月輪寺 (京都市右京区) 
Tsukinowa-deraTemple
月輪寺 月輪寺 
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本堂


本堂


本堂


祖師堂


祖師堂。「御三方祖師堂」の扁額


三祖師堂、右から法然、円澄、親鸞の坐像を祀る。


円澄


法然


親鸞


三祖師堂、九条家の紋、


親鸞聖人像


元愛宕大権現



元愛宕大権現



元愛宕大権現、愛宕山にあった白雲寺の愛宕権現(勝軍地蔵)は、当初このお堂に安置され、後に金蔵寺に遷された。




親鸞手植えというしぐれ桜。3代目で樹齢80年余りという。


泣くというしぐれ桜の「涙」
 月輪寺(つきのわでら)は、愛宕山の南東、支峰の大鷲ヶ峰の中腹(標高570m)に位置し、眼下に京都の市街地を望むことができる。
 京中の北東の比叡山とともに、愛宕山(924m)は北西の裏鬼門として位置づけられていた。古くより、黄泉に通じる裏鬼門の寺として、戦勝祈願の寺としても知られていた。山号を鎌倉(けんそう)山という。
 天台宗、本尊は阿弥陀如来立像。
 浄土宗法然上人二十五霊場十八番札所。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 この地は古く、渡来系豪族秦氏の影響があったともいう。
 飛鳥時代、第42代・文武天皇(683-707)の勅願所になったという。
 奈良時代、704年、修験道の僧・泰澄(たいちょう)の開山による。国家鎮護の霊場とされた。
 781年、天応年間(781-782)とも、第49代・光仁天皇の勅を奉じた慶俊(けいしゅん)僧都が、官僚・和気清麻呂とともに愛宕山を中興したという。月輪寺の寺号になり、以後、光仁天皇の勅願所になる。
 平安時代、浄土教の先駆で、天台宗空也派の祖・空也(903-972)が当山で修行し、悟りを開いたという。空也は、念仏道場を開いたという。
 平安時代末期-鎌倉時代初期、浄土宗の開祖・法然(1133-1212)も、当地で専修したという。
 平安時代末期-鎌倉時代初期、公卿・九条兼実(1149-1207)は、この地で法然に帰依し、円澄と号し、隠棲したという。
 鎌倉時代、1207年、専修念仏、六時礼讃の停止になる宗教弾圧事件「承元の法難」により、法然は僧籍剥奪され、讃岐へ5年の流罪になった。弟子・親鸞も僧籍剥奪され、越後直江津へ4年の流罪になる。法然と親鸞は流配の際に、当寺を訪れ、円澄との別れを惜んだ。それぞれの木像を刻み形見にしたという。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、破却の危機になる。以来、無住になる。
 太平洋戦争(1941-1945)中、在家の現住職の祖母が出家し、入寺した。以来、本堂、宝物殿を再建した。
◆月輪寺 泰澄は、和気清麻呂とともに愛宕山を中興したという。その際に、和気清麻呂は、唐の五台(ごだい)山に倣い、五峰それぞれに寺を置いたという。このうち、大鷲峰に開かれたのが月輪寺だった。
 この時、地中から得た宝鏡の裏の銘に、「奇観自在、照体普弥綸、仏祖大円鑑、人天満月輪」と刻まれていたため、月輪寺の寺号になったという。
◆泰澄 奈良時代の修験道の僧・泰澄(たいちょう、682-767)。越前国に、豪族三神安角(みかみのやすずみ)の子として生まれる。越の大徳といわれた。14歳の時に出家し、法澄と名乗る。越智山に上がり、十一面観音を念じて修行を積んだ。702年、第42代・文武天皇により鎮護国家の法師に任じられた。717年、越前国の白山で妙理大菩薩を感得した。719年より、諸国での布教活動を行う。722年、第44代・元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師の号を賜った。737年、疱瘡を鎮め泰澄の戒名と大和尚位を贈られた。
 加賀国(当時越前国)白山を開山し、白山山岳信仰の祖とされる。吉野山、稲荷山、阿蘇山などで奇跡を起こしたという。
◆慶俊 奈良時代の僧・慶俊(けいしゅん/きょうしゅん、生没年不詳)。河内国、渡来系氏族葛井(藤井)氏に生まれた。出家後、大安寺の入唐僧・道慈を師として、三輪、法相、華厳などを学ぶ。華厳講師、753年、法華寺の大鎮となる。第45代・聖武天皇(701-756)の死に際して律師に任じられる。聖武天皇の光明皇后(701-760)、藤原仲麻呂(706-764)と親交あり、仲麻呂政権の崩壊で失脚、その後、律師に返り咲いた。笙の制作者としても知られた。
◆法然 平安時代末期-鎌時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。勢至丸。美作国に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年(1189年とも)、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。
 法然の専修念仏とは、誰もがひたすら祈ることで極楽往生できるとし、既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆九条兼実 平安時代後期-鎌倉時代の公卿・九条兼実(くじょう かねざね、1149-1207)。公卿・藤原忠通の子。九条家の祖。右大臣、摂政、氏長者、太政大臣、関白を歴任し、源頼朝の征夷大将軍宣下を執る。1196年、源通親により失脚、法然に帰依して出家した。
 出家後、月輪寺に閑居したため月輪殿、月輪関白と呼ばれた。また、後法性寺殿とも呼ばれた。
◆明智光秀 安土・桃山時代の武将・明智光秀(あけち みつひで、1528?-1582)。美濃の土岐一族の生まれとされる。越前の朝倉義景、織田信長に仕え、足利義昭にも奉仕した。1568年、信長入京にも関わる。信長と義昭対立の際にも斡旋した。1570年、信長の摂津、近江の出陣以来、各所での戦に関わる。1571年、信長により坂本城を与えられる。1575年、九州の名族惟任姓と日向守を与えられた。1575年、信長に丹波攻略を命じられ、口丹波、亀山、八木、山国を攻略一国支配を認められた。1580年、備中、1581年、因幡鳥取城攻撃の秀吉を助ける。1582年、信長の命による中国攻略中の秀吉支援に反した。1万3000の明智軍は備中に向かわず、亀山城から老ノ坂を経て本能寺を急襲した。信長は自刃、二条御所の信忠も自滅させた。取って返した秀吉との山崎の合戦に敗れ、一旦勝竜寺城に入る。坂本に落ち延びる途中の小栗栖で土民の襲撃によって負傷し自刃した。
 光秀は、本能寺の変(1582)の直前に、愛宕神社を参詣し、戦勝祈願の連歌「愛宕百韻」を詠んだ。また、月輪寺にも参篭し、くじを引いて本能寺へ向ったという。寺には光秀にまつわるというくじがある。光秀手植えという樹齢500年のホンシャクナゲ(市指定天然記念物)も植えられている。
◆仏像・木像 「十一面千手観音立像」(重文)(154㎝)は、宝物殿に安置されている、平安時代初期(8-9世紀)作になる。武将・坂上田村麻呂(758-811)作ともいう。かつて、愛宕連峰の賀蔵山にあったともいう。髻頂に仏頂面衣文が左右対称に表現され、頭上面11面(仏頂面など2面を欠く)になる。相貌は面幅広く、丸く、肌理細かい。蓮華座に立ち腰高の像であり、合掌手、宝珠手を含めて42臂、左右に各19臂の小手を持つ。条帛、裳を着け、天衣は特徴があり幅広く、足元で左右に広がる。衣文は丸味を主とし、小波は少ない。天衣中央下端に二段にわたり花先形に表されている。顔面、耳はノミ目のない仕上げにもかかわらず、後頭部中央より背中中央にかけて、あえて水平方向のノミ跡が残されており、霊木化現仏(れいぼくけげんぶつ、霊木より出現しつつある仏)になる。内刳りはない。後補は少ない。カヤ材、一木造、彩色。
 平安時代初期作の「聖観音立像」、「十一面観音立像」、「伝龍王像」、「善哉王立像」、天台宗の僧・源信(恵心僧都、942-1017)作という「阿弥陀如来坐像」がある。
 「空也上人像」(重文)(119.1㎝)は、鎌倉時代作になる。六波羅蜜寺の空也上人像を範とした。空也が常にに阿弥陀の名号を唱えていたことから、口から六体の化仏を吐き、手に鹿杖、鉦鼓で鉦を叩く姿を表している。
 「九条兼実坐像」(78㎝)は、平安時代後期(12世紀)になる。公卿・九条兼実(1149-1207)が払子を手に取る老僧姿であり、僧形文殊像として造立されたとみられる。
 本堂には、「阿弥陀如来立像」、「弘法大師坐像」、「五大明王像(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)」、「四天王像」が安置されている。
 江戸時代の「法然上人坐像」、「親鸞上人坐像」。
◆建築 三祖師堂は、法然、親鸞、月輪殿(九条兼実)が、形見の木造を自ら刻み三師像として安置したことに因むという。
◆しぐれ桜 親鸞手植えの桜とされる時雨桜がある。白花一重のヤマザクラになる。
 1207年、流罪になった親鸞は、養父・九条兼実を訪ね別れを告げた。この時、自ら携えてきた桜の苗木を本堂前に植えたという。5月、花の終わった後の葉先から水を落す。惜別の際の悲しみから、木が涙を流していると伝えられる。
 実際には、クロスジホソアワフキムシ(カメムシ目<半翅目>、Hemiptera、アワフキムシ科)が葉裏に寄生しており、葉液を吸収し、泡とともに出された分泌物ともいう。
◆ホンシャクナゲ ホンシャクナゲ(京都市指定天然記念物)は、境内の斜面にあり、根元で幹が分れ、株立ちする。10m×8mの範囲に広がり、樹高4m、根元幹周は最大で46cm。 
◆水 境内に湧く「龍奇水(龍女水)」は、空也が清滝龍神から授ったという。空也は、観音のお告げにより、清滝川の龍神を助けた。そのお礼として水を得た。屏風岩から湧く霊水はいまも絶えず、愛宕山で唯一の湧水地になる。 
◆修行体験 座禅・法話(予約により随時)。
◆年間行事 新春護摩(元旦)、しぐれ桜法要(4月16日-5月20日)、永代経(5月5日-7日)、報恩講(10月15日-17日)。


*寺には愛宕神社より尾根筋を下る道と、下道の滝口の登山口より直接、寺を目指す登山道があります。徒歩による参詣しか方法はありません。前者の場合は、愛宕神社参詣後に寺に至り、再び神社側へ引き返して山を下るという無難な選択になります。全体として道は整備されており安全です。後者の登山口より寺に登る場合は、個人差はありますが、1時間以上はかかるでしょう。道はかなり急な坂もあり一部にガレ場もあります。道はわかりやすいのですが、途中に人家はありません。なお、登山口には3台ほど停められる駐車場も確保されています。また、徒歩の場合は、登山口に至るまでの林道は昼でも薄暗く、人家もありません。清滝町-登山口間も一定の距離になります。
*寺の宝物の拝観には事前予約が必要です。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『愛宕山と愛宕詣り』『京都の寺社505を歩く 下』『仏像』『古佛』『京都の仏像』『日本の名僧』『京都隠れた史跡100選』『京都府の歴史散歩 上』『昭和京都名所図会 4 洛西』『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』『意外と知らない京都』『京都大事典』『週刊 日本の仏像第29号 清凉寺国宝釈迦如来』

 
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シャクナゲ、明智光秀手植えという。5株からなる巨大な花株。

龍奇水、境内に湧く。愛宕山で湧水はここにしかないという。

寺地は山腹にあり、崖地に石垣が積まれている。

樹齢1000年という楓の大木

京都市内の眺め、明智光秀はこの地から、本能寺の位置を見定めたという。晴天時には、宇治まで見渡せるという。

寺に至る山道、下の道からは40分以上の急な登り道が続く。

参道途中の身助地蔵、「霊水奇蹟之地」という。
 月輪寺 〒616-0000 京都市右京区嵯峨清滝月輪町7  075-871-1376
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