長楽寺 (京都市東山区)
Choraku-ji Temple
長楽寺 長楽寺 
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三門






庫裏


本堂


客殿


庭園



庭園


収蔵庫





鐘楼


梵鐘




十三重塔










長澤蘆雪の塚


金光寺石灯籠 1646年、施主・七条大仏師・法眼康□


平安の滝



平安の滝



石壁の石仏





尊攘碑



水戸藩兵留名碑



徳川昭釧の墓
 長楽寺(ちょうらくじ)は、円山公園の東、東山・長楽山の西の中腹にある。山号は黄台山という。かつて鷲尾山長楽寺とも呼ばれた。
 時宗、本尊は最澄作と伝えられる准胝(じゅんてい)観音。 
 本尊は、平安時代には七観音の一つ。洛陽三十三観音巡礼第7番札所。布袋和尚像は、京洛七福神の一つであり、家内円満の信仰がある。江戸時代には東山七福神の一つに数えられた。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 奈良時代末-平安時代、延暦年中(782-806)、805年とも、第50代・桓武天皇の勅命により、最澄(伝教大師)が創建したともいう。比叡山延暦寺の別院であり、当初は天台宗だった。唐の長楽寺に風景が似ていることから山号になったという。(寺伝)
 その後、勅願所になる。寺号は、唐の長楽寺に似ていることに由来するという。(『山州名跡志』)
 平安時代-中世中頃、延暦寺に属した。
 第59代・宇多天皇(在位887-897)の頃、祇園の東に建てられたともいう。本尊は十一面観音、また准胝観音ともいう。(『拾芥抄』)
 898年、本堂が修復される。
 延喜年中(901-923)、寛雅により建立され、宇多天皇念持仏の准胝金銅小立像観音を本尊としたともいう。(『阿娑縛抄』)
 1088年、内大臣・藤原師通は、上達部らと桜を愛で、詩を講ずる。(『後二条師通記』)
 1118年、参議・源師頼は小堂で母の菩提を弔う。(『長秋記』」)
 1168年、中納言・三条実房は准胝観音の御開帳に参詣する。(『愚昧記』)
 1179年、右京大夫は、母・夕霧の形見を当寺の印西に届け菩提を弔う。(『建礼門院右京大夫集』)
 1185年、5月、第80代・高倉天皇中宮・建礼門院は長楽寺の印西を戒師として出家し、直如覚と称したという。10月、建礼門院は大原・寂光院に移る。
 1190年、西行が紅葉、帰雁の歌を詠む。隆寛は慈円と和歌を詠じる。
 1191年、源宰相は雲居寺上人を導師とし、先姫のために小堂供養、阿弥陀像を安置した。(『長秋記」)
 平安時代末期、准胝観音を安置する零験所として観音信仰、阿弥陀信仰が行われていた。
 鎌倉時代、1194年-1206年、来迎房に天台の学僧・隆寛が住した。
 隆寛律師(1148-1227)は比叡山を下り当寺に住し、浄土宗に改める。以後、専修念仏長楽寺派を開く。
 1213年、比叡山衆徒は下山し、清水寺焼き討ちのために当寺に立て籠もる。(『百錬抄』)
 南北朝時代、1352年、足利義詮の兵が近江より入り、当寺の上峯に布陣する。(『園太暦』)
 1378年、道勤、慈仙、了真らが勧進し、梵鐘を鋳造する。(『空華集』)
 1385年、栄尊は寺を国阿に譲る。栄尊はその弟子になり、時宗霊山派に改宗した。(『国阿上人絵伝』)
 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で、東軍の将・細川勝元は西軍の利用に対して禁制を出す。寺は乱により焼失する。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉が寺領を寄進する。(『坊目誌』)
 江戸時代、1603年、徳川家康の知恩寺域の拡張、大谷祖廟の整備により境内は狭められる。
 1611年、第108代・後水尾天皇即位に際して本尊が開帳される。
 1630年、本尊が開帳される。
 正保年中(1644-1648)、1644年とも、後水尾院により本堂が造営され、勅額が贈られる。本尊厨子を東福門院が寄進する(『坊目誌』『山州名跡志』)
 1657年、勧進により楽阿は洪鐘を鋳造する。
 1678年、円山の長楽寺、双林寺などは、「遊人の旅飯出して業とす寺家」となる。(『出来齋京土産目録』同年条)
 1708年、常行念仏が行われた。
 1746年、幕命により境内を大谷祖廟に割譲する。
 1768年、楽阿は鐘楼を建立し、前住持・与阿の遺志により梵鐘を鋳造したともいう。(「扶桑鐘銘集』)
 文化年中(1804-1818)、借財により養福寺(縄手三条下ル)に寺院を譲り、浄土宗西山派になる。(『坊目誌』)。その後も、極楽寺(裏寺町)、良音寺(蹴上)、西念寺(裡寺町)、知恩院子院・良正院に付した。
 1856年、春光院より僧・月照は長楽寺に移る。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により円山公園に編入される。維新時、知恩院塔頭・良正院の支配下にあった。
 1870年、浄土宗より時宗遊行派になる。七条道場金光寺末(正法寺末とも)になる。
 1874年、8400坪の境内の内、5200坪を上知する。
 1886年、1885年とも、本堂が頽廃し撤却する。本尊を仮堂に遷す。
 1893年、1890年とも、正法寺の河野灌順により正伝寺(北区)の法堂を移し本堂とした。
 1906年、1908年とも、時宗七条道場金光寺が衰退したため合併される。山号を東山より本寺の黄台山に改める。畑地を京都市に売却する。(「坊目誌」)
 1908年、畑地を京都市に売却する。円山公園に編入になる。(『坊目誌』)
 現代、1980年、祖師像七体、金光寺文書が重要文化財に指定された。
◆寛雅 平安時代後期の僧・寛雅(かんが、生没年不詳)。俗称は源。俊寛の父。真言宗・仁和寺で木寺法印と呼ばれた。三論に精通し法然に教えた。延喜年中(901-923)、長楽寺創建ともいう。1164年より、法勝寺で寺務を統括した。
◆隆寛 平安時代後期-鎌倉時代前期の浄土宗の僧・隆寛(りゅうかん、1148-1228)。多念義、小坂義。父は少納言・藤原資隆(やすたか)。幼くして比叡山に上がり、伯父・皇円、範源、天台座主慈円に師事した。寿永年間(1182-1185)、長楽寺来迎坊に住し、吉水庵の法然に帰依した。1204年、法然により「選択念仏本願集」を付属される。1205年、権律師。1227年、比叡山衆徒の訴えによる嘉禄の法難で陸奥国配流となる。だが、護送の武士・毛利季光(西阿)が帰依し、弟子・実成房が代わり、隆寛は季光領地、相模国飯山に赴き没した。浄土宗長楽寺派(多念義)の祖、派を広める。
◆建礼門院 平安時代-鎌倉時代の高倉天皇中宮・建礼門院(けんれい もんいん、1155-1214)。徳子。平清盛の次女。言仁親王(安徳天皇)を産む。清盛の意向により、3歳で即位した安徳天皇に反発して、1180年、以仁王(もちひとおう)の挙兵、治承・寿永の乱となる。高倉天皇、清盛と相次いで没後、平家と源氏が争った1185年、壇ノ浦の戦いで、徳子は、母・二位尼、安徳天皇とともに入水する。だが、徳子のみが源氏方に助けられる。京都に送られ、吉田山近くの坊に入り、1185年、長楽寺の印西(阿証房印西)を戒師として出家し、直如覚と称したという。その際に、安徳天皇の御直衣をお布施とし、寺には幡(旗)としていまも伝えられている。その後、直如覚(徳子)は大原寂光院へ移った。
 長楽寺境内に、石塔の十三重塔があり、「建礼門院供養塔(御塔)」という。
◆印西 平安時代-鎌倉時代の僧・印西(生没年不詳)。詳細不明。阿証坊上人。1185年、建礼門院の戒師として出家したという。ただ、戒師は大原来迎院・本成房湛ごう(「ごう」はへんが「學」、つくりが「攴」)とみられている。印西は長楽寺を中興する。入水した安徳天皇の御衣を13流の幡として常行堂にかけ、その菩提を弔ったという。平重衡の寵愛した新中納言御局を助け尼とした。当寺で亡児の菩提を弔ったという。
◆一遍 鎌倉時代中期の僧で時宗開祖・一遍(いっぺん、1239-1289)。智真。捨聖(すてひじり)、遊行上人と呼ばれた。伊予松山・水軍家系の河野通宏の次男。一族は承久の変(1221)に加わり衰微、父は出家する。10歳で母と死別、1248年、父の勧めで継教寺・絶縁のもとで出家、随縁と称した。幼少より聡明だったという。1251年、13歳で師・善入とともに大宰府の浄土宗西山派証空弟子・聖達(しょうたつ)を訪ね師事、肥前の華台にも学ぶ。智真と改める。1263年、父の死を契機に帰郷し還俗、妻帯し家督を継ぐ。相続に絡み親族に襲われ、1271年頃、再び出家した。1271年、大宰府の聖達を訪ね、信州・善光寺で「二河白道」の喩に感得、阿弥陀仏により救済されると確信する。伊予・窪寺に籠る。1273年、伊予国・菅生の岩屋に参籠。1274年、妻・超一、娘・超二、従者念仏坊とともに遊行の旅に出る。四天王寺、高野山・金剛峯寺、熊野権現の夢告により、賦算の行(念仏札を配る)を始めた。妻子と別れる。1275年、熊野、京都、西海道より伊予に戻る。1279年、京都・因幡堂、善光寺、信濃国の伴野より敬愛する空也に倣い踊り念仏を始めた。奥州、平泉、1282年、鎌倉入府を断られる。1284年、3度目となる京都を訪れた。その後、北国、西国を巡り、1289年、摂津国和田岬の観音堂(後の真光寺)で亡くなる。
 一遍の号は、六字名号一遍法の感得に由る。空也の「捨ててこそ」の教えを実践し、捨聖とも呼ばれた。一遍は粗末な身なりで北は江刺、平泉から南は薩摩・大隅まで15年間諸国遊行し、各所で25万枚ともいう賦算と踊念仏を行なう。生涯にわたり寺を建てず、著作も残さず、死期迫るとわずかな経典も焼き捨てたという。一遍の時衆(時宗)は、日常の生活を臨終の時ととらえた。身辺のあらゆるものを捨て、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば俗世の人々も阿弥陀仏に救われ往生できると説いた。
◆真教
 鎌倉時代の時宗の僧・真教(しんきょう、1237‐1319)。遊行上人第2世。他阿弥陀仏。浄阿。鎮西・弁圓上人の弟子。1276年、北九州で一遍に師事、遊行回国につき従った。1289年、一遍の没に伴い、推されて後継者になり16年間の遊行を続けた。寺、道場の建立、信者の獲得、組織の整備に努め時宗教団の確立に貢献した。活動地域はおもに関東、中部、北陸だった。晩年は歩行困難になり、1304年、相模国当麻に無量光寺を創建して止住し、当寺で没した。  
◆呑海 鎌倉時代の時宗の僧・呑海(どんかい、1265-1327)。有阿弥陀仏、他阿弥陀仏。相模国の人。遊行上人2世・真教に師事。浄阿真観、賦算を許され、1301年、京都に七条道場金光寺を建立、1305年、兄・俣野景平の援助により相模国藤沢に藤沢道場清浄光寺を建立し住した。1316年、賦算による化導を許可される。1319年、遊行上人4世を継いだ。1320年、遊行3代・他阿智得が当麻道場(無量光寺)で没し、智得の弟子・真光が執権北条高時の命で住持になる。以後、真光(当麻派)と対立した。藤沢上人の初代、後に門流は時宗十二派中最大の遊行派と称された。清浄光寺で亡くなる。
◆国阿 鎌倉時代-室町時代の僧・国阿(こくあ、1314-1405)。播磨・円教寺で当初は天台を修めた。後、託何(たくが)の弟子となり、時宗に転じた。1383年、京都の正法寺、双林寺で布教を行う。霊山派、国阿派の祖。
 なお、時宗国阿派はその後、当山、正法寺の霊山正法寺派(霊山派)と双林寺の双林寺派(国阿派)に分かれている。
◆遊行上人 時宗七条道場金光寺の時宗にまつわる宝物、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)像」がある。「一遍上人像」(重文)と「遊行二祖真教上人」、「七条道場の住持の像」であり、鎌倉時代の七条慶派大仏師作という。
 遊行上人とは、本来は、開祖一遍かその弟子・真教を意味した。さらに、時宗の総本山・遊行寺(神奈川藤沢市、清浄光寺)の歴代住職を指した。僧侶は、諸国を布教のために歩き、お札を配って修行した。京都における遊行上人の道場は、七条道場金光寺(京都駅付近)だった。
◆仏像・木像 本尊は最澄(767-822)作と伝えられる「准胝観世音菩薩」を安置している。最澄が唐よりの帰国の際に、暴風により難破しかけた船中で示現した観世音を、自ら刻んだものという。二頭の龍にまたがる珍しい観音になる。勅封の秘仏として、歴代天皇の即位式にだけ開帳された。洛陽七観音の一つに数えられる。
 「弥陀三尊像」は恵心僧都(源信、942-1017)作という。崇徳上皇の念持仏とされ、七条道場金光寺の本尊として安置されていた。非業の死を遂げた上皇の怨霊を鎮めるために、念持仏が安置されていたという。近代、1907年、当寺に遷された。
 本尊脇の「布袋尊像」(50cm)は、東福寺開山・聖一国師(1202-1280)が、中国よりもたらした泥像の技法で、焼きを入れず、三国(日本、インド、中国)の土を混ぜて自作したという。東山七福神、京洛七福神の一つとされている。その後、日本で祀られた布袋像の模範になったという。なお、竃の上に安置される七体の布袋は、内乱で失っていた笑いを取り戻すために、聖一国師が人形師に命じてこの像を写し、配ったものという。
◆祖師像七体 一遍、時宗の祖師像七体が安置されている。1908年に廃絶された七条道場・金光寺より遷された。鎌倉時代-江戸時代像造の10体あり、一遍上人像は立像、真教像は椅像、8体は坐像になる。いずれも下衣に法衣、環のない袈裟姿で合掌している。ほぼ同じ構造、手法であり、寄木造、頭部は前後2材で矧ぐ、体部にほぞで差し込み、体部は正中線と体側の4材矧ぎ、左右肩、袖、背板、各先端部は別材で矧ぐ。玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。1980年、重要文化財にーは7体が指定された。
 「一鎮上人坐像」(重文)(79㎝)は、写実的で合掌する57歳の寿像になる。南北朝時代、1334年に造立された。幸俊作。木造、彩色、玉眼嵌入。
 遠像・立像「宗祖・一遍上人立像」(重文)(128.2㎝)は、素足の足はやや開き合掌、遊行する。眼光鋭く、痩せた体躯、両頬は削がれている。像内銘により室町時代、1420年、康秀作であり、製作年が明らかな一遍像最古の例になる。木造、ヒノキ材、彩色、玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。
 遠像・椅像「2代・真教上人像」(重文)(123.8㎝)は、南北朝時代作、木造、寄木造、玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。
 寿像・坐像「4代・呑海上人像」(重文)(97㎝)は、最も古く写実的な表現をしており、鎌倉時代末期の慶派による。没後間もなく像造されたとみられている。木造、ヒノキ材、寄木造、玉眼嵌入。
 坐像「某上人像」(重文)(78.5㎝)は鎌倉時代末作、呑海と同じ仏師とみられ、名品といわれていいる。木造、寄木造、玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。
 坐像「7代・託阿上人像」(重文)(77.2㎝)は金光寺4世、坐像「13代・尊明上人像」(重文)(78.9㎝)は金光寺7世、坐像「15代尊恵上人像」(重文)(80.2㎝)は金光寺9世、いずれも南北朝時代作。
 坐像「2代・真教上人像」(28㎝)、坐像「某上人像」(63.5㎝)、坐像「某上人像」(46.5㎝)は江戸時代作、木造、寄木造、玉眼嵌入、彩色仕上げ(古色)。
◆七条道場金光寺・慶派仏師 七条道場金光寺(七条通東洞院東入南側材木町)は、鎌倉時代、1301年、時宗2代・他阿真教が4代・他阿呑海に課して創建されたという。七条河原口道場とも呼ばれた。以後、時宗総本山になる。南北朝時代、1395年、3代将軍・足利義満は13代・尊明に帰依し、広大な敷地(七条以南、塩小路以北、東洞院以東、高倉以西)を寄進する。また、信徒の寄進相次ぎ隆盛を極める。4代将軍・義持は1420年、遊行上人、時衆が各所の関所を自由往来すること、上人、金光寺の布教活動を厚遇した。時宗の法要に義教、義政も参詣した。武士は戦の際に、時衆を伴い、戦陣で行事を行い、最期は念仏十念を受けた。
 江戸時代、1858年、1864年、焼失する。近代、1906年、長楽寺に合併された。本尊、慶派仏師による上人像などが長楽寺へ遷された。
 七条道場金光寺と慶派仏師との関わりは、鎌倉時代、1301年、運慶3男・大仏師第10代・康弁が道場に土地を寄進したことに始まるという。以来、21代まで七条道場に住し、念仏修業とともに造仏を行う。遊行上人は慶派歴代に、「覚阿弥陀仏」という最高の阿号を授けたという。
◆建築 「本堂」は、平安時代、延暦年間(728-806)に建立されたという。898年に修復する。1644年に再建、近代、1886年に焼失する。このため、江戸時代、1666年に造営された正伝寺の仏殿が、1890年に移築されている。また、正保年間(1644-1648)に再建されたともいう。1898年に修復、かつて伏見桃山上の遺構ともいう。2007年に京都市指定有形文化財に指定された。平安時代、第66代・一条天皇の時(986-1011)、巨勢広高は本堂新堂の壁に地獄変の絵を描いて名を得たという。(「今昔物語」)
◆庭園 江戸時代作の池泉観賞式庭園がある。8代将軍・足利義政の命をうけ、相阿弥が銀閣寺の庭を作る際に、試作した庭といわれている。東山が借景になっており、山よりの湧水が池泉に引かれている。
 滝水は「平安の滝」と呼ばれ、周囲の石壁には平安時代の石仏が刻まれている。水は「八功徳水(功徳水、奇特水)」と呼ばれ、隆寛配流の際に、清泉に青蓮華を生じたという。
 紅葉の名所としても知られ、「時雨楓」などある。
◆長楽寺山 境内の東にある長楽寺山はかつて寺が所有していた。「京の名所は祇園清水長楽寺、江戸の名所は高輪の泉岳寺」と謳われていた。
 かつて境内は8400坪あり、上知により長楽寺山を含む5200坪を失い、現在の境内1200坪と墓地1700坪を残すのみになった。
◆文人 平安時代の歌人・上東門院中将(987-1011)、歌人・大江嘉言(?-1009?)、官人・高岳相如(生没年不詳)、歌人・建礼門院右京大夫(1157? -?)、平安時代末期-鎌倉時代初期の武士・僧侶・歌人西行(1118-1190)、長沢雪、浄瑠璃の竹本綱太夫、江戸時代の文人・頼山陽(1781-1832)、江戸時代中期の画家など長楽寺を訪れた文人などの詩歌が残されている。
◆文化財 1203年に法然より隆寛に授けられたという「十念名号」、隆寛「御影」。
 「安徳天皇御衣幡(ぎょいのばん)」(複製)は、建礼門院が自ら形見の直衣(のうし)を16旒(りゅう)の仏幡に縫い、亡き子の菩提を弔ったという。幡の実物が2旒ある。繊維には平安時代の平絹が用いられている。(「平家物語」「左記」)
 「安徳天皇御影(みえい)」は、8歳で亡くなった天皇が独楽遊びをする様が描かれている。かつて、平安時代の宅間法眼が描いた似せ絵があり、その後、泉涌寺に移された。その後、渡辺柏舟(1908-1988)により模写されたものが所蔵されている。
 「安徳天皇御幡箱」は、江戸時代、1648年に、織田長好により寄進された。漆塗りであり、箱書きは四条道場・金蓮寺の浄阿(1304-1360)による。中には絹の着物が原形をとどめない形で納められていた。
 「建礼門院御影像」は、源氏方の目を逃れるために、当時は表面を墨で塗ったという。
 金光寺より移された「七条金光寺文書」23巻がある。
 本堂に掲げられている寺号「後水尾天皇勅額」、後水尾天皇中宮東福門院寄進の本尊安置の「厨子」。伝教大師作という「弁財天像」、松久朋琳(1901-1987)作「建礼門院木像」。1986年寄贈の日本画、白本未知筆「大原御幸」。
 「梵鐘」は、江戸時代、1657年鋳造、また南北朝時代、1378年ともいう。かつて「長楽寺の鐘」として知られ、黄鐘調の音色といわれた。太平洋戦争中に供出され失われた。1956年、再興される。音響指導・理学博士の青木一郎、選名・書は文学博士の神田喜一郎、形態文様設計・坪井良平による。大晦日に除夜の鐘として撞かれている。
◆石造物 石塔の十三重塔は「建礼門院供養塔(御塔)」という。かつて長楽山山腹の八丁台に立てられていた。平安時代、1185年、建礼門院が入寺し、剃髪した際の御髪塔とも、1223年に没し、「鷲尾」に遺骨が埋葬されたその鷲尾の地ともいう。近代、1868年に知事命により現在地に移転になる。
◆墓 境内後山には、幕末期以降の数多くの著名人の墓がある。「尊攘苑」には、儒者で詩に「長楽寺に遊ぶ」を読んだ頼山陽(1781-1832)、幕末の弾圧事件、安政の大獄(1858-1859)で斬首になったその子・瀬三樹三郎(1825-1859)、山陽の弟子・児玉旗山(1801-1835)、弟子で詩人の藤井竹外(1807-1866)、漢詩人・山田翠雨( 1815-1875)、漢方医・山中七郎(生没年不詳)、儒者・佐野山陰(1751-1819)、漢学者・篆刻家の頼立斎(1803-1863)、書画家・牧百峯(1801-1863)、歌人・大田垣蓮月(1791-1875)の墓がある。
 赤穂藩主・浅野長矩に仕えた侍医・寺井玄渓(1622-1711)。
 水戸藩関連では、徳川(松平)昭訓(慶喜弟)(1849-1864)、安政の大獄で死罪になった鵜飼吉左衛門(1798-1859)と子・幸吉(1828-1859)、家老で慶喜直臣の大場一景淑(一真斎)、慶喜幕臣で暗殺された原市之進(1830-1867)、三輪友右衛門、水戸藩烈士の墓、水戸藩攘夷留名碑には、斬殺された尊攘派藩士・住谷寅之介(1818-1867)ほか京都で命を絶った本国党86人(62人とも)が葬られている。 
 そのほか、俳人・高城都雀(?-1799)、歌人・能勢春臣(1808-1862)、歌人・市川君圭(1736-1803)、歌人・高畠志貴婦(式部)(1785-1881)、佐野頼立斎、藤井竹山、儒者・山田翠雨(1815-1875)、儒者・児玉旗山(1801-1835) 、漢詩人・書家・武元登々庵(1767-1818)、画家・長澤蘆雪(1754-1799)、南画家・池上春琴(1779-1846)、3代目・竹本綱大夫(生没年不詳)、日本画家・杉本哲郎(1899-1985)、日本画家・鈴木松年(1848-1918)、新派俳優・静間小次郎(1868-1938)などがある。 
◆宿坊・修行体験 境内の宿坊の「遊行庵(ゆうこうあん)」に宿泊できる。お勤め、読経、写経体験もある。
 お勤め・写経会・法話・抹茶接待(毎月第2日曜日、1330-16:00)。
◆年間行事 布袋祭(1月15日)、春季特別展(4月1日-5月10日)、建礼紋院供養(5月1日)、平家物語一人語り(5月4日-5日)、秋季特別展(10月20日-11月30日)、もみじ祭(扇祈願会、京舞奉納)(11月23日)、除夜の鐘(午後9時に整理券配布、0時より撞く。お守り、厄除け札の授与。)(12月31日)。
 写経会(毎月第2日曜日)。


*建物内の撮影禁止
*年間行事は中止、日時変更の可能性があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『長楽寺千年』『長楽寺略誌』『遊行歴代上人肖像彫刻並びに七条文書』『建礼門秘宝解説』『京都・山城寺院神社大事典』『日本の名僧』『事典 日本の名僧』『京都古社寺辞典』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『京都 阿弥陀の寺と庭』『新選組と幕末の京都』『京都仏像を訪ねる旅』『京の花街ものがたり』『増補版 京都の医史跡探訪』『京都隠れた史跡100選』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』


  山紫水明処       大谷祖廟       円山公園       寂光院       東福寺       金光寺       七条仏所跡          

頼山陽の墓

瀬三樹三郎の墓

寺井玄渓の墓
墓地からの京都市内の眺望

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 長楽寺 〒605-0589 京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626  075-561-0589
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