麟祥院 〔妙心寺〕 (京都市右京区)
Rinsho-in Temple

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山門、軒丸瓦の折敷三文字、寺紋、稲葉家家紋。




「春日局菩提寺」の石標


庫裏




玄関




玄関


方丈(本堂)


方丈前庭


石切りの舟石


蹲踞
 妙心寺塔頭の一つ麟祥院(りんしょういん)は、3代将軍・徳川家光の乳母・春日局菩提所になっている。
 臨済宗妙心寺派大本山。 
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 江戸時代、1630年(1624年とも)、3代将軍・徳川家光により江戸本郷湯島の地を贈られた家光の乳母・春日局は、臨済宗妙心寺派の報恩山天沢寺を建立した。開山は渭川周瀏による。
 年代不詳、春日局が碧翁愚完(へきおう ぐかん)を開祖として建立したともいう。
 1633年、徳川家光は、木辻菖蒲小路(現在地の南東、現在の花園高校付近)に天神社を鎮守社として春日局のために創建したともいう。当社は平安時代、正暦年間(990-994)に源頼信により創建されたものという。(寺伝、「麟祥院由緒書」)
 1634年、春日局が、子・稲葉正勝の死を悼んで建立したともいう。同年、院領朱印200石が下付される。以後、近代にいたるまで稲葉家、堀田家が護寺する。住持は紫衣の高僧に限られた。
 1635年、寮舎養老軒が建立された。江外兎は塔頭・法照院(前の常春院)を建立し、興宗派の本拠になる。
 1643年、春日局が没し、家光は春日局の追悼のために、京都にも碧翁愚完を開山とし香華所(こうげしよ、菩提所)を建立した。春日局の法号「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」に因み、寺号を天沢山麟祥院と改めた。また、幕府による朝廷監視の目的もあったともいう。
 1644年、説元座元は陽春院(後の法乗院)を創建する。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、8600坪の寺域は1500坪に狭まり、所蔵品なども散逸したという。
 1897年、妙心寺南門東(花園学園付近)より現在地に移転している。
◆渭川周瀏 安土・桃山時代-江戸時代の臨済宗の僧・渭川周瀏(いせん しゅうりゅう、?-1642)。物外招播の弟子。勅諡は本寂定光禅師。1615年、春日の局の帰依をうける。湯島麟祥院で亡くなる。1624年、湯島麟祥院の開山。
◆碧翁愚完 安土・桃山時代-江戸時代の臨済宗の僧・碧翁愚完(へきおう ぐかん、生没年不詳)。詳細は不明。肥前佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂(1580-1657)の子という。智勝院開祖・単伝士印法孫。1634年、麟祥院の開山。
◆春日局 安土・桃山時代-江戸時代の3代将軍・德川家光の乳母・春日局(かすが の つぼね1579-1643)。お福。明智光秀家老・斎藤利三と稲葉通明・娘の子。1582年、父・光秀が本能寺変後、粟田口で処刑された。3歳で母方の稲葉重通養女になる。1595年、重通の養子で小早川秀秋に仕えた稲葉正成の後妻になる。夫が浪人となる。1604年、京都所司代・板倉勝重により徳川家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母となる。夫とは離縁した。乳母として江戸城・大奥入りし、生母のように振舞う。家康・正妻のお江と対立し、家光の将軍世嗣のために家康に直訴し実現させた。1629年、紫衣事件では、朝廷との調整のため、中宮和子(東福門院)に伺候、三条西実条の妹として天皇に拝謁した。この時、春日の局号を贈られる。だが、公家の反発により、第108代・後水尾天皇は女帝で第109代・明正天皇に譲位し、幕府に打撃を与えた。その原因は、天皇の腫物灸治、朝廷への武家介入・紫衣事件への不満、春日局参内に対する反発もあったともいう。
 局は、大奥の制度を整え、政治にも影響力を持った。屋敷を賜り、3000石を領した。没後、自らが建立した江戸湯島の天沢寺(麟祥院)に葬られた。
◆徳川家光 江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわ  いえみつ、1604-1651)。2代将軍・秀忠の次男に生まれる。弟・忠長との世継ぎを巡り、乳母・春日局の働きにより確定した。1623年、将軍宣下を受ける。大御所秀忠の実権の下、年寄筆頭らの合議により政務が執られた。1633年、諸国巡見使の派遣、1634年、上洛、朱印改め、1635年、武家諸法度の改訂などが行われた。貿易体制を整備するとともに、1638年、天草・島原キリシタン一揆を鎮圧、その後も、ポルトガル人追放、オランダ人を長崎出島に移すなど施行した。
◆斎藤利三 室町時代-安土桃山時代の武将・斎藤利三(さいとう としみつ、1534/1538-1582)。詳細は不明。利賢の子。母は明智光秀の妹とも、斎藤親順の娘ともいう。妻は斎藤道三の娘、稲葉良通(一鉄)の娘・姪ともいう。春日局は利三の娘。一鉄、光秀に家老として仕える。1582年、光秀の本能寺の変に加わり、山崎合戦で秀吉に敗れ近江堅田に逃れた。捕らえられ六条河原で斬首、また磔、遺体の一部は本能寺に晒されたともいう。その首は友人で絵師・海北友松により、真正極楽寺(真如堂)に葬られ、現在も墓がある。
◆稲葉正成 室町時代-江戸時代の武将、大名・稲葉正成(いなば まさなり、1571-1628)。林政秀の次男。美濃・稲葉重通の婿となるが妻没後、福(後の春日局)を妻とする。義父、豊臣秀吉に仕え、秀吉の命により小早川秀秋の家臣になる。四国・小笠原征伐、慶長の役に加わり、1600年、関ヶ原では徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせた。その後、秀秋と対立し美濃に蟄居の身になる。1602年、秀秋没後、浪人になる。1604年、妻が徳川家光の乳母採用となり離縁した。徳川氏の家臣に仕える。1607年、美濃国十七条藩主、松平忠昌の家老、附家老となるが、1624年、忠昌の移動に従わず、蟄居を命ぜられる。1627年、下野真岡藩藩主になる。
 稲葉家は福の子・正勝が継ぎ、子孫は、山城淀藩主として近代まで続いた。
◆海北友松 安土・桃山時代-江戸時代の画家・海北友松(かいほう ゆうしょう、1533-1615)。浅井氏の重臣・海北善右衛門尉綱親の子として近江国に生まれる。幼くして東福寺に入り、絵を狩野元信に学ぶ。中国・宋の画家・梁楷に倣う。還俗し、武士となるが、画家として豊臣秀吉、後陽成天皇らの用命も受けた。建仁寺の水墨障壁画、「浜松図屏風」(宮内庁蔵)、「花卉図屏風」(妙心寺蔵)などの作品がある。
 1582年、本能寺の変後の山崎の戦の後、処刑された友・斎藤利三の遺族を世話し、遺児が春日局になった
◆海北友雪 安土・桃山時代-江戸時代初期の画家・ 海北友雪(かいほう ゆうせつ、1598-1677)。海北友松 の子とも養子ともいう。当初は絵屋・小谷忠左衛門として、後に春日局の推挙により、徳川家光から江戸屋敷を拝領、用命を受けた。内裏、後水尾上皇などの障壁画も手掛け、法橋に叙せられた。
◆柳生利厳  江戸時代前期の剣術家・柳生利厳(やぎゅう としとし/としよし、1579-1650)。奈良に生まれた。祖父・柳生宗厳(むねよし)より新陰流の兵法を継ぐ。1615年、尾張名古屋藩の初代藩主・徳川義直に仕え兵法師範となる。尾張柳生家の祖。妙心寺で出家し如雲斎と号した。
◆天沢山麟祥院 江戸に臨済宗妙心寺派の天沢山麟祥院(文京区湯島4-1-8)がある。枳殻寺ともいわれる。開基は春日局で、京都の麟祥院に先立ち建立された。1630年(1624年とも)、家光に贈られた本郷湯島の地に、春日局は自ら命名し、報恩山天沢寺を建立した。開山は渭川周瀏。1634年、家光は、春日局の法号に因み天沢山麟祥院と改めた。春日局の墓がある。
◆建築 御霊屋(おたまや)は、現在、瓦葺になっている。かつては木賊造に銅板葺だった。第108代・後水尾天皇が春日局に下賜した仙洞御所の釣殿(女御御所東面泉水中御亭)として使われていた。江戸時代、1619年、1620年頃に建立されたとみられている。春日局の頃には、能舞台として使われた。また、春日局没前には、二条城で能舞台として使われていたともいう。没後、祠堂になる。1633年に当院に移築される。小堀遠州の作事によるともいう。内陣に安置されている春日局木像は、小堀遠州作ともいう。室内貼付絵は狩野貞信による。 
 寮舎としては養老軒、霊峰による玄照軒、江外禹による塔頭・法照院(前の常春院)、説元座元による陽春院(後の法乗院)などがあった。
◆庭 かつて、現在地の東にあり、その後に移され縮小された。作庭は近代、1910年という。当初の枯山水式庭園も、現在は苔庭(書院式枯山水式)に変わっている。
 南に緩やかな築山があり、釈迦三尊石、切石の舟石が配され、淀城から移されたという「月に叢雲」の蹲踞、鯱鉾などが据えられている。枯滝組、石橋が配され植栽は楓による。
◆木像 御霊屋(おたまや)に江戸時代前期の大名・小堀遠州(1579-1647)作の「春日局坐像」が安置されている。
 「碧翁愚完像」がある。
◆障壁画 方丈の室中に海北友雪筆の水墨襖絵「雲龍図」、上間に「瀟湘八景図」「山水図」、下間に「西湖図」など。
 方丈室中に海北友雪筆の水墨襖絵「雲龍図」は、対の雌雄の龍が描かれ、西の雄は上に立つ角に鱗が尖り、東の雌は下がった角に鱗は丸く、また表情に豪快さと優しさを描き分けている。
 その大きさを表現するために、あえて全身を描くのではなく画面から大部分の胴体を大胆に省略することで表した。ただ、本来は数10面あったという。江戸時代初期の傑作といわれている。
 かつて、春日局は1582年の本能寺の変後、海北友松に庇護された。その恩があり、春日局は友松の未亡人とその子・友雪を厚遇し、当院に友雪の障壁画が遺されることになった。
◆文化財 上間の狩野元珍(春湖、?-1726)筆「百椿屏風図」六双二曲は、慶長年間(1601-1614)以降の作になる。枝葉が描かれ、二種以上の椿も描かれる特徴がある。屏風の縁に春日局の内掛といわれる古代裂が用いられている。屏風は春日局が家光より贈られた。また、碧翁愚完が贈られたものともいう。
 御霊所の貼付板に、狩野貞信(1597-1623)筆の絵がある。
 狩野探幽(1602-1674)筆の「春日局の画」、狩野山雪(1590-1651)筆「雲中寿老・雪中竹鳩・梅山鵲図」、森祖仙(1747- 1821)筆「福寿草に双鶏図」「源平合戦図屏風」。
 「稲葉政勝初陣の甲冑」、春日局の「戒剣」(三振)、「長刀」(一振)。
 春日局の書状、朱印状などがある。
 「混一歴代国都彌理地図」(176×176㎝)は徳川家光により寄進された。かつて地図の衝立であり、1887年に軸表装された。
 「迦葉尊者木像」。
◆墓 稲葉正倚(1647-1714)碑、淀藩主稲葉家4代・正親(1692-1734)、5代・正益(1718-1771)、6代・正弘(1747-1773)、7代・正諶(1749-1806)、柳生利厳(1579-1650)、河合源蔵(1650-1719)の墓もある。


*普段は非公開、内部の写真撮影禁止
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『妙心寺』『妙心寺 六百五十年の歩み』『おんなの史跡を歩く』『京都大事典』



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鎮守社

御霊屋へ向かう回廊

御霊屋、格天井、正面には小堀遠州作という春日局坐像」が安置。

稲葉家の墓石7基

春日稲荷

春日稲荷
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