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最勝院・高徳庵 ・駒ヶ滝〔南禅寺〕 (京都市左京区) Saisho-in Temple |
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最勝院・高徳庵 | 最勝院・高徳庵 | |
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![]() ![]() 参道 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂、「駒大僧正」の扁額 ![]() 本堂 ![]() ![]() 能面 ![]() 縁結びの松 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
![]() ![]() 大杉大神、豊丸大神、豊作大神 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 駒大僧正(左)、駒道智大和尚(右) ![]() ![]() 駒ヶ滝地蔵大菩薩 ![]() 駒ヶ滝地蔵大菩薩 ![]() 観世音菩薩 ![]() 八釼大明神、飛車大明神、八ッ崎大明神 ![]() 力彦大明神 ![]() 駒ヶ滝 ![]() 駒ヶ滝 ![]() 秋葉一尺坊 ![]() ![]() 将軍地蔵菩薩 ![]() 厳島弁財天 ![]() ![]() ![]() ![]() 瓜形観世音菩薩 ![]() 【参照】境内参道脇に南禅寺からの流れてきた琵琶湖疏水が導かれている。 |
南禅寺の東に、南禅寺塔頭の駒ヶ瀧最勝院(こまがたき-さいしょういん)はある。境内背後の東山山峡(独秀峰、南禅寺山)は、鎌倉時代より「神仙佳境」と呼ばれ、霊地として知られていたという。 臨済宗南禅寺派。 古くより勝運の神として知られた。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 鎌倉時代、天台密教の駒道智大僧正が、この地に隠棲したことに始まるという。 鎌倉時代末期、文永年間(1264-1275)、第90代・亀山天皇は、この地に離宮を営んだ。その際に、僧正を土地の鎮守として祀ったという。さらに、離宮を禅寺に改め、南禅寺の基を開いた際に、僧正を護法神として祀ったという。 近代、1912年頃まで、境内は現在の南禅寺寺務所の地にあり、最勝院般若殿と呼ばれていたという。 1915年、現在地に移り、庫裏を新築した際に、高徳庵(綾部市上林)を廃して寺名を移し塔頭とした。 1917年、駒道智大僧正の故地である現在地に移転したという。境内は、臨済宗の禅僧・夢窓国師(夢窓疎石、1275-1351)の塔所上にあったという。 ◆駒道智大僧正 鎌倉時代の僧・駒道智大僧正(?-?)。詳細不明。狛(こまの)僧正。公卿、摂政関白・九条道家(1193-1252)の子。幼なくして比叡山で仏道修行に入り、天台密教の深奥を極めた。その後、三井寺(園城寺)の長更(管長)、かつて天台宗だった禅林寺(永観堂)の住持を務めたという。晩年、駒ヶ滝最勝院の地に移り住んだという。 ◆仏像 本堂に、福徳円満大黒天、払災殖福不動尊が安置されている。 ◆死霊 伝承がある。駒道智は、鎌倉時代中期、1266年旧3月3日、法力により白馬にまたがり、生身を天空に隠したという。以来、僧正は駒大僧正と呼ばれ、奥の滝は駒ヶ滝と呼ばれるようになる。また、駒道智を祀る寺として、その院号により、最勝院と呼ばれたという。 鎌倉時代の亀山上皇(第90代)がこの地に離宮「禅林寺殿」を営んだ際に、夜に死霊が現れたという。かつてこの地に建っていた駒ヶ滝最勝院に住んだ駒道智が、死後も執着したことによる。南都北嶺の阿闍梨、巫祝の呪術によっても霊を退散させることはできなかった。 東福寺の普門が呼ばれる。普門は、9旬(90日)にわたり20人の禅侶とともに離宮に宿し、普通に行を続けた。やがて、徳の前に効験が顕れ怨霊は消えたという。普門は、禅林禅寺(後の南禅寺)開山に任じられ、亀山上皇自身も仁和寺の了遍により入飾した。普門が病床に伏した時、亀山法皇は東福寺の龍吟庵に移った普門を密かに訪れ、手づから薬をすすめたという。翌日、普門は81歳で亡くなる。 ◆縁結びの松 本堂脇に、「縁結びの松」がある。 樹齢300年という百日紅の木に、樹齢100年という松が生えている。 ◆能面 住職が彫った能面の寺としても知られる。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『古寺巡礼京都 12 南禅寺』、 『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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