誓願寺 (京都市中京区) 
Seigan-ji Temple
誓願寺  誓願寺
   Home    Home





月下氷人石正面に「迷子みちしるべ」とある、1882年建立。


月下氷人石、右側に「教しゆる方」と彫られている。


月下氷人石、左側に「さがす方」と彫られている。




境内東の門


境内東の門

 







寺は過去に10度の災禍に遭った。現在の本堂は鉄筋コンクリート製となっている。






本堂内陣


本尊・阿弥陀如来像


観世音菩薩、十一面観世音菩薩


安楽庵策伝、誠心院の説明板より


【参照】謡曲「誓願寺」、和泉式部の来迎図、誠心院の説明板より


鐘楼


北向地蔵尊


扇の塚


本堂に奉納された芸道上達祈願の扇子


墓地の前に立つ「山脇東洋解剖碑所在墓地」の碑


山脇東洋夫妻の墓

 繁華街新京極通に面して誓願寺(せいがんじ)がある。清少納言が当寺で仏門に入ったと伝えられ、「女人往生の寺」として知られている。施餓鬼寺とも呼ばれた。山号を深草山という。
 浄土宗西山深草派の総本山、本尊は阿弥陀如来。 
 法然上人(圓光大師)二十五霊場第20番。本堂脇壇の十一面観音菩薩は、洛陽三十三観音巡礼第2番札所。本尊は京洛六阿弥陀仏(洛陽六阿弥陀めぐり6番)のひとつ。洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第29番札所、札所本尊は西院河原地蔵。西山国師遺跡霊場第9番札所。新西国三十三か所観音霊場の第15番札所。
 能楽など芸能上達、芸道上達、女人往生の信仰がある。御朱印(10種類)が授けられる。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代、667年、665年とも、第38代・天智天皇の勅願により、開基は恵隠(えおん)として奈良に建立されたという。(『洛陽誓願寺縁起』)。大和・仏師の賢問子(けんもんし)、芥子国(けんしこく)父子により、丈六(4.85m)の阿弥陀仏坐像が造られ、七堂伽藍が建てられた。(『続群書類従』)。また、念仏閣に坐像が安置され、誓願寺と称されたという。当初は、南都六宗のひとつ三論宗だったいう。三論寺と称したともいう。
 奈良時代、784年、山城国乙訓郡に移された。また、794年の遷都以前に相楽郡に移る。(『山州名跡志』『山城名跡巡行志』)
 平安時代、794年、平安京遷都後、紀伊郡深草に移ったともいう。(『雍州府志』『山城名跡巡行志』)
 第60代・醍醐天皇(在位897-930)は、浄土三部経を納めた。天台宗の僧・源信(恵心僧都、942-1017)は、当寺で善財講を修した。また、50日間あまり参籠し不断念仏を修したともいう。誓願講式(六道講式)を作ったという。(『洛陽誓願寺縁起』)
 歌人・和泉式部(978?-?)が出家し、境内に庵を結んだという。平安時代には念仏女人往生の寺として知られた。
 1175年、浄土宗開祖・法然(1133-1212)が当寺で参籠した。21世・蔵俊が帰依したことから浄土宗に改めた。蔵俊は、法然を22世とし中興の祖とした。それ以来、浄土宗念仏門の寺となる。また、円空立信孫弟・良玉により改宗したともいう。(『山州名跡志」)。23世は証空(1177-1247)という。観経曼荼羅の講説を行ったという。
 鎌倉時代初期、一条通小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入ル)に移転している。 
 1209年、行願寺とともに焼失した。(『百錬抄』)
 1236年、公卿・九条道家が7日間の仏事を営む。
 深草・真宗院の円空立信(1213-1284)が兼帯し、以後、浄土宗西山深草派の本寺となる。(『深草真宗院円空伝』『山州名跡志』)
 1276年、時衆(時宗)の開祖一遍(1239-1289)は、当寺において念仏賦算を行なったという。(『洛陽誓願寺縁起』)
 円空立信の法嗣・顕意(1239-1304)により、念仏弘通の一大道場となる。(『深草真宗院円空伝』『山州名跡志』)
 1410年、第99代・後亀山天皇皇子が出家し真阿と号した。
 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。奥堂、小御堂が焼失する。(『大乗院社雑事記』)
 1509年、焼失している。
 1518年、新堂が再建となり、本尊遷座となる。
 1536年、焼失している。(『天文日記』)
 1539年、立柱上棟となる。(『厳助往年記』)
 一時、時衆(時宗)の比丘尼により、時宗寺院となった。
 安土・桃山時代、1573年、焼失している。(「続史愚抄」)
 1591年、1585年とも、豊臣秀吉の寺町整備に際し、現在地(三条寺町)に寺地が移された。(『晴豊公記』)。6000坪の境内が広がり、塔頭18を数えた。
 1597年、秀吉側室・松の丸殿(京極竜子)の援助により、壮大な伽藍が再興され、落慶供養される。本堂、報恩堂、釈迦堂、三重塔、方丈、経蔵などが建ち並んだ。(『時慶卿記』)
 江戸時代、1613年、安楽庵策伝が55世となる。 江戸時代中期-幕末、施餓鬼法会の寺として賑わう。施餓鬼寺とも呼ばれた。
 1664年、本堂修理供養が勅使列席により執り行われる。朱印寺領も受ける。(『出来斎京土産』「京都御役所向大概覚書」)
 寛文年間(1661-1673)、第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 1779年頃、伊藤若冲が野菜づくしの「菓蔬涅槃図」を奉納する。
 1788年、天明の大火により焼失している。本堂、三重塔、方丈を焼失する。(「天明八年京都火災記」)。その後、衰微する。
 1807年、本堂が復興される。
 1845年、焼失した。
 1864年、禁門の変(蛤御門の変)で焼失した。本尊も焼失する。
 近代、1869年、阿弥陀寺の石清水八幡宮本地仏を本尊として遷す。上地により6500坪の境内の内、4800坪が失われた。18の塔頭のうち15までが移転、廃寺になる。
 1872年、京都府参事・槇村正直は、誓願寺、金蓮寺(時宗・四条道場)境内を上地し、三条から四条間に大歓楽街を計画し、新京極通が生まれた。
 1874年、六孫王大通寺本堂を移す。庫裏、書院、方丈、詰所が再建される。
 1919年、西山三派(深草派、禅林寺派、光明寺派)がそれぞれ独立した。
 1924年、大書院、庫裏などを一部焼失した。
 1926年、講堂・庫裏、書院が再建される。
 1932年、本堂を焼失している。
 太平洋戦争中(1941-1945)、西山三派は合同して西山派と称した。
 現代、戦後再び各派独立し、深草派(誓願寺)、禅林寺派(禅林寺・永観堂)、光明寺派(光明寺)と分かれる。
 1964年、現在の本堂が建てられている。
◆恵隠 飛鳥時代の僧・恵隠(えおん、生没年不詳)。近江国の漢人。608年、遣隋大使・小野妹子に従い学問僧として入隋、639年、帰国し、640年、設斎で『無量寿経』を講じた。652年、恵資を論議者(問者)、沙門1000人を作聴衆(聴衆)として内裏で同経を講説した。
◆蔵俊 平安時代後期の法相宗の僧・蔵俊(ぞうしゅん、1104-1180)。大和に生まれた。奈良・興福寺の覚晴、良慶らに師事する。1179年、興福寺権別当、興善院を開く。弟子・覚憲、信円らを育成した。のち僧正法印大和尚位を追贈された。
◆円空立信 鎌倉時代の僧・円空立信(えんくう りっしん、1213-1284)。大和に生まれた。清和源氏の一流多田氏で、大和六条の蔵人源行綱の末孫に当たる。1227年、浄土宗西山派の祖・証空(1177 -1247)に14歳より20年間師事し、その没後、1248年、真宗院を開き、後深草派の祖となる。三鈷(さんこ)寺、光明寺、誓願寺などの住持も務めた。歌人としても知られた。
◆顕意  鎌倉時代の僧・顕意(けんい、1239-1304)。薩摩に生まれた。浄土宗の聖達(しょうたつ)、西山派深草流の祖立信(りゅうしん)に師事した。嵯峨・竹林寺で教えた。深草・真宗院に移る。
◆真阿 室町時代の僧・真阿(しんあ、1385-1440)。第99代、南朝第4代・後亀山天皇皇子。1410年、誓願寺で出家し義恩と称した。通称は帥宮。阿弥陀仏の夢告により、真阿弥陀仏の名を授けられたとして真阿と号したという。同寺住職となる。義教に請願寺を授けて十念寺を開山した。1437年頃、一念寺を再興する。
◆松の丸殿 室町時代-江戸時代初期の女性・松の丸殿(まつのまるどの、?-1634)。京極竜子(きょうごく たつこ)。京極殿、西の丸殿。父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)、浅井長政は叔父。1566年、若狭守護・武田元明に嫁ぎ、2男1女を産む。夫は越前国一乗谷より帰還後、遠敷郡神宮寺、織田信長より許され若狭国大飯郡石山を領し、竜子も石山城に暮らした。1582年、本能寺の変後、夫は明智光秀に就き丹羽長秀・羽柴秀吉らに討たれた。子も殺された。竜子は捕らえられ、兄・京極高次の取り成しにより秀吉の側室となる。北政所、淀殿に次ぎ寵愛を受けた。醍醐の花見に加わり、秀吉の北條攻め、九州攻めに淀殿とともに同行した。1598年、秀吉没後、高次の大津城に身を寄せる。1600年、関ヶ原の戦い後、寿芳院と号し出家し、西洞院に住した。1615年、大坂夏の陣の後、淀殿侍女(菊)を保護、1615年、処刑された秀頼の子・国松の遺骸を引き取り、帰依した誓願寺(中京区)に埋葬した。法名は寿芳院殿月晃盛久。
 墓は当初、誓願寺にあり、その後、豊国廟の国松の傍に遷された。
◆策伝 安土・桃山時代-江戸時代前期の浄土宗の僧・策伝(さくでん、1554-1642)。安楽庵策伝。美濃の金森家に生まれた。7歳で美濃・浄音寺で出家し、策堂文叔に師事した。京都・禅林寺(永観堂)の智空甫叔に学ぶ。天正年間(1573-1592)、備前国・大雲寺など7寺を創建、中興した。1596年、浄音寺25世、1613年、誓願寺55世。1619年、紫衣勅許となる。1623年、誓願寺・竹林院に隠居し、訪れた人々を笑いに包んだという。茶室「安楽庵」に過した。
 茶人、文人、説教の名手といわれた。落語の祖とされ、説教に笑いを取り入れ、話の最後には「落ち」を付けたという。京都所司代・板倉重宗の依頼により、1039の笑話集『醒睡笑(せいすいしよう)』8巻を著した。松永貞徳、小堀遠州、古田織部との交流があった。安楽庵流茶道の流祖。
 今日、誓願寺では策伝忌法要が執り行われ、落語が奉納されている。
◆小笠原吉光 江戸時代前期の武士・小笠原吉光(おがさわら よしみつ、?-1607)。監物。下総国佐倉藩・小笠原吉次の長男。徳川家康の四男・松平忠吉に仕えた。1606年、出奔し、奥州松島の寺に蟄居した。1607年、忠吉が没し、忠吉菩提寺の増上寺の墓前で殉死する。主君の生前に、石川吉信・稲垣将監らと殉死を約束しており、両氏はすでに果たしていた。吉光の後を追い、寵児・中川清九郎(佐々記内)も後を追った。その後、殉死が流行った。
◆山脇東洋 江戸時代中期の医学者・山脇東洋(やまわき とうよう、1706-1762)。京都に生まれた。父・立安は医者・山脇玄修に学ぶ。東洋も1726年、玄修の養子となる。1728年、家督を継ぐ。1729年、法眼となり養寿院の称号も継ぐ。古方派の学祖で医者の後藤艮山にも学ぶ。1754年、京都所司代の官許を得て六角獄舎で処刑された男の囚人の死体解剖(解屍観臓)を行った。執刀は牛馬の屠者によった。この際の記録は『蔵志』(1759)として刊行された。
 東洋夫妻の墓は境内墓地にある。観蔵から1カ月後、解剖された屈嘉(くつか)(利剣夢覚信士)の慰霊祭が誓願寺で行われ、解屍者の供養碑が建立される。1994年、旧供養碑は修復、保存処理が行われ、京都大学総合博物館に寄贈された。
◆仏像 本堂の本尊「阿弥陀如来像」(4.85m)は、かつて石清水八幡宮の八幡神の本地仏として安置されていた。近代の神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により、1869年に遷された。丈六の坐像、平安時代後期の定朝様で鎌倉時代-南北朝時代の頃の作という。木造、寄木造、布貼。
 平安時代後期作の木造「毘沙門天立像(多聞天)」(重文)(83.3㎝/91.5㎝)は、常慶という僧が彫ったという。常慶はかつて西国に名を馳せた盗賊であり、捕まって斬られようとした際に、誓願寺本尊を信仰していた功徳により、刀が折れて助かった。その後、改心出家して僧になったという。鞍馬の毘沙門天と一体分身とされ、常慶は一刀彫るたびに三礼したという。木造、一木造、素地。京都国立博物館寄託。
 本堂の「十一面観音菩薩」は弘法大師作という。長金寺(ちょうごんじ)(一言堂、いちごんどう)(新京極中筋町)の本尊だったという。いまは一言(ひとこと)観音とも呼ばれ、一言で願いを叶えるという。近代、1868年に廃寺になり、当寺茶所を経て本堂脇壇に遷された。
◆建築 江戸時代中期建立の山門に、嵩懸魚があり、上部から鮨の部分は鶴の彫刻になる。彫刻懸魚も見られる。
 現在の本堂は、1969年に建てられた。鉄筋コンクリート製。
◆女人往生の寺 平安時代の女流作家、歌人の清少納言(966?-1025?)は、当寺で剃髪し比丘尼となり、本堂傍に庵を結び往生を遂げたという。
 平安時代の歌人・和泉式部(978?-?)は、娘に先立たれた後、48日間当寺に参籠したという。世阿弥作の謡曲「誓願寺」では、式部は歌舞の菩薩として描かれる。以後、舞踏上達、芸能上達の信仰を集め、境内の扇塚に扇を納める習いになる。
 戦国時代-江戸時代初期の若狭武田氏最後の当主・武田元明の正室、豊臣秀吉の側室だった松の丸殿(?-1634、京極竜子)なども帰依し、女人往生の寺の先駆けとして知られている。
◆迷子のみちしるべ 山門左脇に石柱が立てられている。正面に「迷子みちしるべ」、柱の右側に「教しゆる方」、壁との間左側に「さがす方」と彫られている。街頭告知板であり、現在のものは、1882年に建立されている。
 かつて、落し物、迷子などを探す人は左へ、拾った人、見つけた人は教える方へ、紙に書いて石に張り出していた。これらの習わしは、江戸時代末期-明治期中期まで続けられていたという。当寺ばかりでなく、各地の社寺や盛り場、八坂 北野にも設けられていた。石柱は、「月下氷人(仲人)役の石(げっかひょうじんのいし)」「月下氷人石」「奇縁氷人石」とも呼ばれた。
 逸話が残されている。鎌倉時代、第82代・後深草院に仕えた武士は、貧苦の中に病み、父への孝養を頼み亡くなった。残された妻は、貧しいために仕方なく子を捨て、父に孝養を尽くそうとした。仁和寺街道に一本の卒塔婆を立て、「子を捨てる形見の卒塔婆いかばかり、さらではいかに 親を助けん」と書き、その横に子を捨てた。
 後に子は比叡山の大徳に拾われ、学匠となる。子はやがて、父母に会いたい一心から、26歳で山を下り、都の各所を訪ね歩いた末に、誓願寺に辿り着いた。仏師・賢問子と芥子国父子のいわれを聞き、仏縁を頼む。かつて母が記した卒塔婆の歌を書きかえ、「子を捨てる形見の卒塔婆いかばかり、さらではいかに親をたづねん。」と記した。自らは本堂の前に立ち施行したという。やがて、奇遇にも寺を尋ねた母に再会することができたという。母子は共に誓願寺・阿弥陀如来の恵みに感謝したという。(「賢問子行状記」、1762)」
◆賢問子・芥子国 創建にかかわったという飛鳥時代の伝説的な名匠仏師・賢問子・芥子国父子には伝承がある。
 天智天皇は、誓願寺創建際して、霊夢により、両者に阿弥陀如来坐像の造立を命じる。父子は別々の部屋で仏の半身を彫り、合体すると寸分違わず合わさったという。
 父子が神仏習合期の春日大明神の本地・春日曼荼羅(鹿曼荼羅)本尊を造立した際に、夜に賢門子が地蔵菩薩、芥子国が観音菩薩と化し、闇の中で光を放ちながら彫っていたという。本尊は、春日大明神が造ったといわれたという。これらの阿弥陀如来像は、当寺に安置され、その後の火災により焼失したという。
◆お半・長右衛門 江戸時代、享保年間(1716-1771)、宝暦・明和年間(1751-1771)とも、呉服屋番頭・長右衛門(45歳)(押小路柳馬場虎石町)は、商用で大坂に向かった。近くの帯屋の娘(13歳)も同行した。桂川の渡し舟の船頭は、二人の所持金を奪う。二人の命も奪い桂川に投げ入れた。遺体は、上野橋の東岸に流れ着いたという。
 浄瑠璃作者・菅専助(すが せんすけ)は、事件を題材として密通心中物の話を書いた。浄瑠璃、歌舞伎の「桂川連理の柵(しがらみ)」として上演された。帯屋養子・主人の長右衛門は、かつて捨て子であり、隣家の信濃屋に拾われた。妻子ある長右衛門と信濃屋の娘・お半は、お伊勢参りの折に結ばれる。お半に縁談を進めていた長右衛門は、お半が身籠ったことを知らされる。二人は桂川で心中する。
 境内に二人の墓がある。桂川河畔にも供養塔が立つ。
◆謡曲 室町時代の世阿弥(1363? -1443?)作という謡曲「誓願寺」では本寺が舞台になっている。
 鎌倉時代、1276年、一遍は熊野権現に参籠し、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」の札を広めよとの霊夢をみる。誓願寺で御札を配ると、一人の女が現れる。御札を見て、「六十万人より外は往生できないのか」と問う。一遍は、「南無阿弥陀仏とさえ唱えれば誰もが必ず往生できる」と説く。女は、本尊・阿弥陀如来の御告げといい、本堂の「誓願寺」の寺額に替え、「南無阿弥陀仏」と名号を書くように言い残して、近くの和泉式部の墓に姿を消す。
 一遍が名号を本堂に掲げると、瑞雲に立つ阿弥陀如来と二十五菩薩、歌舞の菩薩となった和泉式部が現れる。誓願寺縁起が語られ、阿弥陀如来が西方浄土より誓願寺に来迎する舞が舞われ、皆が額に合掌礼拝する。
◆死刑囚の幽霊 死刑囚を解剖した山脇東洋にまつわる伝承がある。
 東洋が人体解剖に疲れて寝込んでいると、若い男の幽霊が現れた。男は自らを死刑囚であり、無実の罪という。お上に訴えたものの聞き入れられず、死刑になったという。死後は、解剖されたため、これでは浮かばれないと訴えた。東洋は、解剖は医学のために役立てられたのであり、解剖された人々のお蔭だとして、仏像を造り冥福を祈ると答えた。
 東洋は、約束どおり、医師らとともに五臓のある阿弥陀如来を造立し、誓願寺の本尊として安置した。仏像は「半大仏」と呼ばれる。仏像の台座には移動のための小車が付いており、1788年の天明の大火では、鴨川畔に避難することができた。だが、1864年の大火により焼失したという。
◆若冲と誓願寺 1779年頃に、伊藤若冲(1716-1800)は、誓願寺に紙本墨画「果蔬(かそ)涅槃図」(182.4×96.3㎝)を寄進した。亡き母、家業の繁栄を祈願したためという。中央に釈迦に代わり二股大根が横たわり、周囲を里芋、南瓜など68種80個の野菜が取り巻いている。8本の沙羅の木の代わりに玉蜀黍が立ち、摩耶夫人は柑橘により表されている。弟子たちは、松茸、茄子などになる。筋目書き、点描、墨の濃淡(濃、中、淡)を使い分けてこれらを描いた。
 現在、涅槃図は京都国立博物館所蔵。
扇塚 扇塚のある寺として芸能関係者に知られ、芸道上達を祈願するときは、扇塚に扇子を奉納する。
 謡曲「誓願寺」では、平安時代の歌人・和泉式部が歌舞の菩薩となって登場することから、能楽、舞踊関係者により、江戸時代以降に参詣が盛んになった。文化・文政(1804-1830)に、京都最古の流派、篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)は、誓願寺の和泉式部を信仰した。
 落語の祖で、当寺の住持・策伝と落語、落語の小道具・扇子との関わりも深い。
◆文化財  「絹本著色誓願寺縁起」3幅(重文)、「地蔵十王図」11幅(京都府有形文化財)、安土・桃山時代の「豊臣秀吉画像」などがある。
◆六地蔵 墓地に、室町時代初期、1439年造立の六地蔵石幢(せきどう)がある。
◆六阿弥陀巡拝 六阿弥陀巡拝(めぐり)」は、江戸時代、1717年に安祥院の養阿が阿弥陀仏の霊感を受けて発願したものという。縁日の日には、真如堂で洛陽六阿弥陀巡拝の証をもらい、蓮華の朱印を受け、先祖回向、極楽往生を祈願する。その後、永観堂、清水寺阿弥陀堂、安祥院、安養寺の順で回り、誓願寺で結願する。功徳日とされる1月15日、2月8日、3月14日、4月15日、5月18日、6月19日、7月14日、8月15日、9月18日、10月8日、11月24日、12月24日、春秋彼岸に3年3カ月巡拝する。無病息災、家運隆盛、諸願成 就を得ることができるという。
 札所は、1番・真如堂(真正極楽寺、左京区)の阿弥陀如来、2番・永観堂禅林寺(左京区)の阿弥陀如来、3番・清水寺(東山区)の阿弥陀堂の阿弥陀如来、4番は安祥院(日限地蔵、東山区)の阿弥陀如来、5番・安養寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来、6番・誓願寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来になる。
◆墓 境内北東に、数多くの著名人の墓がある。
 安土・桃山時代-江戸時代前期の誓願寺55世・安楽庵策伝(1554-1642)。戦国時代の武将・渡邊勘兵衛(1562-1640)と一族七基。安土・桃山時代-江戸時代の前田利家三女、摩阿姫(1572-1605)。徳川家康の子・松平忠吉家臣・小笠原監物忠重。江戸時代中期の医師で経穴学の堀元厚(1686-1754)とその子ら。
 江戸時代中期の医師で日本初の観蔵(人体解剖)を行った3代・山脇東洋(1705-1762)、2代・山脇玄修(道立、1654-1727)、4代・山脇東門、5代・山脇東海、山脇東甫、山脇玄坤の夫婦墓がある。ただ、実際には道立、玄坤を除き、累代の夫人のみが葬られている。ほかは真宗院(伏見区)の山脇家墓地に眠る。
 東洋の墓碑近くに立つ「山脇社中解剖供養碑」は、1976年に墓地内他所より現在地に遷された。「利剣夢覚信士(屈嘉)」は、最初に解剖された刑死人の戒名になる。全体で14の戒名が刻まれ、女性も4人ある。東洋は、記録に残るものとして、1754年、1762年に2例行っている。
 江戸時代後期の国学者・服部中庸(1757-1824)。江戸時代後期、1761年に桂川で水死した帯屋の娘・お半と呉服屋・長右衛門。江戸時代後期の考古・古典学者・穂井田忠友(1791-1847)。江戸時代後期の第120代・仁孝天皇の典侍で、皇女・和宮親子内親王の生母・橋本経子遺髪墓(1826-1865)。
 江戸時代初期、当寺移転中興第53世・教山善誉以来の歴代。
 皇室関連としては、江戸時代初期の第112代・霊元天皇皇子・受楽光院、江戸時代中期の第114代・中御門天皇皇女・清浄法院、園家、橋本家、油小路家、勧修寺家などの公家。
 豊臣秀頼の子・国松(1608-1615)と秀吉側室・京極竜子(松の丸殿)の墓がかつて境内にあった。国松は大坂城落城に際して逃れる。伏見で捕えられ、六条河原で殺された。墓所は当初、京極家菩提寺の誓願寺(中京区)にあった。秀吉側室・松の丸殿が遺体を引き取り埋葬している。1634年松の丸殿が亡くなり、国松、松の丸殿の墓は並んで立てられた。近代、境内が縮小になり、墓地は残された。1904年、豊国会が結成され、2基はともに阿弥陀ヶ峰麓の豊国廟に改葬された。8年後に、盛大に改葬されている。
◆近藤勇の首 1868年、鳥羽・伏見の戦いで敗れた新撰組隊長・近藤勇は、下総流山の陣で捕らえられ、江戸板橋で斬首となる。首は、三条河原に運ばれ河原に晒された。近藤の愛人だった三本木の芸妓・駒野は、近藤追悼のために辻講釈師を雇い、河原で近藤一代記の一席を演じさせた。
 その後、首は同志により誓願寺に運ばれ、末寺・法蔵寺(岡崎市)に移され埋葬されたという。同寺には首塚が立てられている。なお、近藤夫妻の墓は龍源寺(三鷹市)にある。
◆修行体験 写経ができる。
◆年間行事 修正会(1月1日)、節分会(2月3日)、涅槃会(2月15日)、善導会(3月14日)、春の彼岸会(3月春分の日)法然上人御忌(4月23日-25日)、謡曲誓願寺和泉式部忌(6月初旬日曜日)、精霊送・盆施餓鬼法要(8月16日)、秋の彼岸会(9月秋分の日前後1週間)、策伝忌・奉納落語会(10月初旬日曜日)、西山忌(11月20日)、仏名会(12月初旬)、お身拭式(12月24日)、除夜の鐘(23時より整理券配布、23時40分より鐘を撞く。先着で甘酒、温かい飲み物などの接待がある。)(12月31日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都古社寺辞典』『洛中洛外』『事典 日本の名僧』『證空辞典』『増補版 京都の医史跡探訪』『秘密の京都』『旧版 京のお地蔵さん』『京都の仏像』『京都府の歴史散歩 上』『京都 歴史案内』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『若冲への招待』『おんなの史跡を歩く』『京都隠れた史跡100選』『京都まちかど遺産めぐり』『若冲の花』『京都はじまり物語』『京都の寺社505を歩く 上』『京の怪談と七不思議』『京都大事典』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『京都のご利益徹底ガイド』『京の福神めぐり』『願いごと聞いて京のご利益さん』『京都の隠れた御朱印ブック』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』


    染殿院(染殿地蔵)     誠心院          六角獄舎跡     真宗院     三本木     阿弥陀ヶ峰(豊国廟)     桂川連理柵の史跡(お半長右衛門供養塔)       
 誓願寺 〒604-8035 京都市中京区新京極桜之町453,新京極通六角下る東側  075-221-0958  9:00-17:00
  Home     Home  

  © 2006- Kyotofukoh,京都風光