長源寺 (京都市左京区)
Chogen-ji Temple
長源寺  長源寺
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本堂


鐘楼
 岩倉長谷の小倉山麓に長源寺(ちょうげんじ)はある。山号は朗詠山 という。 
 知恩院末寺、浄土宗鎮西派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 室町時代、1463年、当初は長谷上ノ町に創建されたという。岩倉の鎌倉新仏教系寺院では最も早かった。
 江戸時代、1672年、真悦が再建し、中興の祖となる。
 近代、1872年、長谷にあった地蔵院、恵尊寺、無縁堂、常春庵(解脱寺を含む)、妙源庵の5か寺を合し、地蔵院の跡地へ移る。堂宇は地蔵院の建物を修繕して用いた。
 現代、1963年、現在地に移り、岩倉明徳小学校旧講堂の建材により現在の堂庫裡を新造した。
◆真悦 江戸時代の浄土宗の僧・真悦(生没年不詳)。詳細不明。1672年長源寺を再建し、中興の祖となる。
◆藤原公任 平安時代中期の公卿・学者の藤原公任(ふじわら の きんとう、 966-1041)。関白・頼忠の嫡男、母は醍醐天皇皇子・代明親王の娘厳子。蔵人頭、参議、1009年、権大納言を歴任。晩年に解脱寺で出家、この地の山荘(朗詠谷)に隠棲した。藤原道長と親しく、歌合や遊興で和歌を披露した。漢詩にもすぐれた。私選集の『拾遺抄』、勅撰和歌集にも多く入集。四条大納言と称された。有職故実の三大故実書のひとつ『北山抄』を著した。
◆仏像 5寺が合併しておりそれぞれの本尊が遷されたため、多くの仏像を有している。
 本堂仏間に安置の本尊は、江戸時代作の「阿弥陀如来立像」であり、厨子内右に「観音菩薩」、左に「勢至菩薩」を安置する。
 平安時代、10世紀(901-1000)末の木造、「薬師如来立像」(重文)を所蔵する。厨子内に納められている。かつて、恵尊寺の本尊だった。1933年に国宝指定され、後に重文指定になる。衣文は翻波式刀法による。両手足、台座は後補。一木彫、等身、金箔押。
 「十一面観世音菩薩立像」は、江戸時代、1872年に廃寺になった常春庵の本尊だった。平安時代中期の公卿・学者・藤原公任の念持仏だったという。慈覚大師(円仁、794 -864)作ともいう。解脱時の本尊ともいう。頭部は平安時代、10世紀末、ほかは南北朝時代作ともいう。
 江戸時代作の「地蔵菩薩坐像」は地蔵院本尊だった。
 ほかに、「不動明王立像」、妙源庵の本尊だった江戸時代作の「阿弥陀如来立像」、無縁堂の本尊だった江戸時代作の「阿弥陀如来立像」などが安置されている。
◆石造物 境内に鎌倉時代-室町時代の宝篋印塔、十三重塔、仏像、石像などがある。廃寺の遺物ともいう。
◆小倉山城 境内の背後の小倉山には、室町時代、長谷の土豪・山本佐渡守尚親の築いた「小倉山城」があった。山本氏は近江国の佐々木氏被官であり足利氏に属した。文明年間(1469-1489)に岩倉に移った。
 尚親の孫・資幹は細川政元と戦う。政元の子・山本尚則は、桂川で細川高国と戦う。1546年、細川春元(細川国広とも)と岩倉で戦う。1551年、三好長慶は岩蔵山本館(小倉山城)を攻めた。(『言継卿記』)。1568年、織田信長の入洛にともない、山本氏は近江に逃れ、以後、廃城になった。
◆年間行事 お鏡開き(1月8日)、お十夜法事(12月15日)。
 

*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都府の歴史散歩 中』『岩倉長谷町千年の足跡』『洛北岩倉誌』『京都の地名検証 3』『昭和京都名所図会 3 洛北』 


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十三重塔

板碑

境内の背後の小倉山
 長源寺  〒606-0026 京都市左京区岩倉長谷町575   
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