三時知恩寺 (京都市上京区) 
Sanjichion-ji Temple
三時知恩寺 三時知恩寺
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「華道光風未生流家元」








玄関






地蔵尊


鎮守社、国岡稲荷大明神、祭神は茶吉尼天、寺鎮守、水神、福神稲荷。商売繁盛の信仰がある。


国岡稲荷大明神
  同志社大学新町校舎の東に三時知恩寺(さんじちおんじ)は建つ。三時知恩院、入江御所、入江殿とも呼ばれている。 
 浄土宗知恩院派、尼門跡の浄土宗寺院は数少ない。本尊は阿弥陀如来立像。善導大師像とも。
◆歴史年表 南北朝時代、北朝第4代・後光厳天皇の皇女・見子内親王(入江内親王)は、伏見に庵を結んだ。宮中安置の善導自作という尊像を授かり安置したという。
 南北朝時代-室町時代、応永年間(1394-1428)、見子(けんし)内親王は、北朝3代・崇光天皇の御所、入江殿(上京区元真如堂町)の地を譲られた。開山に覚窓性仙尼を迎え、内親王自らは2世になり、知恩寺が創建されたという。宋の善導大師自作で、泉涌寺開山の俊じょうが持ち帰ったという御影像が安置される。(寺伝)。以後、伏見宮家、足利将軍家息女の入寺が続く。
 室町時代、第101代・称光天皇皇女・了山尼公(1401-1428)が入寺した。六時勤行(1日6回の勤行)の道場とした。
 応仁・文明の乱(1467-1477)の頃、入江殿(西大路、上立売通)を兵が囲む。(『応仁記』)
 第104代・後柏原天皇の在位中(1500-1526)、宮中での六時勤行は行い難いとして、昼間の3回(三時、みとき、晨朝・日中・日没)を当寺で行うように勅命が下る。以後、勅命により寺号も三時知恩寺と改められたという。
 1521年、境内は上立売通に北面している。(『洛中洛外屏風図』)
 安土・桃山時代-江戸時代、第106代・正親町天皇の在位中(1557-1586)に、現在地へ移転したとみられる。 摂関家・近衛家が管理し、第111代・後西天皇皇女、閑宮家息女は近衛家の猶子として入寺した。
 久山昌隆(1574-1615)以後、近衛家よりの入寺が慣例になる。
 江戸時代以降、新町通に西面した。
 1708年、宝永の大火で焼失した。
 第111代・後西天皇(1638-1685)皇女で17世・即生院の宮の入寺以来、寺は大いに栄える。
 1764年、入江御所の称号が贈られた。
 1788年、天明の大火で焼失した。その後、第116代・桃園天皇皇女・19世・瓊林院宮の時、天皇女御・恭礼門院の宮殿を移し寝殿として再建された。
 1801年、栄誉尊信尼の没後、一時、無住になる。
 近代、1871年、比丘尼御所の称号が廃された。 
 1873年、入江祥光尼が住持になる。
 1876年、御由緒寺院として旧領に准じた年金が贈られる。
 1885年、旧号復活になり、門跡と称した。 
◆見子内親王 南北朝時代-室町時代の皇族・見子内親王(けんし ないしんのう/あきこ ないしんのう、14世紀後半-15世紀)。北朝第4代・後光厳天皇皇女。応永年間(1394-1428)、崇光天皇の御所、入江殿(入江御所)を寺とした。入江内親王と称された。
◆覚窓性仙尼 室町時代の尼僧・覚窓性仙禅尼(がくそう せいざんぜんに/かくそう じょうせんに、1397-1415)。京都に生まれた。室町幕府第3代将軍・足利義満の娘、母は藤原慶子。号は覚窓。通称は入江殿。5歳で三時知恩寺に入る。
◆善導大師 中国、隋時代の僧・善導(ぜんどう、613-681)。終南大師。幼くして出家した。『観無量寿経』を新たに解釈し、道綽(どうしゃく)に学ぶ。声を出す念仏により往生するという中国浄土教を大成した。後に、長安・光明寺で教化した。著書『観無量寿経疏』などは、法然をはじめ日本の浄土教に大きな影響を与える。中国浄土五祖の第三祖。
◆了山尼公 室町時代の尼僧・了山尼公(生没年不詳)。第101代・称光天皇(1401-1428)の皇女。茶道を好み、大茶会も催した。これが茶会の始まりとされ、千利休(1522-1591)も寺を度々訪れた。
◆久山昌隆 安土・桃山時代-江戸時代の尼僧・久山昌隆(きゅうざん しょうりゅう、1574-1615)。公家・近衛前久の娘。奈良の法華寺を兼帯した。
◆即生院の宮 江戸時代の尼僧・即生院の宮(生没年不詳)。第111代・後西天皇(1638-1685)の皇女。三時知恩寺17世。浄規行事などを整え、中興開山になる。
◆近衛家煕 江戸時代前期-中期の公卿・近衛家煕(このえ いえひろ、1667-1736)。予楽院近衛家煕。近衛基煕(もとひろ)の子、母は常子内親王。関白、氏長者、摂政、1710年、太政大臣。従一位。1725年、准三宮、同年、出家し真深予楽院と称した。有職故実に通じ、和歌、書は近衛流上代様を継ぐ。草仮名、書画、茶道なども優れた。
◆仏像 彩色の善導自作とされた善導大師像は、かつて宋伝来とされていた。2010年の解体修理の際に、像内面部の墨書が発見される。安土・桃山時代、1596年に大仏師・大蔵卿法印により造立されたことが確認された。
 尊像にまつわる伝承がある。鎌倉時代、第84代・順徳天皇の在位中(1197-1242)、泉涌寺の開山・俊じょうが、宋から持ち帰った善導自作という尊像があった。鎌倉時代の第83代・土御門天皇、第84代・順徳天皇、第86代・後堀河天皇の戒師が宮中に安置したところ、夜に光を放ったという。その後、霊験あることから、入江内親王(見子内親王)が深く崇敬し、伏見に庵を結び安置したという。
◆木像・肖像 中興した「久山昌隆尼像」がある。黒衣の坐した肖像も伝えられており、大徳寺11世・春屋宗園の讃により、36歳前後の姿であるという。繧繝縁畳に座り、袈裟、その環に鳳凰の飾り金具、直たつの下に小袖帯を締める。
◆六時勤行 六時勤行とは、一日を日中、日没(にちもつ)、初夜、半夜(中夜)、後夜(ごや)、晨朝(じんじょう/しんちょう)に6分し、4時間毎に念仏や読経などの勤行をした。浄土宗、時宗、浄土真宗などで行われる。
 浄土宗の六時礼讃では、善導の『往生礼讃偈』に基づき、1日を6分し、誦経(読経)、念仏、礼拝を行う。法然は天台声明の旋律を参考とした。礼讃に初重、二重、三重の節をつけ、念仏三昧行の一つとして完成させた。さらに、それに影響を受けた親鸞の正信念仏偈(正信偈)がある。
◆尼門跡寺院 皇室や公家の女性たちが入寺した尼門跡寺院は、飛鳥時代-平安時代の7、8世紀(701-800)に始まる。鎌倉時代-室町時代の14、15世紀(1301-1500)に最盛期になり、30数寺が存在した。江戸時代、1871年までは比丘尼御所と呼ばれていた。その後、衰微し、現在は京都に当寺も含め10寺、奈良に3寺が残るとされている。7歳-16歳までに寺に入り、修行、宗教儀式、祭事、作法、御所言葉、和歌・絵巻などの文学も後世に伝えてきた。
◆建築 堂宇の再建に際して、江戸時代の第116代・桃園天皇女御・恭礼門院の宮殿が移され「寝殿」になる。
 江戸時代の第119代・光格天皇女御・瓊林院宮の宮殿は「書院」とされた。数奇屋風になる。長押などに北山丸太を用いた座敷、一の間、二の間、三の間と続く。台子の間では茶事を行う。円山応挙筆という襖絵がある。
 大徳寺塔頭から移築し、「本堂(客殿)」、「表門」、「居間、「庫裏」とした。
◆華道 華道光風未生流家元になる。
◆庭園 書院前庭がある。枯山水式庭園で「蓬莱の庭」と呼ばれている。浅い枯池に白砂が敷かれている。小規模の護岸石組も見られる。苔地に飛石、その先の枯池に石橋が架かる。対岸に低い築山があり、苔地の左に蓬莱石が立てられている。松、杉などの植栽、刈込、燈籠が置かれている。
 書院中庭に、御所より贈られたワビスケ椿が植えられている。
◆文化財 絹本着色「近衛予楽院(よらくいん、近衛家熙)像(附、自筆阿弥陀経)」(重文)。
 安土・桃山時代-江戸時代の「久山昌隆尼像」。
 江戸時代の「唐草牡丹紋蒔絵薬箪笥」「紗綾形地花丸文蒔絵広蓋」「嵐山景文蒔絵庭用煙草盆」。昭憲皇太后遺品「小葵藤文蒔絵弁当箱」。
 江戸時代中期の「束帯雛」。
 江戸時代中期の円山応挙筆の襖絵「幽霊画」「えり漁図」は琵琶湖全景を描く。
 江戸時代前期の狩野永納筆の「六曲一双屏風 花鳥図」(京都市指定文化財)。
 一の間の「源氏絵扇面貼交襖」は、第119代・光格天皇より贈られた。江戸時代の「三時知恩寺模様」といわれる3枚の扇面散らしの襖になる。
 伝・円山応挙筆の杉戸絵「鶴亀図」。


*普段は非公開、建物、室内の撮影は禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献
 『尼門跡寺院の世界』『京都古社寺辞典』『拝観の手引』『京都の寺社505を歩く 上』『おんなの旅路 京・奈良の尼寺』『京の尼寺 こころの旅』『古都の尼寺』『京都府の歴史散歩 上』『名庭 5 京都尼寺の庭』『京都 阿弥陀の寺と庭』『京都秘蔵の庭』『稲荷信仰と宗教民俗』


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 三時知恩寺 〒602-0024 京都市上京区上立売町4-1,新町上立売下る   075-451-2211
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