大慈院 〔大徳寺〕 (京都市北区)
Daiji-in Temple
大慈院 大慈院 
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 大徳寺境内のほぼ中央に大慈院(だいじいん)がある。 
 臨済宗大徳寺派。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1591年、天正年中(1573-1592)とも、天叔宗眼(てんしゅく そうげん)を開祖とする。檀越は大友義鎮(宗麟)の娘・見性院(姉とも)、織田信長女兄(姉)・安養院、村上周防守義明、山口左馬頭弘定などによるという。
 2世・藍溪宗瑛(1570-1658)の時、金屋宗知は昭堂を建立した。左京亮は池泉を整備し、廟を建てる。
 江戸時代、1830年、文政の大地震により倒壊する。
 1847年、古材により縮小して再建された。
 近代、1928年、実業家・山口玄洞は、芦屋の茶室「頓庵」を移す。
◆天叔宗眼 安土・桃山時代-江戸時代の臨済宗の僧・天叔宗眼(てんしゅく そうげん、1532-1620)。丹後の生まれ。怡雲宗悦の法嗣。1585年、大徳寺129世、1586年、大徳寺再住。1591年、大徳寺・大慈院を創建する。1615年、徳川家康の問答を受ける。1612年、「仏国大安禅師」の諡号を受けた。大慈院に塔された。
◆見性院 室町時代-安土・桃山時代の女性・見性院(けんしょういん、? -1586)。詳細不明。大友義鎮(宗麟)の娘、姉とも。1591年、大徳寺・大慈院の開基になる。
◆藍溪宗瑛 安土・桃山時代-江戸時代の臨済宗の僧・藍溪宗瑛(らんけい そうえい、1570-1658)。近江の生まれ。1607年、天叔宗眼から印可を受け、藍溪の法名を付与され、法嗣となる。1608年、大徳寺152世、1610年、大徳寺に再住する。1635年、「大規綱宗禅師」の諡号を贈られた。
◆雪庵宗圭 安土・桃山時代-江戸時代の臨済宗の僧・雪庵宗圭(1597-1675)。京都の生まれ。藍溪宗瑛の法嗣。1648年、大徳寺182世。碧玉庵に住した。大徳寺・以春庵の開祖、近江・龍水庵を開創する。1675年、「大珠法光禅師」の諡号を受けた。
◆立花宗茂 安土・桃山時代-江戸時代初期の武将、大名・立花宗茂(たちばな むねしげ、1567-1643)。大友氏の重臣・吉弘鎮理の長男という。後に大友氏の家臣・戸次鑑連(道雪)の養子。1581年、嘉麻・穂波の戦いで初陣を飾る。1582年、岩戸の戦、1583年、吉原口防戦、1586年、岩屋城の戦に参加、豊臣秀吉の九州征伐後、その功により筑後柳川に所領を得、直臣大名となる。1587年、肥後国・国人一揆鎮圧。1588年、上洛し、従五位下・侍従に叙任され、秀吉より羽柴の名字、豊臣姓(本姓)を与えられる。1590年、小田原征伐、1592年、文禄の役、1597年、慶長の役で活躍、1600年、関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗し改易により浪人となる。1603年、江戸で徳川秀忠の御伽衆に列せられ、陸奥棚倉に所領を得て大名に復した。1614-1615年、大坂の陣、1620年、筑後柳川旧領を復した。相伴衆として秀忠・家光に近侍。1637年、島原の乱に参加、1638年、家督を譲り剃髪した。墓は福岡の福巖寺にある。
◆藤村庸軒 江戸時代前期の茶人・藤村庸軒(ふじむら ようけん、1613-1699)。詳細不明。久田家初代・宗栄の次男、呉服商十二屋の藤村家に養子に入るともいう。西洞院下立売に住む。藪内紹智、小堀遠州、金森重近(宗和)、兄嫁が千宗旦の娘であり、宗旦にも茶を習い宗旦四天王の一人に数えられた。儒者・茶人・三宅亡羊、儒者・山崎闇斎にも学ぶ。茶道具を創案し、好みの茶室として金戒光明寺・西翁院の「澱看席」、北村幽庵との合作した近江堅田・居初(いそめ)氏邸内の「天然図画亭」などが現存する。茶道庸軒流の祖。
 漢詩人としても知られ、漢詩集『庸軒詩集』、庸軒の口述、女婿の久須美疎安が著した『茶話指月集』がある。墓は黒谷山と大徳寺・大慈院にある。
◆辻蘭室 江戸時代後期の蘭学者・辻蘭室(つじ らんしつ、1756-1836)。京都生まれ。父は医師・村田玄隆の次男。辻章典の養子。公家・久我(こが)家内大臣の諸太夫。1830年、出羽守。大槻玄沢に書簡で教えを受けた。独学で蘭語を学び先駆者のひとりになる。著作に「蘭語八箋」40冊があり、地理、医術、言語、数量など多岐にわたる。墓は大徳寺・大慈院にある。
◆山口玄洞 近代の実業家・山口玄洞(やまぐち げんどう、1863-1937)。広島県の生まれ。医業と副業の醤油販売業・山口寿安の長男。1871年、9歳で愛媛の漢学塾「知新館」に学ぶ。1877年、父急死により、尾道で行商を始める。1878年、大阪の洋反物店「土居善」に丁稚奉公に出る。1881年、倒産により鳥取で商う。1882年、大阪で洋反物仲買「山口商店」を開業し、輸入織物のモスリンを扱い成功する。1896年、山口家4代目として玄洞を襲名した。1904年-1906年、高額納税者のため貴族院勅任議員に互選される。三十四銀行取締役、大阪織物同業組合初代組長、大日本紡績(現ユニチカ)・大阪商事などの役職を兼ねる。1917年、引退し、京都の本邸で隠居、仏教を篤く信仰する。資産の多くを公共・慈善事業、寺社に寄付し、表千家も後援した。墓は大徳寺・龍翔寺、尾道の西國寺にある。
◆茶室 茶室「頓庵(とんあん)」がある。1928年、実業家・山口玄洞が芦屋より移した。裏千家13代・円能斎(1872-1924)好みの四畳半になる。移築に際して表千家12代・惺斎(1863-1937)により露地、一間床、琵琶床が新たに付された。長四畳、六畳の寄付。
◆文化財 藍渓宗英撰、大仲宗い筆の賛、土佐光起筆「立花宗茂肖像」がある。子庵の碧玉庵が廃され際に当院に移された。
◆障壁画 書院の障壁画は長谷川等伯(1539-1610)筆の花鳥山水で飾られていた。その後、明治期に散逸した。
◆寮舎・子庵 寮舎の以春庵は、安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、雪庵宗圭を開基として、碧玉庵の庫裡東に建てられた。江戸時代、寛政年間(1789-1801)に廃された。
 寮舎の単丁庵は、江戸時代、寛文年間(1789-1801)に創建された。
 子庵の聯芳庵は、檀越・佐野常由が大慈院南に建立した。
 子庵の碧玉庵は、安土・桃山時代、天正年間(1570-1658)、藍溪宗瑛が大慈院寮舎として建立した。江戸時代、寛永年間(1624-1644)、天瑞寺の西に碧玉軒として改められ、雪庵宗圭に付与された。主唱者は金屋宗長の寡婦、後、柳川藩主・立花宗茂(1567-1643)が檀越になり、墳墓を設けた。南派独住の准塔頭になる。なお、後山に紫式部碑碣(ひけつ)が立てられていたという。「碑」は方形、「碣」は円柱形のものをいう。碑は、江戸時代、1795年に紫野御所田町の式部の墓の傍らに建立する予定だったが、碧玉庵に建立された。近代、同庵が廃された際に、大慈院内に移されたという。この時、立花宗茂の位牌、墓石、肖像画も移れた。碑は、現在、本堂前庭に立つ。
◆墓 江戸時代前期の茶人・藤村庸軒(ふじむら ようけん、1613-1699)、蘭学・辻蘭室の墓がある。
◆滞在型文化体験プログラム 2016年より、観光客向けの滞在型文化体験「いろはにほん(Experience the Soul of Japan 、非公開寺院滞在型文化体験・文化財保護プログラム)」を行う。日本財団、NPO法人京都文化協会、ハイアットリージェンシー京都が連携企画した。寺院に1泊2日で宿泊し、坐禅、読経、茶礼体験、住職との対話などを行う。当初は外国人を対象とし、将来的には日本人にも対応する。
◆精進料理 境内で精進鉄鉢料理「泉仙(いづせん)」が営業しており、料理が供される。托鉢に使う鉄鉢をかたどった器を用いている。休業は12月29-31日 075-491-6665
◆年間行事 日曜坐禅(毎日曜日)、観音講(毎月18日)。


*普段は非公開
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』『紫野大徳寺の歴史と文化』『京都・紫野大徳寺僧の略歴』『増補版 京都の医史跡探訪』『こころ美しく京のお寺で修行体験』


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大慈院 〒603-8231 京都市北区紫野大徳寺町4-1  075-492-2958 
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