西方寺 (京都市左京区)
Saiho-ji Temple
西方寺  西方寺
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中庭


露地庭



露地庭



本堂



茶室「梅窓庵」




地蔵堂



地蔵堂、衣通姫(そとおりひめ)地蔵
 東山二条を上がった西にある西方寺(さいほうじ)は、正式には、願海山(がんかいざん)法性覚院西方寺という。「東山西方寺」とも呼ばれている。大炊御門(おおいみかど)家の菩提寺になる。 
 浄土宗知恩院派、本尊は阿弥陀如来。
 洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第25番札所、札所本尊は衣通姫(そとおりひめ)地蔵。
◆歴史年表 平安時代後期、1159年、平治の乱後に、藤原(大炊御門)経宗が、一条町尻(上京区一条通新町)に別館を建てた。
 1189年、左大臣・大炊御門経宗の没後、その居館(一条町尻、一条新町)を寺に改めて西方寺が開かれた。経宗の開基による。院号の法性覚院は、経宗の法名「法性覚」による。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、荒廃する。
 その後、春日通烏丸(中京区両替町竹屋町上ル西方寺町)に移る。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉の命により、京極勘解由小路(上京区寺町通竹屋町上ル椹木町)東に移った。
 江戸時代、寛文年間(1661-1673)、衣通姫地蔵は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 1708年、宝永の大火後、現在地に移った。
◆大炊御門経宗 平安時代後期-鎌倉時代の公卿・大炊御門経宗(おおいみかど つねむね、1119-1189)。公卿・大炊御門家初代・藤原経実(つねざね)4男。1149年、参議になり、第78代・二条天皇の伯父として天皇親政を推進した。1159年、平清盛と源義朝の対立に、院の近臣の争いが絡んだ平治の乱では、当初は公卿・藤原信頼につき、後に裏切り信頼を討った。二条天皇を女装させ黒戸御所より脱出させたという。(『平治物語』)。1160年、後白河上皇(第77代)により解官され、阿波に流された。後に左大臣に復する。晩年、法然に帰依、法性覚と号した。有職故実に通じ、和歌にも優れた。
◆柴野栗山 江戸時代の儒学者・柴野栗山(しばの りつざん、1736-1807)。讃岐国生まれた。父は柴野軌逵。1748年、高松藩の儒学者・後藤芝山より儒学を習う。1753年、中村文輔と共に、江戸・湯島聖堂で学ぶ。1765年、高橋図南より国学を学ぶ。和学、西山拙斎、赤松滄洲らを知る。1767年、徳島藩の儒学者として仕えた。1768年、徳島藩主・蜂須賀重喜と江戸に赴く。1776年、徳島藩当主の侍読就任。1784年、詩社「三白社」を結成。1787年、江戸幕府に仕え、寛政の改革に伴う教学刷新し、寛政異学の禁を推進した。1790年、湯島聖堂の最高責任者になる。「寛政の三博士」(ほかに尾藤二洲、古賀精里)の一人。著「栗山文集」など。
 墓は西方寺にもある。
◆小野寺十内 江戸時代の武士・小野寺十内(おのでら じゅうない、1643-1703)。秀和。常陸国生まれ。浅野家家臣・小野寺又八の子。1694年、赤穂藩京都留守居役。1672-1673年頃、灰方佐五右衛門の娘・丹と結婚。 1701年、主君・浅野長矩の江戸城松之大廊下での吉良義央への刃傷により長矩は即日切腹、秀和は赤穂へ戻る。赤穂城明け渡し後、京都に戻り、以後は大石内蔵助に従う。1702年、瀬尾孫左衛門と江戸へ下り、医者「仙北十庵」と偽名を名乗る。吉良邸討入で裏門隊に属した。討入後、大石らと熊本藩主・細川綱利の下屋敷お預けとなる。この間、妻と和歌、手紙のやりとりをした。1703年、幕命により赤穂浪士の一人として切腹し、主君とともに高輪・泉岳寺に葬られた。
 儒者・伊藤仁斎に学び、歌人・金勝慶安に師事した。
◆仏像・木像 ◈本尊「阿弥陀如来坐像」(重文)(236㎝)は、本堂に安置されている。平安時代後期作といわれる丈六坐像で、定印、右足上に結跏趺坐している。光背は三千仏光背といわれ、多くの小さな化仏(3385体とも)と、やや大きな13体の化仏が囲んでいる。平安時代、1075年に第72代・白河天皇により建立された法勝寺の遺仏ともいう。化仏は江戸時代、1708年、火災後の寄進に際した仏が多いとみられ、背に寄進者名が墨書されている。木造、寄木造、漆箔。
 ◈木像「豊臣秀吉公座像」(81㎝)は、本堂に安置されている。安土・桃山時代の七条仏師・康生作とされ、等身大で写実的な秀吉の顔になっている。近年の解体修理により、脚部に仏師の名と、安土・桃山時代、「慶長四年六月廿八日」(1599年)の朱書き、後頭部内部にも「慶長八年六月中旬」(1603年)の銘が見つかった。秀吉は、1598年8月に没しており、翌1599年に造立が始まり、4年後の1603年に完成した。木造、ヒノキ、彩色。
◆建築 茶室「梅窓庵」は、1966年に移築された。裏千家今日庵の写しという。
◆地蔵尊 地蔵堂には、「衣通姫(そとおりひめ)地蔵の立像」(150㎝)が安置されている。江戸時代作とみられる。右手に錫状、左手に宝珠を持つ。截金文様を施す。古墳時代の第19代・允恭(いんぎょう)天皇(376? -453)后の妹・弟姫(おとひめ)は、7歳で疫病で亡くなる。冥途で生身の地蔵を拝して蘇生することができた。その報恩のために造られたという。(『衣通姫地蔵尊略縁起』1737)
 疫病除け、安産守護の信仰を集める。洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第25番札所。
◆衣通姫伝説 軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)は、古墳時代の第19代・允恭天皇の皇女、母は皇后・忍坂大中姫命(忍坂大中津比売命)になる。
 皇女は美しい女性であり、美が衣を通してあらわれるほどであり、衣通姫(そとおりひめ)と呼ばれた。(『古事記』)。また、衣通姫とは、忍坂大中姫の同母妹・弟姫(おとひめ)ともいう。(『日本書紀』)
 皇女は同母兄・木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と通じたため、皇子は伊予国へ流刑になる。皇女も後を追い、2人は自害したという。また、皇女も流されたともいう。
◆大炊御門 「大炊御門家」は、藤原氏北家の流れ、清華家の一つに数えられた。
 平安時代末の関白・藤原師実(もろざね)の第3子・経実(つねざね)を始祖とした。その子・経宗(つねむね)の邸宅・大炊御門(竹屋町通)富小路西邸に因み、大炊御門を家号とする。
 その娘・懿子(よしこ)は、第77代・後白河天皇の後宮に入り、第78代・二条天皇の生母になる。経実は天皇の外祖父になる。その子・経宗も二条天皇の外舅になる。
 なお、西方寺には、同家の江戸時代以降の墓のみがある。
◆小野寺十内の招魂碑 江戸時代、赤穂浪士のひとり、小野寺十内の招魂碑が立つ。
 碑には、小野寺秀和(十内)、小野寺秀富(幸右衛門)、岡野包秀(金右衛門)、大高忠雄(源吾)の名も刻まれている。
 当寺は、十内の母の菩提寺であり、碑は十内の妻・丹により立てられたという。京都の商人・綿屋(安田)善右衛門が建立費用を負担したという。
◆墓 藤原一門の大炊御門家の経秀、家孝、経久の墓がある。
 宇多源氏の流れを汲む鎌倉時代以来の綾小路家、鎌倉時代以来の五辻(いつつじ)家の菩提寺でありその墓がある。
 江戸時代の儒学者・文人の柴野栗山の墓がある。
 小五輪石塔は、豊臣秀吉の養女の墓という。中川修理守某が引き取り養女としたという。本堂に位牌も安置する。詳細は不明。
 


*普段は非公開、建物の一部、室内は撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『洛中洛外』『京都府の歴史散歩 中』『旧版 京のお地蔵さん』『京都の仏像』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『京都隠れた史跡100選』『京都大事典』『京に燃えた女』
 

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