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泉涌寺・月輪・鳥部野 (京都市東山区) Sennyu-ji Temple |
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泉涌寺・月輪・鳥部野 | 泉涌寺・月輪・鳥部野 |
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![]() 総門、江戸時代 ![]() 四脚大門(重文) ![]() 大門(東山門)の「東山」の扁額、南宋時代の書家、伝張即之筆 ![]() 大門、玄武の彫り物 ![]() 大門、唐獅子の彫り物 ![]() ![]() ![]() ![]() 大門 ![]() 大門からの「降り参道」を経て、坂下に沈むように仏殿などの諸堂が建てられている。すり鉢の底に伽藍があるような配置は関西ではほかに延暦寺以外にはないという。 ![]() ![]() ミツバツツジ ![]() ![]() 伽藍は直線上に建てられている。 ![]() 月輪山 ![]() 仏殿(重文) ![]() 仏殿、正面 ![]() 仏殿、花頭窓 ![]() 仏殿 ![]() 仏殿、礎盤は、基壇、台石の上に載る。花崗岩製、柱はケヤキ材、内外2列に30数本並ぶ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 舎利殿(京都府指定文化財) ![]() ![]() 舎利殿 ![]() ![]() 舎利殿、蔀戸、花頭窓 ![]() ![]() ![]() 浴室(京都府指定文化財) ![]() 浴室 ![]() ![]() 泉涌水屋形(京都府指定文化財) ![]() 水屋形内から水が湧く。 ![]() 泉涌水屋形 ![]() 清少納言歌碑 ![]() 清少納言歌碑 ![]() ![]() 「最勝王経」碑、「金光明最勝王経」の略。金光明経は、4世紀頃に成立したと見られる仏教経典のひとつ。 ![]() 霊明殿の唐門、天智天皇以降の歴代皇族の尊牌を祀る。 ![]() 唐門 ![]() 唐門 ![]() 唐門 ![]() 勅使門 ![]() ![]() 霊明殿 ![]() ![]() 霊明殿 ![]() ![]() 霊明殿、妻 ![]() ![]() ![]() 霊明殿 ![]() 御座所 ![]() ![]() ![]() 本坊 ![]() 御座所(ござしょ)車寄 ![]() 本坊 ![]() ![]() 御座所内部から勅使門を望む。 ![]() 御座所 ![]() 御座所庭園 ![]() 御座所庭園、水鉢 ![]() ![]() ![]() 御座所庭園、池泉と枯山水の組み合わされた庭。近代、1884年作庭。 ![]() 御座所庭園、菊花文の蹲踞 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 御座所庭園、雪見燈籠 ![]() 御座所庭園、石燈籠 ![]() 海会堂(かいえどう) ![]() 華道月輪未生流、京都御所 ![]() 御陵拝所 ![]() 御陵拝所、白砂が敷かれている。奥に月輪陵、後輪陵 ![]() 御陵拝所、月輪陵、後輪陵 ![]() 御陵拝所 ![]() ![]() ![]() 御陵拝所、月輪陵、後輪陵の東南にある開山堂、無縫塔(卵塔)という卵形塔身の開山塔が立っているという。 ![]() ![]() 御陵拝所の手水舎、菊花紋の手水 ![]() 月輪陵、後輪陵、開山堂に至る参拝道 ![]() 経蔵 ![]() 経蔵 ![]() 経蔵 ![]() 楊貴妃観音堂 ![]() 楊貴妃観音堂、扁額 ![]() ![]() 楊貴妃観音堂 ![]() 楊貴妃観音堂 ![]() 楊貴妃観音堂 ![]() 楊貴妃観音堂の前庭、楊貴妃桜 ![]() 鐘楼 ![]() 「華」の石碑 ![]() 鎮守社 ![]() 鎮守社 ![]() 鎮守社 ![]() 鎮守社、拝殿 ![]() 鎮守社、本殿 ![]() 池 ![]() 池、今も湧水がある。 ![]() 解脱金剛宝塔、岡野聖憲、近代、1929年立教した。 ![]() ![]() 四条天皇御陵参道 ![]() 【参照】後堀河天皇観音寺陵 ![]() 【参照】孝明天皇、英照皇太后月輪陵 ![]() 【参照】加陽宮墓、久璽宮墓 ![]() 【参照】守脩親王墓、淑子内親王墓、朝彦親王墓 |
東山三十六峰の南端はかつて南鳥辺といわれ、葬送地として知られていた。この地を月輪(つきのわ)と呼ぶのは、東山より昇った月が鴨川に映る様を譬えたものという。 泉涌寺(せんにゅう-じ)境内は、泉山(せんざん)、月輪山(がちりん-ざん)を背にしている。皇室の菩提寺(香華院、こうげいん)として、唯一、「御寺(みてら)」と呼ばれている。天皇家の葬儀執行・供養を司ってきた。山号はかつて東山(とう-ざん)、いまは泉山(せん-ざん)という。 真言宗泉涌寺派総本山、本尊は仏殿に三世仏(釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒如来)を安置する。 神仏霊場会第121番、京都第41番。楊貴妃観音堂の楊貴妃観音菩薩は、洛陽三十三所観音巡礼第20番札所。泉山(せんざん)七福神、番外、楊貴妃観音菩薩。 楊貴妃観音は、美人祈願、縁結び、安産祈願の信仰を集める。御朱印(4種類)が授けられる。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 奈良時代、この地(山城国愛宕郡鳥部郷)の豪族・粟田氏は、鳥部野西北に宝皇寺(鳥部寺)という氏寺を建立する。 平安時代、天長年間(824-834)/807年、空海(弘法大師)は宋より帰国後、この地に「法輪寺(ほうりん-じ)」という庵を結んだという。天台宗、真言宗、禅宗、浄土宗の四宗兼学の寺として隆盛したという。(寺伝) 855年/856年、左大臣・藤原緒嗣(774-843)が帰依した僧・神修は、寺を中興した。天台宗の「仙遊寺(せんゆう-じ)」と改称されたという。また、神修は法輪寺(俗称・林寺、後に仙遊寺と改称)を創建したともいう。(『山城名勝志』1711年、『元亨釈書』1332年)。法輪寺は紀伊郡拜志郷(はやしごう)に建立されたという。 平安時代中期、荒廃する。 鎌倉時代、1218年、豊前守・宇都宮信房入道道賢が荒廃していた仙遊寺を寄進し、開祖になる俊芿はこの地に大伽藍を営む。寺名を「泉涌寺」としたともいう。(『元亨釈書』) 1220年、俊芿は、復興資金獲得のために「泉涌寺勧縁疏」(1219年)を記し、後鳥羽上皇(第82代)に献上した。(「泉涌寺文書」)。以後、伽藍、教学の再興が行われる。 1224年、第86代・後堀河天皇の綸旨により官寺、勅願寺になる。(『泉涌寺不可棄法師殿伝』) 1225年/1226年、伽藍は完成した。境内一角から清水が涌き出たことから、「泉涌く」という意味により、寺号は泉涌寺になったともいう。律宗(北京律)を本宗として、天台、真言、浄土、禅の兼学道場になる。 1227年、俊芿が亡くなり、南山に埋葬される。 1230年、湛海が宋より楊貴妃観音像、月蓋長者像を請来する。 1233年、後堀河天皇中宮の藻壁門院が亡くなり、月輪山に葬られる。 1234年、後堀河天皇が亡くなり、観音寺に埋葬される。 1242年、旧1月、第87代・四条天皇が12歳で亡くなる。大葬を引き受ける寺院はなく、泉涌寺が受ける。(『皇年代私記』)。御陵が造営され、葬儀、埋葬が行われる。天皇は俊芿の生まれ変わりといわれた。(『増鏡』)。以後、当山での天皇・皇族の葬儀が恒例になる。以来、皇室の香華所(菩提所)になる。 1248年、本朝二十一本山の制定により、北京律(ほっきょうりつ)の祖山になる。 1255年、湛海は宋より帰国し、持ち帰った泰山白蓮教寺の仏牙舎利(遺歯)、十六羅漢像、韋駄天像を泉涌寺に安置した。 南北朝時代、1336年、足利尊氏の軍が境内に陣を張り、放火、略奪する。 1350年、北朝第2代・光明天皇、東宮、女院が泉涌寺を詣でる。(『師守記』) 1371年、北朝第4代・後光厳上皇は、別院として雲龍院、龍華院を創建したという。 1374年、後光厳天皇が亡くなり火葬分骨、埋葬される。その後、歴代天皇の火葬、葬送地、山陵の地になる。皇室の香華院(こうげいん、菩提所)として信仰を集め、第122代・明治天皇までは念持仏が安置された。 1389年、北朝第5代・後円融天皇は雲龍院で如法写経会を修した。 室町時代、1393年、後円融天皇没後、火葬分骨される。 1428年、第101代・称光天皇の没後、火葬される。 1433年、後小松上皇(北朝第6代、歴代第100代)は没後、火葬され埋葬された。 1438年、足利義政は仏牙舎利を参拝する。 1441年、第102代・後花園天皇の御願により、曼荼羅供を修する。 1470年、旧6月、/1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)で全山焼失している。(『親長卿記』)。一部の子院のみが残る。以後、荒廃した。 1471年、御花園上皇が亡くなる。泉涌寺が焼失しており、悲田院で火葬、埋葬される。 1478年、第103代・後土御門天皇が再興のための綸旨を出す。 1486年、開山堂が再建される。御土御門天皇により「霊光」の勅額を贈られる。 1492年、後土御門天皇は再興を命じる綸旨を出す。 1500年、後土御門天皇は没後、朝廷衰微により44日目に火葬、埋葬された。 1522年、第104代・後柏原天皇は舎利殿再興のため、勧進の綸旨を出し、舎利殿が建立される。 1526年、後柏原天皇は没後に火葬された。 1551年、善能寺は勅命により山内に移転する。 1557年、第105代・後奈良天皇は没後に火葬された。 安土・桃山時代、1573年、足利義昭と織田信長の槙島の合戦の余波により荒廃する。 1574年、信長が再建したともいう。 1576年、信長により修造されたともいう。仏殿、方丈が建てられ、諸堂修理される。 1577年、信長は当寺に寺領400石、来迎院に50石を寄進する。 1584年、再興された。法安寺、楊柳寺が伏見より移築される。 1585年、豊臣秀吉は朱印状を下し、寺領94石を安堵した。 1586年、陽光院太上天皇(第106代・正親町天皇の第1皇子誠仁親王)が亡くなり葬られる。 1589年、秀吉は大仏敷地として寺領交換の朱印状を下す。 1593年、第106代・正親町天皇は没後に火葬された。 江戸時代、1610年、旧8月、伽藍の修復が行われている。 1611年/1606年、京都御所の紫宸殿が移され、海会堂(御法事堂とも)とされた。 1615年、徳川家康は寺禄601石の黒印状を下す。 1617年、第107代・後陽成天皇は没後に火葬される。 1615年、家康は、寺領601石の朱印状を寄せる。 1620年、後陽成天皇の生母・新上東門院が亡くなり葬られた。 1630年、後陽成天皇女御の中和門院が亡くなり葬られる。 1645年、戒光寺が移転され、再興された。 1646年、悲田院が移転され、復興される。 1648年、第110代・後光明天皇が天海版一切経を納める。 1649年、79世・覚宥が泉涌寺僧位次第を定める。 1654年、後光明天皇は没後に、それまでの火葬から土葬に変わり埋葬される。儀式は火葬で行われた。 1656年、後光明天皇生母の壬生院が亡くなり葬られた。 1664年、第108代・後水尾天皇、第112代・霊元天皇の勅により、徳川家綱は再興に着手する。 1668年、旧11月、家綱により仏殿が再建された。(「泉涌寺文書」) 1669年、後水尾天皇の院旨により、家綱が現在の仏殿、諸堂を再建する。知恩院門跡良純法親王が亡くなり葬られる。 1677年、第112代・霊元天皇生母の新広義門院が亡くなり葬られる。後水尾天皇勅願の妙応殿が創建される。 1678年、後水尾天皇中宮の東福門院が亡くなり葬られる。 1680年、後水尾天皇は没後埋葬される。第111代・後西天皇の生母・逢春門院が亡くなり葬られる。 1684年、旧5月、東福門院7回忌法要が、般舟寺とともに執り行われる。(『徳川実記』) 1685年、後西天皇は没後に埋葬された。 1690年、官よりの通達で修理造営は台命で行うことになる。 1692年、山内に塔頭14、寺庵6があった。 1696年、第109代・明正天皇は没後、埋葬される。 1697年、明正天皇の河原御所が移され景福殿になる。 1701年、旧12月、大修復が行われた。 1702年、修復が完成する。 1711年、第113代・東山天皇の旧殿が移され読経所になる。 1712年、霊元天皇の中宮・新上西門院が亡くなり葬られた。 1718年、大涅槃像が奉納される。 1720年、第114代・中御門天皇女御の新中和門院、東山天皇中宮・承秋門院が亡くなり葬られる。 1732年、霊元天皇は没後に埋葬された。 1737年、中御門天皇は没後に埋葬される。 1750年、第115代・桜町天皇は没後に埋葬される。 1758年、寺は、5000両の祠堂金を民間に貸し付けている。 1762年、第116代・桃園天皇は没後に埋葬された。 1779年、第118代・後桃園天皇は没後に埋葬される。 1783年、桜町天皇の女御の盛化門院が亡くなり葬られる。 1790年、桜町天皇女御の青綺門院が亡くなり葬られる。 1795年、桃園天皇女御の恭礼門院が亡くなり葬られた。 1800年、第119代・光格天皇第3皇子・成不動院宮が亡くなり葬られる。 1813年、第117代・後桜町天皇が亡くなり葬られた。 1821年、瑠璃光院宮、後水尾天皇第4皇女の妙荘厳院宮が亡くなり葬られる。 1823年、第120代・仁孝天皇女御の新皇嘉門院、仁孝天皇第1皇女の慈悲心院宮が亡くなり葬られる。 1831年、摩尼珠院が亡くなり霊雲院に葬られた。 1840年、第119代・光格天皇は没後に埋葬される。 1841年/1842年、旧11月、本坊、霊明殿など主な建物が焼失する。 1843年、光格天皇典侍の東京極院が亡くなり霊雲院に葬られた。 1845年、本坊が再建された。 1846年、第120代・仁孝天皇は没後に埋葬される。妙応殿が焼失する。光格天皇皇后・新清和院が亡くなり葬られる。 1847年、仁孝天皇女御・新朔平門院が亡くなり葬られる。 1852年、第121代・孝明天皇の第1皇女・普明照院宮が亡くなり葬られた。 1856年、孝明天皇生母の新侍賢門院が亡くなり葬られる。方丈、霊明殿が焼失する。 1858年、方丈、霊明殿などを焼失する。 1859年、孝明天皇第2皇女の冨貴宮が亡くなり葬られる。 1861年、方丈、霊明殿などが再建された。 1862年、山陵奉行・宇都宮藩家老・戸田忠至が泉涌寺の調査に入る。 1864年、将軍としては初めて徳川家茂が参詣し、寺領300石を寄進する。霊明殿を修復する。 1865年、山陵の修陵が終わる。陵の守戸が置かれ、泉涌寺が任じられた。 1867年、第121代・孝明天皇は没後に埋葬される。土葬に変わり、後月輪東山陵に葬られた。 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈とともに、祭礼は神祓式が原則になる。塔頭は統廃され、従来の墓域は上地された。宮内省諸書陵(現書陵部)の所掌になり、境内地のみが残された。御所にあった仏具は当寺に移されている。寺領の奉還、宮内省による永続金の下付があり、上知による境内の減少もあった。閏4月、第122代・明治天皇は孝明天皇陵に参拝し、霊明殿には参詣しなかった。 1869年、太政官布告により、泉涌寺、般舟院(はんじゅいん)以外での菊の紋章使用が禁じられる。 1870年、御陵は政府直属で守衛される。 1871年、上知令により20万坪の境内は五分の一に減じた。天皇陵が泉涌寺から切り離された。 1872年、真言宗古義派になる。無檀家、無禄の末寺が廃止、統合された。 1873年、恭明宮(きょうめいぐう、東山区)は廃止になる。泉涌寺に霊牌殿、位牌・念持仏が遷された。 1876年、京都御所御黒戸の念持仏を海会堂へ遷す。府下各寺院にあった皇室の尊牌、肖像画が泉涌寺に合祀される。6月、宮内省より永続金年額1200円が下付された。吉峯寺(西京区)の覚快・道覚・慈道・尊円・尊道の五親王尊牌が泉涌寺に遷された。 1877年、第122代・明治天皇、皇太后、皇后が山陵を参拝する。天皇らは方丈で休息した。 1878年、御陵は、宮内省の所管になる。 1879年、宮内省より永続金年額1800円が下付された。 1880年、当寺は、天皇家の私的な菩提寺として再生する。明治天皇は、霊明殿、御影堂などを参拝した。この年より1882年まで、御里御殿内に京都府画学校が置かれた。 1882年、10月、本坊、方丈、霊明殿などが焼失している。 1884年、京都御所内皇后の御里御殿(1818年築造)が移され御座所になる。霊明殿、海会堂などが再建される。陵墓付属地(17万坪)の保護が寺に委任された。 1907年、真言宗泉涌寺派として創立した。 1912年、歴代の位牌、肖像画の護持料が年額4200円に増額された。 1915年、寺内正毅が献上した海印寺高麗版大蔵経が宮内省より寄進される。 現代、1955年以降、秘仏の楊貴妃観世音菩薩の厨子が開扉される。 1976年、妙応殿が復興された。 2005年、「平成洛陽三十三所観音」が復興された。 ◆神修 平安時代の僧・神修(じんしゅう、?-?)。詳細不明。男性。藤原緒嗣(773-843)が帰依した。法輪寺を中興し、天台宗の仙遊寺(せんゆうじ)と改称したという。また、法輪寺(後に仙遊寺と改称)を創建したともいう。 ◆藤原 緒嗣 奈良時代-平安時代前期の公卿・藤原 緒嗣(ふじわら-の-おつぐ、774-843)。男性。父・式家百川、母・伊勢大津の娘。父擁立の第50代・桓武天皇の恩寵により、802年、参議となる。805年、天皇面前での菅野道真との徳政相論では、平安京造営と蝦夷経略を批判し、造宮職は廃止された。808年、その蝦夷経略に関わる陸奥出羽按察使に任命される。832年、左大臣。法輪寺、今熊野観音寺を造営したという。『新撰姓氏録』『日本後紀』編纂に関与した。70歳。 ◆俊芿 平安時代後期-鎌倉時代前期の僧・俊芿(しゅんじょう、1166-1227)。男性。字は我禅、号は不可棄、勅号は大興正法国師。肥後(熊本県)の生まれ。生後に父はなく、すぐに村はずれの木の下に3日間捨て置かれたという。このため後に号を「不可棄」とした。4歳で仏門に入る。1116年、14歳で飯田山常楽寺の真俊法師に師事し天台、真言を学ぶ。19歳で観世音寺で具足戒を受けた。1194年、正法寺を開く。1199年、南宋江南に渡り、禅を蒙庵元聡、律を如庵了宏、天台を北峯宗印に学び、また浄土、朱子学を修めた。1213年(1211年とも)、帰国、仏舎利三粒を請来したともいう。1215年(1218年とも)、寺中清衆の先駆となる「清衆規式」を定める。1218年、正法寺、仙遊寺を泉涌寺と改めた。その後、明庵栄西に迎えられ建仁寺に入る。律を基礎とした諸宗兼学で、南宋仏教の儀を伝える最初の寺院である泉涌寺を開いた。62歳。 宋風の規則を定めた「清衆規式」は、寺中清規の先駆になり「北京律」と呼ばれた。真言院を設け、潅頂などの修法の場とした。泉涌寺南山に葬られ、開山塔が慕塔となる。後鳥羽上皇(第82代)、土御門上皇(第83代)、順徳上皇(第84代)などが帰依した。夭逝した第87代・四条天皇(1231-1242)は俊芿の生まれ変わりとの伝承も生まれた。 ◆宇都宮 信房 平安時代後期-鎌倉時代前期の武将・宇都宮 信房(うつのみや-のぶふさ、1156-1234)。男性。中原信房、道賢。父・宗房。下野国(栃木県)を本貫地とし、源頼朝に従う。平家追討により豊前国、日向国などの所領、所職を得る。1187年、天野遠景と鬼界島の平家残党追討を企てた。1217年、出家し道賢と号した。79歳。 ◆清 少納言 平安時代前期-後期の歌人・清 少納言(せい-しょうなごん、966?-1025?)。女性。父・歌人・清原元輔。曾祖父・清原深養父(ふかやぶ)。981年頃、橘則光と結婚し、982年、則長を産んだ。まもなく離婚した。若くして小白河での上達部(かんだちめ)の法華八講に列席した。990年、父没後、991年頃、少納言・藤原信義/藤原棟世(むねよ)と再婚する。993年、関白・藤原道隆の娘・第66代・一条天皇中宮・定子(ていし)に出仕し、寵愛を受け10年余り女房生活を送った。四納言(藤原公任、源俊賢、藤原斉信、藤原行成)と交友した。996年、中宮一家と対立した左大臣・藤原道長方に内通したとの噂が立ち、私邸に籠居した。1000年、定子の没後、その遺児・脩子内親王に仕える。その後、前摂津守・藤原棟世(むねよ)と三度目の結婚をし、娘・歌人・小馬命婦(こまのみょうぶ)を産んだともいう。後に別居した。晩年、父・元輔の邸宅があった現在の観音寺境内付近に暮らしたという。清少納言が仕えた定子皇后、皇后、女御らは鳥辺野陵(今熊野観音寺北付近)に葬られる。清少納言は尼になり、皇后を偲び月輪近くに庵を結び隠棲し、念仏に明け暮れたという。随筆集『枕草子』、歌集『清少納言集』、『小倉百人一首』に入集。59歳?。 漢詩文の教養があった。中古三十六歌仙のひとり。和泉式部、紫式部とともに平安時代の女性文学を代表した。和泉式部、赤染衛門らと交流した。 泉涌寺境内には1974年建立の清少納言歌碑が立つ。藤原行成と交わした歌になる。「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」(百人一首)。「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」。1974年、角田文衞(1913-2008)平安博物館館長の発案により建立された。吉野石に刻まれている。 ◆四条 天皇 鎌倉時代中期の第87代・四条 天皇(しじょう-てんのう、1231-1242)。男性。名は秀仁 (みつひと) 。父・第86代・後堀河天皇の第1皇子。1231年、親王、後堀河天皇皇太子となる。1232年、2歳で即位した。後堀河上皇の院政、その後は、外祖父・九条道家、舅・西園寺公経が政務を執る。1241年、藤原彦子を女御とする。だが翌年、事故死した。12歳。追号は四条院。 1221年、承久の乱後の幕府への反感から、幕府に与した天皇の大葬を引き受ける寺院はなかったが、泉涌寺が受けた。天皇は開祖・俊芿の生まれ変わりともいわれた。月輪陵(東山区)に埋葬される。12歳。 ◆湛海 鎌倉時代中期の僧・湛海(たんかい、 ?-? )。詳細不明。男性。姓は山田、宝山律師。奈良で戒律を学び、泉涌寺の俊芿に師事した。1237年、宋に渡り、1244年、経論数千巻、楊柳観音像などを持って帰国した。その後再び入宋し、白蓮教寺の復興に尽くし仏舎利を与えられる。1255年、帰国し、泉涌寺に仏舎利を納めた。『菩薩戒本』などを著わす。 ◆憲静 鎌倉時代後期の真言宗の僧・憲静(けんじょう、? -1295)。詳細不明。字は願行(がんぎょう)、諡号は宗灯(そうとう)律師。 深草・嘉祥寺で出家した。泉涌寺の智鏡、醍醐寺・頼賢らに密教などを学ぶ。泉涌寺6世、宮中で講義。のち鎌倉・大楽寺、理智光寺の開山、相模・大山寺を再建。1279年、東寺大勧進となり東寺、高野山を復興した。 ◆竹厳 聖皐 鎌倉時代前期-室町時代前期の真言宗の僧・竹厳 聖皐(ちくがん-しょうこう、1324-1402)。詳細不明。俗姓は藤原、字は竹巌。京都の生まれ。泉涌寺の拙叟全珍に師事し真言と律を学ぶ。後に泉涌寺住持となる。後光厳上皇、後円融天皇、後小松天皇の帰依を受ける。龍華院、雲龍院を開き、泉涌寺(東山区)の如法経書写会を始めた。78歳。 ◆狩野 山雪 安土・桃山時代-江戸時代前期の画家・狩野 山雪(かのう-さんせつ、1589-1651)。男性。名は光家、別号は蛇足軒、桃源子、松柏山人。肥前(佐賀県)の生まれ。父・千賀道元。一家で大坂に移り、16歳で父没後、狩野山楽の門人になる。山楽の娘婿になり、狩野氏を継いだ。1629年頃、山楽とともに「当麻寺縁起絵巻」、1631年、山楽に代わり妙心寺・天球院の障壁画を手掛ける。1632年、林羅山の依頼で、林氏学問所先聖殿「歴聖大儒像」、1635年、山楽没後京狩野2代を継ぐ。1639年、清水寺の「繋馬図絵馬」、1647年、九条家の命により東福寺蔵の伝明兆筆「三十三観音像」中の2幅を補作、法橋に叙せられる。同年、泉涌寺舎利殿の天井画雲竜図を制作した。1649年、何らかの理由により投獄され、没した。泉涌寺に葬られた。63歳。 400人の画人伝『本朝画史』(1691)は草稿段階で山雪が亡くなり、後に子・狩野永納が引き継いで刊行した。 ◆狩野 山楽 室町時代後期-江戸時代前期の画家・狩野 山楽(かのう-さんらく、1559-1635)。男性。本姓は木村、名は光頼、通称は修理亮。近江(滋賀県)の生まれ。父・木村永光は浅井長政の家臣。当初は長政に仕え、後に豊臣秀吉の近侍となる。秀吉の推挙で狩野永徳の門人となり、養子となり狩野氏を許された。1590年、秀吉の命により、病に倒れた師・永徳を継ぎ、東福寺法堂「蟠竜図天井画」(1881年焼失)の修復を数日で完成させる。1594年、伏見城、1597年、再建の伏見城、1604年、大坂城の千畳敷大広間の障壁画にも参加した。1615年、豊臣家滅亡で大坂城を脱出し、男山八幡宮の社僧で山楽の弟子・松花堂昭乗のもとに身を隠した。於江与(崇徳院)らの取成しにより京都に帰る。2代将軍徳川秀忠、3代将軍家光に重用され、再建された四天王寺、大坂城本丸障壁画、妙心寺・天球院障壁画などにも加わる。代表作に正伝寺方丈、養源院の障壁画がある。77歳。 泉涌寺(東山区)に葬られた。山楽、山雪の子孫は京都に住み京狩野と呼ばれた。 ◆明誉 古磵 江戸時代前期-中期の浄土宗の画僧・明誉 古磵(みょうよ-こかん、1653-1717)詳細不明。男性。号は澄蓮社明誉、虚舟。江戸・増上寺で学び、京都・報恩寺の住職になる。画を狩野永納に学ぶ。奈良では郡山・西岸寺で活動し、後年、薬師寺塔頭・地蔵院に滞在した。薬師寺の画作を担い、多数の作品を納めた。65歳。 幅広い画風で、著色仏画、社寺縁起絵巻、掛幅画、襖絵、水墨技法を用いた作例、仏教説話版本の挿図などがある。舜昌(しゅんじょう)編の「法然上人行状画図」を模し「円光大師伝」(詞書は北向雲竹)を刊行した。「円光大師号絵詞伝」(文・湛澄)の絵を描いた。大黒天像を得意にした。 ◆徳川 和子 江戸時代前期の女性・徳川 和子(とくがわ-まさこ/かずこ、1607-1678)。女性。東福門院(とうふくもんいん)。父・徳川秀忠、母・正室・江(崇源院)の5女、徳川家康の内孫。江戸城大奥で誕生する。1612年、第108代・後水尾天皇が即位、家康は政略結婚となる和子入内を申し入れ、1614年、入内宣旨が出される。だが、1614-1615年、大坂の陣、1616年、家康、後陽成院が亡くなり入内は延期された。1618年、女御御殿の造営が開始される。天皇の寵愛した女官・四辻与津子(お与津御寮人)が皇子・賀茂宮を出産し、入内は問題視される。(およつ御寮人事件)。1620年、和子は従三位に除せられ、天皇の女御として入内する。1623年、皇女・女一宮興子内親王(後の第109代・明正天皇)が誕生する。1624年、冊立され中宮となり、1625年、女二宮が生まれた。1626年、二条行幸が行われた。高仁親王を出産した。1627年、高仁親王に続いて、男二宮も誕生直後に没した。1629年、紫衣事件により天皇は突然譲位した。和子に院号宣下があり、東福門院の号を賜る。1630年、女一宮が即位し、明正天皇となる。72歳。 泉涌寺月輪陵域(東山区)に葬られ、宝篋印塔が立つ。 ◆狩野 探幽 江戸時代前期の画家・狩野 探幽(かのう-たんゆう、1602-1674)。男性。幼名は釆女(うねめ)、通称は守信、別号は探幽斎、生明、白蓮子、筆峰居士など。山城国(京都府)の生まれ。父・狩野孝信の長男。次弟・尚信、末弟・安信、永徳の孫。幼少より絵を描く。父、狩野興以に学ぶ。1611年、「山野胡馬図」を描き、江月宗玩(こうげつ-そうがん)に賛を求めた。1612年、駿府(静岡県)に赴き徳川家康に謁し、江戸へ出る。1614年、2代将軍・徳川秀忠の御前で「海棠(かいどう)に猫」の席画を描き、祖父・永徳の再来と称賛された。1616年、江戸城家康霊廟天画を描く。1617年、江戸幕府御用絵師になる。1619年、女御御対面所三之間障壁を描く。1621年、鍛冶橋門外に屋敷を拝領した。1623年、弟・安信に狩野宗家を譲り、自らは別家し鍛冶橋狩野家を興した。1626年、第108代・後水尾天皇の二条行幸に際し上洛し、二条城障壁画を一門を率いて完成する。1627年、大坂城の障壁画、1632年、徳川秀忠霊廟、1633年、名古屋城上洛殿の障壁画「帝鑑図」・「四季花鳥図」などを手掛け、江戸狩野様式を確立した。1635年、出家し、江月宗玩より探幽斎の号を授かる。弟子・益信を養子に迎える。1638年、法眼に叙された。1640年、「東照宮縁起絵巻」(日光東照宮蔵)を奉納する。1641年、京都御所造営時の内裏再興に加わる。1647年、江戸城の障壁画、1648年、大徳寺本坊方丈の障壁画「山水図」、1650年、加賀支藩大聖寺藩主・前田利治の江戸屋敷に、俵屋宗雪と共に「金碧草花図」を描く。1656年、大火により家は焼失した。1662年、画家として最高位の宮内卿法印に叙される。墓は池上本門寺(東京都)にある。73歳。 狩野派中興の祖、鍛冶橋狩野派の祖。作風は、初期の二条城二の丸殿舎大広間襖絵「松に鷹図」では、安土・桃山時代様式による永徳の作風復活を志した。その後、江戸狩野様式を創始する。余白の多い水墨画により淡泊・瀟洒な作風は、以後の狩野派規範になる。幕命により、日光東照宮・増上寺・寛永寺・江戸城紅葉山などの徳川家霊廟装飾、大坂城・二条城・名古屋城・京都御所(寛永・承応・寛文度造営)・南禅寺・大徳寺・聖衆来迎寺などの障壁画制作に関わった。一門の組織整備を行い、奥絵師を頂点に表絵師・諸大名お抱え絵師・町狩野と組織化した。ほか主要作品は、南禅寺本坊小方丈「竹林群虎図」、二条城二の丸御殿障壁画「鵜飼図屏風」、 「紫宸殿賢聖障子絵」などがある。古画の模写・写生帳「探幽縮図」も残している。小堀遠州、松花堂昭和乗り、林羅山、佐久間将監、江月宗玩、隠元隆琦らと親交があった。 ◆狩野 益信 江戸時代前期の画家・狩野 益信(かのう-ますのぶ、1625-1694)。男性。幼名は山三郎、名は益信、通称は采女、号は洞雲、宗深道人、松陰子(しょういんし)など。父・彫金家・後藤立乗。幼時より松花堂昭乗に書を学び、好んで画を描いた。1635年、狩野探幽の養子になる。1659年、江戸城本丸御殿障壁画制作に参加した。探幽の実子・狩野探信守政、探雪が各7歳、5歳になり、益信は35歳で別家し、駿河台家の祖になる。1665年、隠元隆埼(いんげん-りゅうき)より洞雲の号を与えられる。1667年、江戸屋敷を拝領した。1682年度の贈朝屏風を制作し、二十人扶持を拝領する。内裏造営の寛永度(1641-1642)、承応度(1654-1655)、寛文度(1662)、延宝度(1674-1675)に参加し、探幽、狩野安信とともに活躍した。1691年、徳川家光に好まれ法眼に叙される。代表作として、「獅子図・虎図・花島図襖絵」(妙心寺大方丈)、「琴棋書画・四愛図襖絵」(大徳寺玉林院)など。69歳。 駿河台狩野家の祖。探幽以後を担った主要画家だった。探幽、安信、常信らとの合作も多い。 ◆狩野 永納 江戸時代前期の画家・狩野 永納(かのう-えいのう、1631-1697)。男性。名は吉信、字は伯受、別号は一陽斎、梅岳、素絢軒、山静、通称は縫殿助。京都の生まれ。父・狩野山雪の長男。父、後に狩野安信に絵を学んだという。1693年、父の手録をもとに、黒川道祐の援助を得て『本朝画伝』(のち「本朝画史」と改題)5巻を刊行した。日本初の画人伝であり、日本絵画史上の重要な基礎資料の一つになった。代表作「賀茂競馬図屏風」、「四季花鳥図屏風」など。67歳。 泉涌寺(東山区)に葬られた。 ◆浮田 一蕙 江戸時代後期の画家・勤皇家・浮田 一蕙(うきた-いっけい、1795-1859)。男性。姓は豊臣、初名は公信、可為(よしため)、通称は内蔵輔、号は為牛、一蕙斎、昔男精舎など。京都の生まれ。宇喜多秀家の後裔と自称した。田中訥言(たなか-とつげん)に師事し、やまと絵の復興に努めた。1853年、ペリー来航時、「神風夷艦を覆するの図」で攘夷論を説く。1858年、絶筆「婚怪草紙絵巻」は、皇女和宮降嫁事件を風刺した。安政の大獄で子・可成とともに捕らえられ江戸で投獄された。1859年、釈放の後、京都で病没した。65歳。 代表作は泉涌寺(東山区)に歴史画「子日遊図屏風(ねのひあそびずびょうぶ)」、「大堰川舟遊図屏風」などがある。詩文、和歌、書道、有職故実にも通じた。 ◆仏像・木像 ◈仏殿内陣、須弥檀上には本尊の美仏「丈六三世仏(じょうろく-さんぜぶつ)」が安置されている。俊芿が学んだ頃の南宋の寺に倣い、三世(過去・現在・未来)に渡り衆生の安泰・幸福を守る阿弥陀信仰に依拠している。 既に涅槃に入った釈迦如来・過去世(過去)、現在も西方極楽浄土で衆生救済活動を続ける阿弥陀如来・現世(現在)、56億7000万年後に未来仏として現れる弥勒如来・来世(未来)になる。 ⋄中央の「釈迦如来」(重文)(88㎝)は、平安時代末期-鎌倉時代の運慶作という。施無畏与願印を結ぶ。 ⋄向かって右の「阿弥陀如来」(88㎝)は、上品上生の弥陀定印を結ぶ。 ⋄左の「弥勒如来」(88㎝)は施無畏触地印を結ぶ。 いずれも等身坐像、木造、漆箔、光背・台座・天蓋付。 ◈舎利殿宝塔に「韋駄天(いだてん)立像」(90㎝)(附・重文)が安置されている。南宋時代作で、鎌倉時代前期、1228年/13世紀中期の請来ともいう。舎利(釈迦の歯、仏牙舎利)とともにもたらされた。楊貴妃観音像と面貌・用材、髪・甲飾りなどの細部の造形に練物多用の点など類似性が見られる。国内の韋駄天像内で最古級の作とみられている。童子形で、兜、甲冑、宝棒を抱え合掌している。 ⋄背後に、宝塔があり、仏牙舎利が納められている。俊足の韋駄天は、逃げ足の速い鬼に舎利を奪われたものの、追いかけてとり戻したという。 ⋄「月蓋(がつがい)長者立像」(附・重文)も南宋時代のものになる。楊貴妃観音像と面貌・用材、髪・甲飾りなどの細部の造形に練物多用しているなど類似性がある。 ◈海会堂に鎌倉時代の「俊芿律師坐像」(京都府指定文化財)、四条天皇念持仏の平安時代後期の「十一面千手観世音捕殺立像」を安置する。 ◈妙応殿に「釈迦如来像」がある。隠元(1592-1673)により請来された後水尾天皇念持仏になる。 ◈観音堂に美仏「楊貴妃観音像(聖観音[しょうかんのん])」(重文)(130.5/ 114.8㎝)が安置されている。中国・南宋時代(1127-1279)作で、鎌倉時代前期、1230年6月/1255年に湛海により南宋慶元府の白蓮寺から請来されたという。普陀山(中国浙江省)の海難救済などの霊験あるとされた観音像を摸刻している。 当初は「楊柳(ようりゅう)観音」と呼ばれ、法堂2階に脇侍として韋駄天立像・月蓋(がつがい)長者立像が安置されていた。渡宋守護・観音懺法儀礼の本尊になった。近世初期以降には、洛陽三十三所観音の復興に伴い、札所本尊「楊貴妃観音」として信仰を集めた。現代、1955年までは100年に一度しか開扉されなかった。 等身大像であり、なで肩、面長な顔立ちで、目尻の上がった切れ長の目、整った鼻筋、紅を差したような唇に表現される。耳たぶは長大で肉厚になっており、美しい表情をしている。頭には豪華で赤・金・緑と色鮮やかな大型山形の宝相華(ほうそうげ)唐草透彫を戴き、截金文様が施されている。白色の内衣、両肩と両袖を覆う上衣を纏う。両手には白檀の宝相華を持って坐している。胸飾りには吹き玉、木の実の装飾がみられる。 材は日本にはみられない白く堅密な材とも、日本産の檜材ともいう。頭体は別材から彫出し、頭部は前後三材矧ぎにし、頭髪に練物を盛り上げ塑形している。体部は数材を箱組状に組み付け、両体側材・両足部を矧ぐ。宝冠・胸飾・持物も当初のもので、本体表面の彩色、着衣の直線的な幾何学文を中心にした切金文様もよく残っている。 南宋時代の作風特徴としては、頭部は前に差し出し、やや猫背気味で奥行の深い側面、簡略化された体躯の肉取・着衣表現、内衣腹部の渦文状の衣文表現、頭髪・垂髪・装身具塑形に練物を多用するなどがある。 なお、近年のX線調査により像胎内には五輪塔形の「舎利容器」(3.6㎝)に入った3粒の舎利が納められていることが判明している。中国の地で入れられた初例とも、日本で鎌倉時代に納められたともいう。木造、寄木造、彩色、截金。 唐の玄宗皇帝妃・楊貴妃(ようきひ、719-756)は、その美貌のために、17歳で玄宗皇帝の子・寿王の妃になる。やがて皇帝は、自らの妃にしてしまう。皇帝は、愛欲におぼれ失政が続く。756年、臣下により安禄山の乱が起こり、楊貴妃は捕えられた。宦官に責を迫られた皇帝は、やむなく楊貴妃を殺害する。失意のため皇帝は病になり、757年、妃を悼みその冥福を祈り、容姿を写した等身大の坐像を香木により造る。その後、皇帝の病は平癒したという。後に、像は補陀落山円通宝閣に安置された。寺が荒廃していた際に、湛海により羅漢像10体と共に日本に持ち帰られ、当寺に安置されたという。伝承として、玄宗皇帝が日本に攻め込もうとした際に、熱田明神がこれを案じて楊貴妃に姿を変え、思いとどまらせたともいう。 美容関係者、女性の間に、美人祈願、縁結び、安産などの信仰を集めている。 ほかに、鎌倉時代から江戸時代の「十六羅漢像」(6体のみ)、1体の「僧形像」が安置されている。 ◆建築 泉涌寺には、俊芿により宋風伽藍配置が最初に伝えられた。本尊、八角経蔵に唐本一切経を納めること、僧の生活様式、規式も宋風に倣った。 伽藍配置は西の大門から東へ西面して仏殿、舎利殿、勅使門、御座所、海会堂と直線上に建てられている。大門からの参道は急な降り坂になっており、坂下正面の仏殿とその奥の舎利殿を見下ろす。だが、坂を下るごとに逆に伽藍がせり上がってくるという視覚効果がある。創建当初は、宋風に惣門、三門、法堂、仏殿、舎利殿を直線状に置き、これらを回廊で繋いでいたとみられている。 ◈「総門」は、江戸時代の建立による。 ◈「四脚大門(東山門)」(重文)は、安土・桃山時代-江戸時代の慶長年間(1596-1615)造営の内裏門(南門)を移築した。蟇股に唐獅子、龍、麒麟、獏などが彫られている。「東山」の扁額は、南宋時代の書家、伝張即之筆による。本瓦葺、四脚門。 ◈「勅使門」は、江戸時代後期、1845年に再建された。四脚門。 ◈「御座所(ござしょ)」は本坊の南にあり、江戸時代造営の京都御所・御里(おさと)御殿が、近代、1884年(1881年とも)に移築された。御殿は、江戸時代後期、1815年(1818年とも)、第120代・仁孝天皇女御・鷹司繋子(たかつかさ-つなこ、1798-1823)の入内に際して、現在の御所内「母と子の公園」付近に造営(修復とも)された。御殿は、皇后、中宮、女御などが出産の際に使っていた。天皇、皇族の御陵参詣の際の休所になっている。六室あり、南東に玉座の間があり、玉座、第119代・光格天皇遺品の桑製の机が置かれている。東北の部屋は、かつて皇后の御産所だった。宮廷絵師によって描かれた障壁画で飾られている。 ◈「霊明殿」は近代、1884年に再建された。内陣(5室)、中陣、外陣に分かれている。荘厳具は第122代・明治天皇以降の皇族の寄進による。内陣に木像四条天皇御尊像、そのほか歴代天皇(桓武天皇-昭和天皇)、皇后、親王などの尊牌179基が祀られている。毎日、回向が行われている。殿正面の扁額「霊明」は、第111代・後西天皇(1638-1685)による。入母屋造、檜皮葺、寝殿風。 ◈「大玄関」は、江戸時代後期、安政年間(1854-1859)造営の京都御所の部材が用いられている。御座所の侍の間、女中の間は、江戸時代後期、1855年に建てられた御所西対屋(にしたいのや)が移築された。従者の間、勅使の間、王座の間には、玉座、東に床の間がある。皇族の間は、出産の間とみられている。ほかに門跡の間、女官の間がある。 ◈「小方丈」は、江戸時代後期、安政年間(1854-1859)に造営された御所の東・西対屋を移築した。 ◈「四脚大門」(重文)は、安土・桃山時代-江戸時代前期の慶長年間(1596-1615)造営の内裏門(南門)を移築した。蟇股に唐獅子、龍、麒麟、獏などが彫られている。本瓦葺、四脚門。 ◈「仏殿」(重文)は、江戸時代前期、1668年に4代将軍・徳川家綱により再建された。唐様建築、禅宗様仏殿遺構の中では最大規模になる。軒下に組物、花頭窓。内陣、外陣があり、床は板石敷。内陣(4間4間)に鎌倉時代-江戸時代の釈迦、阿弥陀、弥勒如来の三尊仏(三世仏)を安置する。外陣奥左に三祖像、右土地堂に江戸時代の康乗作の伽藍神を祀る。三尊仏の後ろの壁には江戸時代の狩野探幽(1602-1674)筆の「白衣観音像」(1669)がある。また、江戸時代前期、1669年に張られた天井龍(蟠龍図)、狩野探幽筆がある。桁間5間、梁間5間、一重裳階付入母屋造、本瓦葺。 ◈「舎利殿」(京都府指定文化財)は、江戸時代前期、寛永年間(1624-1643)に御所の御殿が改装再建された。周囲に縁、白壁に蔀戸、花頭窓、床は拭き板敷。内陣宝塔内に、湛海が宋から持ち帰ったという仏牙舎利を安置する。天井の龍は狩野山雪(1590-1651)筆で、「鳴龍」(1647)といわれている。堂内には韋駄天立像があり、謡曲「舎利」の舞台となった。足疾鬼(そくしつき)が舎利殿に飛び上がり、舎利を奪い飛び去るが、守護する韋駄天がこれを取り返す。話は『太平記』にもある。内陣板壁に江戸時代の6代・木村了琢の「羅漢図」(1688)がある。5間4間、1間の裳階付。入母屋造、本瓦葺。 ◈「海会堂(かいえどう)」は、近代、1884年に御所の仏間・御黒戸(おくろど)が再建された。外面白壁倉造。 歴代天皇と皇族の念持仏、開山・月輪大師像も祀られている。 ◈「開山堂」(重文)は、江戸時代前期、寛文年間(1661-1673)に修造された。月輪陵(つきのわのみささぎ)、後月輪陵の奥、境内の南東にある。堂内に、鎌倉時代の宋人石工作とみられる石造の開山塔(重文)が置かれている。開山没後まもなく建立されたとみられている。これは、無縫塔といわれる卵形の塔身の塔で、卵塔ともいう。 ◈「御陵拝所」には、天皇皇后陵墓、月輪陵(つきのわのみささぎ)、後月輪陵、四条天皇などの墓碑が立っている。背後は泉山(月輪山)で、後堀河天皇、考明天皇、英照皇太后御陵もある。背後に、月輪山が迫る。 ◈「楊貴妃観音堂」は、江戸時代前期、寛文年間(1661-1673)の建立ともいう。安土・桃山時代、1575年に織田信長によるともいう。寄棟造。 湛海はこれを日本に持ち帰り当寺に安置したという。観音像は寄木造、手に宝相華、宝相華唐草の宝冠、観音の冠を重ねている。 ほかに、鎌倉時代から江戸時代の十六羅漢像(6体のみ)、1体の僧形像が安置されている。 ◈「泉涌水屋形」(京都府指定文化財)は、江戸時代前期、1667年に再建された。正面に軒唐破風、入り口は桟唐戸、上部欄間、天井に別所如閑筆「蟠龍図」の鏡天井、泉涌寺の名の由来となった泉涌水がいまも湧く。2間1間、背面1間。入母屋造、杮(こけら)葺。 ◈「浴室」(京都府指定文化財)は、江戸時代の建立による。床下に鉄釜が置かれ、沸かした湯で蒸し風呂となる。僧が仏前に仕える前に身を清めた。 ◈「鎮守社」は、江戸時代前期、1668年に建立された。拝殿と本殿がある。本殿は東面している。豊川稲荷が勧請された。本殿は一間社流造、銅板葺。 ◆文化財 多くの歴代天皇の御真影、皇室関係の遺品、仏画、経典、古文書などがある。 ◈「涌寺勧縁疏」(国宝)は、鎌倉時代前期、1219年作、俊芿筆による。 ◈「絹本著色道宣律師」(重文)は、南宋時代作になる。 ◈「元照律師像」(重文)は、南宋時代作。 ◈「俊芿律師像」(重文)は、鎌倉時代作で、自賛、伝・周坦之筆による。宋式に法被を被せた曲ろくといわれる椅子に座り、右手には払子を持つ。 ◈絹本著色「涅槃図(ねはんず、大涅槃図)」は、江戸時代中期作、画僧・明誉(古澗明誉)筆による。「京都三大涅槃図」(ほかに東福寺、本法寺)の一つになる。日本最大で、満月の下、頭を北にして横たわる釈迦(2.9m)を中心に、弟子・動物が嘆き悲しんでいる。人物は等身大で描かれている。 縦15m/16m×横7.3m/8m、重量150kg。 ◈「(北朝第5代)後円融天皇尊影」(重文)は、室町時代作であり、土佐光信(1434?-1525?)筆による。 「(第81代)安徳天皇尊影」は、安土・桃山時代作になる。 ◈「(第87代)四条天皇像」は、江戸時代作になる。 ◈「(第112代)霊元法皇像」は、江戸時代作になる。縦105×横49㎝。 ◈「(第115代)桜町天皇像」は、江戸時代中期作、風早公雄(1721-1787)筆による。 ◈紙本墨書「補陀海山円通宝閣額残闕(ざんげつ)」1面は、鎌倉時代中期、1276年作になる。思照が額表・額裏を刻んでいる。額裏面より、1230年に湛海が観音像・扁額を請来したことが判明した。縦96.5×横16㎝。 ◈紙本墨書「泉涌寺再興日次記(ひなみき)」1冊は、江戸時代作になる。室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後の伽藍復興を記している。堂宇・仏像の安置場所などが確認できる。江戸時代前期、1665年条が楊貴妃観音の造仏伝承の初見とみられている。縦30.1×横20.7㎝。 ◈紙本墨書「泉涌寺殿堂幷什物式目(じゅうもつしきもつ)」1冊は、江戸時代後期、1844作になる。観音寺住持(泉涌寺前住)・象海が、江戸時代中期、1718年作の卓岩(泉涌寺前住)筆の原本を書写した。楊貴妃観音の造仏伝承が記されている。縦30×横20.8㎝。 ◈紙本著色「長恨歌絵巻」巻子装3巻は、江戸時代、17世紀後半作になる。中国・唐の玄宗皇帝と楊貴妃の傾国物語を記している。上中下巻縦32.5×上巻全長1153.9・中巻全長1287.7・下巻全長1172.3㎝。 ◈「源氏物語図屏風」は、江戸時代後期-近代の画家・土佐光文(1812-1879 )筆による。 ◈「朝鮮通信使歓待図屏風」(世界の記憶、京都市指定文化財)は、江戸時代作、狩野益信(1625-1694)・筆による。通信使の行列・日本側のもてなしを受ける様子を描いている。 ◈除災、招福の法要である星供では「星曼荼羅」が掛けられる。北斗曼荼羅ともいわれる。西洋と東洋の星座がともに描かれている。釈尊を中心にして、九曜星、北斗七星、十二宮、二十八宿の星が描かれている。星の運行が人々の運命を定めているとした宿曜道の世界観を表した。 ◈仏殿の本尊裏にある江戸時代の狩野探幽(1602-1674)筆「白衣観音像」(1669)は、切り絵を貼り合わせる手法で制作された。三方から見ても観音の眼と合うといわれている。また、江戸時代、1669年に張られた狩野探幽筆「天井龍(蟠龍図)」がある。 ◈舎利殿の「天井の龍」は狩野山雪(1590-1651)筆で、「鳴龍」(1647)といわれている。堂内には韋駄天立像があり、謡曲「舎利」の舞台になった。足疾鬼(そくしつき)が舎利殿に飛び上がり、舎利を奪い飛び去るが、守護する韋駄天がこれを取り返す。話は『太平記』にもある。 内陣板壁に江戸時代の6代・木村了琢の「羅漢図」(1688)がある。 ◆障壁画 大玄関襖絵は、江戸時代後期、浮田一蕙(1795-1859)により、中国・前漢の劉向の『列女伝』中、賢明伝、周宣姜后の章を描いている。侍の間には、重重威(しげ-しげたけ)筆の『列女伝』中、周の文王母・大任が描かれている。従者の間には、土佐派の絵師筆の「鷹狩」が、勅使の間には吉祥画である「子の日の遊び」が描かれている。王座の間には、土佐派の「錦花鳥図」、皇族の間には、大和絵系の画家による「猿沢池の月」「南円堂の藤」「佐保川の蛍」「春日の鹿」「東大寺の鐘」「三笠山の雪」「雲井坂の雨」「轟橋の行人」といった奈良八景が描かれている。門跡の間には、狩野永岳(1790-1867)筆の全国6カ所の玉川(近江野路、摂津三島、武蔵調布、山城井手、紀伊高野、陸奥野田)。女官の間に、円山四条派の「四季耕作図」がある。 ◆庭園 御座所庭園は、東から南に東山を借景とする。ただ、借景はいまは失われている。近代、1884年に作庭されたとみられている。御座所東と海会堂南に広がる。江戸時代、海会堂の位置には、前栽といわれる庭が造られていた。近代、1882年に焼失している。 低い築山と刈込(ツツジ、ウメモドキ)、モミジ、マツ、小ぶりの石、苔地、白砂、池、楓などの植栽が配されている。池の畔に近世初期作とみられ、仙洞御所から移された八角形の雪見灯籠(泉涌寺灯籠)が据えられている。桂離宮と共に雪見灯籠の双璧といわれている。青銅製の水鉢には、江戸時代前期、「元禄十年」(1697)の銘がある。 庭園は、新緑の頃と紅葉の頃が知られている。 ◆寺号 寺号の泉涌寺(せんにゅう-じ)について変遷がある。 平安時代前期、天長年間(824-834)に、空海(774-835)はこの地に「法輪寺(ほうりん-じ)」を建立した。856年/855年には「仙遊寺(せんゆう-じ)」と改称される。 806年に中国唐代の詩人・白居易(772-846)は、長編抒情詩の『長恨歌(ちょうごんか)』を制作した。玄宗皇帝の楊貴妃に対する悲恋の物語を綴った。長恨歌は、平安時代の日本歌壇・『源氏物語』などにも影響を与えたといわれている。 鎌倉時代前期、1218年に、俊芿(1166-1227)が再興して開山になり、「泉涌寺」に改められた。境内から清泉が湧き出したことに由来したという。また、仙遊寺との同音が意識されている。長安にも仙遊寺があり、泉涌寺の寺号に重ねられている。 ◆北京律 鎌倉時代中期、1248年、本朝二十一本山の制定により、泉涌寺は北京律(ほっきょうりつ)の祖山になる。 1211年、宋より帰国した俊芿は、日本に律宗を伝えた。後鳥羽天皇、藤原道家、北条泰時などの帰依をうけ、後に俊芿の伝えた律を北京律と呼んだ。唐招提寺、西大寺などは南京律と称した。ただ、後に両者は交流し、その違いは解消される。 ◆恭明宮 平安時代中期以来、京都御所の黒戸(くろど/くろんど、御黒戸)に天皇皇后の位牌、念持仏が安置されていた。第38代・天智天皇以来、歴代天皇は仏式で御所内に祀られたという。近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈以後に、黒戸は廃される。祭祀も神式に移行したため、皇室歴代の位牌、念持仏は、宮中より泉涌寺の霊牌殿「恭明宮(きょうめいぐう)」に奉安されることになる。東京遷都に際し、天皇に随行しなかった宮中女官の居住施設も兼ねていた。 方広寺跡地(東山区、現在の京都国立博物館敷地の西北部)が予定地になる。1870年に地鎮、1871年、水薬師寺(下京区)の一室を恭明宮仮殿として遷座した。公卿・中御門経之(1821-1891)が恭明宮御用掛に任じられた。寝殿造の大規模な恭明宮が完成し、位牌・念持仏を遷座、宮内省の管轄になる。 左右には女官のための局も建てられていた。この時、宝生院、方広寺の鐘楼が撤去されている。 その後、恭明宮は荒廃し、1873年に、廃止になる。1876年に泉涌寺に霊牌殿、位牌・念持仏も遷された。 泉涌寺で当初は舎利殿に奉安し、後に位牌などは霊明殿、念持仏などは海会堂に遷された。仏像仏具は水薬師寺(下京区)に遷されている。 1875年、豊国神社の造営が始まり、1876年、恭明宮の建物は京都府に移管される。恭明宮の住居棟の一部は仮社務所に使われた。1878年までに恭明宮は売却される。付属建物の一部は、京都盲唖院(1878年に開校)に移築された。 ◆夢の浮橋 境内にはかつて小川が流れ、夢の浮橋という橋が架かっていたという。 天皇、皇族の霊は、この橋を渡って彼岸に旅立ったといわれた。 ◆謡曲舎利 室町時代初期の世阿弥作と伝えられる謡曲「舎利」では、出雲からの旅の僧が泉涌寺で仏舎利で拝んでいると、拝観者が足疾鬼(そくしつき)に変わり、舎利を奪って飛び去る。だが、韋駄天がこれを取り返す。 宋から請来したという韋駄天童子の木像は、いまも舎利宝塔を守っている。 ◆華道 当寺で、近代、1932年に創流された「華道 月輪未生流」は、歴代長老が家元として継承してきた。その始まりは、皇族への献花という。伝統的な「生花」と自由な「自由花」がある。 ◆鳥部野・墓 平安時代、月輪(つきのわ)という地名は、現在の今熊野月輪とともに、泉涌寺境内(山内町)も含まれていた。また、この地を本来の鳥部野と称した。江戸時代初頭より、周辺の墓地の拡大に伴い、大谷の地も鳥部山と呼ばれるようになった。 東山の山麓、月輪陵(つきのわみささぎ)の南東開山堂に、江戸時代前期、寛文年間(1661-1673)に建立の開山塔(重文)、その近くに鎌倉時代の2基の無縫塔(重文)が立つ。「開山不可棄和尚之塔」と刻まれている。俊芿は母に一度棄てられたことから「不可棄」と名乗ったという。安山岩製、1.6m。現存最古といわれている。 ◆陵墓 泉涌寺に最初に葬られた天皇は、鎌倉時代の第86代・後堀河天皇(1221-1232)であり、観音寺陵が造営された。月輪陵に最初に葬られたのは、俊芿の生まれ変わりと自称した第87代・四条天皇(1232-1242)だった。泉涌寺で葬儀、山陵築造が行われている。北朝第4代・後光厳天皇(1338-1374)-第121代・孝明天皇(1831-1867)の葬儀が泉涌寺で行われ、荼毘所になる。第108代・後水尾天皇(1596-1680)以来、天皇、皇后の遺骸が埋葬された。また、後水尾天皇以来、遺品、肖像画が納められた。 第119代・光格天皇(1771-1840)の没後、水戸藩主・徳川斉昭は、関白・鷹司政通に対して、泉涌寺での仏式の葬儀を止め神式に変え、山陵の再興も求めた。 幕末期に至るまで歴代天皇25基陵、5灰塚、9墓が葬られている。墓塔は全体で46基ともいう。このうち41基が鎌倉時代-室町時代の無縫塔、そのほかは江戸時代の4墓、五輪塔1基になる。泉涌寺は、一時期、天皇家の共同墓地として存在した。 近代、1868年の神仏分離令以降は、陵墓は泉涌寺から切り離され、政府が管理する。天皇家の泉涌寺への庇護は続いた。陵は再び古式に戻され、一天皇に一つの陵が築造される。陵墓は穢れの場ではなく、歴代天皇が眠る神聖な場所として位置付けられた。 土葬、火葬について、古代には、土葬が行われた。第41代・持統天皇(686-697)は火葬で行われ、その後は土葬、火葬が併用される。室町時代後半には火葬が定着する。火葬の燃料には松脂(まつやに)、油を用いており、多くの労力を必要にした。江戸時代の第110代・後光明天皇(1643-1654)は、深く神道に帰依した。ただ、葬儀は仏式で行い、火葬されずに泉涌寺に土葬される形に変わった。泉涌寺は、それまでの火葬場から墓所になる。第121代・孝明天皇(1831-1867)は、荼毘式の火葬形式も廃し、山内に新造された古制の山陵に土葬された。 深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(伏見区)に埋葬された次の9天皇は、泉涌寺で火葬された後に深草北陵に埋葬されている。第89代・深草天皇(1246-1259)、第92代・伏見天皇(1287-1298)、第93代・後伏見天皇(1298-1301)、北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇(1382-1412)、第101代・称光天皇(1412-1428)、第103代・後土御門天皇(1464-1500)、第104代・後柏原天皇(1500-1526)、第105代・後奈良天皇(1526-1557)、第106代・正親町天皇(1557-1586)、第107代・後陽成天皇(1586-1611)になる。 陵墓、陵域内に埋葬されているのは次の天皇・皇后・皇子・皇女などになる。 ◈月輪陵 第87代・四条天皇(1232-1242)(九重塔)、第108代・後水尾天皇(1611-1629)(九重塔)、第109代・明正天皇( 1629-1643)(九重塔)、第110代・後光明天皇(1643-1654)(九重塔)、第111代・後西天皇(1654-1663(九重塔)、第112代・霊元天皇(1663-1687)(九重塔)、第113代・東山天皇(1687-1709)(九重塔)、第114代・中御門天皇(1709-1735)(九重塔)、第115代・桜町天皇(1735-1747)(九重塔)、第116代・桃園天皇(1747-1762)(九重塔)、第117代・後桜町天皇(1762-1770)(九重塔)、第118代・後桃園天皇(1770-1779)(九重塔)、陽光院太上天皇(1552-1586)(無縫塔)。 第108代・後水尾天皇皇后・徳川和子(1607-1678)(宝篋印塔)、第112代・霊元天皇皇后・房子(1653-1712)(無縫塔)、第113代・東山天皇皇后・幸子女王(1680-1720)(無縫塔)、第114代・中御門天皇女御・贈皇太后・近衛尚子(1702-1720)(無縫塔)、第115代・桜町天皇女御・尊称皇太后・二条舎子(1716-1790)(宝篋印塔)、第116代・桃園天皇女御・尊称皇太后・一条富子(1743-1796)(宝篋印塔)、第118代・後桃園天皇女御・尊称皇太后・近衛維子(1760-1783)(宝篋印塔)。 ◈後月輪陵 第119代・光格天皇(1779-1817)(九重塔)、第120代・仁孝天皇(1817-1846)(九重塔)、第119代・光格天皇皇后・欣子内親王(1794-1820)(七重塔)、第120代・仁孝天皇女御・贈皇后・鷹司繋子(1798-1823)(宝篋印塔)、仁孝天皇女御・尊称皇太后・鷹司祺子(1811-1847)(宝篋印塔)。 ◈灰塚 第103代・後土御門天皇(1464-1500)、第104代・後柏原天皇(1500-1526)、第105代・後奈良天皇(1526-1557)、第106代・正親町天皇(1557-1586)、第107代・後陽成天皇(1586-1611)。 ⋄墓 第107代・後陽成天皇女御・中和門院藤原前子(1575-1630)、第108代・後水尾天皇後宮・壬生院藤原光子(1602-1656)、後水尾天皇後宮・逢春門院藤原隆子(1604-1685)、後水尾天皇後宮・新廣義門院藤原國子(1624-1677)、第119代・光格天皇皇子・温仁親王(1800.2-1800.4)、光格天皇皇子・悦仁親王(1816-1821)、光格天皇皇子・安仁親王(1820-1821)、陽光院太上天皇妃・晴子(1553-1620)、第120代・仁孝天皇後宮・新侍賢門院藤原雅子(1856-1803)。 ◆七福神巡り 泉涌寺山内の七福神めぐり(成人の日)は、泉涌寺(泉山)七福神巡りとして塔頭9カ寺を巡る。現代、1951年以来続けられている。これらを福笹を持ちお参りしていく。 第1番は福禄寿・即成院で福笹を受け取り、第2番は弁財天・戒光寺、番外の愛染明王・新善光寺、第3番は恵比寿神・今熊野観音寺、第4番は布袋尊・来迎院、第5番は大黒天・雲龍院、番外の楊貴妃観音・泉涌寺本坊、第6番は毘沙門天・悲田院、第7番は寿老人・法音院になる。 ◆文学 『栄花物語』、『古今著聞集』。 ◆蘭奢待 蘭奢待(らんじゃたい)とは、正倉院御物であり中倉の巨木香木をいう。中国産/ベトナム産の沈香という。奈良時代/平安時代、10世紀に渡来したという。日本に現存する最古の香材になる。 奈良時代、天平年間(729-749)に東大寺に納められた。第45代・聖武天皇によって蘭奢待と命名された。銘文の蘭奢待中に、「東」「大」「寺」の3文字が含まれており、別名「東大寺」という。目録名「黄熟香(おうじゅくこう)」という。名香61種中、第1/第2の名香とされた。分類は伽羅(きゃら)、香味は苦酸/五味兼備という。鎮静、去痰の薬効があるという。香道では奇宝、聞香(もんこう)では返し十度の作法を伝える。第106代・正親町天皇は「聖代の余薫」と歌った。足利義満、義教、義政、織田信長、第122代・明治天皇が截香(せっこう、切り取る)し、その跡が残る。信長に下賜された小片は、その後、泉涌寺と尾張一宮に寄進された。茶人・千利休も聞香者になった。 芯の部分は朽ち空洞になっている。長さ 153cm、木口周囲 117cm、末口周囲 12cm、重さ 11.6kg。 ◆墓 絵師・狩野家の墓がある。 ◆紅葉 御座所庭園の紅葉が知られている。 ◆祭礼 ◈「宗音の金光明経修正会」(正月三が日)。金光明懺法は、俊芿が南宋から伝えたもので、宋音による式次第が続けられている。金光明経中の神々を描いた画が20幅あまり掛けられる。 ◈「涅槃会」(3月14日-15日)では、大涅槃図が公開され、花御供の涅槃あられが授与される。 ◆年間行事 宗音の金光明経修正会(正月三が日)、楊貴妃観音七福神めぐり・泉山七福神巡り(1月成人の日)、大般若法要(1月下旬)、星供法要(2月節分)、涅槃会(3月14日-15日)、京都春の東山 三ヶ寺巡り(東福寺、泉涌寺、智積院)(3月中旬-5月中旬)、弘法大師正御影供法要(3月21日)、春季彼岸会(3月下旬)、開山忌法要(4月1日-8日)、大般若法要(5月下旬)、盂蘭盆会法要(7月14日-15日)、静寛院宮法要(9月2日)、大般若法要(9月下旬)、秋季彼岸会(9月下旬)、舎利会法要(10月7日-8日)、京都秋の東山 三ヶ寺巡り(東福寺、泉涌寺、智積院)(10月中旬-11月中旬)、解脱会法要(11月4日)、泉涌寺窯もみじまつり(11月第3土・日)、結界諷経・除夜の鐘(23:30より参拝者も撞くことができる。)(12月31日)。 *年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *一部の建物、室内の撮影は禁止。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『旧版 古寺巡礼京都 28 泉涌寺』、『京都・山城寺院神社大事典』、『古寺巡礼 京都 27 泉涌寺』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、『京都古社寺辞典』、『平安京散策』、『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『古代史研究の最前線 天皇陵』、『天皇皇室辞典』、『歴代天皇年号事典』、『京の石造美術めぐり』、『京都・美のこころ』、『京都の寺社505を歩く 上』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『京都の仏像』、『京都の仏像 入門』、『絶対に訪ねたい!京都の仏像』、『京都傑作美仏大全』、『ゆっくり愉しむ 京都仏像巡 りベストガイド』、『京都観音めぐり洛陽三十三所の寺宝』、『歴史のなかの宗教 日本の寺院』、『社寺』、『おんなの史跡を歩く』、『京を彩った女たち』、『あなたの知らない京都府の歴史』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都観音めぐり洛陽三十三所の寺宝』、『京都歩きの愉しみ』、『京のしあわせめぐり55』、『京の福神めぐり』、『京都の隠れた御朱印ブック』、『週刊 京都を歩く 26 東福寺周辺』、『週刊 日本の仏像 第17号 六波羅蜜寺 空也上人像と東山』、『週刊 古社名刹巡拝の旅 32 東山』 、『山科事典』、ウェブサイト「発掘調査で見つかった恭明宮 京都市埋蔵文化財研究所」、ウェブサイト「静岡県立博物館デジタルアーカイブ」、 ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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