長建寺 (京都市伏見区)
Choken-ji Temple 
長建寺 長建寺
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山門、朱色と黒の竜宮門、朱塗りの土塀


山門、軒の垂木、放射状に付けられている。








本堂


本堂




摩利支尊天、飛龍大権現


摩利支尊天は勝利の神、かつては戦国武将が祈願した。


飛龍大権現


賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)


手水、即成就院(即成院)より移されたものという。
  長建寺(ちょうけんじ)は、東壕川畔(前の川)にある。かつて門前に、大坂との間を往来した三十石船の船着き場(弁天浜)があったことから、一帯は海上交通の要衝地になっていた。現在も、付近に観光用の十石船の発着場がある。 
 正式には弁財天長建寺と称し、「島(中書島)の弁天さん」とも呼ばれる。山号は東光山(とうこうざん)という。
 真言宗醍醐派。本尊は八臂(はぴ/はっぴ)弁財天。
 京の通称寺霊場42番、島(中書島)の弁天さん。伏見五利益(五福)めぐりの弁財天。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 平安時代中期、官吏・歌人・橘俊綱(1028-1094)の山荘を伏見寺とした即成院(そくじょういん、即成就院)を前身にするという。弁財天を祀った。
 安土・桃山時代、1594年、豊臣秀吉の伏見城築城に際して、深草大亀谷に移された。
 安土・桃山時代-江戸時代、1594年-1694年、伏見城下町時代、この地には、武将・脇坂安冶の下屋敷があった。
 江戸時代、1623年、伏見城廃城後、即成院は荒廃した。
 1699年、伏見奉行・建部政宇(たけべ まさのき)は、中書島再開発の際に、深草大亀谷の即成就院(即成院)より、塔頭・多聞院(たもんいん)を分離して創建した。弁財天を祀り、寺号は、「建」部氏の「長」寿を願い「長建寺」とした。
 宝永年間(1704-1710)、隆心により寺観が整えられた。
 1787年、『都名所図会』に境内、諸堂が描かれている。
 1826年、再建されている。幕府により、菊、桐の紋付を使用することを許可された。
 近代、1868年、廃仏毀釈により一時衰退する。その後、三宝院門跡歴代の尽力により再興された。
◆橘俊綱 平安時代中期-後期の官吏・歌人・橘俊綱(たちばな の としつな、1028-1094)。父は関白・藤原頼通、母は進命婦。讃岐守橘俊遠の養子。丹波、播磨などの国守、正四位上、修理大夫(しゅりのだいぶ)、近江守。1050年、伏見の自邸で歌会「橘俊綱家歌合」を開く。邸宅には歌合、歌会に多くの客人を招いた。「後拾遺和歌集」などの勅撰集に入首。笛や笙、造園に通じ「作庭記」の作者とされる。通称は伏見修理大夫。
◆脇坂安冶 安土桃山時代-江戸時代前期の武将・脇坂安冶(わきさか やすはる、1554-1626)。近江国の田付孫左衛門の子。母の再嫁に従い脇坂安明嗣子となる。通称は中務少輔。1569年、丹波国黒井城攻め以来戦功をあげ、羽柴秀吉により食禄を与えられる。1583年、秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、七本槍のひとりと称された。1585年、摂津国能勢郡、その後、大和国高取城、淡路国洲本城に転じた。1600年、関ヶ原の戦では德川家康に通じ東軍に寝返る。1609年、伊予国大洲城主となる。和漢の学、和歌を嗜んだ。
◆建部政宇 江戸時代の武士・建部政宇(たけべ まさのき、1647-1715) 。播磨国林田藩の第3代藩主。父は建部丹波守政長。1665年、将軍家初見する。1670年、建部家を相続し、従五位下内匠頭となる。1698年-1714年、13代・伏見奉行に就き、中書島の再開発を行う。1699、長建寺を建立した。1708年、京都御所炎上後、再建造営奉行になる。1714年、寺社奉行に就く。絵師・狩野常信の門人となる。墓は大徳寺・芳春院にある。
◆シーボルト 江戸時代の医師・シーボルト(1796-1866)。ドイツに生まれた。1863年、オランダ商館付き医師として長崎に着任した。鳴滝塾を開き、高野長英などに医学・博物学を教える。1828年、帰国の際に、禁制品の「大日本沿岸輿図全図」などを持ち出そうとしたため、1829年、国外追放となる。(シーボルト事件)。1859年、再来日し、江戸幕府の外交にも参画した。1862年、帰国、ミュンヘンで亡くなる。
 当寺に立ち寄ったという。
◆仏像・神像 本尊の秘仏・「八臂弁財天(はぴべんざいてん)坐像」は、鎌倉時代後期作という。平安時代後期の特色が残されている。平安時代の空海(774-835)作ともいう。かつて、室町時代の皇族・伏見宮貞成親王(1372-1456)家の持仏堂に、妙音天像として祀られていたという。現在は、厨子(2m)内に像高80cmが納められている。8本の腕を持ち、音楽、財富、智恵、延命を司り、蛇の化身を従える。截金(きりかね)衣紋の装飾がある。京都で弁才天が本尊となっている例はほかにないという。伏見宮家は琵琶の血脈相伝の家元であり、親王の日記『看聞御記』にも記されている。「島の弁天さん」と呼ばれ、かつては淀川を往来する廻船の守護神とされた。中書島遊郭の遊女は、技芸上達の神として信仰した。現在は、元旦より15日間に限り開帳されている。
 脇仏の「裸形弁財天」も珍しいものという。
 脇に「宇賀神将」も祀る。
 境内には、摩利支天、水天宮、青面金剛、権現社、福富稲荷なども祀られている。
◆建築 江戸時代の山門は中国風(唐様、神宗様)の竜宮門になっている。下の部分の構造に対して上の楼閣部分が極めて小さく造られている。屋根に葺かれている瓦も、上にいくほど一枚ずつ小さく造られている。軒の垂木も放射状に付けられ、唐様であり京都唯一の建築物という。
◆鐘 長建寺と御香宮に、時報としての鐘楼が設置されていた。鐘は、三十石船の知らせにも、非常時にも撞かれ、5人扶持が支給されていた。
 梵鐘は、第二次世界大戦中の戦時金属供出により失われ、その後、復元されていない。
◆絵馬 日本画家・山口吉旺の絵馬がある。
◆中書島 豊臣秀吉は、1593年に伏見城築城を本格化させた。槇島堤(宇治堤)の築造により向島(むかいじま)を造成する。巨椋池と宇治川を分け、宇治川本流を伏見に迂回させた。矢倉島、葭島はいわゆる中書島(ちゅうしょじま)にまとめられた。
 安土・桃山時代以来、この地の東柳町、西柳町は、俗称として中書島といわれた。中書とは、かつてこの地に屋敷を構えた脇坂安冶の通称が、官名により「中務少輔(なかつかさしょうゆう/すないすけ)」と呼ばれたことに由来する。中務省とは、平安時代以来の律令制下の八省のひとつで、朝廷に関する職務の全般を担っていた。和名は「なかのまつりこどのつかさ」、唐名は「中書省」といい、脇坂は「中書さん」と呼ばれたことから「中書島」と呼ばれるようになった。
 「島」といわれるのは、当初、一帯はひとつの橋も架かからない島地だったことによる。伏見奉行・建部政宇は、江戸時代、1699年、1700年に境内以北の開発を手掛けた。島と南浜町との間に蓬莱橋、東浜町との間に今冨橋を架けた。さらに、阿波橋西方の柳町と泥町(どろまち)にあった二つの遊郭を島に移し、新たな遊郭街、旅籠、住居地などを建て、交通網も整備した。花街は当寺の境内に隣接した。最盛期に400人もの遊女を有し、京都の島原に次ぐ賑わいを見せたという。以来、再開発地は「新地」とも呼ばれ、さらにその南一帯は「南新地」とも呼ばれた。建部は、1714年まで奉行の任に就く。伏見は人口4万人の大都市になった。
燈籠 境内にはいくつかの燈籠が立てられている。  「弁天型燈籠」は、江戸時代、1699年に建部政宇が寺の建立と共に奉納した。御香宮、藤森神社にも同型の燈籠を奉納している。
 「笠置型燈籠」は、近年復元された。
 「マリア燈籠」は、かつて、お茶屋「紅屋」の隠れ座敷の庭に立てられ、女将が大切に保存してきた。戦後になり、先代の住職により長建寺に移されたという。火袋の下にある竿部に十字架のような膨らみがあり、棹の下部にマリア像らしきものが鮮明に肉彫りされている。この像の部分は、土中に隠して埋め、信者は密かに礼拝していたという。
◆桜 桜の名所として知られる。桜は醍醐寺より移されたという。糸桜という早咲きの枝垂れ桜がある。京都で一番早く咲くともいわれている。
◆名水 本堂前に湧く閼伽水は伏見の名水として知られている。
◆お守・御神籤 江戸時代から伝えられる古銭型のお守り、宝貝守りがある。
 御守りの宝貝守りは、「古代大河の流れ」の中に、宝貝内上部に五輪塔(五大の空、風、火、水、地)が埋め込まれ、「水」の部分に梵字の「阿」が刻まれている。貝は開運、通貨、生命の根源に通じるという。開運、愛、平和の信仰がある。
 鐘楼の下にある「和歌のおみくじ」も知られている。
◆伏見五利益(五福)めぐり 伏見五利益(五福)めぐりは、1985年より始まった。洛南保勝会会員の5社寺で構成されている。
◆弁天祭 かつて伏見の弁天祭(弁才天祭)は、洛南の三大奇祭(ほかに藤森祭の新馬、県神社・梵天渡御)の一つとされた。淀川には神輿、篝船が繰り出し、舟渡御(ふなとぎょ)が行われていた。独特の祭囃子に、裸身の男たちが大柴を燃やした。祭りには、京都・祇園からも大勢のお参詣りがあったという。弁天祭は大坂の天神祭の起源ともいわれている。
 その後、淀川の流路が変わったことから、1951年を最後に途絶えている。
 現在は、7月第3日曜日に、濠川両岸に篝火が炊かれる。弁天囃子の中、柴燈大護摩道場で護摩が焚かれる。厄除開運の祈願がなされ、古銭のお守りが授与される。囃子唄にも「弁天さん、柴おくれ、柴が嫌なら銭おくれ」と歌われている。
◆年間行事 初参り五福めぐり(本尊の開帳。)(1月1-15日)、初巳祭(1月初巳日)、節分祭(醍醐派の柴燈(さいとう)大護摩修行、蜜柑封じのまじない)(2月節分)、桜祭開山忌(4月第2日曜日)、弁天祭(醍醐派の柴燈大護摩修行が行われる。)(7月第4日曜日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 中』『新版 京・伏見 歴史の旅』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『平成28年度春期 拝観の手引』『キリシタン大名 高山右近の足跡を歩く』『京のご利益めぐり』『京の福神めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 京都を歩く 46 伏見2』



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伏見の名水の一つ、閼伽井水

蛙石

右より祀られている水天は、水の神、河の神、十二天のうちの八方天の一尊、西方の守護神、龍族龍王を眷属とする。
 ほかに、厄除開運不動明王、聖宝尊師理源大師(醍醐寺開山)、青面金剛(しょうめんこんごう)を祀る。
 青面金剛は、江戸時代の民間信仰で、病魔、悪鬼を払う神、盗難除けの神とされる。仏法の守護神・帝釈天の使いとされる。庚申待ちでは、災難を避ける鬼神となる。

延命地蔵・子育て地蔵


鐘楼(みくじ舎)、現在の梵鐘は模造。かつての梵鐘は、第二次世界大戦中に金属供出され、大砲になったという。江戸時代には、時の鐘のひとつとして撞かれ、前の川(弁天浜)に発着する舟にも時を知らせる重要な役割を果たしていた。

福富稲荷

福富稲荷

土蔵

土蔵にある大杭、前の川(弁天浜)で三十石舟を停泊させる際に杭として使われていたものという。 

水天尊井戸

弁天型燈籠

【参照】長建寺にある「マリア燈籠」


【参照】長建寺にある「マリア燈籠」の「マリア像」

江戸時代の境内、説明板より。
 濠川沿いに広大な境内が広がり、松の大木が生い茂っていた。多くの伽藍も建ち並ぶ大寺だった。だが、度重なる大地震と水害により被災し、その度に再建されたという。松は、第二次世界大戦後の1945年に、手入れが行き届かなかったために枯死したという。 

「花人の落合ふ駅や中書島」の歌碑、 近現代の俳人、小説家の高浜虚子(1874- 1959)。

宝貝守り、古銭型お守りもある。

和歌のおみくじ

【参照】山門前には東濠川が近接している。観光船の十石舟の発着場がある。

【参照】川沿いの月桂冠大倉記念館の建物

【参照】東濠川
 長建寺 〒612-8211 京都市伏見区東柳町511  075-611-1039   9:00-16:00
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