真如寺 〔相国寺〕 (京都市北区) 
Shinnyo-ji Temple
真如寺 真如寺 
 Home  Home









「奥山半僧坊大権現」の石標

参道








法堂(大雄殿)


法堂(大雄殿)






七重塔


七重塔


圓通殿、半僧坊大権現を祀る。



圓通殿
 等持院の東にある真如寺(眞如寺、しんにょじ)は、等持院と共に足利尊氏ゆかりの寺になる。相国寺3山外塔頭(ほかに鹿苑寺、慈照寺)の一つに数えられる。山号は等持院と同じく万年山(萬年山、まんねんざん)という。寺紋は輪違いになる。 
 臨済宗相国寺派。本尊は、宝冠釈迦如来。
 半僧坊大権現(はんそうぼう だいごんげん)は、心願成就、身体健康、厄難消除、商売繁盛、家内安全の信仰を集める。
◆歴史年表 鎌倉時代、1286年、無学祖元(むがく そげん)が亡くなる。弟子・無外如大尼(むがい にょだい に)は、衣笠山山頂に無学の遺爪髪(いしょうはつ)を祀るための塔所として正脈庵(しょうみゃくあん)を開く。(『夢窓国師年譜』)。当初は尼寺だった。
 1298年、無外如大尼没後、正脈庵は荒廃する。
 南北朝時代、1342年、1340年、1341年、1340-1342年とも、足利尊氏の執事・高師直(こうの もろなお)は大伽藍を造営し、正脈庵を引き継いで拡張した。また、尊氏弟・直義の命により高師直が開基になったともいう。(『禅林僧伝』)。無学祖元の法孫・夢窓疎石を開山とした。また、師直は正脈庵を東に移し、無学祖元初住の真如寺(中国浙江省台州)に倣い、山号を万年山とし寺号を真如寺とした。
 1342年、夢窓疎石が入寺し、仏光禅師(無学祖元)を勧請開山とし、自らは2世(事実上の開山)になる。無外如大尼を勧請開基とした。(『夢窓国師語録 年譜拾遺』『後鑑』巻24)。五山十刹次第の第8位に列した。(「扶桑五山記二 日本諸寺次位」) 
 1343年、五山十刹第6位となる。
 1358年、足利尊氏没後、遺骸は二条大路高倉の自邸から一度、真如寺に運ばれ、葬儀を行う。(『後深心院関白記』)。その後、等持院に移される。境内地は東西に分割され、西は等持院になる。
 1380年、五山十刹第7位に数えられる。
 1386年、五山十刹第3位になる。
 1379年、五山十刹第1位になる。(『愚管記』)
 室町時代、1410年、等持寺、臨川寺に次ぐ五山十刹第3位になる。塔頭を要し、室町幕府の手厚い保護を受けた。(「扶桑五山記二 日本諸寺次位」)
 1437年、室町時代幕府6代将軍・足利義教は、経を誦しないとして等持寺、真如寺僧を寺から放逐したという。
 1461年、焼失している。(『蔭涼軒日録』)
 応仁・文明の乱(1467-1477)後、荒廃し、一時は廃寺になる。
 1499年以降、方丈、仏殿が復興された。(『鹿苑日録』)
 江戸時代、1656年、第108代・後水尾天皇の第6皇女・宝鏡寺門跡19世・理昌(りしょう)の死去に伴い、その菩提所となる。天皇により法堂が再興され、以後、相国寺派に属した。以来、歴代の宝鏡寺門跡が葬られた。
 江戸時代、五山派下で臨済宗僧侶の法階中「西堂(せいとう)職(他の寺院の前住職)」の本庵とし、法堂で授帖式を行う道場になる。
 1788年、朱印配当高9石、塔頭は6つ有した。(「相国寺末寺帳」)
 近代、1918年、遠州奥山・大本山方広寺の鎮守だった半僧坊大権現(はんそうぼう だいごんげん)を勧請した。
◆無外如大 鎌倉時代後期の臨済宗の尼・無外如大(むげ にょだい/むがい にょだい、1222/1223/1246?-1298?)。詳細不明。幼名は千代野(能)。無著(むじゃく)如外。鎌倉幕府の御家人・安達泰盛の娘。1267年頃、賢子と改め、武将・金沢(北条)顕時(あきとき)の正室になる。1270年頃、子・釈迦堂殿(後の足利貞氏の正室)を産む。1277年、北山准三后光一理宝より、千本五辻の地を寄進された。1279年、鎌倉の中国明州よりの臨在僧・無学祖元に師事した。1285年、景愛尼寺の創建に着手する。鎌倉幕府の政変「霜月騒動」で安達一族が滅亡し、夫は配流になる。如大は鎌倉に下向する。師により「無」の一字を与えられ、1286年、師没後、無外とした。師の遺言に従い、衣笠山麓に尼寺・正脈庵(後の真如寺)を開く。景愛寺の開山とされ、臨済宗最初の正規の尼という。景愛寺で亡くなる。
 宝慈院に頂相、坐像が残されている。東福寺で修業時、ほかの僧が如大が美しすぎて修業に専念できないと抗議したため、自ら焼火箸で頬を傷つけたという。坐像にも頬に傷跡がある。
◆無学祖元 鎌倉時代の渡来僧・無学祖元(むがく そげん、1226-1286)。明州慶元府(浙江省)に生まれた。1237年、杭州浄慈寺の北かん居簡により出家。1240年代、径山の無準師範の法を嗣ぐ。1262年、東湖の白雲庵、1275年、温州の能仁寺に元朝支配から避難する。1279年、北条時宗に招かれ来日し、鎌倉・建長寺住持、1282年、モンゴルの来襲(元寇)戦没者追悼のため、時宗の円覚寺開山となる。建長寺で没し墓所も同寺にある。
 無学派(仏光派)の祖、日本の臨済宗発展の基礎をなした。諡号は仏光国師、円満常照国師。弟子に高峰顕日、規庵祖円、高峰門下に夢窓疎石が出る。
◆夢窓疎石 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗僧・夢窓疎石(むそう そせき、1275-1351)。伊勢国に生まれた。父は佐々木朝綱、母は平政村(北条政村?)の娘。1283年、市川・天台宗の平塩山寺・空阿大徳に師事、後に剃髪。1292年、奈良・東大寺の慈観につき受戒。平塩山寺・明真没後、建仁寺・無隠円範に禅宗を学ぶ。1295年、鎌倉に下向、東勝寺・無及徳栓、建長寺・韋航道然、1296年、円覚寺・桃渓徳悟、建長寺・痴鈍空性に参じた。1297年、建仁寺・無隠円範、1299年、建長寺・一山一寧のもとで首座、1303年、鎌倉・万寿寺の高峰顕日に禅を学び、1305年、浄智寺で印可を受ける。浄居寺開山。1311年、甲斐国牧丘の龍山庵、浄居寺に一時隠棲する。美濃国・虎渓山永保寺(古谿庵)を開き、北山、土佐、鎌倉、三浦、上総と移り、1325年、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の請により上洛、南禅寺住持。1326年、北条高時に鎌倉・寿福寺の請を避け伊勢国・善応寺を開く。鎌倉・南芳庵に居し、1327年、瑞泉寺を開く。1329年、円覚寺に入り高時、北条貞顕の信を得る。1330年、甲斐・恵林寺を開き、1331年、瑞泉寺、1332年、恵林寺に移り、播磨・瑞光寺を開く。1333年、鎌倉幕府が滅亡、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれ、1334年、南禅寺に再住、1336年、臨川寺・西芳寺開山に迎えられた。足利家の内紛の観応の擾乱で調停し、北朝方の公家や武士が帰依する。尊氏は後醍醐天皇らの菩提を弔うため、疎石の勧めで全国に安国寺を建立、利生塔を設置した。1339年、天龍寺開山。1342年、建設資金調達のため天龍寺船の派遣を献策した。1346年、雲居庵に退隠。1351年、天龍寺再住。最晩年は臨川寺・三会院(さんねいん)に移り亡くなった。
 夢窓国師・正覚国師など、歴代天皇より7度国師号を賜与され七朝帝師と称された。北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏らの帰依を受け外護を得た。夢窓派としては、無極志玄、春屋妙葩など門下は13000人にのぼる。多くの作庭も行う。能書家としても知られた。
◆高師直 南北朝時代のばさら大名・高師直(こうの もろなお、?-1351)。師重の子。1333年、足利尊氏上洛に従う。1334年、雑訴決断所三番局奉行人、1334年、中先代の乱、箱根竹の下の合戦で新田義貞軍を破った。1336年、尊氏の室町幕府創設により執事となる。1338年、和泉石津の合戦、1348年、河内四条畷の合戦で南朝の皇居を焼く。畿内各地の悪党、国人を軍事的に組織した。足利直義との幕政の主導権争いである観応の擾乱では、摂津打出浜で戦い負傷、摂津武庫川で討たれた。夢窓疎石に帰依した。
◆理昌女王
 江戸時代前期の皇女・理昌女王(りしょう じょおう、1631-1656)。久岳理昌尼。第108代・後水尾天皇の第6皇女、母は逢春門院。幼称は八重宮。玉山理光尼の弟子。1646年、得度し宝鏡寺門跡19世、景愛寺住持、紫衣をゆるされた。26歳。仙寿院と追号、法名は久巌(くごん)理昌。
 墓は真如寺内・宝鏡寺宮陵にある。
◆理忠女王 江戸時代前期の皇女・理忠女王(りちゅう じょおう、1641-1689)。第108代・後水尾天皇の皇女。母は逢春門院。1656年、姉・理昌女王の跡をつぎ、得度し宝鏡寺21世。1681年、景愛寺住持、紫衣をゆるされる。1689年、高徳院の号をあたえられる。幼名は柏(香枝)宮、法名は義山理忠。
 墓は真如寺内・宝鏡寺宮陵にある。
◆理豊女王 江戸時代前期の皇女・理豊女王(りほう にょおう、1672-1745)。第111代・後西天皇の第11皇女。母は典侍清閑寺共子。1683年、宝鏡寺に入寺、理忠女王のもとで得度、1689年、宝鏡寺22世門跡、中興の祖とされる。1707年、景愛寺住持、紫衣を許された。絵を狩野周信に学ぶ。能書家として知られた。幼名は橿宮、追号は本覚院、法名は徳巌理豊。
 墓は真如寺内・宝鏡寺宮陵にある。
◆理秀女王 江戸時代中期の皇女・理秀女王(りしゅう じょおう、1725-1764)。第114代・中御門天皇の第4皇女。母は清水谷石子(いわこ)。1726年、宝鏡寺理豊女王の付弟、入寺して喝食、のち得度、宝鏡寺23世。大慈院を兼帯、1740年、景愛寺住持、紫衣をゆるされた。浄照明院と追号された。幼称は嘉久(覚)宮。法名は寿巌理長、後に逸巌理秀。
 墓は真如寺内・宝鏡寺宮陵にある。
◆理欽内親王 江戸時代中期の皇女・理欽内親王(生没年不詳)。三麼地院宮。第119代・光格天皇(1771-1840)皇女。
 墓は真如寺内・宝鏡寺宮陵にある。
原在中 江戸時代の画家・原在中(1750-1837)。京都の酒造家に生まれた。絵は石田幽汀、円山応挙につく。寺々の元、明の古画を独学し、土佐派に学ぶ。精密な装飾的画風の原派をなした。有職人物画を得意とした。御所、常御殿の杉戸絵、相国寺方丈障壁画「補陀落図」「琴棋書画図」などを描いた。天性寺に葬られた。
仏像・木像・位牌 法堂の中二階風の須弥壇に仙洞御所より遷された本尊「宝冠釈迦如来像」、「莫迦葉尊者像」、「阿難尊者像」を安置している。
 奥の開山塔(正脈庵)に、勧請開山・仏光国師(無学祖元)像、勧請開基・無外如大尼像、事実上の開山・夢窓疎石像、大檀那・高師直などの位牌が祀られている。
◆建築 「法堂(はっとう)」は、「大雄殿(だいおうでん)」といわれる。中二階風の須弥壇がある。中央3間に板唐戸、左右両端に花頭窓、禅宗様。単層、入母屋造、桟瓦葺。
 「客殿」は、三畳の上段の間がある。宮家、宝鏡寺門跡来寺の際に使用した。
◆坐公文 真如寺は、坐公文(実際は入寺しない人に出す住持辞令)を多く出す寺だった。これは、幕府の側に、十方住持制度(幕府が住持を任命派遣する官寺の制度)を残すという意図があった。
 坐公文を出され、実際に入寺した人もあった。他派、他宗の僧も含まれていた。室町時代、1489年、寺は、寺が荒廃するとして住持制を略したいと幕府に訴え、しばらく認められた。
◆文化財 客殿に原在中の障壁画「西湖図」「四季花花卉図」「松に猿猴図」「雀朝顔図」などがある。
◆半僧坊大権現 境内の圓通殿に祀られている半僧坊大権現(はんそうぼう だいごんげん)には逸話が残る。
 かつて、臨済宗大本山、方広寺(浜松市)の鎮守社として祀られていた。南北朝時代、1350年、方広寺の開山・無文元選(むもん げんせん)禅師が、留学していた中国明州より船で帰国した。東シナ海で暴風雨に遭う。船が転覆しかけた際に、一筋の光明が差し、鼻の高い異人「半僧坊」が船先に現れた。
 半僧坊は、禅師が無事に帰国し、正法(仏法)を伝えるために故国へお送りすると告げ、博多に送り届けた。後に、禅師が方広寺を開くと、半僧坊は再び現れて弟子になる。禅師没後、半僧坊は寺を守護し、人々を苦しみや災難から救うと告げて消えた。以来、半僧坊大権現は鎮守として祀られた。
 近代、1881年、方広寺の伽藍が大火により焼失した。勧進のために半僧坊大権現は全国に広がる。明治期(1868-1912)、相国寺の荻野独園管長は、方広寺より半僧坊大権現の分身を山内に勧請する。1918年、真如寺の住職が境内の現在地に遷座した。
 例年、半僧坊大権現御開帳法要(5月中旬)が催されている。
◆墓 仏殿の西に宝鏡寺歴代門跡の無縫塔がある。後水尾天皇の第6皇女で19世・宝鏡寺理昌(1631-1656)が葬られている。
 ほかに、歴代門跡として、理忠尼、理豊尼、理秀尼、理欽内親王の墓がある。
◆塔頭 宝光菴、聖果院、釣深軒、正脈菴(開山塔)、帰元院(高師直牌所)、真光菴(僧堂)の6宇がかつて存在した。
◆花暦 参道に杜若(5月)が咲く。庭にカエデが植えられている。
◆滞在型文化体験プログラム 2016年より、観光客向けの滞在型文化体験「いろはにほん(Experience the Soul of Japan 、非公開寺院滞在型文化体験・文化財保護プログラム)」を行う。日本財団、NPO法人京都文化協会、ハイアットリージェンシー京都が連携企画した。寺院に1泊2日で宿泊し、坐禅、読経、茶礼体験、住職との対話などを行う。当初は外国人を対象とし、将来的には日本人にも対応する。
◆年間行事 半僧坊大権現御開帳法要(祈祷法要、厄除けの肩たたき、お茶席、手作り市。)(5月中旬週末)。


*普段は非公開
*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 当寺パンフレット、『京都・山城寺院神社大事典』『日本仏教をゆく』『京都古社寺辞典』『京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都歴史回廊プログラム 京都歴史回廊演習』『室町時代の相国寺住持と塔頭』


  関連・周辺等持院       周辺六請神社       関連御所八幡宮社      関連宝慈院      関連宝鏡寺(人形寺)       関連相国寺        

客殿

客殿

客殿の南庭、枯山水式庭園

牛塔

待合

客殿東の池泉式庭園

鎮守社

鎮守社

鎮守社、稲荷社

境内の衣笠山
 真如寺 〒603-8346 京都市北区等持院北町61  075-461-1973
50音索引 Home  50音索引 Home 
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp