歓喜光寺 (京都市山科区)
Kankiko-ji Temple
歓喜光寺 歓喜光寺 
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山門






地蔵堂


地蔵堂扁額「南無地蔵尊」



地蔵堂


南無地蔵






本堂


地蔵尊


大日尊(大日如来)石像


大日尊の巨大石標





伊予河野氏石碑
「天明三(1783)年九月十五日」の銘がある。
 山科区大宅、音羽山山麓に歓喜光寺(かんきこうじ)は建つ。隣接し大宅中学校があり、大宅廃寺遺構がある。
 山号は紫苔山(したいざん)、院号は河原院という。
 時宗十二派中の時宗六条派本山、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 鎌倉時代、1291年、一遍の弟子・聖戒(しょうかい)は、石清水八幡宮の南境の善導寺(綴喜郡八幡市)を建立する。一遍が石清水八幡宮で神託を受けたとされ、その縁による。歓喜光寺の前身になる。(『開山弥阿上人行状』)
 1299年、聖戒に帰依した関白・九条忠教の寄進により、善導寺は河原院(源融左大臣の旧跡、400m四方、現在の渉成園付近)跡地に移される。付近に祀られていた菅原是善(道真の父)の旧邸(上京区堀松町)の天満宮、その神宮寺・歓喜光寺を合併する。六条道場河原院歓喜光寺が建立された。聖戒を1世とする。(『開山弥阿上人行状』)。同年、一遍十周忌に当たり『一遍上人絵詞伝』が作成されている。
 1323年、聖戒没後、一色、瑞光、正道と継承され、歓喜光寺は六条派の拠点になる。(『歓喜光寺過去帳』)
 南北朝時代、1345年、六条烏丸にあった。(『師守記』同年条)
 1347年、焼失する。(『師守記』)
 1379年、類焼する。(『花営三代記』)
 1389年、寺領60か所(のち1か所増)、末寺は6か寺(のち2寺増)を有していた。(「歓喜光寺敷地以下寺領并所々末寺領等目録」)
 1391年、山名氏清、山名満幸らの反幕した明徳の乱で、上原入道が境内に走入る。
 室町時代、1394年、室町幕府3代将軍・足利義満が「絵詞伝」を披見する。
 1419年、焼失する。(『看聞日記』『康富記』)
 1428年、類焼した。(『後鑑」)
 1432年、室町幕府第6代将軍・足利義教が「絵詞伝」を披見する。(『満済准后日記』)
 1434年、類焼する。(『看聞日記』)
 1436年、類焼した。(『看聞日記』)
 1480年、寺領を足利義政が安堵する。
 1487年、関白・近衛正家が「絵詞伝」を披見する。(『後法興院記』)
 1490年、類焼する。(『蔭涼軒日記』)
 年代不明、この間に、六条大路東、堀川南に移ったという。(『中昔京師地図』)
 室町時代、1552年、荒廃し、高辻烏丸(下京区)に移す。(「歓喜光寺文書」の「室町幕府奉行人奉書案」)
 その後、本尊を遷し、各所を転々とする引道場になったという。一時、六条東洞院の地に移る。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、羽柴秀吉により京極錦小路(京極大路東、四条大路北、四条道場金蓮寺北)に移される。
 江戸時代、1652年、類焼する。
 1676年、清浄光寺下に入り、時宗遊行派に属した。(『遊行藤沢歴代系譜』)
 1786年、類焼する。
 1864年、類焼した。蛤御門の変(禁門の変)の火災による被災者のために、京都所司代は米を配給した。その配給所の一つになる。
 近代、1872年、境内の鎮守社・錦天神社(現在の錦天満宮)、その末社で源融を祀る塩釜社(錦天満宮内に現存)を分離する。
 1889年、類焼した。
 1907年、東山五条に移転する。その地の法国寺(東山区遊行前町)を吸収合併し、歓喜光寺とした。地蔵堂は境外仏堂になる。
 現代、1975年、1974年とも、現在地(山科区大宅)に移転する。本堂、地蔵堂は解体復元され移された。
◆聖戒 鎌倉時代中期の僧・聖戒(じょうかい/しょうかい、1261-1323)。伊予国に生まれる。領主河野通広の孫、一遍の従弟、実子、弟とも甥ともいう。一遍の弟子・真教の徒弟ともいうが異説もある。一遍の修行に従い諸国を遊行した。1291年、善導寺を建立する。時宗十二派中の六条派の祖。1299年、『一遍上人絵伝』12巻を撰した。一遍臨終の際に遺誠を聞いた。
◆一遍 鎌倉時代中期の僧で時宗開祖・一遍(いっぺん、1239-1289)。智真。捨聖(すてひじり)、遊行上人と呼ばれた。伊予松山・水軍家系の河野通宏の次男。一族は承久の変(1221)に加わり衰微、父は出家する。10歳で母と死別、1248年、父の勧めで継教寺・絶縁のもとで出家、随縁と称した。幼少より聡明だったという。1251年、13歳で師・善入とともに大宰府の浄土宗西山派証空弟子・聖達(しょうたつ)を訪ね師事、肥前の華台にも学ぶ。智真と改める。1263年、父の死を契機に帰郷し還俗、妻帯し家督を継ぐ。相続に絡み親族に襲われ、1271年頃、再び出家した。1271年、大宰府の聖達を訪ね、信州・善光寺で「二河白道」の喩に感得、阿弥陀仏により救済されると確信する。伊予・窪寺に籠る。1273年、伊予国・菅生の岩屋に参籠。1274年、妻・超一、娘・超二、従者念仏坊とともに遊行の旅に出る。四天王寺、高野山・金剛峯寺、熊野権現の夢告により、賦算の行(念仏札を配る)を始めた。妻子と別れる。1275年、熊野、京都、西海道より伊予に戻る。1279年、京都・因幡堂、善光寺、信濃国の伴野より敬愛する空也に倣い踊り念仏を始めた。奥州、平泉、1282年、鎌倉入府を断られる。1284年、3度目となる京都を訪れた。その後、北国、西国を巡り、1289年、摂津国和田岬の観音堂(後の真光寺)で亡くなる。
 一遍の号は、六字名号一遍法の感得に由る。空也の「捨ててこそ」の教えを実践し、捨聖とも呼ばれた。一遍は粗末な身なりで北は江刺、平泉から南は薩摩・大隅まで15年間諸国遊行し、各所で25万枚ともいう賦算と踊念仏を行なう。生涯にわたり寺を建てず、著作も残さず、死期迫るとわずかな経典も焼き捨てたという。一遍の時衆(時宗)は、日常の生活を臨終の時ととらえた。身辺のあらゆるものを捨て、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば俗世の人々も阿弥陀仏に救われ往生できると説いた。
◆九条忠教
 鎌倉時代の公卿・九条忠教(くじょう ただのり、1248-1332)。父は九条忠家、母は三条公房の娘。1260年、右近衛権少将、1251年、了行法師の謀反事件に絡み、父・忠家の右大臣解任に伴い失権。1273年、忠家復権に伴い、権中納言に任ぜられ、1274年、権大納言兼左近衛大将、1275年、右大臣、以後、左大臣、1291年、関白、藤氏長者と昇る。だが、1293年、更迭された。近江の藤原不比等別荘跡に安楽寺を建立。1299年、源融邸跡地を寄進し、歓喜光寺とした。1309年、出家、法名を円阿と称した。通称は報恩院殿。
円伊 鎌倉時代後期の画僧・円伊(えんい、生没年不詳)。詳細不明。園城寺(三井寺)の画僧、僧位は法眼和尚位。一遍に付いたとみられる。「一遍上人絵伝」(国宝)(1299)を描く。
◆仏像・石像 本堂に本尊「阿弥陀如来像」を安置する。傍らに安土・桃山時代の「一遍像」、「満悟上人像」、「豊臣秀吉像」を安置する。
 
「大日尊(大日如来)石像」は、1921年に建立された。日露戦争(1904-1905)に際して、37世・弥阿良心により「平和克復記念戦病死者追吊像」が立てられた。かつて法国寺境内にあり遷された。病気平癒の祈願をする。総高5.75m。
◆地蔵 地蔵堂に南無地蔵が安置されている。かつて、五条坂鳥辺野の葬送地に安置されていたという。一帯は鶴林(つるのはやし)と呼ばれ、焼死、伝染病死、行路病死者などが葬られていた。江戸時代、1788年の天明の大火、1864年の蛤御門の変(禁門の変)の犠牲者も葬られた。人々が地蔵尊の前を通り過ぎる際に、「南無阿弥陀仏」と唱え回向したことから南無地蔵と呼ばれたという。
 1907年、東山五条に歓喜光寺が移った際に、地蔵堂は境外仏堂になる。1975年、現在地(山科区大宅)に再移転した際に、地蔵堂、地蔵尊も遷され安置されている。
 地蔵尊の台座には、江戸時代、「宝永七年(1710年)」の銘が入る。丸彫、右手に錫状、左手に宝珠を掲げている。像高1.6m。
 ほかに8体の子安地蔵、450体の地蔵尊が安置されている。
◆六条道場 六条河原院跡に移された歓喜光寺は、六条道場と呼ばれた。六条派の拠点寺院になり栄えた。踊念仏、別時念仏、また連歌会なども催されていた。末寺もあり、将軍家から庶民の幅広い信仰を集めた。
 境内には、六条風呂が知られていた。刑死人には阿弥陀仏の御名を十遍唱える十念を授与した。中世の寺院には保護特権があり、歓喜光寺も亡命者、走入(駆込)者が境内に避難し、その保護下に置いていた。
◆時宗十二派 時宗には十二派あり、主流派の遊行派は最大勢力を誇った。第2祖・真教(他阿弥陀仏、1237‐1319)を開祖とし、京都七条道場金光寺を本山にする。4世・呑海(1265-1327)は藤沢道場清浄光寺(神奈川県藤沢市)を建立し住していた。京都拠点の金光寺は、後に東山・長楽寺に合併されている。
 これに対して六条派は、聖戒を開祖とし六条道場の歓喜光寺が本寺になった。「一遍上人絵詞伝」は遊行派に対し、六条派が一遍の正統継承者であることを示そうとしたものともいう。歓喜光寺は一時、清浄光寺下の遊行派に属した。その後、六条派本山になる。
◆法国寺 法国寺は、時宗の寺で東山区東山五条(現在の大谷本廟付近)にあった。山号は松圃山という。安土・桃山時代、遊行33代・満悟の開基による。第107代・後陽成天皇の母・新上東門院(1553-1620)が、父・勧修寺晴右の追善のために建てた。一時は寺領134石を有し、また、七条道場金光寺院代職も務めた。
 当初は豊国寺と呼ばれた。江戸時代、1615年の豊臣氏滅亡により、徳川家を憚り寺号の「豊」を改めて法国寺とした。近代、1907年、歓喜光寺に吸収され、本堂、文書など引き継ぐ。その境内地に代わる。
◆建築 「本堂」(京都府指定有形文化財)は、法国寺の本堂を解体復元した。時宗の本堂遺構としてほかに例は少ないという。安土・桃山時代、1601年頃、淀殿が2世・安楽のために建立した。
 梁行5間、桁行5間の方形、一重、寄棟造、本瓦葺。陣内は方3間、周囲に1間の庇。四方に直角に張る切目縁。身舎(もや)柱は円柱、側柱は方柱、組物は桁を受ける大斗実肘木(だいとさねひじき)を側廻り、柱上、中備えに用いる。内陣に蟻長押と天井の間の蟻壁付格天井、庇に梁の虹梁付棹縁天井、前半分に蔀戸、内部は来迎壁以外の間仕切なく、総板敷になっている。
◆文化財 現在は、当寺所蔵ではないが、かつて、絹本著色「一遍上人絵伝(六条縁起)」12巻を所蔵していた。鎌倉時代、1299年、一遍の十周忌に聖戒が撰し、詞書を起草した。園城寺(三井寺)の画僧・法眼絵師の円伊(生没年不詳)に描かせた。藤原経尹が外題を書く。関白・藤原忠教(1076-1141)の援助があったという。
 絵伝は一遍の伝記、各所での布教の様を綴る。やまと絵、宋元画技法を加味している。各地の背景、人々の生活も描写されている。「福岡の市」の場面はよく知られる。一遍の一行は念仏札を配る賦算の旅に出る。ある時、備前の国に入る。神主の妻が一遍に発心し、尼となり一行に加わった。神官の夫はこれを憤り、一遍を殺めようと跡を追う。だが、神官も一遍に帰依し従ったという。
 絵伝の詞書は、五彩に染めた絹布を料紙にして、能書家四人が書いた。室町時代幕府の歴代将軍なども披見した。1394年に足利義満が櫃を新調している。当初は歓喜光寺が所蔵し、その後流失した。時宗・清浄光寺(藤沢市)と共同所有後、現在は清浄光寺が所有している。京都国立博物館と奈良国立博物館に寄託されている。
◆年間行事 かつて毎年12月に別時念仏が催されていた。遊行の一つ火と呼ばれていた。
 

*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都案内 歴史をたずねて』『一遍辞典』『新版 京のお地蔵さん』『日本の名僧』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 6 洛南』


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