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 清 閑 寺 (東山区)

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「歌の中山 清閑寺」碑、左の山道が清水寺から続く「歌の中山」


境内から望む京都市内、この谷間に国道一号線が走っている。


小督桜




「大西郷月照王政復古謀議旧跡」の碑


茶室・郭公亭の跡地


要石、ここからは市内を望むことができる。谷の奥の市内の景色を開いた扇として、石は、扇の要に見立てられている。小督も宮中の生活を懐かしんで眺めていたという。


要石


 清閑寺(せいかんじ)は、「歌の中山寺」とも呼ばれる。歌の中山とは、清水寺から清閑寺にいたる小径のこともいう。山号は歌中山という。
 谷間に京都市街地を望む清水音羽山の中腹に位置しており、第79代・六条天皇の清閑寺稜、第80代・高倉天皇の後清閑寺陵のすぐ南にあたる。
 新義真言宗智積院の末寺。本尊は千手観音立像。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、802年、比叡山の紹継(しょうけい)法師が開創したともいう。第50代・桓武天皇(在位781-806)が創建したともいう。(寺伝、「山州名跡子」)
 かつて、天台宗延暦寺の寺で、因幡堂平等寺(下京区)が兼帯していた。その後荒廃した。
 第66代・一条天皇の時(在位986-1011)、伊予守・佐伯公行(さえき きみゆき)が再興したという。法華三昧堂、法堂などが建てられた。
 996年、一条天皇の勅願寺となる。(「伊呂波字類抄」「拾芥抄」)
 1000年、勅願寺になる。
 平安時代末、1129年、焼失した。(「百錬抄」)。その後再建されている。
 小督局(こごう の つぼね、1157-1205以降?)が当寺で出家したという。
 1176年、第79代・六条天皇が寺内に葬られる。
 1181年、第80代・高倉天皇が寺内に葬られた。
 鎌倉時代、山門(比叡山延暦寺)に属した。法華堂、宝塔などが存在した。
 1213年、清水寺の法師が領内に無断で堂宇を建てたことから、比叡山延暦寺と清水寺の本寺・奈良興福寺の間で抗争が起きた。
 室町時代、真言宗に属した子院があった。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼亡している。その後、荒廃した。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1614)、紀州・根来(ねごろ)寺の僧・性盛(しょうせい)が復興し、新義真言宗に改宗した。
 江戸時代、平等寺供僧(ぐそう)西之坊の兼帯寺となる。
 1858年、境内にかつてあった茶室「郭公亭(かっこうてい)」で、清水寺成就院住持で尊皇攘夷派の月照(げっしょう)と政治家・軍人の西郷隆盛が密会した。
 現代、1991年、茶室「郭公亭(かっこうてい)」が解体されている。
◆紹継 平安時代の僧・紹継(しょうけい、生没年不詳)。詳細不明。802年清閑寺を開創したともいう。
◆佐伯公行 平安時代の伊予守・佐伯公行(生没年不詳)。詳細不明。清閑寺を再興したという。
◆小督局 平安時代末期の女官・小督局(こごう の つぼね、1157-1205以降?)。小督。桜町中納言・藤原成範の娘。美貌と琴の名手として知られた。第80代・高倉天皇中宮・建礼門院徳子(平清盛娘)の侍女となる。平清盛娘婿・冷泉隆房の愛妾で、後に高倉天皇の寵愛を受けた。隆房は自死する。中宮の父・平清盛は怒り宮中より小督を追放する。呼び戻された小督は、隠し部屋に潜み、1177年天皇との間に範子内親王を生む。清盛により再び追放され、嵯峨野に隠棲した。清盛は天皇を退位させる。1181年天皇没後、御陵のある清閑寺に移り、菩提を弔ったという。また、清盛により清閑寺に追放されたともいう。御陵の傍らに墓という宝筐印塔が立つ。
 悲哀は『平家物語』巻六、『たまきはる』、能「小督」にも取り上げられている。小督は嵯峨野に隠れ住む。天皇の命を受け探していた北面の武士・源仲国は、琴の音を頼りに居所を尋ねた。小督は天皇のもとへ戻るが、中宮より先に子を宿したとして清盛は清閑寺に送り出家させられる。天皇は憔悴し早世する。
 小督は、清盛に追われ、清閑寺で出家させられたという。その後、嵯峨に身を隠し、21歳の若さで当寺で亡くなったという。山門を入ったところに小督の供養塔(宝筐印塔)が立つ。謡曲では、高倉天皇は自らの墓を小督の棲んだ当寺に葬るように遺言したという。現在、高倉天皇陵傍らにも小督局墓と伝えられている墓がある。
◆性盛 室町時代の真言宗の僧・性盛(しょうせい/しょうじょう、1537-1609)。尾張の生まれ。信濃・万徳寺で灌頂をうけ、紀伊・根来寺で玄誉(げんよ)に師事。東大寺、興福寺、園城寺に学ぶ、慶長年間(1596-1614)に清閑寺を復興した。蓮台寺も復した。1604年徳川家康の命で長谷寺2世に就く。
◆宗伯 安土・桃山時代-江戸時代の陶工・宗伯(そうはく、生没年不詳)。詳細不明。武蔵川越の生まれという。京都、尾張・瀬戸、備前を往来し、茶入、茶碗などを作った。織田信長の選んだ瀬戸六作のひとり。京焼陶工・野々村仁清の師。
 清閑寺に窯跡がある。
◆並河天民 江戸時代中期の儒学者・並河天民(なみかわ てんみん、1679-1718)。京都の生まれ。儒学を伊藤仁斎に学び、講学所堀木舎(中京区)に塾を開いた。医学は名古屋玄医に学ぶ。師・仁斎の学問を批判的に継承し、経世済民の志をもつ。「天民遺言」を著す。
◆月照 江戸時代末期の僧・月照(げっしょう、1813-1858)。大坂の町医師・玉井 宗江の子に生まれた。1827年清水寺成就院の叔父・蔵海に学ぶ。中将房忍凱と称した。1835年15歳で24世住持となる。清水寺に真言密教子島流を再興した。寺の改革、復興のための資金回収が成功せず、北越へ出奔、1854年境外隠居の処分の身となる。清水寺が近衛家の祈願寺であり、近衛家と島津家とが姻戚関係にあったことから、薩摩、さらに尊攘派の朝彦親王(法名・尊融法親王)との関係が深まった。また、1854年和歌で師事した左大臣・近衛忠煕 の影響により攘夷に近づく。1858年薩摩藩の政治家・軍人の西郷隆盛、薩摩藩士で政治家の海江田信義らの倒幕の挙兵に加わる。だが、幕府の捕史の手が伸び、京都から逃れ鹿児島 へ向った。薩摩藩は、幕府の責任追及を回避するため、2人を東目(日向)へ追放する。後ろ盾だった斉彬も失い、前途を悲観した西郷と月照は入水し、月照のみが死亡した。
 清閑寺境内にかつてあった茶室「郭公亭(かっこうてい)」で、政治家・軍人の西郷隆盛と密会していたという。
◆与謝野礼厳 江戸時代末-近代の僧・歌人・与謝野礼厳(よさの れいごん、1823-1898)。丹後国与謝郡生まれ。庄屋格農家・儀右衛門の二男。与謝野寛の父。13歳で加悦の浄福寺に入る。住職礼道の養子となる。1845年西本願寺学林に入る。国学者・八木立礼と出会い、国学、和歌を学ぶ。若狭高浜・専能寺を経て、1857年岡崎・本願寺掛所・願成寺に入る。この年、山崎はつ枝と結婚。志士、薩摩藩とも関わる。小学校、療病院設立など社会福祉事業に関わる。1878年願成寺が順照寺と合併し廃寺になり、1880年鹿児島へ役僧として赴く。1884年京都に戻り一乗寺・北山別院・養源寺に留守居として入る。1894年高野村に移る。大田垣蓮月、天田愚庵らと交友した。歌集に鉄幹編『礼厳法師歌集』がある。
 礼厳は、1896年妻を亡くした冬に清閑寺に隠棲している。「年を経て 世にすてられし 身の幸は 人なき山の 花を見るかな」と詠んだ。歌碑も立つ。
黒田清輝 近代の洋画家・黒田清輝(くろだ せいき、1866-1924)。鹿児島生まれ。鹿児島(薩摩)藩士・黒田清兼の子。1871年伯父・黒田清綱の養嗣子、1872年より東京平河町の清綱邸で育つ。築地英学校、外国語学校フランス語科に学び、高橋由一門下の細田季治に鉛筆画を学ぶ。1884年法律研究を目的にパリに私費留学、山本芳翠を知る。1885年藤雅三の通訳として外光派の画家ラファエル・コランに接し、1886年コランに入門、1893年帰国、1894年久米と画塾「天真道場」を開設、1896年美術団体「白馬会」を結成、東京美術学校(東京芸大)西洋画科の初代教授に就任。1913年「国民美術協会」創立し会頭、1917年子爵、1920年貴族院議員に当選、1922年帝国美術院長となる。パリのサロンに入選した1890-1891年「読書」、1895年「朝妝(ちょうしょう)」(焼失)などの作品がある。
 清閑寺に立ち寄った際に、寺の僧の語った小督の悲哀に触発されて「昔がたり」(1898)描いたという。その後、絵は焼失し、いまは下絵が寺に残る。
◆請願寺 当寺は、天皇家とのゆかりも深く、1176年に六条天皇、1181年に高倉天皇を寺内に葬った。境内にいまも残る「要(かなめ)石」は、六条院の小堂跡という。
 寺の北の山腹に、六条天皇陵・清閑寺稜、高倉天皇陵・後清閑寺稜がある。
◆仏像 本尊は本堂に、「千手観音立像」が安置されている。平安時代の菅原道真(845-903)が梅木で造ったともいう。
◆建築 かつて境内に建ち並んでいた法華三昧堂、宝塔などはいまはなく、本堂と鐘楼堂がのみが残されている。
◆郭公亭 境内にかつてあった茶室「郭公亭(かっこうてい)」は、幕末の1858年、清水寺成就院住持で尊皇攘夷派の月照(げっしょう、1813-1858)が、政治家・軍人の西郷隆盛(1828-1877)と密会した場所として知られていた。
 当時、月照は安政の大獄(1858)で追われており、ここで都落ちの計画がたてられたという。二人は京都を脱出する。月照は、薩摩の錦江湾に入水、西郷は城山で自害している。
 茶室は1991年に解体されている。
◆文化財 小督愛用とされる「琴」「硯箱」がある。
◆清閑寺焼 清閑寺山ノ内付近に古清水の一つ「清閑寺焼」があったという。伝承として、奈良時代、天平年間(729-749)、行基による土器製造を起源とするともいう。
 実質的には、江戸時代、当寺の僧・宗伯が開いた窯跡という。宗伯は京焼陶工・野々村仁清の師とされる。江戸時代、寛永年間(1624-1644)以降、この地で色絵陶器が製造された。後に五条坂に移転を命じられた。このため、境内は、清閑寺窯発祥の地、清水・五条坂窯業の発祥地とされる。
◆歌の中山 清水寺より清閑寺へ向かう旧道の小径の途中に「歌の中山 清閑寺」の石標が立つ。「歌の中山」はこの道の呼称であり、清閑寺の通称にもなっている。「歌の中山」と清閑寺は対で呼ばれていた。
 謡曲「融」に、「語りも尽くさじ言の葉の、歌の中山清閑寺、今熊野とはあれぞかし」とある。
 かつて住僧・真燕僧都は、門前を通る女人に声を掛けた。女は「見るにだに まよふ心のはかなくて まことの道を いかでしるべき」と返歌し、去ったという。(「都市名所図会」三)
◆清閑寺石 清水山の南に清閑寺山があったという。場所特定はされていない。この付近で盆石に用いられた「清閑寺石」を産出していた。
◆桜楓 桜、紅葉の名所。
◆墓・御陵 境内に、江戸時代の儒医・並河天民(1679-1718)の墓がある。
 近くに高倉天皇陵、小督局の宝篋印塔、六条天皇陵がある。


*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『京都の明治文学』『京都隠れた史跡100選』『京都大事典』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『京都の寺社505を歩く 上』


 関連・周辺清水寺 関連・周辺山王神社 関連・周辺成就院 周辺 関連桂川・嵐山 関連小督(こごう)塚 関連平等寺(因幡堂) 関連法輪寺  関連本願寺北山別院  

「清閑寺窯発祥の地」の立て札

小督の供養塔(宝筐印塔)という。

【参照】六条天皇の清閑寺稜、高倉天皇の後清閑寺陵、歌の中山の途中、清閑寺参道にある。

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公式サイト
 清閑寺 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3  075-561-7292

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