双林寺 (京都市東山区)
Sorin-ji Temple
双林寺 双林寺
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「真葛ヶ原 楠弁財尊天」の石碑、この付近一帯の原野をかつては真葛ヶ原といった。現在の円山公園を挟んで、北は知恩院三門前、南は双林寺、東山山麓一帯を指した。かつて、真葛や薄、茅などが生い茂り、萩の名所だったという。中世以降、双林寺境内は桜の名所として知られるようになる。


本堂(薬師堂)


「薬師如来 大聖歓喜天」の扁額


本堂









春日燈籠、六尺



草屋



十三重石塔



伝教大師童形像、1953年来、少年補導所前庭にあった。2010年に移された。伝教大師遺訓に、生来、子を打ったこともなく、抓ったこともなかったという大師に倣ったためという。
 双林寺(そうりんじ、雙林寺)は、円山公園の南に建つ。現在は本堂と飛地境内に西行堂のみを残している。 
 正式には霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院という。沙羅双樹林寺とは、この地が唐の沙羅双樹林寺に似ていたことに因むという。山号は金玉山ともいう。
 天台宗、本尊は薬師如来と歓喜天を安置する。
 東山薬師は京都十二薬師霊場会第7番札所。
◆歴史年表 平安時代、805年、最澄が唐より持ち帰った経巻・仏具を第50代・桓武天皇に献上した。天皇は、左大使・尾張連定鑑(おわりむらじさだみ)に勅して、この地に伽藍を創建させた。寺には経典などを置き、日本初の護摩祈祷道場とした。霊鷲山沙羅双樹林寺と称し、当初は天台宗だった。
 823年、比叡山延暦寺建立後はその別院となる。
 1141年、永治年間(1141-1142)とも、第74代・鳥羽天皇皇女・綾雲(あや)女王が住持となる。双林寺宮と呼ばれた。
 鎌倉時代まで、数万坪ともいわれる広大な寺領に、17の塔頭があった。
 1196年、第83代・土御門天皇皇子の静仁法親王が得度し、双林寺宮と称したという。
 南北朝時代、1335年、足利尊氏と新田義貞の戦により荒廃した。
 1384年、至徳年間(1384-1387)とも、住持の勝行が時宗の国阿に寺を譲り、再興される。以後、時宗国阿派(双林寺派国阿派)の本山東山道場となり、中霊山ともいわれた。
 1386年、北朝第6代、歴代第100代・後小松天皇の帰依により、「金玉山」の宸額を贈られた。
 室町時代、1436年、焼失している。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失し、その後荒廃した。
 安土・桃山時代、1584年、羽柴(豊臣)秀吉が花見の宴を催し、後の豊臣政権五奉行の一人・前田玄以に命じて花樹保護の制札を立てた。
 1585年、秀吉は、朱印地を寄進する。朱印地については、後の徳川氏も安堵(公認)している。秀吉により本堂が再建された。
 1589年、秀吉は、朱印地を寄進した。
 江戸時代、1605年、高台寺建立に伴い、寺領が縮小された。
 1653年、東大谷廟の造営に伴い、寺領が縮小されている。
 1678年、円山の双林寺、長楽寺などは、「遊人の旅飯出して業とす寺家」となる。(『出来齋京土産目録』同年条)
 1784年、池大雅の門人、僧・月峯、凪夜らは、師没後、遺墨品を整理し、双林寺に大雅堂を建立した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈が起こる。
 1886年、円山公園化になる。
 1870年、上知により境内はさらに縮小し、塔頭も廃した。再び天台宗に改宗した。
 1927年、円山音楽堂の建設により境内が縮小した。
 現代、2012年、平安時代に始まったという京都十二薬師霊場めぐりが復活する。
◆最澄  平安時代前期の僧・最澄(767/766‐822)。幼名は広野。近江(坂本の生源寺付近)に生まれた。父は中国からの渡来系豪族の子孫で三津首百枝(おびとももえ、浄足)、母は藤原藤子(妙徳)という。778年、12歳の時、出家、近江・国分寺で行表(ぎょうほう)に師事、780年、国分寺で得度し最澄と名乗る。785年19歳で東大寺で受戒(具足戒・小乗戒)するが、同年、比叡山大嶺山中(本願堂付近)に草庵を結び、願文を作る。禅を修め、12年間にわたり修行を積んだ。天台三大部摩訶止観、法華玄義、法華文句を修めた。788年、草庵の近くに小堂「一乗止観院」を建て、薬師如来を祀る。797年、内供奉十禅師に任命される。798年、比叡山で法華十講を修する。801年、比叡山に奈良十大徳を招き法華十講を修した。802年、和気弘世主催により、神護寺で5か月にわたる天台の教え「天台三部」を説いた。第50代・桓武天皇の信任、帰依を受ける。803年、短期の還学生(げんがくしょう)として、唐に渡航することが認められた。804年、遣唐使として義真を伴い、留学僧・空海(774-835)らと唐に渡る。霊地・天台山で、天台大師智顗(ちぎ)直系の天台山修禅寺・道邃(どうずい、?-805)より天台教学と大乗菩薩戒、仏ろう寺・行満座主より天台教学を、越州(紹興)の龍興寺で、順暁阿闍梨より密教を、しゅく然禅師より牛頭禅を学び、天台、密教、禅、戒を修した。805年、帰国し、多数の天台典籍、密教の教えを唐より持ち帰る。高雄山寺で日本初の灌頂を行う。宮中で日本初の護摩供を行う。請来された天台密教経疏500巻、護摩の器具を桓武天皇に献上した。天皇は、双林寺を建立し、最澄は開山になる。806年、日本天台宗が公認される。811年、弟子・泰範が空海の弟子となる。最澄は空海から経本を借り密教を学ぶ。812年、空海により灌頂を授けられた。その後、空海とは決別する。814年、九州巡化、815年、東国巡化、817年、徳一との論争が始まる。818年、小乗戒廃棄宣言、六条・八条天台宗年分学生式を制定、819年四条の学生式上奏、822年、中道院で亡くなる。天台宗の祖。
 没後7日後に、大乗戒壇設立の許勅が下りた。以後、奈良の南都仏教から独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようになった。866年、日本最初の大師号、伝教大師の諡号が贈られた。通称は叡山大師、根本大師。
◆双林寺宮 平安時代の鳥羽天皇の皇女・双林寺宮(生没年不詳)。詳細不明。綾雲(あや)女王。綾雲尼、双林寺宮阿夜御前、あや御前。賀陽宮とも。母は紀氏で、石清水別当光清の娘美濃局、高陽院泰子の養女ともいう。1141年双林寺で得度した。
◆静仁法親王 鎌倉時代の土御門天皇皇子・静仁法親王( じょうにんほうしんのう、1216-1296)。第83代・土御門天皇の第4皇子、母は源通子(つうし)。1230年、出家。1244年、親王。第89代・後深草天皇の護持僧、園城寺長吏、熊野三山検校。
◆国阿 鎌倉時代-室町時代の時宗の僧・国阿(こくあ、1314-1405)。播磨・円教寺で当初は天台を修めた。後、託何(たくが)の弟子となり、時宗に転じた。 1383年、京都の正法(しょうぼう)寺、双林寺で布教を行う。霊山派、国阿派の祖。なお、時宗国阿派はその後、正法寺の霊山正法寺派(霊山派)と双林寺の双林寺派(国阿派)に分かれた。
◆平康頼 平安時代末-鎌倉時代前期の武士で歌人・平康頼(生没年不詳)。衛門府官人、検非違使、後白河院近習となる。1177年、平家打倒を企てた鹿ケ谷事件により、俊寛らとともに鬼界ケ島(硫黄島)に流される。その途中で出家した。1179年、帰洛、1186年、源頼朝により阿波国麻殖保の保司に任じられた。
 『平家物語』では、康頼は鬼界ケ島より戻り、東山双林寺辺りの山荘に住み、説話集『宝物集』を著したという。
◆西行 平安時代末期の真言宗の僧・西行(1118-1190)。佐藤義清(のりきよ)。紀州生まれともいう。秀郷流武家藤原氏の出自。父は検非違使の職にあった。16歳頃、徳大寺家に仕え、1135年、兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、1137年、鳥羽院の下北面の武士になる。1140年、妻子を捨て出家、円位、後に西行とも称した。鞍馬山、1144年頃(1147年とも)、奥羽、1149年頃、高野山に庵を結ぶ。1168年、中四国、高野山、1177年、伊勢国二見浦、1186年、東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州、伊勢国の漂泊で多くの歌を詠む。途中、鎌倉で源頼朝に初対面する。1189年、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に庵を結ぶ。当寺で亡くなる。
 平清盛と親交したという。歌人・寂然(藤原為業)、歌人・藤原俊成と親しく、和歌に秀で『新古今和歌集』に94首入集。恋歌が多く鳥羽上皇皇后との禁断の恋に破れたともいう。桜を愛で多くの歌を残す。故実に通じ、武芸、蹴鞠も秀でた。
 当寺に住したという庵は、双林寺の堂傍西方にあったとされる。現在は、本堂南西の飛地境内に西行庵が建てられている。
◆頓阿 南北朝時代の歌人・頓阿(とんあ/とんな、1289-1372)。比叡山で出家、高野山で修行し、後に時衆となる。二条為世門の和歌四天王に数えられた。足利尊氏・直義の信任も厚かったという。歌論書『愚問賢注』(1363)など。
◆本尊
 本尊の「薬師如来坐像」(重文)(85.5㎝)は、平安時代前期の作という。右足上の結跏趺坐、全体として大ぶりの作風になっている。翻波式衣文が際立つ。最澄自作ともいう。天台七仏薬師のひとつに数えられる。木造、一木造、内刳りなし、漆箔、彩色。
 「歓喜天」は、1967年に生駒山宝山寺より勧請された。
◆塔頭 鎌倉時代までは、数万坪ともいわれる広大な寺領に、17の塔頭があった。
 近代以前は、塔頭として妙喜寺(景雲庵後継)、長喜庵、勝林院、蔡華園院、円頓院、発心院、蓮華院、通玄庵、松泉庵などが点在していたという。現在は一つも残っていない。
◆墓 法華塚がある。平安時代、1141年、永治年間(1141-1142)とも、第74代・鳥羽天皇皇女・綾雲(あや)女王が、天皇の没後、その菩提を弔うため宸筆(天皇直筆)の金字8巻を納める法華塔を建立したという。 室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)により、塔は法華経とともに焼失した。その後、その灰を集めて一塊の塚としたという。現在は五輪の塔が立てられている。
 頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔三基がある。三者はこの地に庵住したともいう。塔は、後世、好事家により立てられたものという。
◆月行事 聖天日・十一面観音護摩祈祷(毎月1日)、薬師日・薬師護摩祈祷(毎月8日)、地蔵日(毎月24日)、十一面観音護摩祈祷(毎月第3日曜日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京の石造美術めぐり』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『京都の寺社505を歩く 上』『京の花街ものがたり』『京都の仏像』『日本の名僧』『京都古社寺辞典』

 

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地蔵堂、1872年、追善のために法華塚修繕の際に、土中より見つかった。通りかかった人が、長年の持病平癒を祈願したところ全快したとして、以後、持病平癒地蔵尊として信仰を集める。
現在、堂は境内で営業する石材店に囲まれるようにして建つ。

地蔵堂「持病平癒地蔵尊」の扁額

地蔵堂、地蔵菩薩

左より、頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔、ただ、後世、好事家による建立という。

法華塚

法華塚

西行堂、安土・桃山時代、天正期(1573-1593)、双林寺の塔頭・蔡華園院の跡地に建てられたという。その場所は不明という。江戸時代、1731年に摂津池田・李孟寺の天津禅師により現在地に移され再興された。1770年に公家・歌人の冷泉為村(1712-1774)により修復。堂中央に、為村筆「花月庵」の額が掲げられている。1892年に宮田小文法師により浄妙庵、皆妙庵が移築された。
 双林寺 〒605-0072 京都市東山区下河原鷲尾町527   075-561-5553
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