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新熊野神社・梛の森 (京都市東山区) Imakumano-jinjaShrine |
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新熊野神社 | 新熊野神社 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() ![]() 本殿(京都市重要文化財) ![]() ![]() 賀茂御祖神社(下鴨神社)の式若宮の社、天照大神、本殿脇にある。 ![]() 拝殿 ![]() ![]() ![]() 絵馬 ![]() 三本足の咫烏(やたがらす)の絵馬 ![]() ![]() 下四社 ![]() 中四社 ![]() 上社(うえのやしろ) ![]() 結の社(むすびのしゃ)・速玉の社(はやたまのしゃ) ![]() 樟龍辧財天 ![]() ![]() 「後白河上皇御手植之樟」の石標 ![]() 大クス ![]() 樟龍辧財天、クスの大木。 ![]() ![]() さすり木 ![]() ![]() 「新熊野勧進猿楽」の記念碑、説明石板。 ![]() 「新熊野勧進猿楽」の記念碑 ![]() 「新熊野勧進猿楽」の記念碑 ![]() 梛の木、ご神木、縁結び、夫婦円満の樹 |
新熊野神社(いまくまの-じんじゃ)の「新」には「今」の意味があり、新しく建立された熊野神社を表している。熊野大権社、熊野十二社権現、梛の宮、今熊野、通称は権現さん(仮に現れるの意味)ともいう。能楽発端の地として知られる。
祭神は熊野那智大社の熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)、熊野速玉大社の早速之男大神(はやたまのおのおおかみ)、熊野本宮大社の熊野家津美御子大神(くまのけつみこのおおかみ)などをはじめ12神、樟権現が祀られている。 旧村社。京都十六社朱印めぐりの一つ。京都三熊野(みくまの)の一つ(ほかに、熊野神社、熊野若王子神社)。 道中安全、健康長寿、病魔退散、お腹守護、芸能上達などの信仰がある。授与品は大樟守、芸能守梛守、八咫烏守など。 ◆歴史年表 平安時代、1160年、第77代・後白河上皇は平清盛に命じ、熊野権現本宮の神(三所権現)を、この地にあった仙洞(せんどう)御所法住寺殿内に鎮守社として勧請した。熊野新宮、今熊野とも呼ばれた。熊野よりはるばる土砂や材木が運ばれ、広大な社域が築かれ社殿が造営された。神域には、那智の浜の青白の小石が敷かれ、霊地熊野が再現されたという。検校職は寺門(園城寺)に委ねた。 第80代・高倉天皇(在位1168-1180)が中宮徳子(建礼門院)のために安産祈願をし、以後、「安産の神様」として信仰を集めた。 1183年、法住寺合戦の際には、木曽義仲方の樋口兼光がこの地より御所を攻めている。 室町時代、1374年、観阿清次・藤若丸(観阿弥・世阿弥)父子はこの地で、大和の猿楽結崎座の興行を行う。 南北朝時代、1375年、観阿清次・藤若丸(観阿弥・世阿弥)父子が前年に続き、猿楽興行を行ったという。 室町時代、1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失し、その後再興されている。 江戸時代、1663年、現在の本殿が造営された。 1666年、第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院和子により再興され、奉行を聖護院先達勝仙院の晃玄が努めたという。 1673年、聖護院の道寛親王により現在の建物が再建された。 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、社僧を廃した。 1906年、東山通の開通により境内が縮小された。 ◆後白河 天皇 平安時代後期-鎌倉時代前期の第77代・後白河 天皇(ごしらかわ-てんのう、1127-1192)。男性。雅仁(まさひと)、法名は行真。父・第74代・鳥羽天皇、母・中宮待賢門院璋子(権大納言藤原公実の娘)の第4皇子。1155年、異母弟の第76代・近衛天皇の死により践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)し、29歳で即位する。即位は鳥羽法皇の意向により、崇徳上皇、その子の皇位継承を阻止するためだった。乳父・藤原信西が重用された。1156年、鳥羽上皇没後、皇位継承を巡り、保元の乱が起こる。崇徳上皇方と後白河天皇方で戦い、天皇方が源義朝(よしとも)、平清盛(きよもり)らの活躍で勝利した。崇徳上皇を配流させる。乱後、新制七か条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとした。1158年、3年の在位の後、第78代・二条天皇に譲位した。1159年、信西に反感を抱く人々による平治の乱で、清盛の攻勢で仁和寺に逃れた。乱後、清盛が実権を握り、平家と連携する。1161年、法住寺殿に移る。1168年、清盛と謀り六条天皇を退位させ、憲仁親王(高倉天皇)を即位させる。1169年、園城寺前大僧正・正覚を戒師として出家する。園城寺長吏・覚忠により受戒し、法名は行眞と称した。院近臣の強化、延暦寺や東大寺の僧兵の利用で清盛を除こうとした。1170年、東大寺で改めて受戒した。1171年、清盛の娘・徳子が法皇の猶子になり、高倉天皇に入内になる。1177年、近臣による平氏打倒の謀議が発覚する鹿ケ谷の事件が起こる。以後、清盛との関係が悪化する。1179年、清盛の謀反により、院政を止め鳥羽殿に幽閉の身になる。1181年、高倉上皇没後、院政を再開する。法皇は頼朝と結び義仲を排しようとした。法皇は比叡山に身を隠した。1183年、法住寺合戦で、木曾義仲が法住寺殿を襲撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇は六条西洞院の御所に幽閉され院政を止められる。法皇は頼朝に救援を依頼した。1184年、義仲が討たれる。平氏は京都を追われ、1185年、源義経の軍に壇ノ浦で滅ぼされた。1192年、室町殿(六条殿)で亡くなる。66歳。没後、法住寺法華堂に葬られる。 二条天皇、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代30余年にわたって院政を行い、治天の君(院と天皇の二重権力の競合併存)として王朝権力の復興・強化に専念した。台頭した武士勢力を対抗させて巧みに抑え、源頼朝は「日本一の大天狗」と評した。大内裏造営を行い、法皇になり清盛の尽力し蓮華王院(三十三間堂)、長講堂などを造営し、造寺、造仏、高野山、比叡山東大寺などの参詣を盛んに行なった。熊野参詣は34回に及んだという。歌謡を分類集成した『梁塵秘抄』『梁塵秘抄口伝集』10巻を撰した。遊女・乙前に今様を学ぶ。今様は、法住寺の広御所で披露され、さまざまな階層が参加した。 ◆観阿弥 南北朝時代の能役者・能作者・観阿弥(かんあみ/かんなみ、1333-1384)。男性。実名は結崎清次(ゆうざき-きよつぐ)、通称は三郎、芸名は観世、出家号は観阿弥陀仏、観阿弥。伊賀の生まれ。父・大和国(奈良県)の山田猿楽・美濃大夫の養子。観阿弥はその3男、子に世阿弥。伊賀国小波多(おばた)で座を結成した。大和結崎(ゆうさき)に出て、興福寺・春日神社に奉仕した。大和猿楽四座の一つ結崎座(後の観世座)を率いる。興福寺の庇護を受けた。応安年間(1368-1375)、猿楽に曲舞節を取り入れる。1370年頃、観阿弥・世阿弥の父子は、醍醐寺での7日間の猿楽行い名声を得る。1371年、須磨寺で勧進能を催した。1374年頃、観阿弥・世阿弥の父子は京都・今熊野で演じ、以後、将軍・足利義満の庇護を得る。駿河に巡業中に客死した。52歳。 初代大夫(たゆう)、観世流の始祖、世阿弥と2代にわたり能を大成した。物まね本位の大和猿楽に、近江猿楽、田楽、流行していた曲舞(くせまい)の要素を取り入れる。歌舞主体の幽玄能を得意とし、音楽上の改革も行った。作品に「卒都婆(そとば)小町」「自然居士(じねんこじ)」「通(かよい)小町」など。世阿弥の著『風姿花伝』に教えが記された。 供養塔は大徳寺・真珠庵(北区)にある。 ◆世阿弥 南北朝時代-室町時代中期の能役者・能作者・世阿弥(ぜあみ、1363/1364?-1443?)。男性。本名は観世三郎元清(かんぜ-さぶろう-もときよ)、幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)、観世元清、世阿弥陀仏、世阿、世に観世三郎、秦氏を称した。法名は至翁善芳(しおう-ぜんぽう)。観阿弥(かんあみ)の長男、2代目観世大夫郎。娘婿は金春禅竹(こんぱる-ぜんちく)。1370年頃、観阿弥・世阿弥父子は醍醐寺清滝宮での7日間の猿楽行う。1374年頃、父子は今熊野神社で演じた。世阿弥は美童であり、和歌、連歌、蹴鞠なども嗜み、3代将軍・足利義満の寵愛を受けた。二条良基、婆娑羅大名・佐々木道誉らの庇護を受ける。1384年、父・観阿弥の没後、観世座の新大夫を継ぐ。1399年、一条竹鼻で、義満後援により3日間の勧進猿楽を興行した。1401年頃、良基から藤若(ふじわか)の名を賜り、以後、名乗る。1408年、義満没後、義持は増阿弥、義教は甥・音阿弥(おんあみ)を寵愛し田楽に座を奪われる。1422年、世阿弥は、観世大夫の座を長男・元雅に譲り出家し、至翁善芳と称した。1424年、醍醐寺清滝宮祭礼で猿楽を演じる楽頭職に任じられたという。1430年、次男・元能が出家する。1432年、元雅は急逝した。1434年、観世座大夫継承をめぐり(理由は不明とも)、将軍・義教の怒りにふれ72歳で佐渡に流された。1441年、義教暗殺に伴い、赦されて京に戻り亡くなったともいう。 猿楽能に田楽能の歌舞の要素を取り入れ歌舞能を完成させた。観阿弥の伝書『風姿花伝』(1400)では「幽玄」、「闌位(らんい)」を説く。『花鏡』『至花道』など20冊ほどを著した。作品に「高砂」「井筒」「班女(はんじょ)」「老松(おいまつ)」など50曲ほどある。供養塔は大徳寺・真珠庵(北区)にある。 ◆熊野信仰・今熊野修験 古くから熊野は、観音の補陀落浄土としての信仰の中心になっていた。平安時代後期に「蟻の熊野詣」といわれたように自然神の熊野信仰が盛んになる。天皇や貴族が頻繁に訪れるようになる。後白河上皇も本宮に34回、新宮那智に15回も訪れた。歴代天皇の中で最多数になる。当時は、参詣の数により功徳が増すと考えられていた。ただ、京都からの熊野詣は困難なことから、京都に新熊野神社が創建された。上皇は、それ以後も紀州の熊野詣を続けており、参詣に際して、新熊野神社での参籠(10日ほど)後に紀州に出発した。 熊野信仰とは、祭神の熊野牟須美大神(伊弉冉尊)、早速之男大神、熊野家津御子大神(素戔嗚尊)とそれぞれの本地仏の千手観音、薬師如来、阿弥陀如来への神仏習合の信仰だった。また、宇佐信仰の習合した山岳仏教、平安時代後期に、豊後国東半島一帯に起きた今熊野権現・本地仏を信仰する修験にも影響を及ぼした。 なお、日本神話には二つの流れがあるという。高天原を舞台とする神話イザナギ系の自然神と、出雲を舞台とした神話イザナミ系の祖先神の二系統になる。その源流は、前者が熊野信仰に、後者が伊勢信仰につながる。また、当社は自然神の祖神である伊弉冉尊が、祖先神の祖神である伊弉諾尊を統合しているという。 ◆建築 「本殿」(京都市有形文化財)は、熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)を祀る。江戸時代前期、1663年に第108代・後水尾天皇皇子の聖護院宮道寛親王により造営された。熊野本宮証誠殿(しょうじょうでん)の熊野造と同じになっており、内部は外陣、内陣に分けられている。熊野造の例は少なく、現在の証誠殿よりも古いという。江戸時代後期、1835年に大改修が行われた。 流造、三間社、正面に向拝付。 ◆摂末社 ◈本殿脇に賀茂御祖神社(下鴨神社)の式若宮の社、天照大神が祀られている。 ◈上社(うえのやしろ)の右に早速之男大神(はやたまのおのおおかみ、伊弉諾尊)、熊野家津御子大神(くまのけつこのおおかみ、素戔嗚尊の別称)を祀る。 ◈中四社の祭神は忍穂耳命(おしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、彦穂穂出見命(ひこほほでみのみこと)、鵜葺草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)になる。 ◈下四社の祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)、弥都波能売命(みづはめのみこと)、雅産霊命(わくむすびのみこと)になる。 ◈結の社(むすびのしゃ)・速玉の社(はやたまのしゃ)に伊邪那伎命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと) を祀る。 ◈樟龍辧財天に大樟を祀る。 ◆鳥居 鳥居は明神鳥居、島木の反りはあり、増しはなし、島木鼻の切り様は水切。江戸時代前期、1677年に建立された。石造。 ◆新・今 新熊野(いまくまの)神社の「新(いま)」には、「今(いま)」の意味がある。当初より、「新熊野」と「今熊野」の両方が混在したという。 「新」を「今(いま)」と読むのは、後白河上皇の好んだ「今様(いまよう)」に因むともいう。異説もある。 現在、境内周辺の地名は「今熊野(いまくまの)」と呼ばれ、当社に由来する。ただ、「今」に統一されている。地名の歴史は浅く、近代、1871年の今熊野村の成立以来になるという。 ◆猿楽 境内は、能楽発祥の地といわれている。 南北朝時代、1374年(1375年もとも)、観阿清次・藤若丸父子はこの地で、大和の猿楽結崎座の興行を行った。最初に神事能「翁」が演じられた。シテは父、世阿弥は「千載」を舞ったともいう。観覧していた室町幕府3代将軍・足利義満は、その芸に感動する。二人を同朋衆に加え、それぞれ観阿弥、世阿弥と名乗らせた。この「今熊野勧進猿楽」が、日本能楽史の起源になる。 猿楽の起源は、奈良時代に中国より伝わった散楽にある。その後、なお、世阿弥は同朋衆でも、時宗の徒でもなかったとの見方がある。 ◆八咫烏 神鳥となっている三本の足を持つという八咫烏(やたがらす)は、神武東征の際に、熊野から大和に道案内をした鳥として知られている。熊野の神の化身、太陽の使者として勝利・幸運に導く鳥でもあるという。梛の枝をくわえている。 日本サッカー協会のシンボルとなっているのは、近代サッカーを紹介した中村覚之助が和歌山出身であったことに因むという。 ◆ナギ 東山区今熊野椥(ナギ)ノ森町にある境内には、本殿両脇にご神木のナギ(梛)も植えられている。古く当社は、「梛の森の梛の宮」とも呼ばれていた。神の託宣にはナギの地に遷すこととされ、この地が選ばれたという。 ナギはイマヌキ科の常緑樹で、葉が多くの縦脈から成り、切れにくい。雌雄木があり、雌木には2つの実を結ぶことから縁結び、夫婦円満の樹木とされている。源頼朝、北条政子もナギの木の前で夫婦の契りを結んだという。また、罪穢、災過、病魔を薙(な)ぎ払う、凪から安全無事をもたらす霊樹ともされ、熊野詣の際のお守りとしても使われた。 当社では、かつて玉串にナギを用いていた。 ◆クスノキ 境内の大樟(大樟大権現、樟龍弁財天)(京都市指定天然記念物)は、熊野より移植され、後白河上皇が手植したという。樹齢900年以上という。ただ、室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後の植栽とみられている。熊野の神の化身とされ、神の降臨する影向(ようごう)の大樟ともいわれる。植生の北限に近く、市街地に植えられた中では巨木になる。健康長寿と、上皇が常に腹を患っていたことから「お腹の神様」とされ、安産のご利益もあるという。樹高は21.9m/24m、胸高幹周は6.58m、樹冠は東西方向23.5m、南北方向35m。 ◆石 「新熊野勧進猿楽」の記念碑は緑色結晶片岩になる。 ◆京都十六社朱印めぐり 京都十六社朱印めぐり(1月1日-2月15日)は、現代、1976年に始まり当初は14社だった。古社16社を巡拝し、各社より朱印を授かる。すべての神社を参拝すると一年間のあらゆるご利益が得られるという。専用の朱印帳で期間中に全てのご朱印を受けると干支置物が授けられる。 ◆年間行事 京都十六社朱印めぐり(1月1日-2月15日)、とんど祭(1月15日)、神幸祭(4月29日)、新熊野祭(鳳輦巡行、獅子舞は知られている)(5月5日)、夏越神事・大祓式(6月30日)、祖霊祭(8月15日)、大樟祭(9月25日)、大樟祭(10月15日)、例大祭鎮座記念大祭(10月16日)、火焚祭(11月20日)、天長祭・つなかけ祭(12月23日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ※「上皇」は皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都古社寺辞典』、『鳥居』、『洛東探訪』、『京都はじまり物語』、『京都の地名検証』、『京都歩きの愉しみ』、『京都の自然ふしぎ見聞録』、『京都 神社と寺院の森』、『京都のご利益手帖』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京の福神めぐり』、『週刊 京都を歩く 26 東福寺周辺』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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