綱敷行衛天満宮  (京都市下京区)
Tsunashikiyukie-temmangu Temple

   Home






 綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえ てんまんぐう)は南面して建つ。
 祭神は菅原道真であり、御霊社になる。松尾大社の境外末社。
 洛陽天満宮二十五社の一つ。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷については不明。
 平安時代、901年、菅原道真の左遷の際に、博多に上陸した道真のために、船の綱を敷いて御座としたことから綱敷の社名になったという。
 近年、西にあった行衛天満宮と合併し、綱敷行衛天満宮と改めた。
◆菅原道真 平安時代前期の公卿、文章博士、歌人の菅原道真(すがわら の みちざね、845-903)は、菅原是 善の3男に生まれた。第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇に重用される。894年、遣唐大使に任命されるが、その中止を建議した。右大臣(899) となり、左大臣・藤原時平の讒言(告げ口)により、大宰権帥に左遷され、都に戻ることなく大宰府で没した。
 903年に道真が政治的な謀略により左遷され大宰府で亡くなると、その後約50年都では、旱、疫病(疱瘡)、月食、大彗星、地震、天候不順などが続いた。
 道真の政敵・藤原菅根、藤原時平の死(909)、左遷を命じた醍醐天皇の皇太子保明親王の死(923)、清涼殿落雷(930)による藤原清貴、平希世の死、醍醐天皇自身の死(930)が相次いだ。これらの異変は、道真の怨霊の仕業と怖れられた。
◆多治比文子
 平安時代の巫女で、菅原道真の乳母ともいう多治比文子(たじひ の あやこ、生没年不詳)は、平 安京の右京七条二坊十三町に住し、942年、天神(菅原道真)により北野に社殿を建て祭祀するようにとの託宣を受けたという。文子は邸内に仮の祠を祭祀し た。947年に北野に遷座し、同年、近江・比良の神官良種の子にも託宣があり、朝日寺の僧・最珍(鎮)らと共に霊祠を造営した。北野天満宮創始者。
◆伝承 菅原道真が左遷された際にやむなく船の綱を御座とした。道真が博多に上陸すると一夜にして白髪に転じたという。人々はその姿を写し、網敷像、一夜白髪の御影と呼んだ。
 社は、その神像(綱敷天神像、一夜白髪の御影)を祀ったことに始まるという。
◆行衛天満宮 合祀されている行衛(ゆきえ)天満宮は、道真の乳母・多治比文子(たじひのあやこ)の旧宅に因み創祀されたという。文子の家は、右京七条二坊にあり、西靱負(にしゆきえ)小路七条(七条通西大路東入る、西七条西野町北部)にあたる。この地に、行衛天満宮が祀られたという。
 行衛天満宮の行衛(ゆきえ)は、当宮がかつて右京西靱負(にしゆきえ/にしゆげい)小路に面していたことによる。靱負(ゆげい/ゆきえ)とは、矢を納める武具である靱(ゆき)を身に付けた武人を意味した。靱に矢を入れる際には鏃を上にしていた。
 西靱負小路は猪隅通(現在の御前通)とも呼ばれ、道真はこの道を使い吉祥院に通っていたという。なお、北野天満宮、当社、吉祥院の3社は御前通を結び北より南へ直線上に建てられている。
 

*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都大事典』『大学的京都ガイド こだわりの歩き方』


  関連・周辺      関連北野天満宮      関連松尾大社     関連文子天満宮(下京区)       関連文子天満宮旧跡・旧社地(北野天満宮御旅所)(上京区)       周辺         
覆屋
本殿

本殿

本殿

本殿

右より末吉大明神、白太夫大神を祀る。

不明

手水舎
 綱敷行衛天満宮 〒600-8871 京都市下京区西七条北東野町4 
50音索引  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp