得浄明院 (京都市東山区) 
Tokujomyo-in Temple
得浄明院  得浄明院
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総門、山門。




「善光寺如来大本願別院」の石標


寺門


寺門


寺門





石燈籠、葵紋


イチハツが境内に咲き誇る。菖蒲の中でも春一番に咲くことから寺では「イチハツ(一初)」と呼び習わしている。


本堂



本堂
 得浄明院(とくじょうみょういん)は、知恩院西の華頂通に面し、北へ参道を入る。花菖蒲(あやめ、寺ではイチハツと呼ぶ)をはじめとして四季折々の花咲く寺として知られ「花の寺」ともいわれている。山号は本覚山という。
 信州善光寺大本願の京都別院、本覚山無宗派の尼寺。本尊は一光三尊阿弥陀如来。
 尼寺霊場(尼寺三十六所巡礼第10番)の一つ。全国善光寺会の一つ。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 かつてこの地には、知恩院入道親王坐住のための花(華)頂殿の一部があったという。
 安土・桃山時代、1583年、宗慶が開いた聖光寺末の西光院を前身とする。
 近代、1882年、誓圓尼(せいえんに)の兄・久邇宮朝彦親王の配慮により、知恩院管長・養がい徹定(うがい てつじょう)より境内地寄進の手続きが行われる。
 1895年、信州善光寺大本願第117世・誓圓尼の開山による。関西からの信州・善光寺参りが困難なことから、誓圓尼の発願により創建されたという。また、1894年に西光院を現在地(兄・華頂宮尊秀法親王<博経親王>の御殿跡)に移して得浄明院と改めたともいう。
◆誓圓尼 江戸時代後期-近代の尼僧・誓圓尼(せいえんに、1828-1910)。邦家親王(伏見宮家19代)の第3王女。前内大臣・久我通明の養女。1868年、廃仏毀釈後、仏門にあった皇族に対して還俗が強要される中、それを拒否した数少ない一人。信濃・善光寺大本願の住職となり、寺を神社に改めようとする動きに抗して寺を守った。その進言により、1873年、京都・袋中菴内に尼僧、女性のための道場として女教院が定められた。1895年、当時、鉄道網が整備されておらず信州・善光寺参詣が困難なことから、京都に大本願別院の得浄明院を開いた。
 当院で亡くなり、知恩院・一心院の墓地に葬られた。
◆華頂宮博経親王 近代の皇族・華頂宮博経親王(かちょうのみや ひろつね しんのう、1851-1876)。父は伏見宮邦家親王第十二王子、母は家女房堀内信子。1852年、出家し知恩院門跡となり尊秀と号す。1860年、第121代・孝明天皇猶子、徳川家茂猶子になり、親王宣下を受け博経とする。落飾し知恩院門跡、法名尊秀入道親王とした。1868年、勅命により復飾し華頂宮家創設、1870年、米国留学、1872年、病気により帰国、1876年、海軍少将。
◆圭鳳流 茶華道の圭鳳流宗家、家元の尼僧・伏見誓寛(1938-)。東京に生まれた。父は伯爵・伏見博英、徳川慶喜の曾孫、伏見宮邦家親王の玄孫にあたる。1948年、9歳で得浄明院に入寺し、14歳の時に得度した。1962年、浄土宗立仏教大学を卒業、得浄明院5世住持、三時知恩寺門跡。仏教の聖地巡礼・夕日の写真家、歌人、書家としても知られる。
◆本尊 本堂後方中央の瑠璃壇に、秘仏で本尊の「一光三尊阿弥陀如来」が安置されている。
 善光寺の一光三尊三尊阿弥陀如来の分身になる。善光寺式阿弥陀三尊像は、中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が立つ。一つの舟形光背の中に三尊が納まることから、一光三尊如来といわれる。また、三尊を同時に見ることはできず、左右前方の柱付近から二尊のみを拝することが出来る。
 中央、阿弥陀仏の右手の印相は施無畏印(掌を開き手前に向ける)、左手は刀印(下げて人差し指と中指を伸ばし他の指は曲げる)になる。これは、法隆寺金堂の釈迦三尊像に代表され、飛鳥・白鳳時代の特徴的とされる。左右の両菩薩は珍しい梵篋印(胸の前で、左の掌に右の掌を水平方向に重ね合わせる)を結ぶ。重ねた掌の中に真珠の薬箱が隠されているといわれている。
 三尊像は、蓮の花弁が散り終え、蕊重なる臼型の蓮台に立つ。
◆三公像 瑠璃壇左側奥に、飛鳥時代の伝説的な人物で、善光寺を建立したという本田善光、その右に妻・弥生前、左に子・善佑の三公像の塑像が安置されている。
◆本田善光 飛鳥時代の本田(本多)善光は伝説的な人物とされ詳細は不明。信濃国に生まれたという。
 飛鳥時代、552年、百済の第26代・聖明王から献上された、古代インド毘舎離城の富豪・月蓋長者の造仏した阿弥陀如来像が日本に伝えられた。だが、物部氏により、悪疫流行したとして難波の堀江に流し捨てられたという。
 善光が都に上り前を通った際に、阿弥陀仏は水中から飛び出し、善光の背中に負ぶさったという。善光は信濃国までこの仏を背負い、家に安置した。後に阿弥陀の霊告により、内郡芋井郷(長野市)に遷す。後に如来堂を建立、安置し、善光寺の本尊としたという。
◆文化財 「御絵伝(おんえでん)」軸4幅は、本尊がインドで釈迦によりこの世に顕れ、日本に伝えられ、善光寺を建立した経緯を表している。
 誓圓尼公御遺物の金地著色の「屏風」(6曲1双)は、松の大木と孔雀を描く。作者、制作年代不詳。
 第123代・大正天皇皇后・貞明皇后(1884-1951)遺愛の「フランスの自動人形「オートマタ(Automata )」(18-19世紀)は、時計技師により作られた。「機械仕掛けの芸術品」といわれる人形で、オルゴールの音とともに首を振り、花籠が開く。皇后成婚の祝いに贈られた。
 三折人形「虎丸さん」は、紀州徳川家の最後、14代藩主・徳川茂承(1844-1906)の5、6歳の頃の姿を写したものという。腰、膝、足首の3か所が折れ曲がり正座させることもできる。 
◆戒壇廻り 戒壇は、三尊を安置する台座部分の事で瑠璃壇ともいう。清浄、穢れなき無垢の地にとされている。
 戒壇廻りは、長野の善光寺に倣う。戒壇の周囲を仏名を唱えながら廻る。後に、仏堂内陣の下に造られた暗部を廻った。
 本堂の下に階段で降りると、闇の中に四方の戒壇が造られている。右回りに手探りで壁伝いに一周する。本尊真下の扉まで辿ると、扉に付けられた鍵がある。それを触り、闇の中で念仏を唱えると、本尊と縁が結ばれ功徳を得ることができるという。
◆アヤメ 境内に花結ぶ菖蒲(あやめ、寺では「イチハツ」と呼ぶ)が知られる。長野善光寺の株を分けて植えたのが始まりという。「イチハツ」とは、菖蒲の中でも春一番に咲くことからイチハツ(一初)と呼ばれる。この早咲きのイチハツは約200本、その他、ジャーマンアイリス(ドイツアヤメ)、ゴーイングマイウェイ、ブースィブースィなど約1100本が咲き誇る。4月下旬から5月に開花し、この期間に特別公開されている。
 菖蒲(あやめ)は、アヤメ科・アヤメ属で山野に生え、和名は文目(あやめ)とも書き、花菖蒲ともいう。花の付け根(外花被の基部)に、黄色と紫の虎斑模様(文目)があることからこの名がある。また、葉が並列して付き、綾をなすようであるとして呼ばれたともいう。
 同じ字を書く菖蒲(しょうぶ)は、サトイモ科・ショウブ属であり水湿地に生える。本来は、こちらを「あやめ」としたが混乱している。芳香のある根茎を風呂に入れ、端午の節句の菖蒲湯にも使う。
 また、アヤメ科・アヤメ属の杜若(かきつばた)も、水湿地に生える。
◆庭 菖蒲(イチハツ)花咲く前庭がある。奥に非公開の庭がある。
◆年間行事 放生会(1月12日)、春彼岸大施餓鬼会(3月19日)、春の特別公開(特別拝観限定、5月13日限定の御朱印授与がある。)(4月29日-5月13日)、イチハツコンサート(公開が終了した週の土曜日)、京都葵会総会(7月12日)、盂蘭盆大施餓鬼会(8月13日)、盆中施餓鬼会(8月14日-15日)、秋彼岸大施餓鬼会(9月22日)、十夜法要・開山忌(11月12日)など。


*普段は非公開、建物内部は撮影禁止。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都の隠れた御朱印ブック』

 

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本堂

本堂

中庭



手水舎

手水舎、「漱水」と刻まれている。

白天龍王社(白天社)、祭神は白天龍王、白女大明神。守護社で大阪から遷された。芸事の神。

白天龍王社(白天社)

白天龍王社(白天社)


 得浄明院 〒605-0062 京都市東山区林下町459-1  075-561-3767  9:00-17:00
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