子・湛慶(1173-1256)、孫・康円( 1207-?)と続き、江戸時代1689年に没した慶派26代・康祐(?-1689)まで続いた。
◆東寺と伏見稲荷 東寺と伏見稲荷大社(伏見区)には深い関係があり、様々な伝承がある。
 平安時代前期、812年、空海(774-835)は、紀州田辺で異僧(稲荷神の化身)と出遭う。翁は子女を連れ、稲を荷い杉の葉を持って、東寺の南大門を訪れた。空海は老翁に仏法を授け、一行は東寺近く、二階堂の柴守の家(伏見稲荷大社御旅所)に泊まる。823年、空海は稲荷社を当寺の鎮守社とし、稲荷山に鎮座させたという。(『稲荷大明神流記』)。以来、稲荷神は東寺の護法善神とされた。なお、『山城国風土記』逸文には、711年に稲荷社が創祀されたという。
 826年、東寺の五重塔建立の際に、材として東山(稲荷社地近くの東寺杣山とも)の木材24本が伐り出された。稲荷社のご神木も誤って伐採したため、償いとして東寺は稲荷社に位田を与えた。また、第53代・淳和天皇の体調がすぐれないのは、この時、稲荷社の大木を多数伐採したためとされた。朝廷は、勅使を派遣し、稲荷明神に従五位上を授け、平癒の祈祷が行われたという。(『東宝記』『類聚国記』)
 伏見稲荷大社の稲荷祭(5月3日)では、5基の神輿の練る祭列が、東寺の慶賀門で僧侶による饗応を受ける。これは、空海と稲荷神の逸話に由来する。江戸時代には、祭列は南門より入り、金堂前で供物供献、僧による御幣奉献が行われていた。祭礼は、神仏混交期の名残であり、稲荷信仰と真言密教の密接な関係を示している。境内には稲荷神を祀る八嶋社が祀られている。
◆庭園 ◈ 創建当初から庭園はない。ただ、境内にはクス、ケヤキ、エノキ、イチョウの巨木が多い。講堂東に瓢箪池が造られ、五重塔を借景として、八重紅枝垂桜などサクラも多い。また、ツツジ、モミジ、フジ、ハスなどが植えられている。宝蔵周辺の濠にもハスがある。
 ◈ 小子坊には7代目・小川治兵衛(1860-1933)作庭の庭園「澄心苑」がある。中央に大池があり、池周りに刈込、松などの植栽がある。庭越しに蓮華門(国宝)が見える。
◆閼伽井 灌頂院内に井戸「閼伽井(あかい)」がある。井戸は、八坂神社の竜穴、神泉苑とも地下で通じているという。いずれも龍脈にあるという。閼伽井には、神泉苑と同様に善女龍王が祀られている。
 御影供の日(4月21日)には、朱の絵馬「朱馬」3枚が軒に並べで掲げられる。空海が行ったという絵馬占いの故事に因むという。絵馬は前日に、水中より自然に浮かび上がるといわれた。現在は、大僧正が読経のもとで一気に書き上げる。絵馬の出来により3年分(右よりは一昨年、中央は本年、左よりは昨年)の吉凶を占う。朱馬を見た者は、邪気払いになり、金運、家運、勝負運も招くという。
◆発掘調査 ◈平安時代の官営瓦窯である栗栖野瓦窯(くるすの-がよう)で造られた瓦が、創建時の東寺で使われている。
 ◈講堂須弥壇の発掘調査で、創建当初の基壇が見つかった。宝蔵は3間11間で造営されていた。双倉とみられ北半の礎石は残る。慶賀門は鎌倉時代前期、1190年以降に建てられていた。現代、1977年-1979年の調査で主要伽藍の基壇、根石が見つかった。東大門、南大門の雨落溝、基壇、中門礎石、根石、据付痕跡(5間3戸)、金堂東軒廊、東回廊、講堂東軒廊、北回廊、食堂院回廊などの根石、延石、地覆石、北僧房の礎石、根石、経蔵の基壇(南北14m、東西15m)、根石などが見つかった。2012年の調査で平安時代-現代の東面築地痕跡が見つかった。
 ◈現代、2010年の東築地塀解体修理に伴う発掘調査により、東大門の南に造営時の流路が確認された。この流路を埋め立てた後に、9世紀初頭に築地塀が造られていた。その後、東築地塀の位置は現在まで変化していない。
 ◈室町時代-安土・桃山時代、15世紀-16世紀、土一揆、討伐軍双方に度々境内を占拠された。室町時代、1486年には伽藍の多くを焼失している。そのため、東寺、子院、商売人の敷地を囲む大規模な総寺之東構、また濠、柵、櫓、木戸などが構築されていた。現存する濠は境内東、南、北大路門両側に残されている。西側も、2001年の発掘調査により確認された。
◆距離原標 東寺は平安京の南端に位置し、境内西には南北の通りである朱雀大路(道幅80m)が通じていた。東寺より道は南下し、鳥羽の作り道として、鳥羽離宮まで、さらに南西に向かい久我縄手に通じていた。
 平安京の正門である羅城門は、平安時代中期、980年に大風で倒壊し、以来存在しなかった。その後は、東寺南大門が平安京の正門の役割を担った。また、各所に立てられていた「辻の碑」といわれる距離原標には、「従東寺○里」というように、東寺からの距離が換算され示されていた。
◆御霊会 平安時代に御霊会が営まれたのは、平安京の条坊に近い洛外・条坊端の場所が多かった。出雲路・船岡・紫野・衣笠・花園・天安寺・東寺・西寺・城南寺・白川・祇園八坂・神泉苑などの地だった。
 それ以前の平城京では、「道饗祭(みちあえ-の-まつり、四境祭)」があり、6月・12月の晦日に、都の四境(東北・東南・西北・西南)の路上で、疫神に供物を饗応していた。同日に大内裏四隅では、「鎮火祭(ひしずめ-まつり)」が行われており、合わせて「四角四境祭」と呼ばれていた。
◆不思議 東寺、塔頭に周辺に不思議が伝わる。
 「大仏殿写しの金堂」は、金堂が大仏殿の建物を写したもので、正面の屋根が切れている。/「蓮華門」は、不動明王が蓮華座に立ったために呼ばれた。江戸時代には、非倫理的な僧を深夜に、番傘1本を持たせて放逐していた。/「猫の曲り」とは、境内東南角隅の築地に瓦製の白虎の留蓋があり、猫のように見えたことから呼ばれた。猫は魔物とされ、薮地には捨て猫も多く、追剥も出たので魔所、不浄の地とされた。婚礼に関したことは付近を通るのを避けた。1868年に瓦は除かれた。/「逆さ塔」とは、五重塔の東にあった大工の家の節穴から、塔が逆さに映し出されて名物になった。/「竜火」は、諒闇(りょうあん、天皇が父母没後に喪に服する期間)に、五重塔の竜頭が灯ったという。/「蓮池」は、境内東にある。安政の大地震の際に五重塔が傾き、池を掘って安定させた。/「矢の根門」は、足利尊氏直義兄弟が門で新田勢と戦った。/「北面大師」は、御影堂の北向であり、ここに空海が住した。椅子に座る大師像を安置する。/「独鈷松」は、御影堂の近くにあり、空海が唐・青龍寺より三鈷を投げ、この地の松に引っかかったという。/「白蛇」は、境内に棲んだという。/「枕返し」は蓮池の東に寺があり、一室に寝ると起きた現象という。/「文覚の校倉」は、文覚が修理したという。石川五右衛門が中の宝物を盗もうとして果たせなかった。/「灌頂院の井戸」は別項参照。/「細長い大師の像」は、灌頂院の後七日の御修法の際に、家中所蔵の細長く書かれた画像を借りて掲げるという。/「北向地蔵」は、食堂北面にあり、仏画の宝船の版木を刷り節分に出した、厄ツコ祓いの文句があった。
 「土用入りの泥」は、灌頂院の南にある蓮池の泥を、7月土用入の日に足に付けると脚気、足の病に効くといわれた。/「宮本武蔵の抜け穴」は、観智院に宮本武蔵が住み、抜け穴を造ったという。/「猫間の戸」は、観智院の書院南の廊下、東南両端にあった板戸をいう。/「変わった障子」は、観智院に3枚の障子を立てた。
 ほかに、不開の門、胞衣の不動さん、歯痛の神様などがあった。
◆碑・石など ◈毘沙門堂の西に「仏頂尊勝陀羅尼」碑が立つ。北に厄災を除く呪文が放射状に梵字で彫られている。左右に幕末の画家・冷泉為恭(1823-1864)による雲龍図が描かれている。
 比叡山延暦寺の僧で千日回峰行を行った願海(1823-1873)は、当初、江戸時代後期、1853年に北野天満宮境内に碑を建立した。近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により東寺に移された。碑の周囲を回り、台座の亀の像(亀趺)の亀の頭、手足に触れ、患部を触ると病平癒するという。
 
◈「天降石」は、古くより境内にあったという。江戸時代には、護法石、五宝石、不動石などと呼ばれた。その後、天降石、また撫石と呼ばれ、石を撫でた手で患部を摩ると完治するという。
 ◈宝蔵手前の蓮池に、石橋に「蛙石」が置かれ、3匹の蛙が刻まれている。
◆四国八十八箇所 近代以前には四国八十八箇所の巡礼の前に、「京都三弘法まいり」が行われていた。弘法大師空海ゆかりの京都三弘法の東寺御影堂、仁和寺、神光院を、弘法さんの縁日(毎月21日)に巡礼する。江戸時代中期に始まった。四国八十八箇所霊場に詣る際にも、道中無事祈願のために、まず東寺で菅笠、仁和寺で金剛杖、神光寺で納札箱をそれぞれ求め、四国へ旅立った。お礼参りのためにも巡った。近代、1868年の神仏分離令後廃絶したが、2012年に復活した。
◆京都十三仏霊場めぐり 大日如来(十三回忌)は京都十三仏霊場めぐりの第12番札所になっている。室町時代、8代将軍・足利義政が歴代将軍の供養を十三仏に祈願したことから始まったという。また、貴族にはそれ以前よりの信仰があったともいう。十三仏とは中陰法要、年忌法要の際の十三体の仏・菩薩をいう。中陰法要は、葬儀後、初七日の不動明王、二十七日の釈迦如来、三十七日の文殊菩薩、四十七日の普賢菩薩、五十七日の地蔵菩薩、六十七日の弥勒菩薩、七十七日の薬師如来とあり、これらを終えた満中陰により新たな生を受け、続いて百日の観音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来、七回忌の阿閦如来、十三回忌の大日如来、三十三回忌の虚空蔵菩薩と追善法要が続く。
◆都七福神まいり 室町時代、京都では民間信仰として七福神信仰が始まったとされ、都七福神は最も古い歴史がある。恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、寿老人、福禄寿の七神の信仰があり、その後、各地に広まったという。
 現在の都七福神は、京都恵比須神社の恵比須神、松ヶ崎大黒天妙圓寺の大黒天、六波羅蜜寺の弁財天、東寺の毘沙門天、萬福寺の布袋尊、赤山禅院の福禄寿、革堂(行願寺)の寿老人になっている。福がもたらされるという正月の参詣と毎月7日の縁日がある。
◆洛陽五智如来
 「洛陽五智如来」は、千本釈迦堂の釈迦如来(上京区)、親縁寺の大日如来(上京区)、西正寺の宝生如来(上京区)、教善寺の阿閦如来(上京区)、東寺・五重塔の阿弥陀如来(南区)の5カ寺になる。
◆櫛笥小路 「櫛笥小路(くしげ-こうじ)」は、東寺の食堂北側にある北大門から北総門までの参道をいう。
 平安時代以来、当時と同じ道幅で残る京都市内で唯一の小路という。
◆京の七口 「京の七口」の一つ東寺口は、南に開き、西国街道に通じた。現在の南区唐橋大宮尻町付近に開けられていた。鳥羽、小枝橋、淀、橋本と下る。中世には京都攻略の戦略地になった。近世には河内、摂津、播磨へ向った。9つもの道筋があったともいう。
 「京の七口」について「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
◆茶屋 室町時代、東寺の南大門前に、茶売商人が茶を提供して商いをしていたという。茶屋(喫茶店)の原形になるとされる。室町時代前期、1403年の「東寺百合文書」に記されている。
 「一服一銭(銭は抹茶の分量の単位)」と呼ばれ、縁日に茶道具で抹茶を点て、1杯1文で売り大儲けしたという。
◆名物 東門近くにある「東寺餅」(南区東寺東門上ル)は、近代、1912年の創業になる。求肥でこし餡を包む。亥の子餅は、餅皮にニッキを含む。旧暦10月亥日亥刻に食すると病除け、子孫繁栄になると伝えられている。
◆東寺蕪 かつて東寺付近の農家で「東寺蕪」が栽培されていた。安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、近江で栽培されていた近江蕪の系統ともいう。葉は薄緑色、根は平たく、肉質は緻密だったという。千枚漬に用いられた。昭和50年代(1975-1984)に絶滅している。
◆京の水藍 中世より東寺から上鳥羽辺りまでの湿地・水田では、高級品種の「京の水藍(きょう-の-みずあい)」と呼ばれる藍が栽培されていた。海外では「ジャパンブルー」と呼ばれ高い評価を得ていた。近代、1922年頃から化学染料の輸入、戦争などにより生産が途絶える。 
 近年、この白花小上粉(しろばな-こじょう-こ)の種子が、徳島に伝わっていたことが判明した。現在は、京都亀岡などで藍の栽培・藍染の復元の試みが行われている。
◆御土居 安土・桃山時代、1591年に豊臣秀吉は御土居を築造した。東寺境内の南側門前にも、土塁・堀が東西方向にあった。五重塔の南側付近だけは「塔ノ前切戸」と呼ばれ道が開いていた。
 近代、明治期(1868-1912)初期に、土塁は茶畑・桑畑として活用される。その後、九条通(国道一号線)として整備され御土居は消失する。
◆樹木 弁財天近くにクスノキ、南大門手前九条通にクロガネモチ、金堂近くにケヤキ、小子房庭園・奥の院遥拝所にコウヤマキ、八嶋社近くにサカキ、モッコク、ほかにシダレザクラ、ベニシダレザクラ、大師堂近くにツクバネガシがある。
 蓮池畔に小野道風ゆかりの柳がある。歌舞伎「小野道風青柳硯 柳ヶ池蛙飛の場」に因む。
◆宿坊 宿坊旅館「洛南会館」に宿泊できる。 075-691-3101
◆映画
 時代劇映画「鞍馬天狗 角兵衛獅子」(監督・大曽根辰夫、1951年、松竹京都)の撮影が境内で行われた。鞍馬天狗(嵐寛寿郎)は近藤勇(月形龍之介)と決闘する。
◆アニメ ◈ドラマCD『がんばれ!消えるな!!色素薄子さん』(原作・水月とーこ、2010年10月)に東寺の五重塔が登場する。
 ◈アニメーション『京騒戯画』(原作・東堂いづみ、監督・松本理恵、制作・東映アニメーション、第1弾2011年12月、第2弾2012年8月-12月、第1弾全1話・第2弾全5話)の舞台になった。五重塔などが登場する。
◆主な行事 ◈秘法「後七日御修法(ごしちにちみしほ/のみしゅほう)」(1月8日-14日)は、灌頂院(かんじょういん)で営まれる真言宗の最重要、最大の正月儀礼であり、真言宗十八本山が集い、天皇の御衣を迎えて儀式が始められる。「玉体安泰、国家安泰、五穀豊穣」などを祈る。かつて、宮中真言院での節会(元日-7日)の後に行われた。真言院御修法、後七日法ともいう。
 平安時代前期、834年、空海は勅命により大内裏中務省で始め、空海が上奏した。同年に唐にならい、宮中に真言院が造立される。835年から恒例として行われ、東寺一の長者が導師を勤め天皇の体に直接加持した。金胎(金剛界、胎蔵界両部の法を隔年交互に勤修した。戦国時代、近代、1871 年頃に一時廃される。1882年に再び勅許を得て、以後、東寺で行われるようになった。
 ◈「生身供(しょうじんく)」 [御影堂] (毎日早朝6時)は、鎌倉時代中期、1243年に皇女・宣陽門院の見た霊夢以後、空海に生前と同じく朝食(一の膳、二の膳、お茶)を捧げる儀式が始まった。大日堂での法要後、空海が持ち帰った仏舎利を頭と両手に授けられる。
 ◈法会「御影供の日」(毎月21日)は、かつて旧3月、現在は4月21日開祖弘法大師の忌日に行なわれる。西院御影堂(大師堂)に大師の像を開扉して供養する。宣陽門院により創始された。
 この日、境内に骨董市が立ち、「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。特に、師走の風物詩「終い弘法」(12月21日)は最も賑わう。市は、御影供の法要に参拝した人々のための茶屋「一銭一服」が源流にある。
◆年間行事 初詣・大般若供[大日堂](1月1日)、新春特別拝観(1月1日-1月初旬)、修正会(厄除けの御宝印を祈願し、講堂の須弥壇、堂内の柱、僧の頭に御宝印を押していく。その後、講堂の西側で御宝印を授けられる。)[大日堂](1月3日)、八幡神護摩供・五重塔公開・骨董市(1月1日-4日)、後七日御修会(みしほ)(1月8日-14日)、「京の冬の旅」五重塔特別拝観(1月中旬-3月下旬)、初弘法・御影供 [大日堂]・回向法要 [大日堂]・八幡宮護摩供 [鎮守八幡宮](1月21日)、講堂修正会 [講堂](1月28日)、星祭り(節分会)[大日堂](2月3日)、涅槃会 (釈迦の法要)[大日堂](2月15日)、講堂修正会 [講堂]( 厄除けの御宝印を祈願し、講堂の須弥壇、堂内の柱、僧の頭に御宝印を押す。講堂の西側で御宝印を授与される。)(1月28日)、人類平安・地球安泰・護摩祈願法要 [鎮守八幡宮](3月15日)、夜桜ライトアップ(3月中旬-4月中旬)、春の彼岸会 [大日堂](3月18日-24日)、春期特別公開(3月20日-5月25日)、献米法要 [大日堂・境内特設会場](4月14日)、正御影供(空海に報恩感謝する法要、大日堂に上がれる。灌頂院閼伽井、絵馬を公開し、馬の体躯により経済の成長や豊作を占う。)(4月21日)、春期特別公開(4月下旬-5月下旬)、五重塔特別公開(4月29日-5月25日)、稲荷還幸祭 [慶賀門](伏見稲荷の神を出迎えする。当日、5基の神輿、供奉列が到着し、市内巡行する。)(5月3日)、春期特別公開(五重塔初層特別公開)(5月下旬-9月中旬)、弘法大師降誕会 [大日堂]・おさなごのつどい [講堂北側](6月15日)、精霊会 [大日堂](8月12日)、盂蘭盆会[大日堂](8月13日-15日)、万燈会・盆踊り大会 [大日堂](8月15日)、秋の彼岸会 [大日堂](9月20日-9月26日)、秋の特別公開(9月20日-11月25日)、秋期特別公開(10月下旬-11月下旬)、五重塔初層特別公開(10月下旬-12月初旬)、お火焚き法要 [鎮守八幡宮](11月15日)、秋期特別公開(五重塔初層特別公開)(11月下旬-12月上旬)、紅葉ライトアップと金堂・講堂夜間特別拝観(12月初旬-12月下旬)、終い弘法(御影供)(12月21日)。
 生身供(しょうじんぐ)[御影堂](毎朝6時)。大般若供(600巻の大般若経を転読する)[大日堂](毎月1日)、布薩会(僧とともに日々の生活を反省する)[大日堂](4月・5月・7月・9月・10月・12月の15日)、都七福神めぐりの縁日(毎月7日)。お逮夜(空海没日の前日の法要)[仮御影堂](毎月20日)、御影供(弘法市)・八幡神護摩供(食堂で四国八十八ヶ所巡礼を再現したお砂踏み。この時、厨子内の弘法大師坐像が開扉されている。)(毎月21日)、京都三弘法まいりの縁日(毎月21日)。骨董市(毎月第1日曜日)。


*建物内は大部分が撮影禁止。
*年間行事は変更中止の可能性があります。非公開の建物などもあります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『旧版 古寺巡礼京都 1 東寺』、『古寺巡礼 京都 1 東寺』、『日本の古代遺跡28京都Ⅱ』、『拝観の手引』、『伏見の歴史と文化』、『仏像』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都・世界遺産手帳 11 東寺』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都』、『歴代天皇125代総覧』、『寺社建築の鑑賞基礎知識』、『社寺』、『京都市文化財ブックス28集 平安京』、『京都の仏像』、『古都の美をめぐる』、『京都の仏像 入門』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『絶対に訪ねたい!京都の仏像』、『京都傑作美仏大全』、『歴史のなかの宗教 日本の寺院』、『国宝への旅 1』、『史跡探訪 京の七口』、『洛中洛外』、『京都まちかど遺産めぐり』、『京都はじまり物語』、『京都で日本美術をみる』、『京の寺 不思議見聞録』、『京都の寺社505を歩く 下』、『新選組大事典』、『新選組と幕末の京都』、『平成28年第52回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』、『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』、『京都観音めぐり洛陽三十三所の寺宝』、『増補 平安京 音の宇宙』、『世界遺産のツボを歩く』、「東寺百合文書展 文書の解説」、『京都の地名検証 3』、『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』、『掘り出された京都』、『御土居堀ものがたり』、『京都 神社と寺院の森』、『京の福神めぐり』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『こころ美しく京のお寺で修行体験』、『京の福神めぐり』、『京都の隠れた御朱印ブック』、『週刊 仏教新発見 9 東寺』、『週刊 古寺を巡る 3 東寺』、『週刊 京都を歩く 7東寺周辺』、『週刊 古社名刹巡拝の旅 26 吉田山と白川』、『週刊 日本の仏像第4号 東寺[1] 不動明王と立体曼荼羅』、『週刊 日本の仏像第33号 東寺[2]兜跋毘沙門天と宝物館の至宝』、『建築家秀吉』、『京の冬の旅 2021 -別冊旅の手帖』、『京都の災害をめぐる』、京都市平安京創生館、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「東寺」、ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、ウェブサイト「東京大学史料編纂所」 、ウェブサイト「京都府立京都学・歴彩館」 、ウェブサイト「琵琶湖博物館所蔵」、ウェブサイト「アニメ旅」、ウェブサイト「京都市消防局」、ウェブサイト「介護アンテナ」、ウェブサイト「コトバンク」


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東京大学史料編纂所 琵琶湖博物館所蔵「東寺文書」
京都府立京都学・歴彩館 東寺百合文書
map 東寺 〒601-8473 京都市南区九条町 075-691-3325 8:30-17:30(9月20日-3月19日、8:30-16:30)

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