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勝林寺〔東福寺〕 (京都市東山区) Shorin-ji Temple |
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勝林寺 | 勝林寺 |
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![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() ![]() 一切経を埋めた石塔 ![]() |
東福寺の境内北に塔頭・勝林寺(しょうりん-じ)がある。毘沙門堂勝林寺とも呼ばれる。東福寺の鬼門(北方)に当たる北方守護を司り、仏法も守護し「東福寺の毘沙門天」とも称された。 臨済宗東福寺派、本尊は毘沙門天王像。 勝運、財運の信仰を集める。毘沙門天・吉祥尊天・善膩師童子の三尊を拝むと一家和合の神(仏)、子授け・子育て・夫婦円満の御利益があるという。 御朱印(予約時、特別拝観時)が授けられる。 ◆歴史年表 室町時代、1550年、東福寺205世・高岳令松(こうがく-れいしょう)により創建された。かつて、塔頭・海蔵院の鬼門に当たりその鎮守だった。当初は、勝林庵と呼ばれる。 その後、東福寺の鎮守になる。 ◆高岳 令松 室町時代後期の臨済宗の僧・高岳 令松(こうがく-れいしょう、?-?)。詳細不明。男性。東福寺205世になる。1550年、勝林寺(勝林庵)を創建した。法嗣に惟杏永哲がいる。 ◆独秀 令岱 江戸時代の臨済宗の僧・独秀 令岱(どくしゅう-れいたい、 ?-?)。詳細不明。男性。東福寺・海蔵院、東福寺・勝林寺の中興開山になる。 ◆清水 隆慶 江戸時代前期-中期の仏師・清水 隆慶(しみず-りゅうけい、1659?-1732)。詳細不明。男性。京都の生まれ。大和(奈良県)生駒山宝山寺の湛海(たんかい)のもとで仏像制作にあたる。1716年、湛海の没後は単独で活躍した。人形も制作し、1717年、代表作「風俗百人一衆」がある。74歳。 清水家は幕末まで、数代にわたり京都建仁寺五条辺に住し隆慶を称していた。 ◆吉山 明兆 南北朝時代-室町時代中期の画僧・吉山 明兆(きちざん/きっさん-みんちょう/みょうちょう、1352-1431)。男性。号は破草鞋(はそうあい)、俗称は兆殿司(ちょうでんす)。淡路島(兵庫県)の生まれ。幼くして淡路安国寺の開山・大道一以(だいどう-いちい)に師事した。画事に熱中し、破門しかけ・破草鞋と自戒し号した。その後、画才が認められる。1356年、東福寺28世として住した大道に従い入寺する。終生雑役の殿司になり、兆殿司と呼ばれた。1383年/1386年、代表作「五百羅漢図」50幅(東福寺蔵・根津美術館蔵)を制作する。この間、郷里の母親が病になり、帰郷果たせず自画像を送り、早い作例になる。1394年、「大道一以像」(奈良国立博物館蔵)、1404年、「普明国師像」(光源院蔵)、1408年、代表作「大涅槃図」(東福寺蔵)、1413年、伝・詩画軸「渓陰小築図」 (南禅寺金地院) 、1427年、「四十祖像」(東福寺蔵)などがある。80歳。 宋・元の仏画、道釈画を研究し、強い墨線・濃い色彩に特徴がある。東福寺で多くの仏画・道釈画(人物画)、頂相を制作した。独自画風により「東福寺派」形成の基礎を作る。 ◆櫟 文峰 近現代の日本画家・櫟 文峰(あららぎ-ぶんぽう、1891-1970)。男性。別号は雪庵、名は順造。岐阜県高山の生まれ。京都の加藤英舟に師事し四条派を修得する。1913年、第7回文展に「唐もろこし」で初入選した。後に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)別科に学び、橋本関雪に師事した。1923年、師に随行し中国を歴遊した。1928年、雪庵の雅号を受ける。1950年頃、妻子を京都に残し高山に帰郷した。79歳。 ◆田村 宗立 江戸時代後期-近代の洋画家・田村 宗立(たむら-そうりゅう、1846-1918)。別号は月樵、十方明。丹波国(京都府)船井郡の生まれ。1855年、京都で南画、次いで仏画を学ぶ。文久年間(1861-1864)初め、写真に啓発される。慶応年間(1865-1868)、独自の陰影表現による写実描写を生む。1872年、粟田口病院に勤め、ドイツ人・ランゲックに油絵の画法を学ぶ。1873年、横浜でイギリス人・ワーグマンの指導を受けた。2代・玄々堂松田緑山に銅版画を学び、のち石版画も手掛ける。1877年、第1回内国勧業博覧会に出品し褒状を受ける。1880年/1881年、京都府画学校創立とともに同校で教える。1901年、関西美術会の結成に参加した。作品に「果蔬(かそ)図」など。73歳。 近代京都洋画の先覚者の一人に数えられる。 ◆毘沙門天 ◈本堂に秘仏・等身大の本尊「毘沙門天王立像」(145.7㎝)を安置している。平安時代(10世紀後半)に造立された。公卿・九条道家(1193-1252)の光明峰寺建立以前のものとされている。定朝(?-1057)作ともいう。 東福寺仏殿の天井内に密かに安置されていた。江戸時代に、開山・高岳令松の霊告により、海蔵院の独秀令岱(どくしゅう-れいたい)が発見したという。その後、東福寺守護のために、境内の鬼門にあたる勝林寺に本尊として安置された。普段は非公開になっている。現代、2009年に83年ぶりに開帳された。 左手に宝塔を捧げ、右手に三叉戟(さんさ-ほこ)持つ憤怒相をして立つ。毘沙門天は財宝、戦勝の神であり、四天王の一人、鬼門に当たる北方守護を司り、眷属はムカデになる。財運・勝運・厄除けに御利益があるとされる。 木造、一木造。後世の修理跡がある。 ◈脇侍は、毘沙門天の妃「吉祥尊天像」(104.4㎝)であり、江戸時代中期、1763年に清水隆慶作になる。 美・幸福・縁結びなどに御利益があるとされる。 ◈脇侍の毘沙門天の子「善賦師(ぜんにし)童士像」(96.5㎝)は、清水隆慶作であり、江戸時代の補修がある。 ◈本尊・毘沙門天王立像の胎内仏の「毘沙門天像」(16.7㎝)は、本尊の造立時のものとされる。 ◈御前立の「毘沙門天立像」(73.2㎝)は 平安時代作になる。 ◈「聖観音菩薩立像 」(103.2㎝)は平安時代作になる。周辺の廃寺遺仏という。 ◈「文殊菩薩坐像 」(71.1㎝)は平安時代 作になる。 ◈「延命地蔵半跏像」( 79.4㎝)は平安時代作になる。 ◈「大日如来坐像」( 108.0㎝)は平安時代作になる。周辺の廃寺遺仏という。 ◈「多門天立像 」(78.0㎝)は鎌倉時代 作になる。 ◈「広目天立像」(80.0㎝)は鎌倉時代作になる。 ◆建築 「本堂」は、五摂家の一で公家、大檀越・近衛家の大玄関が移築されている。公家屋敷の意匠が施されている。 ◆一切経 境内には、一切経(仏教の経典を集成したもの)を埋めたという石塔が立つ。 ◆文化財 ◈明兆(1352-1431)筆「瀧見観音図」。 ◈丸山派作という「七難七福図」。 ◈毘沙門堂前堂の左右に、日本画家・櫟文峰(あららぎ-ぶんぽう)筆による「虎の大襖絵」「虎書大隔絵」がある。近代、1926年作になる。 風に向かって吼える虎は毘沙門天、睦まじい2頭の虎はその妻・吉祥天、子・善膩師童子を表している。 ◈「毘沙門天曼荼羅」は、画家・田村月樵(宗立)の16歳時の作になる。 毘沙門天曼荼羅としては例のないもので、毘沙門天の一族・眷属・使者などを網羅して描く。内院に、毘沙門天・吉祥天・五童子、第二院に、八大夜叉大将・龍王・韋駄天、外院には、二十八使者を描く。 版木左下辺に「宗立(月樵)十六歳畫」と入る。 ◆庭園 庭園は四季を通じて花々が咲きほこる。 ◆樹木 ◈第117代・後桜町天皇(1740-1813)の参拝時に、独秀令岱が植樹した「皇桜」がある。 ◈毘沙門堂前の「吉祥紅葉」は、紅葉の美しさから吉祥天が宿るとされ称された。かつては、祇園舞妓の参拝も見られた。 ◆体験修行 年間を通じて坐禅を体験できる。座禅体験(坐禅、茶礼、法話)、HEALING座禅(坐禅、読経 、粥座・精進粥膳)、坐禅と煎茶道体験(夏季)、夜坐体験。 写経(般若心経、お香、写経、抹茶・菓子)、写仏(抹茶・菓子)。 ◆年間行事 秘仏・毘沙門天王立像の公開時期は正月・春(4月)・秋(11月中旬-12月上旬)。 *拝観は要予約、特別拝観があります。*室内の撮影は禁止。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『古寺巡礼京都 18 東福寺』、『こころ美しく京のお寺で修行体験』、『京都の隠れた御朱印ブック』 、ウェブサイト「勝林寺」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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