東福寺 (京都市東山区)
Tofuku-ji Temple
東福寺 東福寺
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三門(国宝)


三門、足利義持書扁額「妙雲閣」









三門、山廊


三門から法堂を望む。


三門








法堂(はっとう、仏殿)


法堂、扁額


法堂、内陣須弥壇上に本尊の釈迦立像を安置する。脇に観音、弥勒菩薩、脇壇に仁王像、地蔵菩薩像を安置する。


法堂、天井には現代の画家・堂本印象(1891-1975)による雲龍図(1993。


法堂、明兆「大涅槃図」、涅槃会(3月14日-16日)では、僧により「遺教経」が奏唱され大涅槃図が開帳される。


法堂、「大涅槃図」中の猫


法堂前


法堂前、日蓮柱の碑



勅使門(方丈表門、恩賜門)



方丈表門、勅使門


庫裏


庫裏




方丈


方丈南庭、長大石(5.4m)が伏せられ、その周りに立石が組まれた石組。




方丈南庭


方丈南庭


方丈南庭、松の植栽


方丈南庭



方丈南庭、青海波といわれる砂紋






方丈西庭、南西隅に三尊石組みがわずかにある。


方丈西庭

方丈西庭





方丈北庭、西から東へ市松はぼかされている。














方丈東庭、砂紋の雲間の北斗七星を表しているという。






「洗耳泉庭園」、礎石を再利用したという石の中央の窪みに、水に浸したガラスが沈めてある。










通天台、「一時座禅すれば、一時の仏なり。一日座禅すれば、一日の仏なり。一生座禅すれば、一生の仏なり。」聖一国師語録より。






通天台


通天台










開山堂へと向う渡廊下




常楽庵(開山堂)






普門院(客殿)


普門院庭園、小池と築山の庭園


普門院庭園、市松模様の枯山水庭園
 東福寺(とうふくじ)は、大伽藍が建ち並ぶことから京童の囃子言葉として「東福寺の伽藍面(がらんづら)」、建物の修復だけでも経費がかさむことから「伽藍貧乏」とも称されてきた。
 山号を慧日山(えにちざん)という。25の塔頭がある。
 臨済宗東福寺派大本山の寺院。本尊は釈迦如来(釈迦牟尼仏)。
 京都五山の第四位。
◆歴史年表 平安時代、924年、この地は、公卿・藤原忠平により建立された藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)があった。天台宗の寺院で、広大な境内地を有した。
 1006年、公卿・藤原道長は、五大明王像を奉安する五大堂を建立した。現在の塔頭・同聚院の本尊・不動明王像がその中尊という。
 1148年、1147年とも、摂政・藤原忠通は、夫人・宗子とともに最勝金剛院を建立し、阿弥陀像を安置した。その子、関白・九条兼実は広大な別荘・月輪殿を建立し、阿弥陀堂を建立する。
 鎌倉時代、1236年、摂政関白・九条道家は瑞夢を見て、東福寺伽藍建立の発願を行う。(『東福紀年録』)。祖父・兼実(かねざね)の菩提寺として寺を建立し、5尺の釈迦像を安置した。
 1239年、仏殿上棟式が行われる。(『百錬抄』)。越中国東条、河口保などの寺領を施入する。
 1243年、博多・崇福寺の円爾弁円(えんにべんえん)を請して開山とする。(『東福紀年録』)。東福寺に台密禅の三教を置く。法性寺成就宮を東福寺鎮守とする。(『百錬抄』)
 1245年、日蓮は円爾弁円と親交があり、伽藍造営に際して東福寺に一木を贈った。
 1246年、円爾弁円の住居となる普門院が建立された。当初は、天台、真言、禅の三宗兼学の道場とした。
 1249年、大仏の落慶が行われる。
 1250年、藤原道家は東福寺の建造物、寺産を処分する。
 1252年、道家が没し、その子・頼経、一条実経、二条良実に遺志は引き継がれた。
 1255年、円爾弁円が東福寺を開堂供養する。仏殿の落慶供養会が行われる。(『元亨釈書』)。釈迦像を安置する大仏殿建立には19年間を要した。釈迦如来仏像(15m)は、観音、弥勒菩薩の脇侍とともに「新大仏寺」とも呼ばれ、伽藍は都最大を誇った。中国宗風の七堂伽藍、大日如来などを安置した五重塔、両海曼荼羅、真言八祖を祀った灌頂堂なども建立された。
 1258年、仏殿北廊37間を造立する。
 1271年、法堂、祖堂、祠堂を起工する。
 1273年、法堂、祖堂、祠堂が完成した。
 1280年、円爾は東福寺、承天寺、崇福寺、万寿寺の規範8か条を制し、東福寺住持は国師一流に相承とする。聖一派の度弟院となる。
 1281年、東山照は視篆(してん、儀式)入寺する。無関普門は視篆入寺する。
 1283年、弘安年中(1278-1287)、功徳院が置かれ、細民救済施薬が行われる。
 1319年、全焼する。(『武家年代記』)。仏殿の釈迦如来坐像、観音・弥勒菩薩立像、四天王立像も焼失した。
 1325年、再建のために仏殿が上棟される。
 南北朝時代、1334年、五山制度で第3位になった。方丈が焼失している。(『皇年代私記』)
 1335年、夢窓疎石らは五山より除こうとする。
 1336年、仮仏殿が焼失した。
 1341年、禅堂が再建になる。五山位第五位に列する。
 1342年、幕府は再び五山制度で第五位とする。
 1347年、前関白・一条経通、幕府の援助により仏殿が復興される。(『東福紀年録』)。現在の禅堂が再建される。
 1351年、南朝は祈願所とした。
 1358年、足利義詮は、京都五山の第五位とする。
 1365年、功徳院を修繕する。
 1370年、幕府は東福寺を京都五山より除こうとするが、性海霊見らの要請により停止になる。
 1372年、幕府は禅宗法則条々を定め、東福寺住持は3年、両班は2節で交代になる。また、掛塔僧を600人より350人に減じさせる。
 1380年、仏殿と開山堂(常楽庵)を結ぶ橋廊、通天橋が架けられる。普門寺は十刹に列する。
 1385年、明兆は五百羅漢を描く。
 1386年、足利義満による五山評定で京都五山の第四位になる。法堂が再建される。
 室町時代、1400年、この頃、荘園不納になり寺勢衰える。
 応永年間(1394-1428)、伽藍修造が行われた。財政逼迫によりその後、中止される。
 応永年間(1394-1428)、1405年とも、現在の三門が造立される。
 1406年、僧堂に500人の衆人が集まる。
 1408年、明兆が「大涅槃図」を描く。
 1427年、明兆は東福40祖、40幅を描いた。
 1428年、法堂の上棟が行われる。
 1441年、幕府は寺領安堵し、諸役を免除する。
 1442年、塔婆用材を美濃に注文する。
 1445年、雲章一慶は塔頭・宝渚庵を創建した。文渓元作は同聚院を開く。永明院が焼失した。
 1451年、永明院が再建される。
 1454年、幕府は寺領を169貫890文とする。三重塔が建てられた。
 1459年、浴室が修繕される。
 1461年、幕府は五山に餓死溺水者のために四条大橋で施餓鬼会を修させる。東福寺の衆人は橋上で水陸会を修する。
 1467年、1468年とも、応仁・文明の乱(1467-1477)では、山名軍により焼失する。光明峰寺を焼失した。
 1470年、兵火により焼失したという。塔頭の多く(半分とも)を失う。
 1478年、足利義政は寺領を安堵する。
 1479年、復興した。
 1486年、幕府は檀那が九条家か一条家かを問う。師檀論争になる。
 1495年、開山塔を修復する。
 1526年、兵火に罹り一部焼失(全山焼失とも)する。
 1530年、天下大乱の際に武将・細川晴元の陣が敷かれ、僧700人が散し、寺宝などが散逸する。
 1534年、武将・京極高次の陣が敷かれ荒廃した。
 1549年、三好長慶は入洛し栗棘庵に陣する。
 1550年、高松令松は塔頭・勝林庵を創建した。
 1568年、明智光秀は東福寺への甲乙軍勢の乱入を禁じる。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉の援助により再興される。
 1585年、地震により三門が倒壊した。豊臣秀吉は寺領1854石を寄進し、被災した三門を修復する。(「本光国師日記」)。法堂屋根瓦も罹災し、修復されたともいう。狩野山楽が天龍図を描く。(『本朝画史』)。大涅槃図が修復される。
 1586年、秀吉は法堂修繕のため1854石を寄進する。
 1588年、法堂が修理完成した。
 1589年、豊臣秀次は法雲院(後の南昌院)を創建した。
 1590年、秀吉は妹・朝日姫(徳川家康の室)を南明院に葬る。
 1596年、大地震により仏殿が傾く。秀吉は安国寺恵瓊に庫裏再建を命じる。
 1597年、通天橋が架け替えられた。景轍玄蘇が対馬に以酊庵(朝鮮修文職)を創建する。
 1598年、安国寺恵瓊は東福寺224世・住持になる。明智光秀、織田信長、徳川家康、後水尾上皇、徳川家光などの寄進が続き、修復が行われた。
 1602年、北政所により仏殿が修理される。(「東福寺再興梁文」)
 1603年、偃月橋が改修される。
 江戸時代、1614年、家康は寺領1850石4斗3升7合を朱印する。文英清韓が方広寺の鐘銘を撰文し「鐘銘事件」に発展する。
 1630年、第108代・後水尾天皇は艮岳院を創建する。
 1634年、徳川家光は伽藍修理を行う。
 1635年、玉峰光りん(王扁の燐)は初の朝鮮修文職として対馬に派遣される。
 1656年、三門、仏殿、法堂、禅堂など諸堂の修繕が行われる。
 1666年、行事における僧衆着衣の制を定める。
 1669年、光明峰寺殿廟を改装する。
 1674年、開山堂が修復される。庭園が作庭された。大涅槃図画補修される。
 1712年、五大堂が再建になる。
 1724年、天衣守倫、南禅元郁らにより五山連環結制(五山持ち回りにより毎年雨安居時に1回、各山から10名ずつの参加者による結制、集団的坐禅を行なう禅興隆運動)が始まる。
 1753年、連環結制が行われた。
 1767年、開山動が修繕される。
 1779年、連環結制(千人結制)が行われる。
 1790年、禅堂(選別道場)が修理された。
 1794年、三門妙雲閣が修造になる。経蔵が創建される。
 1795年、五山連環結制が行われる。
 1798年、成就宮が再建される。月下門を修繕する。
 1812年、経蔵に宋版一切経を納めた。
 1815年、歴代住持年忌諷経の法が定められる。
 1819年、開山堂が焼失した。
 1823年、龍吟庵より開山像を遷す。
 1826年、普門院が再建される。
 1829年、通天橋を架け替える。
 1834年、幕府は山内の伐採木竹、寄留人を禁止する。
 1838年、宗政改革になる。
 1842年、通天閣の屋根を修造した。
 1852年、成就宮が焼失した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈が起こる。鳥羽・伏見の戦いでは、境内が薩摩藩、長州藩の駐屯地になった。
 1869年、寺領の上知により寺域を失い、塔頭も70あまりから現在の25に減じた。この頃、門前寺領12町も失う。
 1876年、臨済宗の諸派が分離独立した際に、東福寺派大本山として独立した。全国でコレラが流行し京都でも犠牲者が出た。山内に大阪陸軍病院分院として避病院が置かれ、患者を隔離収容した。
 1880年、永源寺が分離独立する。
 1881年、方丈から出火し、仏殿、法堂、東庫裏、西茶堂、仏像などを焼失した。大仏の手のみが残された。直後に、仮仏殿に塔頭・万寿寺の本尊・釈迦如来立像を遷す。
 1890年、現在の方丈が再建される。
 1897年、国は三門を特別保護建造物に指定する。
 1904年-1905年、日露戦争の際に、寺域が接収され、ロシア兵捕虜の収容施設になる。
 1909年、法堂が再建される。庫裏が上棟される。
 1917年、本堂の再建が始まる。
 1934年、九条道孝が願主となり現在の本堂(法堂)が完成する。
 1939年、作庭家・重盛三玲により方丈庭園、普門院庭園の修復が完成した。
 1947年、農地改革により寺領の半分を失う。
 現代、1959年、伊勢湾台風により通天橋が被災する。
 1961年、通天橋が再建される
 1979年、光明宝殿が完成する。三門の解体修理が終わる。
 2012年、作庭家・北山安夫による「洗耳泉庭園」が公開される。
 2014年、本坊庭園が国の名勝に指定された。庭園に青海波を崩した砂文様が復元された。
◆円爾弁円 鎌倉時代の僧・円爾弁円(えんに べんえん、1202-1280)。駿河国に生まれた。久能山の堯弁に天台教学を学ぶ。1219年、園城寺で得度、奈良東大寺で具足戒を受けた。上野国・長楽寺の栄朝から禅を学び、久能山、鎌倉・寿福寺へ移った。1220年、京都へ入り、1223年、園城寺に戻った。1235年、入宋して律、天台、径山万寿寺の臨済宗・無準師範などに臨済宗楊岐派を学ぶ。1241年、帰国、博多に崇福寺、承天寺、肥前に万寿寺などを開山した。1243年、東福寺に招かれている。また、建仁寺に入り1258年、再興した。1269年、東大寺大勧進職なっている。
 朝廷、鎌倉幕府の帰依を受けた。第88代・後嵯峨、第89代・後深草、亀山上皇(第90代)に大乗戒を授けた。天皇より与えられた国師号「聖一国師」(1311)はその初例となった。
 宋より多くの仏典、典籍持ち帰るとともに、製粉機械の図を伝え製麺を起こした。また、杭州径山の茶種を持ち帰り、静岡茶の茶祖とされている。多くの弟子を育てている。境内塔頭・普門院に住した。
◆九条道家 鎌倉時代の公卿・九条道家(くじょう みちいえ、1193-1252)。九条良経の子。最勝光院の道智上人は子息。1205年、左大臣、1206年、摂政、氏長者となる。1221年、後鳥羽上皇による討幕挙兵した承久の乱で辞任した。子・頼経が4代将軍となり、岳父・西園寺公経により復権する。1228年、関白、摂政となり、後に出家した。執権・北条時頼により、頼経、孫・5代将軍頼嗣が失脚したのに伴い追われた。毘沙門谷光明峰寺に葬られた。光明峯寺殿と称された。
◆九条兼実 鎌倉時代初期の政治家・九条兼実(くじょう かねざね、1149-1207)。摂関家・藤原忠通の子。1166年、右大臣、源頼朝の援助を得て関白となる。1186年、摂政となる。頼朝を征夷大将軍に任じ、弟慈円を天台座主・天皇の護持僧となす。だが、1196年、政変によって失脚、娘任子は内裏を出た。妻の死後、法然を戒師として出家した。九条家を興し朝廷政治を再建した。後法性寺殿、月輪殿と称された。
◆藤原北家 鎌倉時代、藤原北家嫡流の近衛(藤原)基通(1160-1233)は、1185年の源頼朝追討宣旨の責により失脚、代わって叔父・九条(藤原)兼実(1149-1207)が摂政となり藤原家長者になった。以後、摂関家は近衛家、九条家に分かれた。
 兼実の孫が東福寺開基の九条道家(1193-1252)になる。道家3男・頼経(1218-1256)は4代将軍、孫・頼嗣(1239-1256)は5代将軍に就いている。道家は、藤原氏氏寺の法性寺に、祖父・忠通(1097-1164)は、祖父・兼実に倣って新たに仏殿を建てようとした。
 近衛家からはさらに鷹司家、九条家からは二条家、一条家の五摂家が生まれ、本家の藤原北家は滅亡した。
◆無関普門 鎌倉時代の臨済宗の僧・無関普門(むかん ふもん、1212-1291)。仏心禅師。信濃国に生まれた。13歳で越後・正円寺で出家、剃髪。叔父の寂円に仕えた。19歳で上野国・長楽寺の栄朝から菩薩戒を受ける。関東、北越を遊歴し、東福寺開山・円爾(弁円)に参禅し、その法嗣。越後・華報寺を開創する。1251年、宋に渡り、けい叟如ぎょく、浄慈寺の断橋妙倫の印可を受けた。1262年、帰国。九州、京都、鎌倉、北越、越後、摂津など各地を歴住した。1281年、東福寺3世。1288年、亀山上皇(第90代)の離宮に出没した怪を降伏したとされる。1291年、南禅寺創建の際に、上皇に開山として招かれる。だが、病に罹り住坊の東福寺・龍吟庵に移る。上皇は禅師を見舞い、手づから薬湯を与えたが龍吟庵で亡くなった。遺骸は慧日山龍吟の岡に葬られる。龍吟庵は塔所となる。虎関師錬により南禅寺・天授庵も禅師の塔所として建立された。諡号は大明国師。
◆虎関師錬 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗の僧・虎関師錬(こかん しれん、1278-1346)。京都に生まれた。父は藤原左金吾校尉、母は源氏。1285年、8歳で臨済宗聖一派三聖寺・東山湛照(とうざん たんしょう)に師事、1287年、比叡山で受戒。1291年、師没後、南禅寺・規庵祖円、1293年、鎌倉・円覚寺の桃渓徳悟らに付く。京都の菅原在輔、六条有房より儒学を学ぶ。1295年、再び規庵に参じ、鎌倉に下向、円覚寺・無為昭元(むい しょうげん)、1297年、建仁寺・無隠円範、1299年、南禅寺・規庵、1304年、東福寺・蔵山順空、無為昭元に学ぶ。1307年、円覚寺・無為、建長寺の一山一寧(いっさん いちねい)を尋ね、1312年、建長寺・約翁徳倹に参じた。1313年、後伏見上皇(第93代)の命により歓喜光院に住した。1314年、白河・済北庵、1316年、伊勢・本覚寺を開く。1324年、山城・円通寺、1326年、三聖寺に住し、1332年、伊勢・神賛寺の開山、東福寺に住した。1335年、三聖寺再住、1337年、東福寺再住、1338年、三聖寺・如意庵を開く。1339年、南禅寺住持、1341年、東福寺・海蔵院に退き海蔵和尚と呼ばれた。1346年、洛北柏野(かしわの)・楞伽寺(りょうがじ)を建立する。海蔵院で亡くなり、済北庵、海蔵院に葬られた。諡号は本覚(ほんがく)国師。法嗣に性海霊見、龍泉令淬など多い。
 博覧強記の仏教史家であり儒学も修め、詩文を学び五山文学の先駆者とされた。1322年日本初の仏教通史で漢文体の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』30巻を著す。仏教伝来から書き始め、700年間にわたる伝(400人の伝記)、表(皇室関係の仏教記事)、志(制度、歴史、音楽など10種の範疇)の三部構成になっている。
◆明兆 南北朝時代-室町初期の画僧・明兆(みんちょう、1352-1431)。吉山明兆(きつさん みんちょう)。淡路島に生まれる。幼くして淡路安国寺の開山・大道一以に師事、画事に熱中し、破門しかけ「破草鞋(はそうあい)」と自戒し号した。1356年、東福寺28世として住した大道に従い入寺し、終生雑役の殿司となり、「兆殿司(ちょうでんす)」と呼ばれた。宋、元の仏画、道釈画を範とした。
 東福寺に残る作品としては、「大涅槃図」(1408)、「四十祖像」(1427)、「聖一国師岩上像」(重文)、「白衣観音図」「達磨・蝦蟇鉄拐図」などがあり、三門楼上内の「迦陵頻迦」も一門とともに手掛けた。塔頭・光源院に「春屋妙葩像」がある。最期は、塔頭・南明院で亡くなった。
◆景轍玄蘇 安土・桃山時代-江戸時代初期の僧・景轍玄蘇(けいてつ げんそ、1537-1611)。筑前国の人。臨済宗中峯派。永禄年間(1558-1570)、博多・聖福寺の住持、東福寺住持、1597年、対馬国宗義調の招きにより以酊庵を開創し日本国王使として朝鮮外交に携わる。1592年、文禄の役の際に朝鮮と和議の交渉に当たる。1595年、秀吉の命により明に渡り、万暦帝から本光国師の号を受ける。1609年、己酉条約を成立させた。朝鮮より「仙巣」の図書(銅印)を贈られる。門人に規伯玄方がいる。
◆安国寺恵瓊 安土桃山時代の臨済宗の僧・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい、?-1600)。安芸国の守護武田家に生まれた。安芸国安国寺・竺雲恵心に師事、安国寺、備後・安国寺の住持、毛利家使僧(外交顧問)として京都との調停に当たる。1573年、足利義昭と織田信長の争いでは義昭に付く。1582年、豊臣秀吉の備中高松城攻めでは双方の講和に入る。その後、秀吉の使僧として四国平定により、伊予国に所領を与えられ大名となる。文禄・慶長の役(1592-1598)にも加わる。1579年、東福寺退耕庵主、1598年、東福寺224世・住持。1600年、南禅寺住持となる。毛利家内の吉川広家と対立、1600年、関ヶ原の戦では西軍敗北に伴い六条河原で斬首になる。
◆雲谷等顔
 安土・桃山時代-江戸時代の僧・雲谷等顔(うんこく とうがん、1547-1618)。兵衛直治。雲谷派の祖。肥前国に生まれる。能古見城主・原豊後守直家の次男。家門絶え、上京して狩野派に入門。天正年間 (1573-1592)末、安芸・毛利輝元に召し上げられた。1593年、輝元より雪舟系再興のため、雪舟の「山水長巻」、旧居雲谷軒を拝領、出家し、雲谷 等顔と改めた。1600年、関ヶ原戦後、毛利氏削封の際に、毛利氏に従い萩に移る。1611年、法橋,、のち法眼。
 多くは水墨を残した。京都では大徳寺黄梅院,、東福寺普門院に作品がある。連歌、茶の湯もよくした。雲谷派は山口で幕末まで続いた。
◆狩野山楽 安土・桃山時代-江戸時代初期の画家・狩野山楽(かのう さんらく、1559-1635)。近江に生まれた。父・木村永光は浅井長政の家臣。当初は長政に仕え、後に豊臣秀吉の近侍となる。秀吉の推挙で狩野永徳の門人となり、養子となり狩野氏を許された。1590年、秀吉の命により、病に倒れた師・永徳を継ぎ、東福寺法堂「蟠竜図天井画」(1881年焼失)の修復を数日で完成させる。1594年、伏見城、1597年、再建の伏見城、1604年、大坂城の千畳敷大広間の障壁画にも参加した。1615年、豊臣家滅亡で大坂城を脱出し、男山八幡宮の社僧で山楽の弟子・松花堂昭乗のもとに身を隠した。於江与(崇徳院)らの取成しにより京都に帰る。2代将軍徳川秀忠、3代将軍家光に重用され、再建された四天王寺、大坂城本丸障壁画、妙心寺・天球院障壁画などにも加わる。代表作に正伝寺方丈、養源院の障壁画がある。
 泉涌寺に葬られた。山楽、山雪の子孫は京都に住み京狩野と呼ばれた。
◆建立の経緯・寺名 東福寺は、規模を南宋の五山の一径山(径山興聖萬壽禅寺)に倣う。寺名は、奈良の官寺最高位、南都東大寺の「東」と藤原氏氏寺の興福寺の「福」から一字ずつもらい名付けられたという。(「東福紀年録」)
 当初、天台、真言、禅の三宗兼学の道場としたのは、天台宗、真言宗など旧仏教勢力との対立を回避するためだった。
 創建の意図については、摂政関白を世襲してきたもとは同じ藤原北家の、九条家と近衛家との荘園相続をめぐる対立があった。寺院建立について、九条家の巻き返しの意図があったともいわれている。
◆仏像・木像 
東福寺にはかつて大仏が安置されていた。釈迦坐像であり、2丈5尺(7.5m)の大きさを誇った。このため寺は、「新大仏」とも呼ばれた。鎌倉時代、1250年の「九条道家惣物処分状」にも「五丈釈迦如来像一躰坐像」として記されている。近代、1881年、焼失している。現在は、左の掌部分だけが残されている。
 法堂に、鎌倉時代、13世紀後半の「釈迦如来坐像」(263.5㎝)を安置する。肉髻の低さ、爪の長さに宋代の影響がある。
 脇侍は「迦葉・阿難尊者」。手前には、「四天王立像」が安置されている。このうち、「持国天」、「増長天」、「広目天」は鎌倉時代後期作(13世紀)、彩色、玉眼。多聞天は鎌倉時代初期作(13世紀)、仏師・運慶周辺の作風という。木造、彩色、金泥塗、玉眼。もとは三聖寺にあり、万寿寺から近代、1881年の大火の直後に東福寺に遷されたとみられている。京都市内の禅宗寺院最古の本尊という。万寿寺は、かつて六条坊門にあり、安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)の大火により、東福寺北に移り、近代、1873年、隣接していた三聖寺と合併した。
 三門楼上内陣須弥壇に、「宝冠釈迦如来」、「十六羅漢像」、「月蓋長者」、「善財童子」が安置されている。天井、梁、円柱などの極彩色の絵は、明兆と門人の作という。
 近代、1881年の火災で焼失を免れた「釈迦如来坐像」の左手指先が残されている。長さ216.5㎝、甲の幅93㎝、坐像は7.2mの像高があった。
 光明宝殿安置の「阿弥陀如来坐像」(重文)は、平安時代作。1097年の殿舎創建当時の作ともみられている。また、1164年に没した藤原忠通に関する造仏ともいう。近代、1868年に塔頭・万寿寺に遷されたという。
 光明宝殿安置の室町時代作、二天王立像の「阿形」(重文)(336.8㎝)、「吽形」(重文)(333.5㎝)は、南北朝時代、1391年の火災後に再建された三聖寺二天門にあったという。その後、三門に安置された。阿形は右手を上げ、左手を腰に当て、邪鬼を足で踏む。吽形はその逆の姿をとる。木造、寄木造、彩色、彫眼。
 平安時代後期、1006年の「不動明王坐像」(重文)(265.1㎝)は、康尚作による。木造、彩色。
 光明宝殿安置の「地蔵菩薩坐像」(重文)(85.2㎝)の詳細不明。左手に宝珠、右手人差し指を立てる。白毫に水晶が入る。木造、寄木造、漆箔、玉眼。
 光明宝殿安置の鎌倉時代作、「僧形坐像」(重文)(82.8㎝)は蓮華合掌する。写実的な表現がなされている。像主は不明。木造、寄木造、古色、玉眼。
 開山堂に阿弥陀仏、右に薬師如来、左に布袋像を安置する。「布袋像(三国伝来の布袋)」は口を開け高らかに笑っている。鎌倉時代、1241年、開山の聖一国師が宋から持ち帰ったものという。浙江省の霊隠寺門前、飛来峰の岩窟にあった石像を写したという。人形師・幸右衛門はこの像を元に伏見人形を生み出したともいう。
◆建築
 禅宗様式の伽藍配置となっており、南より思遠池、三門、本堂、方丈が一直線上に並んでいる。創建時の伽藍配置は三門の東に経蔵、西に鐘楼があり、三門、仏殿、法堂は東西回廊で結ばれていた。室町時代前期建立の三門、禅堂、東司、浴室は中世建築の中で唯一のものという。柱は多数の貫で連結した軸部、組物を柱の間にも入れた詰組、繋虹梁が水平、柱頂部の台輪がない。木割が太い。柱に肘木端部を入れた挿肘木などの特徴がある。
 「勅使門」(重文)は、「矢の根門」「方丈表門」「恩賜門」ともいう。鎌倉時代、平氏六波羅邸より移された。勅使参向の際に使用された。昭憲皇太后の寄進によるという。向唐破風。
 「六波羅門」(重文)は、「惣門」ともいう。鎌倉時代前期の門で、2本の柱の実で屋根を支える棟門形式による。北条氏の六波羅探題を移築した。東福寺内ではもっとも古い建物の一つになる。鎌倉時代、1333年の戦乱の跡が遺されているという。棟門、本瓦葺。梅鉢懸魚の古例になる。
 「三門」(国宝)は、室町時代、1405年に足利義持により建立された大仏様の建築様式に禅宗様、和様も取り入れている。禅宗寺院の三門としては日本最古、最大の建築物になる。「三門」とは、「空門」、「無相門」、「無作門」の「三解脱門の略になる。二階正面の扁額「妙雲閣」は、1425年に掛けられた。足利義持筆による。楼上内陣には、宝冠釈迦如来、十六羅漢像、月蓋長者、善財童子が安置されている。鏡天井、柱には画僧・明兆(兆殿司、ちょうでんす)と弟子による極彩色の「釈陵頻迦(かりょうびんが)」が描かれている。この人の顔を持つ鳥は、極楽浄土で法を説くという。5間(28.5m)3戸、二階二重門形式(重層入母屋造)。入母屋造、両山廊付、各切妻造、本瓦葺。三花懸魚の古例、風触部分が細い。当初のものは、5間2間(22m、9.6m)だった。
 「仁王門」(重文)は、かつて三聖寺、その後万寿寺にあったものが移された。安土・桃山時代、1597年に建てられた。かつて仁王像が安置されていた。八脚門、三間一戸、切妻造、本瓦葺。
 「月下(華)門」(重文)は、鎌倉時代前期に建立され、山内ではもっとも古い建物の一つになる。鎌倉時代、1268年に一条実経が常楽庵を建立した際に、第90代・亀山天皇により京都御所の月華門が移されたという。切妻造、檜皮葺木の小規模な四脚門、板蟇股などが使われている。垂木を使わない厚板の板軒になっている。
 「法堂(はっとう、仏殿)」は、近代、1881年に焼失、1934年に再建された。大仏様の組物、隅扇垂木、禅宗唐様の桟唐戸、礎盤、鏡天井。裳階に連子窓。破風妻飾。せん(土+専)の四半敷の土間形式。天沼俊一京大教授の設計による。台湾阿里山のヒノキ材が使われている。入母屋造、裳階付、単層、本瓦葺、屋根は正面7面、側面5間。総高26m、7間5間、間口30m、奥行30m。間口41.4m、奥行33m、高さ25.5mとも。
 「方丈」は、江戸時代、1820年に再建された。
 「愛染堂」(重文)は、室町時代前期に建立された。愛染明王を祀る。八角形の堂で、かつては塔頭・三聖寺(廃寺)にあった。その後、万寿寺に移され、近代、1937年に現在地に移された。唐様、単層、こけら葺、桟唐戸、内部は瓦敷、鏡天井、須弥檀上に厨子が置かれている。
 「常楽庵(開山堂)」は、江戸時代、1818年に焼失し、1826年(1823年とも)までに一条忠良により再建された。祀堂は高床で開山像聖一国師を安置している。楼閣は「伝衣閣(でんねかく)」といい、「京の五閣」(金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)のひとつとされる。天台、真言、密教の兼学の名残りともいう。伝衣堂に正面柱間8間、内部に四半敷、伝衣閣は正面3間。
 「普門院(客殿)」は、江戸時代、1826年に建立された。寝殿造風、開山が常住していたという。内部は3室あり、安土・桃山時代-江戸時代の74面の障壁画で飾られている。
 「禅堂(選仏堂、僧堂)」(重文)は、室町時代前期、1347年に再建された。現存する最大最古で中世唯一の禅堂の遺構になる。選仏堂は、聖一国師の師・佛鑑禅師(無準師範)の扁額「選仏場」がかつて掲げられていたことに因む。花頭窓、格子窓、波欄間、鏡天井、身舎中央に二重虹梁、大瓶束。桁行七間、梁間四間、南北42m、東西22m。単層・一重裳越付、切妻造、本瓦葺。
 「経堂」は、宝形造。
 「庫裏」は、近代、1909年-1910年に、明治天皇皇后・昭憲皇太后により再建された。切妻を正面とし、構架材が白壁に映える。
 鎌倉時代、1245年、日蓮が東福寺造営に際して贈ったという「日蓮柱」が本堂にある。本堂前に、「日蓮柱の碑」が立てられている。
 「偃月橋(えんげつきょう、偃月とは弓張月)」は、安土・桃山時代(1603年)、木造廊橋、橋脚五基廊、桁行十一間、梁間一間、一重、切妻造、桟瓦葺。
 
「東司(とうす)」(重文)は、「百雪隠」、「百人便所」ともいわれた。現在は36個の穴、埋込められた便壺(溜壺)が残る。500人、大会(だいえ)では700人もの僧が利用していた。くど、かま、長椅子も備えられ、手洗い、洗面、お茶を入れ休憩もした。室町時代唯一、日本最古最大の禅宗式の厠・便所の遺構になる。近代以前に使用を取止めた。大正期(1912-1926)に修理が施された。化粧屋根裏の庇、鏡天井、正背面に妻飾は二重虹梁大瓶束。嵩懸魚。室町時代前期、7間4間(27.07m×10.36m、35m×14mとも)。一重、切妻造、本瓦葺。扁額「東司」は張即之筆。
 「浴室」(重文)は、室町時代の創建で、1459年の銘文がある。現存する禅宗伽藍で京都最古の浴室という。東大寺湯屋に次いで古い。内部は正面板敷の上に中央向唐破風になる。手前より待合、浴室、火焚口がある。東側に破風の二つの蒸し風呂があり、板戸が立つ。後方に釜、焚口がある。下に簀子があり、薬草と共に沸かした蒸気が送られていた。浴室は七堂伽藍の一つであり、入浴も行の一つに数えられた。そのため、私語を謹む「三黙堂」の一つになっている。毎月、4と9のつく日にのみ入浴が許され、10人ほどの僧が経を唱えながら入り、線香1本が尽きるまでに終えなければならなかった。桁行3間、梁間4間(11m、11m)。一重正面入母屋造、背面切妻造、単層本瓦葺。
 「鐘楼」(重文)は、室町時代中期、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、桟瓦葺。
 
「通天橋」は、南北朝時代、1380年に春屋妙葩(しゅんおく みょうは)が、対岸に渡るのに渓谷を上り下りしなければならない僧のために架けたという。仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた橋廊になる。歩廊はかつて鶯張りだったという。橋は南宋径山の橋を模したもので、春屋が通天と名付け、歩廊入口に春屋筆の「通天橋」が掲げられていた。43世・性海霊見は、修造の際に長廊を架したという。現代、1959年の台風で崩壊し、1961年に再建された。全長26m。
◆五社成就宮  五社成就宮(五社明神社)(京都府有形指定文化財)は、安土・桃山時代、1594年に創建された。一間社流造、檜皮葺。
 東福寺の鎮守社であり、石清水八幡宮、賀茂社、稲荷社、春日社、日吉社の五社を祀ることから五社明神社ともいう。平安時代、925年、摂政・藤原忠平が創建した法性寺の総社だったという。当社の祭礼「総社祭」は、祇園会に匹敵したという。その後、東福寺の鎮守社になり、総社祭は引き継がれた。鎌倉時代、1243年、九条道家、右大臣実経、左大臣忠家も参列したという。
 11月第2日曜日に、お火焚き祭が催される。家内安全、無病息災、商売繁盛、学業上達の祈願がなされる。
◆五山 五山は、京都五山・鎌倉五山と呼ばれ禅宗(臨済宗)の主要寺院をいう。
 五山は、京都五山・鎌倉五山と呼ばれ禅宗(臨済宗)の主要寺院をいう。
 五山制度はインドに由来し、中国では五山、その下に十刹、35か寺の諸山が置かれた。日本では鎌倉時代末に、当初は鎌倉五山として採り入れられた。南北朝時代に京都の寺院も入るようになる。1341年に5か寺の定めが崩れ、1386年以降は、京都五山が鎌倉五山より優位に立った。室町時代に官寺の制度として確立した。1410年以降、京都五山の第1位は天龍寺、第2位は相国寺、第3位は建仁寺、第4位は東福寺、第5位は万寿寺、五山の「上」に南禅寺が置かれた。
 東福寺は、1334年に第3位、その後、1341年に第5位、1386年に第4位にな。
◆朝鮮修文職 「朝鮮修文職(ちょうせんしゅうぶんしょく)」とは、江戸時代、幕府の命により対馬国の以酊庵に禅僧を派遣した制度をいう。李氏朝鮮との間での外交文書作成、使節への応対などを行った。1597年、東福寺の景轍玄蘇は対馬に以酊庵を創建し居住し、その後、門人の規伯玄方、さらに、五山碩学の僧を輪番制で派遣した。1635年、東福寺の玉峰光りん(王扁の燐)、棠蔭玄召、洞叔寿仙(天龍寺)の3人が朝鮮修文職に任ぜられ玉峰より順次派遣された。1670年以後は五山碩学と朝鮮修文職が同時に任命される。1867年を最後とし、東福寺の玉澗守俊まで126代、89人が任に就いた。
◆文化財 国宝、重文など数多い。仏鑑禅師墨蹟「円爾印可状」(国宝)は、宋の無準師範より弁円が贈られたもの。鎌倉時代、「聖一国師墨跡 遺偈(ゆいげ)」(重文)(1280年)は、弁円が臨終に際して心境を表したもので、現存最古という。
 禅院額字「勅賜承天禅寺」(国宝)、「聖一国師像自賛」 (重文)。
 経堂には、宋代の書跡、書物が収蔵されている。聖一国円爾弁円が持ち帰った1000余りの典籍になる。
 南宋時代(13世紀)の禅院額字「首座(しゅそ)」二大字(国宝)。京都国立博物館寄託。
 弁円が宋の禅僧を描かせた1238年の絹本著色「無準師範像」(国宝)(124.8×55.2㎝)、1237年の無準師範筆絹本墨書「円爾印可状」(国宝)(52×100㎝)、「宋版太平御覧他」(国宝)、鎌倉時代初期の「木造地蔵菩薩坐像」(重文)。
 「大宋諸山図」(重文)は円爾が宋より持ち帰った。禅寺の建物、仏具などの図案集になる。
 「藤原道家画像」(重文)、画聖といわれた室町時代、14世紀後半の吉山明兆(兆殿司)筆の「聖一国師像」(重文)(239×149㎝)、「四十祖像」、「達磨蝦蟇鉄拐像」。室町時代、1418年の紙本墨画淡彩「達磨像」(重文)は衣文が装飾的になっている。京都国立博物館寄託。国内最大の「大涅槃図」(1404年)(15m×8m)(重文)などがある。
 室町時代、1505年の伝雪舟筆「東福寺伽藍図」(重文)には、南禅寺・了庵桂悟の賛がある。1479年に焼失した五重塔も描かれている。精緻に描かれ、伽藍の配置は現在とほぼ変わらないという。
 光明宝殿に南宋末期の書家・張即之(1186-1266)筆禅院額字「方丈」8幅中の一つ(国宝)(45.5×103㎝)がある。弁円が博多・承天寺開山の際に、師により宋から贈られた。当時は方丈の呼称は新しかった。以後、多くの額が張即之の書に倣った。
 鎌倉時代-江戸時代の「東福寺文書」(重文)(5585通)(43巻、129幅、1474冊、67帖、3770通、51鋪、6綴、2枚)。 
 南北朝時代(1347年)の古文書「東福寺修正看経榜〈固山一鞏筆〉」2巻。固山一鞏(こざんいつきょう、1284-1360)は円爾弁円の法孫。東福寺正月の修正会に際して堂内に掲げるた看経榜。法会の文疏、大般若等経の役僧衆名、看誦、勧修などすべきことが書かれている。
 南宋時代、1254年頃の絹本著色「無準師範像」(重文)は、高僧の半身を描いている。
 鎌倉時代、1323年、虎関師錬著の『元亨釈書』のうち2、3、10、22巻を浄書した「大道一以手沢本」(重文)。
 南宋時代の書跡・典籍「東福寺所伝宋拓碑文」8幅(重文)。
 平安時代の「胴鐘」(重文)は西寺の遺物であり、九条家が求めたもので、当寺に寄進された。鐘身1.4m、口縁外径1m、厚さ8.5m。
 
「十三重石塔」(重文)は銘より南北朝時代、1343年、九条道家(光明峰寺殿)により造立された。基礎に格狭間が彫られている。初重軸部に金剛界四仏の梵字がある。宝珠は別石で補われている。4.5m、花崗岩製。
◆涅槃図 絹本著色「大涅槃図(猫入り涅槃図)」(1404年/1408年とも)(880×531㎝)(重文)は、室町時代の画僧・吉山明兆(きつさん みんちょう、1352-1431)筆による。「京都三大涅槃図」(ほかに泉涌寺、本法寺/大徳寺とも)のひとつとされている。
 東福寺の「大涅槃図」には、釈迦の入滅の際に集まった動物の中に珍しく猫が描かれている。一般的に涅槃図に猫を入れないのは、猫が釈迦の使いとされる鼠を獲るからともいう。また、釈迦入滅の際に、釈迦の母・麻耶夫人が天上から薬を投げたが、途中で木に引っ掛かってしまった。それを取りに行こうとした鼠を猫が獲ったからともいう。
 明兆が涅槃図に猫を描いたのは、描く際に絵を手伝った一匹の猫がいたからという。明兆が釈迦の口の彩色に迷った時に、一匹の猫が朱の顔料を咥えてきた。そのため猫を絵に加えたとされ、「猫入り涅槃図」ともいわれる。
 3月の涅槃会で特別公開される。
◆天龍図 仏殿の天井に描かれている天龍図は、龍が水を司る神であることから、仏法を守護し法雨を降し、また、寺を火災から守るという意味もあった。室町時代、東福寺法堂に、画僧・兆殿司(明兆、1352-1431)が蟠龍図を描いたのが日本での初例といわれている。
 安土・桃山時代、1590年、狩野永徳、狩野山楽「蟠竜図天井画」を手掛けるが制作中に急逝する。狩野山楽が引き継いで完成させた。だが、1881年に焼失している。
 現在は画家・堂本印象(1891-1975)による雲龍図(1993)がある。体長54m、胴回り6.2m。
◆障壁画 普門院に17世紀の雲谷等顔筆、紙本墨画淡彩「帰去来図」8面(重文)(各180×93.5㎝)がある。
◆送り鐘 毎夜(午後11時15分頃)から18回、開山堂常楽庵の鐘楼の鐘が撞かれている。これは、聖一国師以来750年の慣習となっている。
 国師が、建仁寺の住持も兼任していたため、東福寺の勤行が済むと、「送り鐘」で国師を送った慣わしによる。建仁寺では逆に「迎え鐘」が撞かれた。
◆庭園 開山堂の参道の左右に、江戸時代、1674年に修復されたともいう池泉観賞式の「普門院庭園」がある。約100坪(330㎡)あり、平庭式の禅院式、武家書院式を融合す。作庭者は不明。1939年に現代の作庭家・重森三玲(しげもり みれい、1896-1975)により修復された。
 左(西)に白砂による市松模様砂紋の枯山水庭園、右に小池と築山の庭園があり、東福寺内で最も古い。西からの鑑賞により、2つの庭は一体になる。開山堂前、山門前にそれぞれ枯滝がある。山門前に洞窟型石がある2つの亀島、2つの羽根石の立つ鶴島の石組がある。
 方丈を囲む4庭「本坊庭園」(国の名勝)がある。重森の作庭による。「永遠のモダン」を試みたといわれている。2014年に国の名勝に指定された。東庭「八相の庭(北斗七星の庭)」、南庭(前庭)、西庭「井田の庭」、北庭「市松の庭」よりなる。
 それぞれの庭が、抽象的な構成により別の印象を見せる。斜線、直線が好んで用いられており、南庭の白砂と苔を分ける斜線、西庭の井田刈り込み、北庭の市松などに見られる。
 ①東庭「八相の庭(北斗七星の庭)」は、重森による初期の作品になる。「八相の庭」の名の由来は、「八相成道」という釈迦の生涯、人間一生の苦楽の姿を表す言葉に因んでいる。中国の星宿(天文図)では、不動の星といわれる。見る者の視点移動が考慮され、各所からの鑑賞に配慮がある。以三和尚(善慧院)の依頼により、廃物の再利用が積極的に行われた。禅家では、一切のものを棄てないという思想に依拠している。
 東に天の川を表したという植栽がある。雲紋とも海ともいわれる白砂の地模様に、円石柱を用いた柄杓型北斗七星の配列になっている。柄杓の水で手を洗い、口を漱ぐという意味も含まれている。石材は、かつて東司(とうす、厠)で使われていた。
 ②南庭「前庭」は、方丈と勅使門の間に広がる。210坪(694㎡)の庭面がある。白川砂が敷かれ、蓬莱神仙の世界、九山八海の須弥山を表す。怪石を使った蓬莱石組、長大石(5.5m)の巨石を寝かせた趣向により、横面の広がりと立面の構成による。このように長石を横に寝せた例は極めて珍しく、ほかには南禅寺・金地院の鶴首石しかないという。
 石組は東(左手)から八海の荒海に浮かぶ「四神仙島」を表している。「瀛州(えいしゅう)」、「蓬莱」、「壷梁(こりょう)」、「方丈」の四島からなる。
 西(右手)の築山は、五山(天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)、あるいは中国の五山(径山<きんざん>寺、霊隠<りんにん>寺、景徳寺、浄慈<じんず>寺、広利寺)を表すともいう。ここでは、超自然の斜線(片身替り)により、築山の苔地と白砂が分断されている。
 五山からの汀は、西庭に流れ、さらに南庭の砂海は東の廊下の下を伝い東庭へも広がる。東の石組と西の五山の築山について、本来は現在と逆に配置される予定だった。だが、西に2本の松の木が植えてあり、これを取り除くことができず、やむを得ず、東西逆に配置されている。
 その後、築山の松は枯れる。その後、新たな1本の松が現在も植えられている。本来は、植栽の一切ない庭を想定していた。現在の砂紋も当初のものとは変化している。2014年秋、三玲の孫で作庭家・庭園史家の千青(ちさを)により、青海波を崩した砂文様による荒波が、75年ぶりに再現された。
 ③西庭「井田(せいでん)の庭」(大市松模様)は、田園風景を表す。曲線の苔地で始まり、切り石を縁石にした葛石で井の字(大桝形)に組む。庭の斜め半分に正方形に刈り込んだサツキ、白砂により市松模様が作られている。ここでもサツキの一部に斜面の刈り込みが見られる。
 ④北庭「市松の庭」(小市松模様)には、紅葉と玉刈り込みのサツキを奥に配置している。市松にはスギゴケと敷石108個が用いられている。石は、かつて勅使門から方丈にいたる部分に敷かれていた。刈り込みは芬陀院より移された。
 市松は、西から東へ仏法が広がる様を表すとされ、東へ移るほど市松紋が次第にぼかされている。さらに、東端に白砂が敷かれている。市松についてアメリカ人彫刻家のイサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904-1988)は、オランダの抽象画家・モンドリアン(Piet Mondrian、1872-1944)に先駆けた構成美と評した。山内の普門院庭園の影響とも、桂離宮の庭、松琴亭の市松模様から着想したともいう。秋には庭に紅葉が加わる。
 「洗耳泉庭園」は、2012年、現代の作庭家・北山安男(1950-)による新しい枯山水式庭園として公開された。枯山水式庭園に水路を流すという試みが行われている。
 苔地に太宰府宝満山から切り出した釈迦三尊石を最上部に立てる。境内の礎石を再利用した臼状の5つの円石が縦一列に並べられている。最後の石は溝が縦に切られている。石の中央に水に浸したガラスが置かれ、細い水が上段から次第に手前に落とされていく。
 遠藤楚石管長により、禅語の故事「許由臨岸洗耳巣父不飲牛水」から洗耳泉と名付けられた。中国の許由は、天子の堯から帝位を譲ると言われ、汚れたことを聞いたとして耳を洗ったという。俗事に塗(まみ)れず暮らすことの意味になる。(「史記正義」)。
◆東福寺十境 境内の十の景色が謳われている。①妙雲閣(三門)、②選仏場(禅堂)、③潮音堂(法堂)、④栴檀林(寺域)、⑤思遠池、⑥成就宮(鎮守社、五社明神社)、⑦通天橋、⑧千松林(普門院の東)、⑨甘露井、⑩洗玉潤。
◆東司 「東司(とうす)」(重文)は、室町時代唯一、現存する日本最古最大の禅宗式の厠・便所の遺構になる。東に位置する便所の意味であり、「百雪隠」、「百人便所」ともいわれた。西にあるものは「西浄(せいちん)」と呼ばれた。一重切妻造、7間4間(27.07m×10.36m、35m×14mとも)。化粧屋根裏の庇、鏡天井、正背面に切妻飾り(二重虹梁、大瓶束)。
 東福寺の東司は、土間の南北方向に2列20個(72個とも)ほど開けられた円い穴に、陶製の便壺(溜壺)が埋め込まれている。便壺の周囲にいまは仕切り部分はない。かつては同時に100人の僧が使用した。
 禅宗では、東司も七堂伽藍の一つであり、用を足すのも行の一つとされた。そのため、私語を謹む「三黙堂」の一つになっている。経を唱えながら用をたし、その手順も事細かく定められていた。用具としては、手を洗う桶、履きかえる草鞋、拭う木片の籌(ちゅう)、とぎ洗う灰、手を拭く手巾などが用意された。
 作法の手順は、①法衣を脱ぎ畳み、黄色い土団子を用意する。②右手に水桶を持ち、厠前で草鞋に履き替える。壷上で沈黙し汚さずに用を足す。③木片の籌(ちゅう)で拭き取る。右手で水を散らさないようにして壷を洗う。④手洗い所に移り、手を3度洗う。⑤手は続けて、灰で3度、土団子で3度、サイカチ(早莢/梍、サポニンの成分を含み、古くから洗剤として使われた)という植物の葉で3度、その後、水、湯で再度洗うというものだった。
 室町時代の最盛期には、山内に1000人の僧が修行を行い、実際に東司を使用した。近代以前まで使われていたという。糞尿は、境内の畠の肥料として、また周辺の農家にも売られ、寺の収入源の一つになっていたという。
◆七不思議 本山、塔頭に伝わる七不思議がある。7つ以上ある。
 「涅槃図」は、明兆(1352-1431)筆による。普通は描かれない猫が書き込まれている。明兆のもとに猫が顔料を咥えて持ってきた。その御礼に書き加えたという。顔料は絵具谷、絵具渓にあったという。場所は方丈東、伏見山より月輪山付近ともいう。
 「天龍図」は、明兆筆により、法堂の天井に描かれた。描くと龍は天に飛び消え去る。明兆が、本物の龍を見たいと念じて描いた。池の水が漲り、龍が出現したため、その姿を写し取ったものという。現在、この天龍図はない。
 「魔王石」は、鎮守社・五社成就宮の境内にある。石には、鞍馬の僧正が降臨したという。
 「遺愛石」は、塔頭・霊雲院にある。石が水上に浮くように見えた。かつて、六条女牛八幡宮にあったともいう。
 「伝衣(でんえ)塚」は、南宋の無準禅師(1178-1249) が五輪塔下に伝衣を埋めたという。
 「日蓮柱」は、迫害を受けていた日蓮(1222-1282)を聖一国師(円爾、1202-1280)が庇護した。日蓮は礼として仏殿の巽(南東)の柱を寄進したという。また、1881年の火災焼失後の再建時に、台湾杉の用材を運搬する経費に困り果てていた。日本海軍が運搬に協力し再建された。日蓮宗の信者も柱の一部を寄進する。
 「鐘楼の鐘」は、鎮守社・五社成就宮の鐘楼の梵鐘であり、平安時代作とされる。西寺のものという。「義経の鐘」と呼ばれたという。
 「小町地蔵」は、塔頭・退耕庵の玉章地蔵のことであり、小野小町に寄せられた恋文が納められているという。
 「芬陀院の亀」は、塔頭・芬陀院の庭園にある。雪舟(1420-1506)は、亀を描こうとして描けず、庭石で亀を見立てた。亀石が動き出したため甲羅に石を立てて動きを封じた。
◆桜楓 境内に2000本の楓があり、紅葉(通天紅葉)の名所になっている。これらは葉先が三つに分かれ、円爾弁円が宋から持ち帰った「唐楓」といわれている。
 境内にはかつて桜が多く植えられていたという。画僧・明兆の「大涅槃図」に感銘を受けた4代将軍・足利義持が、何か褒美を与えようとした。明兆は、禅門の境内が桜見物で遊興の地となることを危惧し、すべての桜を排することを望んだ。このため、桜は伐採され、いま境内には1本の桜の木しかないという。
 近代、1869年、288世・海州楚棟は、境内の楓をすべて伐採している。だが、その後、再び紅葉の名所として知られるようになる。
◆川 東福寺は3つの川に関わる。
 境内北東近くに一之橋川が流れている。川は今熊野、阿弥陀ヶ峰、泉涌寺山に源流があり、泉涌寺北より、菅谷、伏見街道の一之橋(伏水街道第一橋)に流れ下っていた。
 二之橋川は、境内背後の恵日山に源流があり、北門、万寿禅寺付近を流れ、九条付近で伏見街道に交わり、二之橋(伏水街道第二橋)に流れる。
 境内中央に渓谷があり、三之橋川が流れている。稲荷山北麓に源流がある。紅葉谷の洗玉潤(せんぎょくかん)には、上流から北谷に偃月(えんげつ)橋(重文)、中谷に通天橋、南谷に臥雲(がうん)橋の「東福寺三名橋」が架かる。本堂から開山堂に行くには、かつて谷を渡った。その労苦を避けようと普明国師が橋を架けたことに始まるという。1959年には川が氾濫した。川は、伏見街道の三之橋(伏水街道第三橋)に流れる。
 なお、三之橋の南に四之橋(直違橋<すじかいばし>、伏水街道第四橋)がある。
◆幕末 近代、1868年、鳥羽・伏見の戦いでは、境内が薩摩藩、長州藩の駐屯地になった。即宗院に薩摩藩士東征戦亡碑が立つ。即宗院には月照と西郷隆盛密議したという「採薪亭跡」がある。鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争の犠牲者になった薩摩藩士524人が眠る。1869年、西郷隆盛が碑文を書いた。
 防長忠魂碑は三門近くにある。寺内正毅、田中義一、山県有朋が寄付して立てられた。仲恭天皇陵近くに鳥羽伏見戦防長殉難志士の墓がある。石川厚保介ほか48基の墓が並ぶ。近くに鳥羽・伏見の戦いの長州の戦没者を讃える崇忠の碑がある。
◆ロシア兵捕虜 1868年の鳥羽・伏見の戦いの際には、境内は薩摩藩、長州藩の駐屯地になった。
 日露戦争(1904-1905)の際には、寺域が接収され、ロシア兵捕虜の収容施設となる。当初は本圀寺が本所、東福寺が支所になった。のちに伏見俘虜収容所に移された。
◆魔王石 鎮守社・五社成就宮の傍らに、魔王石が祀られている。比良山の天狗の顕現したものという。九条道家が東福寺建立の頃、1239年に病に罹る。この天狗が家来の妻に憑りつき、僧・慶政(けいせい、1189-1268)に三度の霊託を告げた。自分は厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)の頃の藤原氏先祖であり、病は怨霊に由るものとしてその名を教えた。天狗のいう通りに鎮魂すると病は全快したという。(慶政、『比良山古人霊託』)。
◆墓 最勝金剛院墓地に、九条兼実の墓がある。
◆塔頭 万寿寺、盛光寺、勝林寺、霊源院、退耕庵、龍眠庵、海蔵院、栗棘(りつきょく)庵、善慧(ぜんけい)院、同衆院、霊雲院、大機院、一華(いっけ)院、龍吟庵、即宗院、天得院、芬陀(ふんだ)院、東光寺、桂昌院、荘厳院、願正院、正覚庵、光明院、永明院、南明院塔頭に専門道場(僧堂)と特別由緒寺院の最勝金剛院がある。
◆映画 現代劇映画「女の園」(監督・木下恵介、1954年、松竹大船)、時代劇映画「忍びの者」(監督・山本薩夫、1962年、大映)の撮影が行われた。
◆花暦 サクラ・アジサイ・ハナショウブ・ハス・ツツジ・アザミ・ヒメジオンド・サンシュ(3-5月)、キキョウ(6-8月)、フヨウ(9-11月)、紅葉(11月)。
◆樹木 イブキ(京都市指定天然記念物)は、三門と仏殿との間、西寄りにある。室町時代、1405年、聖一国師が中国より持ち帰ったものという。(『都名所図会』)。高さ16.5m、胸高幹周3.36m、枝張り東西10.5m、南北8m。
 イロハモミジ、通天橋近くにトウカエデ、アーモンドがある。
◆修行体験 日曜法話・坐禅(毎月1回、大禅堂、夏季午前7:00・冬季8:00より90分)。
◆年間行事 修正懺法(1月1日)、臨済忌(2月15日)、涅槃会・大涅槃図公開天三門・龍吟庵方丈公開(三門が特別公開となり、「大涅槃図」(重文)、宝物の特別公開が行われている)(3月14日-16日)、降誕会(4月8日)、仏鑑忌(無準師範、仏鑑禅師)(4月18日)、精霊送(8月16日)、初祖忌(10月5日)、開山忌(開山弁円の法要)(10月17日)、三門特別公開(11月1日-10日)、成道会(12月8日)。
 

*年間行事は中止、日時変更の可能性があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都の五山寺院 その歴史と系譜 京都市文化財ブックス23集』『古寺巡礼 京都 3 東福寺』『旧版 古寺巡礼 京都 18 東福寺』『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『事典 日本の名僧』『日本の古寺大巡礼』『京都古社寺辞典』『重森三玲 庭園の全貌』『重森三玲-永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド』『重森三玲 モダン枯山水』『京都 古都の庭をめぐる』『京都の寺社505を歩く 上』『京都美術鑑賞入門』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『京都仏像を訪ねる旅』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『増補版 京の医史跡探訪』『京都の地名検証 3』『日本映画と京都』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都隠れた史跡100選』『京都で日本美術をみる』『意外と知らない京都』『京の寺 不思議見聞録』『京都 神社と寺院の森』『京のみどり 81号』『週刊 日本の仏像 17 六波羅蜜寺 空也上人像と東山』『週刊 仏教新発見 19 建仁寺 東福寺』『週刊 古寺を巡る 38 東福寺』『週刊 日本庭園をゆく 22 京都洛東の名庭 3 東福寺 高台寺 智積院』『週刊 京都を歩く 26 東福寺周辺』『週刊 日本の美をめぐる 34 竜安寺石庭と禅の文化』


  関連・周辺退耕庵〔東福寺〕      関連・周辺龍吟庵〔東福寺〕      関連・周辺芬陀院(雪舟寺)〔東福寺〕     関連・周辺勝林寺〔東福寺〕     関連・周辺光明院〔東福寺〕      関連・周辺同聚院〔東福寺〕     関連・周辺霊雲院〔東福寺〕      関連・周辺即宗院〔東福寺〕     関連・周辺天得院〔東福寺〕      関連・周辺正覚庵(筆の寺)〔東福寺〕      関連・周辺万寿禅寺〔東福寺〕      関連・周辺南明院〔東福寺〕      関連・周辺永明院〔東福寺〕      関連・周辺東光寺〔東福寺〕     関連・周辺荘厳院〔東福寺〕     関連・周辺桂昌院〔東福寺〕      関連・周辺盛光院〔東福寺〕     関連・周辺願成寺〔東福寺〕     関連・周辺栗棘庵〔東福寺〕      関連・周辺海蔵院〔東福寺〕      関連・周辺霊源院〔東福寺〕      関連・周辺龍眠庵〔東福寺〕       関連・周辺大機院〔東福寺〕      関連・周辺一華院〔東福寺〕      関連・周辺善慧院・明暗寺〔東福寺〕      関連・周辺最勝金剛院〔東福寺〕       関連・周辺法性寺      関連南禅寺     関連六波羅蜜寺      関連泉涌寺      関連本法寺      関連重森三玲庭園美術館(旧重森邸、旧吉田家社家)    周辺      

愛染堂(重文)

五輪塔

本派専門道場

墓地

経堂

経堂

経堂

経堂

殿鐘楼

禅堂(選仏堂)(重文)、桁行7間、梁間4間、南北42m、東西22m。

禅堂(選仏堂、僧堂)(重文)

浴室(重文)

東司(とうす)(重文)

東司

六波羅門(重文)

勅使門(重文)

月下(華)門(重文)

仁王門(重文)


鐘楼

十三重石塔(重文)

五社成就宮(五社成就宮)

五社成就宮

五社成就宮(五社明神社)(京都府有形指定文化財)

五社成就宮

五社成就宮

五社成就宮

五社成就宮

五社成就宮

荒熊大明神

荒熊大明神

玉光大神

右より、一原高松大神、櫻大神、管長大神・長姫大神・成就大神、霊祖大神、玉宮大神、末長大神・福永大神・□菫大神?、豆吉大神、日重大神

魔王石

魔王石

魔王石


通天橋、三ノ橋川

通天橋


東福寺三名橋のひとつで三ノ橋渓谷に架かる偃月(えんげつ)橋(重文)、江戸時代、1603年建築。この橋を渡って龍吟院、即宗院に向う。単層切妻造。桁行11間、梁行1間。桟瓦葺きの木造橋廊。






東福寺三名橋のひとつ、三ノ橋渓谷に架かる臥雲橋、一番西に架かる木造橋廊。

境内を東から西に流れている

イブキ、高さ16.5m、周囲3.36m、枝張り東西10.5m、南北8m。開山・聖一国師が宋より持ち帰ったものともいう。かつては唐木とも呼ばれた。近代の仏殿火災により北側は損傷を受けている。京都市登録天然記念物。

献茶木、栃沢茶(静岡県)

献茶木、栃沢茶の花

「月輪殿下九条兼実公本墓の碑

本廟、最勝金剛院

九条兼実の墓、宝篋印塔は、最勝金剛院墓地の奥に立つ。


摩訶阿弥の森



【参照】境内の外、さらに西の伏見街道(本町通)に架かる石橋「伏水第二橋」「伏水第三橋」。

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東福寺 グーグルマッブ・ストリートビュー  平安京オーバレイマップ
東福寺 〒605-0981 京都市東山区本町15丁目778  075-561-0087  9:00-16:00(秋の特別拝観 9:00-16:30)

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