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| 光照院・持明院跡 (京都市上京区) Kosho-in Temple |
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| 光照院・持明院跡 | 光照院・持明院跡 |
![]() ![]() ![]() 「旧常盤御所光照院門跡」の寺号板 ![]() 恵聖院 ![]() 華道常盤未生流の家元 ![]() ![]() 「持明院仙洞御所跡」の石標 ![]() ![]() 「恵聖院」と刻まれた石鳥居 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 常盤会館 ![]() 常盤会館 ![]() 常盤会館 ![]() 常盤会館 ![]() 常盤会館 ![]() 松の大木 ![]() 【参照】安楽小路町の地名が残る。かつて安楽光院と称した。 |
安楽小路町(あんらくこうじ-ちょう)にある尼門跡寺院の光照院(こうしょう-いん)は、常盤(ときわ)御所、安楽光院とも呼ばれた。かつて、全国から尼僧が集い、仏道を極める道場として栄えたという。 山門脇に、「持明院仙洞御所跡」の石標が立ち、南北朝時代、北朝拠点の持明院殿旧地になっている。山号は佛日山という。正式には光照院門跡という。 浄土宗知恩院派特別寺院、本尊は釈迦如来立像。 尼寺霊場(尼寺三十六所巡礼第2番)の一つ。 ◆歴史年表 南北朝時代、1356年、第96代・後伏見天皇皇女・進子内親王(本覚尼、自本覚公)により、室町通一条北(上京区)に、尼寺の光照院が建立された。以後、足利将軍家、近衛家息女が入寺する。 その後、内親王33歳の時、律を基本とし、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の道場になる。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。 1477年/1477年頃/1475年、第103代・後土御門天皇より、北朝拠点・持明院殿跡(旧地の南東方向)に寺地を贈られる。現在地に移転し、一時、安楽光院と改称される。その後、光照院に戻された。 1529年、焼失したとみられる。 17世紀(1601-1700)初頭、第107代・後陽成天皇皇女の入寺以来、比丘尼(びくに)御所になる。 江戸時代、1637年、「光照院御所」と記されている。(『洛中洛外図屏風』) 1730年、西陣大火により焼失する。 1752年、10世・大猷尊乗の時、第115代・桜町天皇の寄進により復興された。 1788年、天明の大火で焼失する。 1789年、第119代・光格天皇より再建の寄進を受ける。この時、常盤御所の称号を贈られたという。大猷尊乗尼が亡くなり、以後、皇女の入寺が絶えた。 近代、1871年、御所の称号は廃止され、尼門跡の私称を許された。 1873年、浄土宗知恩院派に改宗し、浄土宗別格寺院になった。万里小路皎堂が住持になる。 近代初期、府立病院建設寄付のため、宸殿、書院が売却され移される。 1919年、旧桂宮御殿の一部がこの地に移され、宸殿などが再建された。 1923年、光照院を家元にする華道の常盤未生流が設立される。 1925年、2月13日、三時知恩寺・得浄明院・善光寺大本願と共に特別寺院に指定された。 現代、1961年、恵聖院(えしょういん)は光照院門跡内に移される。 1968年、本堂が再建された。 2006年、浄土宗知恩院派から離脱し単立になる。 2015年、浄土宗知恩院派に復帰した。 ◆進子 内親王 鎌倉時代後期の尼僧・進子 内親王(しんし/ますこ-ないしんのう、?-1302?)。女性。父・第92代・伏見天皇、母・後伏見院兵衛督(藤原基輔の娘)。北朝初代・光厳天皇、北朝第2代・光明天皇の妹。幼くして父母と死別し、伯母・永福門院内侍に播磨の賀茂荘で養育された。1345年、内親王になる。1356年、泉涌寺の無人如導(むにん-にょどう)により落飾し、自本覚(じほんかく)公と改める。光照院を建立した。 京極派の歌人、『枕草子絵巻』の筆者ともいう。 ◆大規 尊杲 江戸時代前期-中期の尼僧・大規 尊杲(1675-1719)。女性。尊杲女王(そんこう-にょおう)、幼名は寿宮(ひさのみや)。父・第111代・後西天皇、母・梅小路定子の第14皇女。1682年、光照院に入る。1686年、得度し尊慶と称した。後に尊杲に改めた。光照院開基・自本覚公の伝記、彫像を造立し、中興の創といわれた。臨済禅の流儀を取り入れる。45歳。 墓は華開院内光照院宮墓地にある。 ◆東福門院 江戸時代前期の第108代・後水尾皇の中宮・東福門院(とうふくもんいん、1607-1678) 。女性。和子(かずこ/まさこ)。江戸の生まれ。父・2代将軍・徳川秀忠、母・お江与(崇源院)(浅井長政の3女)の5女。祖父・家康は、幕府の朝廷懐柔策として和子の入内を、第107代・後陽成天皇に再三伝えた。1614年、入内は決定される。その後、大坂の陣、家康、後陽成天皇の死などで延期される。1620年、14歳で後水尾天皇の女御になる。同時に、武士・女御様御付役人が禁中に常駐する。1623年、一宮興子(おきこ)を産み、1624年、中宮になる。1629年、後水尾天皇は、興子内親王(第109代・明正天皇)に突然譲位し、それに伴い和子は院号宣下を受けた。後、第110代・後光明天皇(生母は壬生院)、第111代・後西天皇(生母は逢春門院)、第112代・霊元天皇(生母は新広義門院)の養母になる。京都で没した。72歳。 2皇子5皇女を産む。入内により禁裏の財政を支え、宮廷文化形成に貢献した。朝廷は幕府統制下に置かれる。 陵墓は月輪陵域(東山区)になる。 ◆大猷 尊乗 江戸時代中期-後期の尼僧・大猷 尊乗(だいゆう-そんじょう、1730-1789)。詳細不明。女性。浄明心院宮。亀宮。道号は天融。法号は浄明心院。父・第114代・中御門天皇、母・典侍・清水谷石子の第6皇女。1781年、二品、光照院10世に就く。59歳。 ◆万里小路 皎堂 江戸時代後期-近代の僧・万里小路 皎堂(1828-1903)。詳細不明。光照院留守居職より住持になる。75歳。 ◆仏像 ◈本堂に本尊「釈迦如来立像」を安置する。鎌倉時代作、嵯峨清凉寺式になる。 ◈左脇壇に「開山宮御木(本覚尼)」を安置する。 ◈右脇壇に「阿弥陀如来坐像」が安置されている。かつての恵聖院本尊で、平安時代中期の天台宗の僧・恵心僧都(源信、942-1017)作という。 ◈「毘沙門天像」は、東福門院(1607-1678)の念持仏という。 ◆建築 山門、毘沙門堂、八大竜王社、常盤会館、庫裡、書院、本堂、茶室などが建つ。 ◈「本堂(宸殿)」は、現代、1968年に山中次郎(?-?)の寄進により、古建築を移築して建てられた。豪華絢爛とした内陣がある。折上格天井、禅堂風、入母屋造、軒唐破風付、本瓦葺。 ◈「書院」は、近代、1919年に京都御苑の旧桂宮御殿の一部を移築し、宸殿、住居にしている。床柱にモミ、框はケヤキ、地板はトチノキを用いている。 ◈「常盤会館」は、第124代・昭和天皇(1901-1989)の、近代、1928年の即位大典の大嘗宮朝集所を移築して建てられた。 ◆庭園 ◈書院北庭は、北より東にあり、平庭の枯山水式庭園になる。苔地に歴代門跡手植えという樹齢500年、300年の五葉松がある。松の枝は、何層にも重なり上に横に広がっている。かつての名松は、五位を授けられ常盤松と称されていた。松が庭園の主木、主景になる。 白砂には七重塔が立てられている。白砂の大海には入舟の宝船がある。東南にボダイジュ、景石がある。 ◈奥書院南の小庭には苔地に枯池があり、ゴロ太石が敷かれる。石橋が架けられ、その先の飛石は蹲踞に至る。景石、丸刈込、生垣などがある。 ◆文化財 ◈江戸時代の「大規尊杲尼像」、大規尊杲筆「投機偈」「南無観世音髪名号」、別宗祖縁和尚筆「大規尼大和尚尊号記」、「別宗和尚付衣法語」。 ◈江戸時代の「散華」、輪王宮公弁親王寄付「華龍」、曼珠院宮良応法親王寄付「能装束裂打敷」。 ◈大規尊杲所用の「鉄鉢一式(箸、匙、鉢刷)」「花鳥文飾棚」「松葉松笠文蒔絵文台」、「かん・菊紋蒔絵台」、「大規尊杲尼50回忌奉納打敷」、「昭憲皇太后 ドレス地打敷」、「粟田焼菊紋手あぶり」などがある。 ◆御所人形 歴代皇女ゆかりの御所人形、道具類がある。 ◈「お誕生人形(御産人形)」は、江戸時代の第114代・中御門天皇により贈られた。亀宮(10世・大猷尊乗)の生誕時の産室飾りつけを人形で再現している。ほかに例がないという。屏風が立てられ、めでたい松竹鶴亀が白い絵具で描かれている。白い布団には赤子が寝ており、周囲に見守る子女、玩具も置かれている。 ◈「次郎左衛門雛」は、考案者の名に因み名付けられた。丸顔に細い目、小さな鉤鼻(かぎばな)、おちょぼ口の愛らしい表情をしている。 この種の雛は、江戸時代中期に京都の人形師・雛屋次郎左衛門が創始した。団子のような丸顔に引目鉤鼻が特徴であり、源氏物語絵巻に描かれるような顔になっている。雛の本流として流行に左右されず、公家・大名家に好まれたという。 ◈「水引頭巾かぶり童子」は、裸に頭巾と腹掛け姿であり、足を前に投げ出して座り、手を横に示している。 ◈「御所人形よだれかけ(よだれかけさん)」は、白い産衣に赤いよだれかけをしている。 ◈「御所人形這い這い」は、白い産衣の赤子が這い這いをしている。人形により、乳児に付くとされた罪穢れを祓う意味があった。 ◈ほかに「蹴鞠香人形」「雛人形道具 唐草文蒔絵調度」などがある。 ◆持明院・持明院家・持明院殿・持明院統 平安時代後期、光照院境内を含む地に、公家・武人の藤原基頼(ふじわらの-もとより、1040-1122)の邸があった。持明院は、その邸内に基通が安楽光院という持仏堂を建立したことに始まる。後に持明院と改称された。南北朝時代、1353年に持明院は焼失する。安楽光院は残った。室町時代後期、1475年にも持明院は焼失した。その後、再建されることはなく、跡地に、1477年、光照院が移転した。 なお、安楽光院は、泉涌寺塔頭・来迎院(東山区)に合併されたという。泉涌寺塔頭・善能寺(東山区)にも関わりがあるともいう。 持明院建立後、平安時代後期、天治年間(1124-1126)、通基(1090-1148)が持明院家の祖になる。 鎌倉時代、持明院基家(1132-1214)の娘・陳子(1173-1238、後の白川院)が守貞親王(1179-1223)妃になり、茂仁親王(1212-1234、後の第86代・後堀河天皇)を産む。茂仁親王は、持明院殿より閑院内裏に入御し践祚した。以後、持明院殿は守貞親王(後高倉院)の院政の舞台になる。 第88代・後嵯峨天皇(1220-1272)、第89代・後深草天皇(1243-1304)の仙洞(退位した天皇の御所)になった。 鎌倉時代後期-南北朝時代、北朝の後深草天皇以後、第101代・称光天皇(1401-1428)まで、南朝の大覚寺統と皇位を争う。後に、これらの後深草天皇以降の持明院を御所とした系統を、持明院統と称した。北朝初代・光厳天皇(1313-1364)、北朝第3代・崇光天皇(1334-1398)、北朝第4代・後光厳天皇(1338-1374)も度々持明院に還幸している。 なお、江戸時代後期、1789年に第119代・光格天皇(1771-1840)により復興された際に、常盤御所の号を贈られた。 ◆尼衆学林 光照院では、かつて四宗兼学の時、一時、尼衆学林になり全国より尼僧が集い修業していた。 ◆恵聖院・瑞華院 恵聖院(えしょういん)は、現在地の上京区安楽小路町(上京区新町通寺之内下ル)にあった。浄土宗で本尊・阿弥陀如来を安置した。南北朝時代、応安年間(1368-1375)に崇賢門院藤原仲子(1339-1427、北朝第4代・後光厳天皇皇后)が創建したという。開基は足利義持夫人だった。宝鏡寺門跡が兼務する大慈院の付属寺院だったともいう。 崇賢門院は広橋家、義持夫人は日野家の出身であり、恵聖院の歴代住持は両家の息女が務めた。安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)に、塔ノ壇(上京区塔之段町)より現在地(現・光照院の境内)に移転した。 近代、1868年に、恵聖院は瑞華院(ずいけいん?)を合併している。裏松(日野)重光(1370-1413)の娘が開基になる。現代、1961年に恵聖院は光照院に併合された。 また、恵聖院は室町時代前期、応永年間(1394-1428)に創建されたという。浄土宗の単立寺院であり、崇賢門院の親族である広橋仲光(1342-1406)の娘・光庵尼(?-?)が開基とされる。瑞華院の名も伝えられ、その際には日野(裏松)重光の娘を開基にする。両尼僧ともに崇賢門院の侍女であり、その聖牌を供養した。そのため広橋家出身の場合には院号「恵聖院」、日野家出身の場合には院号「瑞華院」を用いていたという。(一院両号) なお、恵聖院から遷されたとみられる鎮守社(弁財天社?)が光照院内に立つ。その小ぶりの石鳥居の柱裏には「恵聖院」と刻まれ、「昭和二年(1927年)十一月一日」の建立とある。 ◆尼門跡寺院 ◈皇室や公家の女性たちが入寺した尼門跡(あまもんぜき)寺院は、7-8世紀(601-800)に始まる。14-15世紀(1301-1500)に最盛期になり、30数寺が存在した。 鎌倉時代後期、1285年に景愛寺が京都に建立された。尼五山中で寺格が最高とされている。その後、大聖寺、宝鏡寺などの尼寺院が次々に創建される。14世紀(1301-1400)後半の文献から、皇族・将軍家の女性が住持になった尼寺は「比丘尼(びくに)御所」と記される。 近代、1868年の神仏分離令で皇女の出家が禁止される。1871年には比丘尼御所という称号は法律により廃止された。明治期(1868-1912)中期以降は「御由緒(ごゆいしょ)寺院」という呼称が用いられたものの定着しなかった。1941年に、15カ寺の旧比丘尼御所に「尼門跡」という称号を使うことが認められている。その後、衰微し、現在は京都に当寺も含め10カ寺、奈良に3カ寺が残るとされている。 7歳-16歳までに寺に入り、修行、宗教儀式、祭事、作法、御所言葉、和歌・絵巻などの文学も嗜み、後世に伝えてきた。 ◈光照院は「御宮室(ごぜんしつ)」になる。これは、皇女・王女など皇室の女性が、天皇の猶子になって入室する尼寺を意味した。ほかに、大聖寺(御寺[おてら]御所)、宝鏡寺(百々[どど]御所)、曇華(どんげ)院(竹御所)、霊鑑寺(谷御所)、円照寺(山村御所)、林丘(りんきゅう)寺(音羽御所)、中宮寺(斑鳩[いかるが]御所)などが知られた。 公家(摂関家)出身の女性は「御禅室(ごぜんしつ)」に入室した。慈受院(烏丸[からすま])、三時知恩寺(入江御所)、法華寺(氷室[ひむろ]御所)、瑞竜寺(村雲[むらくも]御所)などが知られた。 ◆華道 華道常盤未生流の家元になる。近代、1923年に設立された。 ◆年間行事 華道展(10月第3日曜日)。 *普段は非公開 *年間行事は中止、日時変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『尼門跡寺院の世界』、『京都・山城寺院神社大事典』、『おんなの旅路 京・奈良の尼寺』、『古都の尼寺』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都大事典』、『名庭 5 京都尼寺の庭』、『京都 阿弥陀の寺と庭』、『京都秘蔵の庭』、『春期京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』、「拝観乃手引-令和7年度 第61回京都非公開文化財特別公開」、ウェブサイト「新纂浄土宗大辞典」、ウェブサイト「神殿大観」、ウェブサイト「文化遺産オンライン-文化庁」、ウェブサイト「三光院」、ウェブサイト「コトバンク」 |
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