比叡山延暦寺・無動寺谷 (大津市)
Enryaku-ji Temple,Mudojidani
無動寺谷 無動寺谷
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大弁財天


大弁財天


西尊院


西尊院からの眺望


無動寺参道入り口




閼伽井(あかい)


今も霊水が湧く


無動寺弁天堂


弁天堂


弁天堂


弁天堂


弁天堂



弁天堂


弁天堂、相応の回峯修行の際に外護した白蛇弁財天が顕れたという。正月、初巳、9月に巳成金(みなるかね)の法要が行われる。


弁天堂


弁天堂


弁天堂


明王堂、本尊・不動明王、相応も祀る。回峰行の根本道場になっている。大阿闍梨は不動明王に仕え、後身の指導に当たっている。また、信徒への加持祈祷も行う。


明王堂


明王堂


明王堂


明王堂


明王堂



法曼院政所、総本坊、法曼院では、回峯行者の世話、管理を行う。谷には、阿闍梨、行者、小僧などが住している。



法曼院



大聖不動明王



大聖不動明王





大乗院、親鸞聖人御修行旧跡の碑
 無動寺谷は、標高550m、比叡山の中腹、坂本ケーブルの延暦寺駅の南に位置している。無動寺谷(むどうじだに)は、回峯行者の拠点であり不動信仰の谷になっている。無動とは、不動、不動明王を意味し、不動明王は大日如来に代わり、回峯行者を守護するとされている。
 無動寺谷は、東塔の5谷(ほかに東谷、西谷、南谷、北谷)のひとつに属する。「叡南(えなみ)」、「南山」とも呼ばれ、「天台別院」とも呼ばれた。堂宇は、坂本の谷へ下りる参道に点在している。
歴史年表 平安時代、863年、相応は比叡山で等身の不動明王像を刻む。また、仏師仁算に刻ませたともいう。
 865年、相応は明王堂(無動寺)を建立し、自刻の不動明王像を本尊として安置した。以後、無動寺谷は、千日回峯修験の中心地になる。
 881年、金銅廬舎那仏、不動明王が鋳造された。
 882年、無動寺は天台別院(天台南岳別院)となる。
 正暦年間(990-995)、第66代・一条天皇の御願により法華堂が創建された。
 1012年、藤原道長の三男・顕信は出家し、無動寺谷に入る。道長は会いに出かけた。 (『御堂関白日記』『小右記』)
 鎌倉時代、1195年、慈円は大乗院で勧学講を始める。親鸞も大乗院の慈円のもとで学んだという。
 安土・桃山時代、1571年、織田信長の比叡山を焼打ちにより焼失したという。
 天正年間(1584-1592)、1587年とも、明王堂などが再建された。
 江戸時代、寛永年間(1624-1644)、弁天堂が創建された。
◆相応 平安時代前期の天台宗の僧、天台修験の開祖・相応(そうおう、831-918)。南山大師。建立大師、無動寺大師の別称もある。近江国に生まれた。845年、15歳で比叡山に登り鎮操に師事、17歳で得度受戒し相応と称した。『法華経』の第二十常不軽(じょうふぎょう)菩薩品に感銘する。858年、12年籠山を中断し、請われて第55代・文徳天皇の女御・多賀幾子(藤原良相の娘)の病を加持する。861年、第56代・清和天皇の招きにより内裏に参内している。葛川(かつらがわ)、吉野金峰山で修行の後、863年、比叡山で等身の不動明王像を刻み、865年、無動寺明王堂を建立し本尊として安置した。天狐が憑依したという文徳天皇皇后明子(染殿皇后、藤原良房の娘)を加持、治癒したという。883年、東塔常行堂の改造を行った。887年、891年と日吉社の造営を行う。また、朝廷に願い出て最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師の大師号を贈るよう尽力した。889年、第59代・宇多天皇の加持の功により内供奉となる。
◆相応の伝承 無動寺谷を開いた相応には数多くの伝承が残されている。若き相応は修行中に、根本中堂の本尊薬師に山野の花を捧げることを日課とし、7年間続けたという。座主・円仁がその徳行を見知り、見出したという。円仁は、得度授戒者に推すが、相応は他の僧に譲ったという。文徳天皇女御・多可幾子の憑りついた霊を祓った際には、12年籠山だったが檀那・藤原良相の恩に背くとして行を中断している。
 入山以来、酢、醪、酒、蘇などの嗜好品を口にせず、女人が裁縫した衣類は身に着けず、絹織物、綿入れの類も着ず、草履も履かず、牛馬に乗らず、座臥せず身をもたせかけるだけで寝ていたという。楽しみは、桐材により剣の彫刻で帰依者に分かち与えたという。
 入滅の時、十妙院で西方に向かい念仏を唱えた。夜半に息絶えると、南峰に瑞雲棚引き、また音楽が聞こえ、異香が山に満ちたという。
◆慈鎮(慈円) 鎌倉時代初期の天台宗の僧・慈鎮(じえん、1155-1225)。慈円、諡号は慈鎮和尚。父は公卿・藤原忠通、母は藤原仲光の娘。幼くして両親を失い、1165年、11歳で延暦寺・青蓮院に入り、1167年、覚快法親王の下で出家し道快と称し、後に慈円と改めた。無動寺谷の大乗院は、慈鎮が修行した寺であるという。1192年、天台座主を務め、源平争乱、僧兵の台頭の中で座主に就くこと4回に及んだ。1203年、大僧正、第82代・後鳥羽上皇の護持僧になる。1207年、四天王寺の別当になる。
 混迷する歴史の中で史書・史論書『愚管抄』を著した。初代・神武天皇から第84代・順徳天皇までを振り返り、承久の乱(1221)を画策した後鳥羽上皇を諌めたという。歌人としても知られ、百人一首に比叡山を詠んだ「おほけなくうき世のたみにおほふ哉 わかたつ杣にすみそめの袖」(「新古今和歌集」)がある。坂本小島坊で亡くなり、墓は無動寺谷にある。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。4歳で父と別離、 8歳で母は亡くなったという。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆日蓮 鎌倉時代の日蓮宗(法華宗)開祖・日蓮(にちれん、1222-1282)。日蓮大菩薩、立正大師。安房国の漁師の子に生まれた。1233年、12歳で天台系の安房の清澄山、道善房の弟子となり薬王丸と称した。1237年16歳で出家、是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と名乗る。1239年、鎌倉の浄土宗蓮華寺、禅宗の寿福寺、京都、高野山、四天王寺、興福寺、1242年、比叡山に上り俊範法印につく。東塔・無動寺円頓房、1245年、横川香芳谷・華光(けこう)房(後の定光院)で12年間修行した。1245年、臨済禅の円爾と親交する。1248年、泉涌寺の道隆、園城寺の智証に学ぶ。奈良七大寺、高野山、四天王寺、1251年東寺に遊学した。1252年、比叡山を下り、清澄寺に戻る。1253年「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、立教開宗し日蓮と名乗る。国は法華経のみにより護られるとし、天台仏教が密教化、浄土化したことを批判した。1257年、地頭・東条景信により清澄山を追われ、鎌倉・松葉谷の草庵に逃れる。1260年、鎌倉幕府の前執権・北条時頼に法華経を正宗とする『立正安国論』を建白する。浄土宗、禅宗などの他宗、政治批判とみなされ草庵を焼打ちされる。(松葉谷法難)。1261年、幕府に捕えられ伊豆に流される。(伊豆法難)。1263年、赦免され鎌倉に戻る。1264年、安房・小松原で地頭による襲撃を受け重傷を負う。(小松原法難)。1268年、執権北条時宗に『立正安国論』を上申する。1271年、再び幕府に捕えられ片瀬龍口で斬首されそうになり、後に佐渡に流された。(龍口法難)。1272年、『開目抄』、1273年、『観心本尊抄』を著す。1274年、赦免後、身延山に隠棲、久遠寺を開山する。以後は著述と後身の養成をする。1282年、経一丸(日像)に京都弘通の使命を託した。日蓮は常陸への療養の旅の途中、武蔵の池上で亡くなり、身延に葬られた。
 日蓮は、念仏信仰を批判、他宗を邪宗とした。法華経を唯一の正法、絶対真理と説いた。本門の法華経が末法の人々を救うものとし、実践的な事の一念三千仏法と王法の一致、王仏冥合を説いた。4度の法難、相次ぐ迫害について、法華経弘通(ぐつう)の行者の証と説いた。
◆仏像 五大明王(重文)は、鎌倉時代作、檜材寄木造、彩色、金切文様、玉眼。現在は国宝殿に安置されている。不動明王二童子坐像(不動明王、制多伽童子、矜羯羅(こんがら)童子)。不動明王は、天地眼、右手に剣、左手に羂索を持ち、岩上に立つ。降三世明王(ごうざんぜみょうおう)立像、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)立像、大威徳明王坐像、金剛夜叉明王立像。
 仏像は相応自刻ともいう。859年、相応は、安曇川上流葛川(かつらがわ)の三の滝で生身の不動明王を感得し、桂木の霊木により三体の不動尊像を刻んだという。像は、葛川明王院(葛川息障明王院)、湖東伊崎寺、無動寺の三か所に安置したとされる。運慶長男の湛慶(1173-1256)作ともいう。慶派仏師の作ともいう。仏師仁算作ともいう。
◆回峯行 天台行門、比叡山千日回峯行は平安時代初期の相応を祖としている。回峯行とは、師・円仁の入唐求法の「歩行(ほぎょう)」に倣うともいう。平安時代末期の相實が完成させた。南山修験に対して北嶺修験ともいわれる。
 相応は、『法華経』の常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)に基づき、その精神を体現化させる。但行礼拝「常不軽の行」を修することを誓願した。これは、あらゆるものに仏性を見出し礼拝をする。(悉有仏性)、下座行(すべてを尊し、他への奉仕)、また、不動明王・山王信仰、加持祈祷、根本中堂への供花、葛川参籠などにより構成されている。また、天台宗の説く三諦(空、仮、中)の相即円融、立体的総合的統一を具現化させ、遮那・止観、顕としての四種三昧、密の念踊を統一したのが回峯行であるという。(葉山照澄阿闍梨)
 鎌倉時代後期、回峯行の起源になる手文(てぶみ)が作られ、具体化するのは室町時代初期になってからという。さらに、現在のような千日の形になったのは、1571年の焼き討ち以後、江戸時代初期のことという。
 回峯行者は生身不動明王の姿を表している。三流あり、本流の無動寺の総本坊・法曼院の玉泉坊流(無動寺回峯)のほか、江戸時代、1864年以来途絶した西塔の正教坊流(石泉坊流)、1987年に復活した横川飯室谷の恵光坊流(飯室回峯)がある。また、7年の千日回峯行と、3年籠山僧が行う百日峯行がある。
 無動寺谷の法曼院には、千日回峯を満行した大阿闍梨が住し、後身の指導を行っている。
 最澄の定めた12年の籠山制度は、菩薩僧を養成するためであり、初めの6年は聞慧(学問)、後の6年は思修(修行)を行う。菩薩とは、菩提(悟り)を求め、仏と成るために精進し、他者に奉仕する大乗利他する理想の僧者をいう。 
 相応が開創した回峯行の千日回峯では、回峯行の12年間籠山する。7年間の内に1000日回峯(実際には975日、残りの25日は生涯をかけて行を続けるの意)を行い、生身の不動明王になる。
 近年では叡南祖賢大阿闍梨により、3年籠山行(四種三昧か百日回峯行)を経て、12年籠山行をしつつ回峯行を行うことになった。回峯行者になるには、まず谷会議の承認を受ける。1年目から4年目までを「下根」、4年目から5年目を「中根」、6年目から7年目を「上根」という。
 3月下旬から始まり、1年目から3年目は毎年100日・毎日30㎞の山上山下道程を、決められた約260か所で巡拝しながら歩く。比叡山中の巡拝距離は7里半(30km)とされるのは、八、また第八識の阿頼耶職(あらやしき、宇宙万有の展開の根源とされる心の主体、成仏)に満じない、終生の修行を意味している。4年目と5年目は毎年200日・30㎞。500日を終わると白帯(びゃくたい、下根満)行者になる。6年目は100日、赤山禅院までの往復60㎞(赤山苦行)が加わる。7年目は前半100日を洛中洛外大廻り(京都大廻り)では30kmに加え84㎞になり、後半100日を30㎞で行う。
 また、百日回峯行では、75日目に一年に一回の化他行、京都切廻り(京都市内の社寺巡拝、お立ち寄り)が行われる。この前日には2日分として2度の山中行がある。2回目は逆廻りといい、反対に60km廻る。京都切り廻りでは、蓮華傘が許され、京都市内80kmを巡拝する。
 百日回峯行後、859年から3年間、葛川に参籠した相応の足跡をたどる葛川参籠(葛川夏安居<かつらがわげあんご>、7月16日-20日)が行れる。千日回峯行者、新行さん(初百日回峯行者)、全国の回峯行者、息障講社の信者が集い、葛川明王院に籠もる。この際には、伊香立途中から宮垣善兵衛家当主が花折峠まで案内し、引き続き葛川坊村の葛野浄喜・浄満(浄鬼・浄満、常喜・常満)が行者を案内する。これは、相応が土地の地主神・思古淵明神の2人の従者に導かれ、葛川三の滝に入ったという逸話に因んでいる。相応が17日間の間、断食し祈念していると、滝壺に生身の不動明王が現れた。滝壺に飛び込み不動明王に抱きついたが、いつの間にか一本の桂の木に変わっていた。この霊木に像を刻み明王院、比叡山、近江・伊崎寺に納めたという。葛川参籠中に行われる太鼓乗り(7月18日)は、この逸話を再現する。1000年の歴史を持つという。回る太鼓の輪が滝壺を、打ち鳴らす太鼓の音は滝の音を、太鼓に乗り飛び降りる新行さんは、滝壺に飛び込んだ明応を表す。翌日、最後は三の滝で護摩を焚き、加持祈祷、新行さんが実際に滝壺に飛び込む。なお、京都大廻り、京都切廻りの際には、信徒により結成された息障講社の人々が行者を外護する。
 行者の装束(衣体)そのものが不動明王を表している。白い麻生地の浄衣(装束衣、逆浄衣)に切袴という死装束で、手甲脚絆、素足に蓮華台を表す八葉の草鞋。右手に不動の利剣を象る檜扇(ひせん)、左手に羂索(けんさく)を表す念珠を持つ。雨の日には、着茣蓙(きござ)で肩をおおう。回峯行は、行不退とされ、どのような理由があれ、一度始めると止めることも休むこともできない。檜笠の六文銭(三途の川を渡る船賃)、死出紐と短刀(降魔の剣、花切り、相応が修業の合間に花を摘み、根本中堂に供えていたことに起因する)、手巾(死後の顔を覆うため)は、万が一中途で断念した場合に比叡山外での自害のために用いるためという。当初は蓮葉を表す笠(檜笠、不動笠、檜の柾を薄く剥いで編み、両側から巻いたもの)は付けず、未敷(みふ)蓮華という巻いた笠を持参する。手文を持つ。ほかに、法縄、錫杖、頭陀袋などを携帯する。300日を過ぎて素足に草鞋から白足袋が許される。400日目より不動明王を表す蓮華笠を頭に被ることができる。4年目550日より白帯行者(びゃくたいぎょうじゃ)、下根満(げこんまん)とも呼ばれるのは、白帯袈裟に、御杖が許されることによる。
 出峯前に供華を不動明王、矜羯羅童子、制た迦童子に行い、午前2時に、小田原提灯の明かりのみで無動寺谷明王堂を出発する。出峯に際しては、死者と同じく室内から草鞋履きによる。初日のみ大阿闍梨が先導する。山中の行者道を進み、各所で約260回礼拝(但行礼拝)しながら東塔(根本中堂、大講堂、戒壇院、山王院、浄土院)、西塔(椿堂、にない堂、釈迦堂)、峯道(玉体杉)、横川(中堂、慈恵大師御廟、四季講堂、恵心院)、八王子山、日吉大社、滋賀院門跡、坂本から不動坂を登り無動寺谷に午前8時頃に戻る。全行程は6、7時間かかる。帰ると日常の勤行をこなした上で、翌日の回峯に備える。連日の睡眠時間は5、6時間という。
 さらに、700日目が終わった日に「当行満(とうぎょうまん)」と呼ばれ、「阿闍梨」と呼ばれ、弟子を教え行為を正す立場になる。中根(ちゅうこん)であり、いままでの「自利行(じりぎょう)」より「化他行(けたぎょう)」に変わる。この頃、小僧の後押しが行われる。堂入り(明王堂参籠)を行う。今生の別れの宴「斎食儀(ざいじきぎ)」の後、9日間(10月13日-21日)、無動寺谷の明王堂に籠り、一切の食事、水一滴も絶つ。生きたままの葬式と形容され、闇の中で眠らず横臥せずの「断食断水不眠不臥」をする。外陣の籠り所で禅定の姿勢を通し、内陣で一日三坐(午前3時、10時、午後5時)の1時間のお勤め、お経を唱える。念持仏の不動明王に拝し陀羅尼を10万回唱える。周りは逆さ屏風で覆われている。ただ、午前2時に閼伽井まで約200mを、本尊に備えるための閼伽水を汲みに出る。この際には、棒の前後に桶を提げ肩に担う。堂内を自力で三回廻る「三匝」を行う。3日目に体の水分が抜け、座っていられなくなる。聴覚、嗅覚が研ぎ澄まされる。5日目に口を漱ぐこと、脇息護法の肘掛が許される。7日目に自らの死臭漂うという。9日目に親族、僧、信者が集い、午前2時に最後の取水を見守る。午前3時、出堂の儀で法曼院政所職が行の終了の説明文を読み上げる。先達の大行満より朴の木を煎じた薬湯を受け、口に含む。満礼拝、堂の三周後に鐘が鳴らされ出堂し、当行満になる。堂入により、それまで700日の「上求菩提(自利の行)」から、「下化衆生(化他の行、けたぎょう)」に移る。この間、二人の僧・会行事(えぎょうじ)が堂内に残り世話をする。
 翌年、800日は雲母坂から赤山禅院までの巡拝(赤山苦行、比叡山回峯と赤山禅院までの往復60km)、900日の洛中洛外の京都大廻り(初めの100日間、1日84km)により京都市内の寺社を廻る。これは、回峯行中最大の難関といわれている。赤山禅院で支持者組織である京都の息障講、無動寺信者一行が加わる。先頭はお先、大阿闍梨、行者、信者数十人が続き京都市内の寺社各所を巡拝していく。また、各所でお加持、信者の家に立ち寄り(お立寄り)、接待を受ける。この京都の息障講はかつて帯刀し行者の警護を行っていたという。最後の100日間は山上山下の30kmの巡拝に戻る。これらは、かつての延暦寺の勢力範囲内の結界守護の意味があるともいう。1000日の満行により、「大先達」、「大満行(だいぎょうまん)」、「大阿闍梨」と尊称され、上根(じょうこん)の行者になる。最後は、平安時代、第56代・清和天皇后・染殿皇后の病気平癒祈祷以来の慣わしという京都御所に土足参内し、玉体加持を行って終了する。
 901日目以後、前行として千壇護摩供を修することもある。土足参内以後、相応の命日に遺徳を偲び八千枚大護摩供(11月2日-3日)を行う。修法中は、断食、断水、不眠を通し、護摩木を焚く。火柱は2mに達し、火あぶり地獄といわれる。
 1000日間の全行程は38000㎞、地球一周を走破するのに相当するという。安土・桃山時代、1585年から現在(2003年)までに49人が満行者になった。そのうち、2度行った者は3人いる。ただ、それ以前の記録は、織田信長の比叡山焼き討ちにより焼失している。1987年、酒井大阿闍梨の2度の満行により、飯室回峯が復興された。なお、明王堂輪番はこの大行満が勤める慣わしになっている。
◆蕎麦喰い木像 大乗院に、親鸞自作という「蕎麦喰い木像」が安置されている。逸話がある。
 大乗院の慈鎮(慈円)の下で修行をしていた親鸞(範宴)は、薬師如来の夢告により、京都の六角堂への100日の参籠を行った。周囲に、京の女人の所へ通っているという噂が立つ。僧たちは親鸞を懲らしめるために、親鸞が発った後に急に蕎麦を振舞うことにした。師の坊が親鸞の名を呼ぶと、返事がする。蕎麦は木像が身代わりとなり食べたことから、親鸞は難を逃れたという。
寺院 法曼院、建立院、宝珠院、大乗院、千手院、玉照院、松林院、善住院、弁天堂などがある。
◆墓・廟 無動寺谷東端の山中に、相応和尚廟、その近くに慈鎮和尚廟がある。
 裳立(もたて)山に、平安時代の歌人・随筆家で、三十六歌仙の一人・紀貫之(866/872?-945?)の墓と伝えられる「木工頭紀貫之朝臣之墓」(1868)の石碑が立てられている。
◆途中 地名の途中町(とちゅうちょう)は、大津市伊香立(いかだて)にある。無動寺と葛川谷(かつらかだに)の中間にあることから、相応が名付けたとされている。なお、京都から若狭へ向かう若狭街道の途中峠(とちゅうとうげ)は、山越越、龍華越(りゅうげごえ)とも呼ばれている。


千日回峯 下根 1年目・100日(比叡山山上山下毎日30㎞)、2年目・200日(毎日30㎞)、3年目・300日(毎日30㎞) 下根の満行(白帯行者)
中根 4年目・400日・500日(毎日30㎞、白帯行者)、
5年目・600日(毎日30㎞)、700日(紫の露紐、堂入)、6年目・800日(お供可、赤山苦行、毎日赤山禅院往復84㎞) 中根の満(当行満)
上根 7年目・900日(毎日京都大廻り84㎞)・1000日(比叡山山上山下毎日30㎞) 大行満(上根満)

千日回峯山上山下・百日回峯 無動寺谷→東塔→西塔→玉体杉→横川→八王子山→日吉大社→坂本→無動寺谷

千日回峯赤山苦行・百日回峯京都切廻り 明王堂→比叡山一巡(根本中堂、戒壇院、弁慶水)→雲母坂→赤山禅院→勝軍地蔵→真如堂→黒谷→庚申堂→青蓮院→白川・行者橋→八坂神社→高台寺→八坂庚申堂→産寧坂→清水寺→松原通→六波羅蜜寺→松原不動→因幡薬師→五条天神→堀川通→祇園御旅所→三条通→大宮通→御池通→神泉苑→押小路通→出世稲荷→千本通→五番町→七本松→下森→北野天満宮→西方尼寺→五辻通→上御霊神社→出雲路橋(上賀茂神社遥拝)→下鴨神社→河合神社→赤山禅院→雲母坂→比叡山→明王堂
 *京都切廻りは100日毎の75日目に1日のみ。

千日回峯京都大廻り 
明王堂(夜半)→比叡山一巡(根本中堂、戒壇院、弁慶水)→雲母坂→赤山禅院→真如堂→青蓮院→行者橋(橋の袂でお加持)→八坂神社(拝殿の腰掛に坐して祈る、お加持)→庚申堂→清水寺(大黒天前で真言を唱え、奥の院を一周する)→六波羅蜜寺→因幡薬師→五条天神→祇園御旅所→神泉苑→出世稲荷→北野天満宮(お加持)→西方尼寺(お加持)→上御霊神社→出雲路橋→下鴨神社→河合神社→清浄華院(夕刻、宿泊所、入浴、食事、仮眠して夜半に宿坊を出る)→赤山禅院→雲母坂→比叡山→明王堂(午前)
 

葛川参籠
坂本→途中→勝華寺→花折峠→比良山→明王院

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献、『比叡山諸堂史の研究』『闘いと祈りの聖域 比叡山史』『比叡山を歩く』『比叡山 その宗教と歴史』『比叡山』延暦寺、『比叡山と天台の心』『比叡山寺』『比叡山仏教の研究』『京都発見9 比叡山と 本願寺』『千日回峰行』『回峰行のこころ わが道心』『北嶺のひと 比叡山・千回峰行者 内海 俊照』『二千日回峰行 大阿闍梨酒井雄哉の世界』『私の古寺巡礼』『比叡山1000年の道を歩く』『比叡山歴史の散歩道』『阿闍梨誕生』『比叡山延暦寺一二〇〇年』『京都「癒しの道」案内』『京都の地名検証 3』『古社名刹巡礼の旅  比叡の山 滋賀 日吉大社 延暦寺』『霊峰 比叡』『回峰行を生きる』『京都・世界遺産手帳 延暦寺』『私の古寺巡礼』『日本の名僧』『京都の地名検証』『週刊京都を歩く 比叡山』


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大乗院、平安時代、平安時代、1073年に平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿・九条兼実(1149- 1207)により建立された。慈鎮(慈円)の旧跡地、親鸞も10歳から29歳まで住したという。

大乗院

大乗院

玉照院、無動寺回峯行の本院

玉照院

玉照院

無動寺坂、穴太衆積の石垣が続いている。坂本までの下り坂は、約3.4km、2時間あまりの行程。玉照院を過ぎると、相応和尚墓、慈鎮和尚墓、いくつかの沢を渡り、途中、もたて山の紀貫之墓への分かれ道がある。塔ノ岩、急な石段の不動坂を経て、相応水、坂本に至る。室町時代、1571年、織田信長の焼き討ちの際には、坂本、日吉社に火を放った明智光秀の軍は、密かにこの坂を登って東塔に向かったという。光秀は、命に忠実に従い虐殺を履行する。その後、坂本、南近江の領地を手にした。ただ、光秀は、信長に焼き討ちを諌めた一人であったともいう。

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map 延暦寺無動寺谷・明王堂 〒520-0116 大津市坂本本町大津市坂本 
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