御蔭神社 (京都市左京区) 
Mikage-jinja Shrine
御蔭神社 御蔭神社 
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東殿
 御蔭神社(みかげ じんじゃ)は、比叡山の麓にある。下鴨神社(賀茂御祖神神社)から高野川を遡った河畔、森の中に建つ。山は、御蔭(みかげ)山、御生(みあれ)山とも呼ばれている。下鴨神社の境外摂社になる。 
 本殿には下鴨神社と同じく、東殿に玉依姫命(たまよりひめのみこと)、西殿に賀茂建角身命(わけいかずちのみこと)の荒御魂(あらみたま)を祀る。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座 大八座 小十三座」の「小野神社二座 鍬靫」ともいう。ただ、異説もある。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不詳。
 古墳時代、BC581年、御生神事が始まったという。(「御祖神社御事歴以下明細調記」)
 古代(奈良時代-平安時代)、この地で、山背北部豪族による祭祀が行われていたという。(社伝)
 飛鳥時代、677年、山背国司が造営した賀茂神宮はこの地であったともいう。(社伝)
 818年、「西 神聖影山」の記述がみられる。(『山家要記』・「延暦寺文書」)
 844年、太政官官符により賀茂御祖神社領東限は「寺田」(比叡山西麓と御蔭山北東麓の境)と定められる。
 1018年、「小野卿(郷)大原御蔭山」の記述がある。(『小右記』)
 1161年、第6回仮遷宮において記録書に「御蔭社」と記されている。(『山隗記』「神殿社屋之事等」)
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、恒常的な社殿が建てられたとみられている。神の降臨地として神聖視される。
 鎌倉時代、1332年、御蔭祭について「御蔭山御行」の記述がある。(「下鴨社家古文書」)
 室町時代、1460年、御蔭山神事が中絶する。(「御祖神社御事歴以下明細調記」)
 1501年、応仁・文明の乱以来、賀茂祭が復する。(『賀茂史略』)
 1507年、御蔭山神事行粧が中絶する。(『賀茂史略』)
 1517年、以前の御蔭山は孤立峰であり、四方を川(谷川、御生川、八瀬大河)に囲まれていた。(『御蔭山神事之神地図』)。御蔭山神事行粧は中絶する。(『賀茂社神事記』)。湧水の磐座(船つなぎでの御生神事)が中絶する。
 江戸時代、1622年、本宮式年遷宮の際に造替され、現在の社殿になる。
 1693年、御本宮式年遷宮に際して、現在の社殿が造替されたともいう。
 1694年、御生神事、御蔭山神事行粧が復活する。湧水の磐座(いわくら)が復活する。(『後中内記』)
 1704年、湧水の磐座が中絶する。
 1758年、台風による高野川と谷川の氾濫により神地が埋没した。社殿の一部などを流損する。(『旧地御蔭社図』)
 1830年、文政の大地震による比叡山西峰崩落により被災し、社殿流出する。谷川、御生川が埋まり、高野川の流路が変わる。
 1834年、境内は現在地(東方30mほどの高台)に遷される。(「御蔭神社棟札」「御教書」)
 1835年、京都所司代・松平伊豆守信順により、現在の社殿が27回式年遷宮に合わせて造替される。
 近代、1884年、御生神事の名称を御蔭祭と改める。
 1911年、御蔭講が成立した。
 現代、1962年、御蔭祭行粧列を自動車列に変える。
 1963年、台風により御蔭社斎館が倒壊する。御生河禊場は壊滅する。
 1964年、32回式年遷宮により社殿修理する。本殿、割拝殿の檜皮葺を杮葺に替える。
 1997年、京都市歴史的風土保存地区に指定された。
 2003年、33回式年遷宮に伴い本殿解体修理が行われる。
◆式内社 『延喜式』の「小野神社ニ座」について、場所は不明とされている。
 中古以来、御蔭社は存在していたが、小野社の名がないとして、旧号小野社が御蔭社に変えられたともいう。(『京都府愛宕郡村志』)。この地が、小野神社の旧鎮座地とする説には異説もある。また、近くの崇道神社を小野社ともいう。
◆神地 江戸時代、1758年の台風、1830年の地震による被災以前の神地は、現在地の西方30mの地点にあった。比叡山山麓に、谷川、高野川、御生川で四方を囲まれ、境内には橋を渡って入った。当時の鳥居を入った参道両側に東西の磐座があり、西からは湧水があった。八瀬大河(高野川)に流れは注ぎ、八瀬河の「源流」とされていた。二つの磐座は「御生綱(あれつな)」を曳くための「船つなぎ」と呼ばれていた。現在は、本殿前に「庭上磐座」が祀られているという。
◆御生山 御生山(みあれやま)は、御蔭山(みかげやま)、二葉山(ふたばやま)とも呼ばれる。東山三十六峰2番目の標高(146m)がある。御蔭山は下鴨神社の神体山とされている。
 この地は、賀茂の大神の降臨地といわれ、玉依売命が賀茂別雷命(大山咋命の子)を産んだ産屋(うぶや)として、「御生山(みあれやま/みしょうやま)」と呼ばれたともいう。また、比叡山の西、日尾之前(ひのおのまえ)に大巌があり、当社地として玉依売命の陵だったともいう。(『日吉社禰宜口伝抄』)
 祭神の賀茂建角身命の荒御魂(あらみたま)とは、御生(みあ)れしたばかりの神霊を示す。下鴨神社の祭神の荒御魂を祝祀する。「御生」のほかに「御荒」「御顕」「産霊」の字も当てられた。また、「太陽がただ射すところ」から御蔭山と呼ばれ、御蔭神社の由来になったともいう。
 御生山の史料初出は『延暦寺文書』(818年の条)で「西 神聖影山」(みかげやま)とある。平安時代の右大臣・藤原実資の日記『小右記』(1016)には「鴨大御神、天降り給ふ。小野里、大原、御蔭山なり」と記述があり、平安時代には広く御蔭山と呼ばれていた。
 鎌倉時代の歌人・藤原為家の歌にも「契りをきて くもらぬ神の みかげ山 むかしの跡ぞ 今もかしこき」とある。
 山は二葉山ともいわれた。付近に二葉葵が自生したことに因むという。また、「御形(みかた)山」、「高野山」ともいわれた。
 周辺には御蔭山の中腹に「御蔭山城跡」がある。土豪佐竹氏の本城とされ、ほかにも多くの遺跡が残されている。
◆御蔭祭 葵祭(5月15日)に先立ち、5月12日に行われる秘儀「御蔭祭(御蔭山の儀、明治以前、1884年以前は御生神事)」は、神馬の神幸列(じんこうれつ)が知られている。神馬は、錦蓋(きんがい)の飾り、神鈴を付ける。神職、怜人は騎乗し、供奉員により御神宝(鉾、立、弓、楯など)が捧げ持たれる。
 かつて旧暦四月午の日、午の刻に、御生神事が行なわれていた。朝廷より、阿礼料、幣(ぬさ)が奉献された。平安時代の『源氏物語』藤裏葉にも「みあれ詣で給ふとて」とある。鎌倉時代の公家・勘解由小路兼仲の日記「勘仲記」(1286年)にも御生神事の記述があるという。
 御蔭祭当日は、午前中に下鴨神社からの行粧を整え当社に向かい、御蔭神社で荒御魂を迎えて下鴨神社に遷御される。重要な祭礼であり、本殿のご神体に神威を込めるための祭儀をいう。荒御魂は、御生れとなり、下鴨神社の和魂(にぎみたま)と合体して再生する。御神霊は榊の御生木に宿り、神霊櫃に納められて御蔭神社を発つ。河合神社で神馬に遷され、下鴨神社の参道で切芝神事が行なわれる。さらに、下鴨神社本殿御錠に御生木が挿される。
 この神事芸能は、日本最古の祭儀式を伝える。神馬の御神前では雅楽の楽曲「三台塩(三代詠)」などの神事芸能が行われる。途中、祭列は賀茂波爾(かもはに)神社に立ち寄り、路次祭(ろじさい)が行なわれる。下鴨神社では、優雅な舞「東游(あずまあそび)」で知られる切芝(古馬場、東の馬場)の神事が執り行われる。
 参列する現在の氏人は、静原、岩倉、幡枝、松ヶ崎、田中、上高野、一乗寺、下鴨の約120人による。葵桂を挿す。かつては全行程を徒歩による参列が行われていた。現在は大部分が自動車列になっている。
◆年間行事 御蔭祭(5月12日)。


*境内は住宅地に近い森の中にありますが、周囲に人家はありません。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『神の游庭』『京都市の地名』『京都大事典』『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都「癒しの道」案内』

 
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西殿

御蔭祭

御蔭祭

【参照】高野川、比叡山
 御蔭神社 〒606-0067 京都市左京区上高野東山207 
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