白山神社・金色院跡 (宇治市)
The ruins of Hakusan-jinja Shrine,Konjiki-in Temple
白山神社・金色院跡 白山神社・金色院跡 
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惣門、旧金色院遺構、4間2間半


惣門の脚門、雨除けの庇部分


惣門、蓮華文軒丸瓦




白山神社


白川に架かる白山橋




境内に至る石段


拝殿


拝殿、軒の垂木、茅葺


拝殿(重文)




幣殿


幣殿




本殿、一間社流造桧皮葺、伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀る。
 宇治市の宇治川より支流・白川沿いに山を辿ると白川の山里に到る。茶畑、棚田広がる山腹(標高80m)の森に白山神社(はくさん じんじゃ)がある。
 平安時代、金色院(こんじきいん)の鎮守社として祀られたという。金色院の廃寺後、いまはわずかに旧惣門と白山神社社殿のみが残されている。
 祭神は伊邪那美尊(いざなみのみこと)。古くより雷除け、歯痛、疱瘡治癒の信仰を集めた。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、第56代・清和天皇の頃(在位858-876)創建されたともいう。(「山州名跡志」)
 この地には公卿・藤原頼通(992-1074)の山荘が営まれていたという。(「白川別所金色院御堂勧進状」、1463)
 承徳・康和(1097-1104)、金色院建立が発願される。(「白川別所金色院御堂勧進状」) 
 1102年、第70代・後冷泉天皇皇后・四条宮寛子(藤原頼通の娘)が金色院を創建したともいう。落慶法要が営まれる。(「白川別所金色院御堂勧進状」)
 1146年、四条宮寛子が金色院の鎮守社として加賀・白山神を勧請し、白山神社を建立した。現在の白山神社拝殿が宇治離宮から移される。(「白川別所金色院御堂勧進状」)
 保元・平治年間(1156-1159)、石山寺の僧が白川別所で経典書写したという。
 鎌倉時代、1204年、太政大臣・藤原(九条)良経が白川別所(寛子の僧坊)を訪れる。(『明月記』)
 1277年、拝殿が修補された。
 1305年、白川辻坊の僧房の名がある。(『龍雲寺蔵大般若経奥書』)
 室町時代、1460年、範祐の時、金色院は盗火により焼失する。(「白川別所金色院御堂勧進状」)
 1463年、勧進となる。(「白川別所金色院御堂勧進状」)
 1467年、公卿・近衛房嗣(1402-1488)、政家(1444-1505)父子は焼失後の坊舎跡の庭園を鑑賞する。(『法興院記』)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)まで、金色院の塔頭十六坊が建ち並んでいたという。(「金色院御堂勧進状」)
 1523年、連歌師・柴屋町軒宗長(1448- 1532)が白川別所辻坊に宿泊する。(『宗長日記』)
 1524年、連歌師・柴屋町軒宗長が白川別所辻坊に宿泊する。(『宗長日記』)
 その後、金色院は再興された。
 その後、金色院は藤原氏衰退とともに衰微した。
 近世(安土・桃山時代)初期、金色院の辻ノ坊、尾崎坊は宇治郷に移され、坊僧は茶師になったという。
 江戸時代、1611年、尾崎坊、西坊、東坊、北坊、向坊、玄勝坊、浦坊、玄信坊の名が記されている。(「白川村検地帳写」)
 1679年、茶師・尾崎紹閑は金色院に金銅華曼を寄進する。
 17世紀(1601-1700)末、恵心院は金色院の福泉坊、池ノ坊に融資を行う。
 享保年間(1716-1735)、白山権現(白山神社)境内に、本堂の文殊堂、惣門が残されていた。福泉坊、蔵坊、監珠坊、長円坊、岡坊、中之坊、尾崎坊、向坊、北坊、南坊、西坊、東坊の名がある。(「上林家前代記録」)
 1825年、辻ノ坊跡が白川村の新次郎に売却される。
 1854年以降、境内には耕作地が開かれ、村人は兼帯した恵心院(宇治市)に祈祷料を払い坊跡を得た。(「社寺上知一件綴」)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、最後まで残されていた塔頭・蔵ノ坊、中ノ坊、福泉坊が廃絶する。白山神社と旧金色院の惣門は残される。
 現代、1979年、宇治市教育委員会による境内西の発掘調査が行われる。平安時代(11世紀後半)から江戸時代の庭園遺構とみられる弁天池、弁天島などが見つかる。
 1993年、宇治市教育委員会による境内北西の旧福泉坊付近の発掘調査が行われる。15世紀後半の以降の火災層、暗渠、土壙、瓦類、土器、陶磁などが見つかり、寺坊の庭園遺構とみられている。
 1996年、第三次発掘調査により、寛子供養塔の西付近より文殊塔跡とみられる礎石跡、庭園跡が見つかった。
◆藤原頼通 平安時代の公卿・藤原頼通(ふじわら の よりみち、992-1074)。藤原道長、左大臣・源雅信の娘・倫子の嫡男。13歳で春日祭使に選ばれた。1017年、第68代・後一条天皇の摂政を父・道長から譲られる。以後、第69代・後朱雀天皇、第70代・後冷泉天皇の摂関となる。妻(具平親王の娘隆姫)との間に女児に恵まれず天皇の外祖父として権勢をふるえなかった。1052年、宇治の別荘を寺院に改め平等院と名付けた。1068年、関白職を弟・教道に譲り、平等院に隠棲、1072年、出家した。宇治殿、宇治大相国とも呼ばれる。荘園・高陽院を経営した。
◆藤原寛子
 平安時代中期の後冷泉天皇皇后・藤原寛子(ふじわら の かんし/ ひろこ、1036-1127)。父は関白・ 藤原頼通、母は藤原祇子。四条宮寛子とも称した。弟は藤原師実。1050年、15歳で入内。1051年、第70代・後冷泉天皇の皇后宮に冊立する。天皇寵愛を受けたが子に恵まれず、藤原家衰退の一因になった。1063年、平等院に多宝塔、小御所などを建てた。1608年、藤原歓子の皇后宮冊立を受けて中宮に冊立、中宮章子内親王とともに三后が並立した。同年後冷泉天皇没後に出家する。1069年、皇太后、1074年、太皇太后。宇治・法定院に居住した。歌合を催し、故実に通じ「四条宮故実」といわれた。天皇没後、宇治・法定院に居住した。92歳。
◆金色院 金色院の詳細は分かっていない。現在の宇治市白川宮ノ前、宮ノ後に存在したとみられている。金色院の名称は、「白川別所金色院御堂勧進状」(1463)以外の文献の記述には見られないという。それ以前は、「白川別所」「宇治白河別所」などと呼ばれていた。これは、寺坊のみならず、広域地名の意味も含まれていた。白川別所は、平等院の子寺であったともみられている。藤原頼通が営んだ白川別所と金色院の関係についても確定されておらず、同一のものとも金色院が白川別所の塔頭だったともいう。平安時代、1102年、後冷泉天皇皇后・四条宮寛子が創建し落慶法要が営まれたという。ただ、四条宮寛子の創建については確定していない。建物は豪奢なもので7面4面あり、金、玉が散りばめられ金色院と呼ばれたという。本堂には文殊菩薩が安置されたという。園城寺僧・平等院別当という證朝が別所山上に麗光を見て祈請し、14日目に夢告に金色の獅子が顕れたため、金色院の堂舎を建立したとの伝承も残る。證朝という僧についても不明。室町時代、1460年に焼失したという。以後、衰微した。
 室町時代後半から江戸時代にかけて、塔頭の辻ノ坊、蔵之坊、東円坊、北坊、中之(ノ)坊、福泉坊、堅珠坊、西之坊、尾崎坊、長円坊、向之坊などが存在した。近代以降、残されていた蔵ノ坊、福泉坊なども廃絶している。
 1979年の境内西の発掘調査により、平安時代(11世紀後半)から江戸時代の庭園遺構とみられる弁天池、弁天島が発見された。1993年の境内北西の旧福泉坊付近の発掘調査により、近世(室町時代)の石垣、柵列、3層の火災層(ひとつは15世紀後半の以降)、暗渠、土壙、大量の瓦類(平安時代-近世の軒丸瓦、複弁六弁蓮華文で内区主文・中房に二巴文、平安時代から室町時代の軒平瓦、均整唐草文軒平瓦、室町時代ともみられる鬼瓦など)、土師器類(14世紀後半-15世紀)、須恵器類、瓦器・瓦質土器(13世紀)、陶磁器類、漆器類、青銅類、石器などが出土した。瓦は、1101年の平等院修造の際に用いられたものと同じものであり、金色院と何らかの関わりがあったとみられている。主殿造とみられる主屋跡、寺坊の庭園遺構なども見つかった。創建時は小規模の別所であり、その後次第に寺域を拡大し、最盛期には谷全体に坊舎が建てられていたと推定されている。1996年の第三次発掘調査により、寛子供養塔の西付近より、金と螺鈿で飾られてたという文殊塔跡とみられる礎石跡、浄土庭園遺構が見つかった。
◆建築  「本殿」は、一間社流造、桧皮葺。
 「拝殿」(重文)は、鎌倉時代後期、1277年に再建された。宇治離宮を移したものともいう。軒短く、組物は四隅に舟肘木、内部に折上組天井、床板敷。腰高障子。伝承として、弥生時代-古墳時代の第15代・応神天皇皇子の離宮を移したものともいう。奈良時代、790年、疱瘡(天然痘)の治癒祈願のために創建されたともいう。桁行3間、梁間3間、一重、寄棟造(四柱造)、茅葺。
 現在、参道に旧金色院の「惣門」が残されている。4間2間半。鎌倉時代、参議・藤原公親筆という1266年銘の扁額を持つ。
 少なくとも江戸時代までは、本堂として使われていた「文殊堂」が残っていたという。5間4間。
◆遺仏 かつて金色院に安置されていた「伊邪那美尊坐像(重文)、「十一面観音立像(重文)は現在、近くの浄土宗・地蔵院(白川)に安置している。京都国立博物館寄託。
 ちなみに地蔵院は中世(鎌倉時代-室町時代)末期に創建された。山号は朝日山。本尊は阿弥陀如来。
 そのほか、地蔵院所蔵としては、平安時代後期作の木造「阿弥陀如来立像(本尊)(重文)。平安時代後期の木造「観世音菩薩坐像(重文)は、片膝立て、両手で蓮台を捧げる。かつて阿弥陀三尊像の脇侍のひとつとみられている。
 奈良時代の銅造「阿弥陀如来」・左脇侍、右脇侍像は失われている。
 そのほか、奈良時代作の銅造「阿閦(あしゅく)如来立像」(1991年盗難) 、平安時代前期作の銅造「釈迦如来坐像」(同)、平安時代後期作の銅造「大威徳明王像」(同)が安置されていた。
◆文化財 近世の「白川金色院古絵図」、宇治茶師・林清泉の「白山宮之図」(19世紀)がある。
 かつて金色院に所蔵され地蔵院に移されたものに、平安時代後期の「板彫両界曼荼羅」2面(重文)、南北朝時代、文永三年(1266年)銘の前参議・藤原公親筆「扁額」、鎌倉時代、1279年の「春日版大般若経」563巻、平安時代後期、1128年賀佐近直が書写した「紺紙金泥法華経」9巻(巻3は欠失)(宇治市指定文化財)、室町時代、1463年の「再興勧進状」(府指定文化財、京都国立博物館寄託)などがある。
 また、南北朝時代、「金色院 建武二年」(1335年)刻銘の「梵鐘」(宇治市指定文化財)。引接寺の鐘を製造した藤井という鋳物師作とみられている。高さ144㎝、口径79.4㎝。
◆石造物 境内に立つ九重石塔は、南北朝時代、また鎌倉時代作ともいう。かつては現在地ではなく北の高台に立てられていたとみられている。四条宮寛子(1036-1127)の供養塔という。病平癒を願って創建された。基礎の背が低く、格狭間が入る。初層軸部に金剛界四方仏の種子が月輪の中に刻まれている。高さ4m、花崗岩製。
◆自然 境内にはカエデがある。境内より宇治川までの紅葉谷にはツブラジイ、シリブカガシ、クスノキ、イロハカエデなどが見られる。
 1997年の京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「白山神社」として選定された。
◆年間行事 祈年祭(春祭)(3月18日)、虫干祭(百味御食)(7月18日)、新嘗祭(秋祭)(10月18日)、火焚祭(12月18日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 「宇治市埋蔵文化財発掘調査既報第23集 白川金色院発掘調査既報」『宇治の文化財』『中世史料学叢論』『修造文書調査報告書 1 「白川金色院」と恵心院』『発掘ものがたり宇治』『京都・山城寺院神社大事典』『京都の地名検証 2』『京都大事典』『京都府の歴史散歩 下』『京都の寺社505を歩く 下』『おんなの史跡を歩く』


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右より、天満社・菅原道真、神明社・天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)・応神天皇(おうじんてんのう)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)、愛宕社・愛宕大神(あたごおおかみ)

道祖社

道祖社

手水舎

手水舎


九重石塔、手前の広場に文殊堂が建てられていた。


五輪塔

旧坊発掘跡

白川
 白山神社 〒611-0022 宇治市白川娑婆山16 

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