松原橋 (京都市下京区-東山区) 
Matsubara-bashi
 Bridge
松原橋  松原橋
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 鴨川に架かる松原橋は、現在の五条大橋の一つ上流に架かる。安土・桃山時代まではこの橋が五条大橋と呼ばれていた。橋は清水寺への参詣路にあたっていた。また、苦集滅路(くずめじ、滑谷<しるたに>越、渋谷越)に至る玄関口でもあった。 
 橋は、「清水橋」「清水寺橋」、僧侶による勧進(募金)により賄われたので「勧進橋」とも呼ばれた。また、道の両側に松並木があり「五条松原橋」とも呼ばれた。
◆歴史年表 平安時代、嵯峨天皇(810-824)の勅命により橋が架けられたともいう。すでに五条大橋と呼ばれた。
 1139年、清水橋(五条橋)架橋の記録がある。橋長64間、幅員4間8寸あった。(『百錬抄記』『濫觴抄』)
 平安時代末には石橋が架けられていたという。(『梁塵秘抄』)
 1188年、大勧進沙弥印蔵は法然の説話を聞き、五条橋の造営勧進の願主になる。清水寺阿弥陀堂の常行念仏も開く。
 鎌倉時代前期、清水橋、清水寺橋と呼ばれていた。(『明月記』『東大寺要録』)
 鎌倉時代、五条橋下には流灌頂を行い、死者を供養する乞食僧・「いたか」が住していた。
 1228年、風雨洪水により、四条大橋、五条大橋が流された。(『百錬抄』)
 1233年、囚人を預かる大番衆が召人を逃した罰として五条橋修造が課せられた。
 1235年、幕府は京都大番役を怠った西国御家人に清水寺橋の修理を命じた。(鎌倉幕府法、追加法第69条)
 1245年、五条橋の修造費は幕府が負担した。(追加法)
 1263年、清水橋(五条橋)、鴨川川防用途を近国御家人に賦課する。(「鎌倉遣文」)
 室町時代、1408年、浄財の寄付によって修架されている。
 1409年、京都の住人・慈恩が浄財を集め、僧・慈鉄が設計し、長さ86丈、幅24丈の長大な橋を架ける。(『本朝高僧伝』)
 1427年、洪水により四条橋、五条橋が落ち、河原在家といわれる庶民の家が流された。
 1441年、洪水により四条橋とともに落ちる。
 1461年、「寛正の大飢饉」(山城大飢饉)の際、飢饉と疫病、戦乱により、8万2000人もの餓死者が出ている。時宗の僧・勧進聖の願阿弥は、四条橋の河原、五条橋の河原、油小路の空き地で多くの餓死者を葬り塚を作った。(『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』)。鴨川には遺体が溢れ、川の流れを塞いだという。この後、五条橋で万寿寺の僧による施餓鬼が行なわれた。 
 1486年、勧進聖・願阿弥は、五条橋中島の堂で亡くなったともいう。(「大乗院寺社雑事記」)
 1544年、大風、洪水により四条大橋、五条大橋が落ちる。京中で被害がある。(『言継卿記』) 
 1573年、五条橋が古く頽廃しているとの記述がある。(『耶蘇会日本通信』)
 安土・桃山時代、1589年(1590年とも)、豊臣秀吉は奈良東大寺大仏殿を模して方広寺大仏殿を造営した。その際に、五条坊門通から六条坊門小路にあたる現在の五条大橋の位置に、増田長盛、前田玄以により橋を架け替えさせた。さらに、五条大橋と名を変え、通り名も六条坊門小路から五条橋通(近年になって五条通)へと変わった。旧五条通は松原通に変えられた。
 1591年、豊臣秀吉は京を囲むお土居を築造している。
 1669年-1670年、鴨川新堤(車坂-五条橋)の工事が始まる。
 近代、1935年、「昭和10年京都大洪水」により流出する。
松原橋 松原橋の架設年は1959年、橋種は3径間連続鋼プレートガーター、橋長は83.55m、幅員は6m(6.7mとも)になる。
◆晴明塚 平安時代の陰陽師・安倍晴明(921?-1005)が葬られたのは、五条大橋(松原橋)の東北の中州(現在の橋の東詰付近)だったという。
 かつて鴨川に中州があり、法城寺(ほうじょうじ、大黒堂)という寺が建てられ、晴明を祀る塚もあったという。(「洛中洛外図屏風」「雍州府志」)。寺の名は、「法」は「水去りて」、「城」は「土と成る」という意味になる。寺は、鴨川の洪水を防ぐために晴明本人が建てたともいう。晴明の墓は晴明塚といわれ、松が植えられていた。その後、晴明祠が建てられ、木像が祀られた。
 寺を民間陰陽師が支えたとも、清水坂の犬神人によるともいう。少なくとも室町時代には存在した。付近は、「大黒信仰」の中心地になり、下級芸能者の拠点にもなった。
 江戸時代、1607年、寺と塚は洪水被害により三条橋の東へ移転し、心光寺と寺号を改めた。また、度重なる鴨川の氾濫、安土・桃山時代の豊臣秀吉による新しい五条大橋替え工事、秀吉による弾圧により消えたともいう。
 江戸時代、塚は、1654年までは中州に存在していた。(「新版平安城東西南北并洛外之図」)。その後、現在の松原橋の東、下京の物吉村(東山区八坂通大和大路付近とも)に遷された。塚を守護するために清圓(円)寺(せいえんじ)、その隣に晴明社が祀られたという。(「京雀跡追」)。
 近代、1868年、清圓寺、晴明社は廃絶し、中堂寺村の善徳寺に晴明像なども遷された。近代、1877年、像は長仙院(中京区裏寺町)に遷されたという。現在、長仙院は晴明像、神像などを所蔵している。
 法城寺の名は、法城山晴明堂心光寺(三条大橋東)の山号寺名に残されている。心光寺は法城寺の後身とされ、かつては境内に晴明塚があったという。
 近代、1885年以降、廃絶した清圓寺、晴明社の跡地に、松田儀兵衛により荒龍(あらたつ)神社が再建された。(「京都日出新聞」)。後に稲荷社に代わり、いまもその子孫の邸内に祀られているという。
◆夏禹王廟 鎌倉時代には中州に夏禹王廟(げうおうびょう)があった。禹王は、古代中国の夏王朝の最初の王で、黄河の治水に力を注ぎ、中国の道教では、治水や土木工事の神として崇められた。
 夏禹王廟と法城寺との関連も指摘されている。また、仲源寺が後身ともわれている。
◆寛正の大飢饉 室町時代、1420年、京都に大地震が起き、大干ばつ、飢饉が続いた。洛中には、飢餓者や疫病者があふれた。翌年、幕府によって五条河原に仮小屋が建てられ、大施餓鬼が執り行われた。
 「寛正の大飢饉」(山城大飢饉)(1461)の際、飢饉と疫病、戦乱により、8万2000人もの餓死者が出た。時宗の僧・勧進聖の願阿弥は、四条橋、五条橋、油小路において多くの餓死者を葬っている。それでも鴨川には、遺体が溢れ、流れを塞いだという。この後、両橋などにおいては、五山の僧による施餓鬼も相次いで行なわれた。願阿弥は、五条大橋での勧進による造営を行なっている。
◆六波羅 松原橋は、平安京の「洛外」にあり、葬所鳥辺野(とりべの)の入り口に当たった。鴨川の東岸、五条から七条にかけては六波羅と呼ばれた。都人が亡くなると棺桶に収めて鴨川を渡った。寺の僧侶は引導を渡し、野辺に送る。鳥辺野とは、五条坂から今熊野にかけての阿弥陀ヶ峰の南麓一帯をいう。行基が開いたとも伝えられ、山麓に阿弥陀堂があったことからこの名がついた。
 なお、中世以降、清水坂では穢れを清める「清目」「坂者」とも呼ばれた職掌集団が、葬送、埋葬に関する特権を有していた。
 橋向こうは、冥界への入り口、あの世とこの世の分岐点と考えられ、六道珍皇寺、六波羅蜜寺、念仏寺などのお堂が点在していた。六道の辻(六道の辻地蔵尊)にも通じた。六道とは、衆生が生前の業因よって赴くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六界を指し、何れかに行って、やがてこの世に転生すると考えられた。また、かつて呼ばれていた髑髏原(どくろがはら)から六道、六原、麓原、六波羅に転じたともいわれている。
◆牛若丸 このかつての五条大橋は、武蔵坊弁慶と牛若丸の対決の伝承でも知られている。
◆お伽草子 お伽草子『和泉式部』では、和泉式部の産んだ子どもが五条大橋のたもとに捨てられる。その子は、やがて比叡山の道命阿闍梨という僧になる。やがて、宮中の法華八講で見初めた相手とは、和泉式部その人だった。
◆阿国 安土・桃山時代の出雲阿国(いずも の おくに、1572?- ?)は、四条河原ではなく、五条河原(松原の河原)でややこ踊りを踊り、北野社でかぶき踊りを披露したともいう。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京の橋ものがたり』『京都の治水と昭和大洪水』 『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』『史跡探訪 京の七口』『京都まちかど遺産めぐり』『あなたの知らない京都の歴史』『鴨川・まちと川のあゆみ』


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 松原橋 京都市東山区宮川町付近 
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