空也滝 (京都市右京区)
Kuya-taki waterfall
空也滝 空也滝
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滝の高さは15mとも12mともいう。瀑風が起きている。






滝壺の周辺には、さまざまな神仏像が祀られている。
 「空也」の扁額が掛る鳥居の奥に、高さ15mの滝が現れる。堂承川支流の水量豊かな瀑布であり、つねに激しい瀑風が吹いている。 
 滝は「空也滝(くうや たき)」「空也の滝」とよばれ、時折、参詣者が訪れ、修行者の行場となっている。清浄な水が流れていることから、清滝の地名由来になったともいう。
◆歴史年表 飛鳥時代、役行者(えん の ぎょうじゃ、634?-701?)が滝を開いたともいう。
 平安時代中期、嵐山に居を構えた空也(くうや/こうや、903-972)が、月輪寺より滝を訪れ、霊場として開いたともいう。(『河海抄』)
 室町時代、細川幽斎(ほそかわ ゆうさい、藤孝、1534-1610)が、愛宕参詣の折に月輪寺より日暮滝(寒蝉滝)を訪れ、「昨日今日秋くるからに日ぐらしの声打ちそふる滝のしら浪」(『衆妙集』秋部)と詠んだ。  
◆役行者
 飛鳥時代の伝説的な修験道開祖・役行者(えん の ぎょうじゃ、634?-701?)。詳細不明。大和国に生まれた。賀茂一族(高賀茂朝臣)の出身ともいう。役小角(えんのおづぬ)、役の優婆塞(うばそく)とも呼ばれる。生駒山、葛城山、大峰、熊野で修行した。吉野金峰山、大峰を開く。699年、弟子・韓国連広足に密告され伊豆国に流罪にされる。701年、赦された。数多くの呪術的な伝承が残され、修験道と結びついた。富士山、九州の山々で苦行し、前鬼、後鬼の二鬼を従えたという。
 後世、江戸時代、1799年、朝廷より神変大菩薩の諡号が贈られた。
◆空也 平安時代中期の浄土教の僧・空也(くうや、903-972)。詳細不明。第60代・醍醐天皇の第2皇子として生まれたともいう。寺を持たず常に市井にあったことから、市聖(いちのひじり)、弘也、阿弥陀聖、市上人とも呼ばれた。幼少より在家の優婆塞(うばそく)として全国を遍歴した。919年、17歳で市中の遺骸を念仏を唱えながら埋葬した。924年、尾張・国分寺で出家し沙弥空也と名乗る。播磨、奥州、四国で修行し、934年、奥羽にも布教した。938年以来、京都で念仏を広める。939年、空也堂を開く。948年、比叡山・天台座主延昌から受戒し、光勝の法名を得たが、終生空也と名乗った。951年、都に流行していた悪疫退散のために、自ら十一面観音を刻み、車に乗せ市中を曳き廻した。病人に茶を授け、歓喜踊躍の念仏踊で病魔を鎮めた。病人は平癒したという。その典茶・皇服茶(おうぶくちゃ、王服茶)は、身分の隔てなく分け与えられた。その時の踊躍は六斎念仏として今も伝わる。963年、金泥『大般若経』 600巻の書写事業を完成させている。鴨川河原に一寺(のちの西光寺、六波羅蜜寺とも)を建て供養会を行う。東山の西光寺(六波羅蜜寺)で没した。墓は全国に複数ある。東山・西光寺で没した。
 各地で橋を架け、道路や井戸の整備、遺棄された骸を火葬して荼毘(だび)にふすなどの社会事業も行った。空也の菩薩行は行基につながる。称名念仏により、既存の国家、権勢、知識層の仏教から庶民の仏教を唱えた。後の法然、親鸞の専修念仏に影響を与える。一遍は空也を崇敬した。
◆空也滝 平安時代中期、嵐山に居を構えた空也(くうや/こうや、903-972)が、この滝を霊場として開いたという。空也は、滴の北西、山の中腹に位置する月輪寺も訪れたという。ただ、空也が修行したとされる滝は、さらにひとつ上流にある「ひぐらしの滝(日暮滝)」ともされる。
 滝は、愛宕山南麓、月輪寺へ向う登山口から、清滝川支流の堂承川を上流に遡った大杉谷(250m)、丹波層群中のチャート地層にある。
 チャートとは、深海底でホウサンチュウなどの珪酸質の微生物による堆積岩で、きわめて硬く、火打石などにも使われる。
◆社 滝の周辺には、八大竜王、弁財天、不動明王などが祀られている。
◆愛宕山の不思議 愛宕山の不思議話の中に、「空也滝の土砂」は、取ってはいけないとされる。愛宕山の神は物への執着心が甚だ激しく、土砂などを持ち帰った者の身体の具合が悪くなったという。このため、昔は草履に付いた砂も払っていたという。


*参考文献 『日本の名僧』『京の怪談と七不思議』『京都の地名 検証2』『京都滋賀 古代地名を歩くⅡ』『昭和京都名所図会 4 洛西』


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 空也滝  京都市右京区嵯峨愛宕町1

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