善願寺(腹帯地蔵) (京都市伏見区)
Zengan-ji Temple
善願寺(腹帯地蔵)  善願寺(腹帯地蔵)  
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咜枳尼天(だきにてん)




 醍醐寺の南西、旧奈良街道沿いに善願寺(ぜんがんじ)がある。「腹帯地蔵(はらおびじぞう)さん」とも呼ばれている。山号は誓弘山(せいぐざん)という。
 天台宗来迎寺(大津市下坂本)の末寺。地蔵堂(本堂)に本尊・地蔵菩薩が安置されている。
 安産、子育て、先祖供養の信仰を集める。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 奈良時代、730年頃、731年、天平年間(729-749)とも、第45代・聖武天皇皇后・光明皇后の発願により、行基(ぎょうき)が地蔵尊を本尊として創建したという。地蔵尊胎内には、行基による千日千部の写経「地蔵菩薩本願経」が納められたという。(寺伝)。境内地については定かではない。日野ともいう。
 その後、荒廃した。
 平安時代、長保年間(999-1004)、999年とも、恵心僧都源信により現在地(日野とも)に再興される。天台宗、坂本・聖衆来迎寺の末寺になる。堂宇を建立し、善願寺と称したという。丈六の地蔵尊(腹帯地蔵)を安置し、女性の難産を救済するために、千日、千部の地蔵菩薩本願経を読誦、写経しその胎内に納めたともいう。
 1156年頃、1156年とも、平清盛5男・重衡(1157-1185)誕生の際に、安産祈願して堂宇が建立されたという。また、重衡の妻・佐の局(藤原輔子)は寺の近くに住み、安産祈願し成就した(子はなかったとも)ことから堂宇を寄進したという。また、佐の局は安産祈願し、七条仏所の仏師に造仏させ、本堂も寄進したともいう。
 慶長年間(1596-1615)、醍醐南里で復興した。(寺伝)
 江戸時代、1603年、再興が始まるともいう。
 1642年、南里に移された。
 1770年、『善願寺雑事記』が始まる。
 1844年、浄土宗西山派の19世・慈円?により再建されたという。
 1846年、1844年とも、現在の本堂が建てられた。
 近代、1869年、天台宗に改める。
 1915年、三井財閥より多大な寄進を受けた。
 現代、1954年、本尊が重文指定を受ける。
 1955年、仏師・西村公朝は、樹齢一千年以上という境内の榧の立木に、榧の木不動尊像を彫りあげた。
行基 奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。河内国の人。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。畿内に道場、寺を建立、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で、詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれる。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。736年、インド出身の僧菩提僊那一行来日に際し、大宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見する。743年、東大寺大仏造営の勧進になる。745年、朝廷より日本最初の大僧正位を授けられる。菅原寺で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。
◆光明皇后 奈良時代の第45代・聖武天皇皇后・光明皇后(こうみょう こうごう、701-760)。藤原不比等と県犬養三千代の娘。16歳で首皇子(聖武天皇)の妃になる。729年、長屋王の変を経て、後(しりへ)の政を行う。父より財、邸宅を継ぎ、皇后宮職、施薬院、悲田院を置き、国分寺、国分尼寺、東大寺の創建を天皇に勧め実現させた。749年、娘・阿倍内親王(孝謙)の即位に伴い皇太后になる。皇后宮職を拡充、紫微中台を設置し、甥・藤原仲麻呂を紫微中台長官に任じて国政を掌握した。754年、大仏殿前で鑑真より受戒、758年、聖武天皇没後、遺愛の品を東大寺大仏に献じて正倉院宝物となる。
◆源信 平安時代中期の天台宗の僧・源信(げんしん、942-1017)。恵心僧都、横川僧都。大和国に生まれた。950年/956年、9歳で比叡山の良源に学ぶともいう。955年、得度した。956年、15歳で『称讃浄土経』を講じ、第62代・村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。だが、名声より聖人になるという母の諫言を守り、横川の恵心院に隠棲し続けた。1004年、公卿・藤原道長の帰依により権少僧都になる。1005年、権少僧都を辞する。恵心院で亡くなる。臨終にあたり、阿弥陀如来像の手に結んだ糸を手にし、合掌しながら入滅したという。
 浄土宗の基礎になり、地獄極楽観を説いた『往生要集』(985)の編者。『源氏物語』第53帖、『宇治十帖』第9帖の「手習」巻で、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」といわれている。(良源弟子の覚超ともいう)。絵、彫刻に優れたという。源信作の和讃「極楽六時讃」がある。
◆藤原輔子 平安時代後期の女官・藤原輔子(ふじわら の ほし/すけこ、生没年不詳)。佐の局(すけのつぼね)。藤原邦綱の3女。平重衡(1157-1185)の妻、第81代・安徳天皇の乳母。従三位典侍・大納言典侍(大納言佐)と称した。1184年、一ノ谷の戦いで平家が敗北すると重衡は捕えられ、京都、鎌倉へ送られた。1185年、壇ノ浦の戦いで平家滅亡後、輔子は入水するが助けられ捕虜になる。その後、日野の姉・邦子(大夫三位)のもとで隠棲した。
 重衡は鎌倉から醍醐路を経て奈良へ送られた。途中、日野で輔子との再会が聞き入れられ対面がかなう。重衡は木津川で斬首され、般若寺門前で梟首された。輔子は夫の亡骸を日野で荼毘に付し、高野山に納めた。自らは出家し重衡の菩提を弔い、大原・寂光院の建礼門院(平徳子)に仕えた。
◆岸良 江戸時代後期の絵師・岸良(がんりょう、1798-1852)。京都生まれ。岸駒に学び、長女・貞の後婿に入る。有栖川宮家に仕え、雅楽助(うたのすけ)を名乗る。人物・花鳥画にすぐれた。岸岱と岸駒没後の岸派を支えた。室町四条南に住した。墓は本禅寺(上京区)にある。
◆西村公朝 現代の仏師・僧侶の西村公朝(にしむら こうちょう、1915-2003)。大阪府に生まれた。東京美術学校彫刻科卒業後、私立中学教師を経て、美術院国宝修理所で仏像修理に携わり、三十三間堂で仏像修理に加わる。1942年、徴兵により中国戦に参戦。戦後、1945年、三十三間堂での修理に戻る。1951年、得度し天台宗の僧侶になる。美術院国宝修理所所長、東京芸大教授、1955年、愛宕念仏寺の住職になり復興する。
◆地蔵・仏像・木像 ◈本尊の「地蔵菩薩坐像」(268.2cm)(重文)は、平安時代後期作という。1156年頃、平重衡(平清盛の5男)夫人の安産を祈願し、七条仏所の仏師・定朝(?-1057)により造立されたともいう。京都随一の丈六地蔵大仏とされる。結跏趺坐し、左手に宝珠を捧げ持ち、右手は膝上に広げる。法衣の下に下裳(したも、下衣)を身に着けていることから、腹帯にたとえ「腹帯地蔵さん」と呼ばれた。像の表面には茶色の紙が隈なく貼られていたことから、「張子の黒地蔵さん」とも呼ばれたという。現在も安産の信仰が篤い。桧材、寄木造、漆箔。
 ◈「僧形坐像」2体(京都府指定文化財)は、平安時代初期(9世紀)に唐より請来されたという。大阪・観心寺の「僧形坐像」(重文)に類似している。南都系仏教との関わりもあるとみられる。唐時代の木彫像は数少なく、日本には現在、4体しかない。これらは、祖師群像として製作された像の一部とみられている。桜系材の木造、像高36.9cm、36.6㎝。京都国立博物館寄託。
 ◈「掘り出し観音」(19㎝)は、厨子内に安置されている。謂れがある。かつて一言寺の北に小池があり、常暁和尚を水葬した。その後、池中より銅像観音が出現したため、境内に小堂を建てて安置した。(『山城名勝志』)。近代、明治期に一言寺が廃寺になり、当寺に遷されたという。
 ◈「榧の木不動尊像」(1m)は、樹齢1000年を超える境内の榧(かや)の立木(幹回り4m)に刻まれている。1955年頃、現代の仏師・西村公朝が1日で彫りあげたという。住職の夢に、榧の木に不動尊が立ったことから依頼された。木は生きているため、表皮が不動尊を次第に包み込んでいる。すでに左右5㎝が巻き込まれており、やがて像は消えゆく。
 ◈中興の祖「元三大師(慈恵大師源信)像」(40㎝)。
 ◈「阿弥陀三尊像(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)」、「水子地蔵尊」、西村公朝作の「ふれ愛観音像」がある。 
◆建築 現在の本堂は、江戸時代、1844年に建てられた。
◆文化財 本堂内陣の天井に、紙本墨画「雲龍図」がある。款記(かんき)、印章に「雅楽助岸良(うたのすけ がんりょう)」とあり、江戸時代の絵師・岸良の筆になる。285×285㎝。
 中陣天井画、紙本著色「飛天図」は、岸良の筆による。190×570㎝。
 本堂外陣の格天井に、「天井画」120面が描かれている。江戸時代後期、1838年-1840年の草花を描いた花卉図(かきず)になる。岸派の総帥・岸岱、岸良、岸連山、四条派として松村景文(1779-1843)、八木奇峰、磯野華堂、竹村文眠、秋翠らも参加した。 総勢28人の画人の作による。中央の1枚は四条派・松村景文筆による。
◆岩田帯
 安産祈願の岩田帯が授与されている。
◆榧の木 境内に樹齢1000年を超える榧(カヤ)の神木がある。幹回りは4mある。平安時代前期の女流歌人・小野小町が、深草の少将の百夜通いの際に蒔いたという99個の榧の実のひとつとされる。小町は日数を数えるのに使用したという。「小町榧」と呼ばれている。
 この木に、「榧の木不動尊像」が彫られている。
 絶世の美貌の小町にあやかり、榧の実を持っていると美男美女になるとされる。実が入ったお守りが授与される。
◆年間行事 戌の日に、安産祈願に訪れる参詣者で賑わう。寺より授けられる蝋燭は、出産の際に灯して祈ると、火が消えるまでに安産できるという。このため、妊婦はできるだけ小さな蝋燭を持ち帰ろうとする。参詣の後に、乳の出が良くなるという法界寺の参詣に向かう人も多いという。  


*建物内の撮影は禁止
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都のお寺神社謎とき散歩』『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都の仏像』『日本の名僧』『京都府の歴史散歩 上』『発掘!善願寺史』『平成28年度 春期 拝観の手引』『京都 神社と寺院の森』


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榧(カヤ)の大木

カヤの大木、この幹の反対側(境内側)に不動明王が刻まれている。

【参照】境内北にある平重衡の墓(従三位平重衡卿墓)、平重衡(1157 - 1185)は、平清盛五男。一ノ谷の合戦で源氏に囚われ、鎌倉に送られた。1181年、平清盛の命を受けた平重衡らは、東大寺・興福寺など南都仏教寺院を焼討にしたことから、後に南都衆徒により木津川の河原で斬首された。遺体は法界寺で荼毘に付される。髑髏は高野山に葬られ、遺体はここに埋葬されたという。
 善願寺 〒601-1352 京都市伏見区醍醐南里町33   075-571-0036
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