平岡八幡宮 (京都市右京区)
Hiraoka-hachimangu Shrine
平岡八幡宮 平岡八幡宮 
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参道の楓




拝殿








神殿、歌舞伎「靭猿(うつぼざる)」の舞台背景になった。本名題「花舞台霞の猿曳」。二世中村重助作で、江戸時代、1838年初演。



 京都市内から神護寺へ向う周山街道沿いにある平岡八幡宮(ひらおか はちまんぐう)は、梅ヶ畑(うめがはた)八幡ともいう。
 梅ヶ畑付近の産土神として祀られてきた。神護寺とゆかり深く、かつてはその境内にあり、寺の守護神として祀られていた。
 梅ヶ畑は、古くより梅の産地として知られ、地名の由来になった。また、里では薬草なども栽培されていたという。
 祭神は、応神天皇(誉田別命、ほむたわけのみこと)。
 勝運、財運、出世、音楽、芸能などの信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、809年、弘法大師空海が神護寺の守護神として、平岡山崎(右京区)に、勅使五位・藤原公明を幣帛使として、豊前宇佐宮の分霊を勧請したことに始まる。ご神体は、空海自ら描いたという僧形八幡神像を祀り、山城国最古の八幡宮になった。(『平岡八幡宮縁起』『神護寺規模殊勝記』)
 平安時代末期、一時、廃絶している。
 1190年、神護寺の文覚により再興されている。
 鎌倉時代、1222年、1220年とも、文覚の高弟・浄覚(上覚とも)により現在地に移された。
 室町時代、1407年、社殿が焼失し、3代将軍・足利義満により再建されている。
 江戸時代、1826年、第120代・仁孝天皇の命により現在の社殿が再建された。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、神護寺から独立している。
 現代、2009年、当社神輿が初めて神護寺まで巡行する。
◆足利義満 室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ、1358-1408)。2代将軍・義詮の子。 母・紀良子は第84代・順徳天皇の玄孫に当たる。1367年、10歳で将軍職を継ぎ、朝廷内で権力を振い、天皇祭祀の形骸化を謀る。地方の有力守護大名を 弾圧し 権力を掌握、公武権力共に手にする。1378年、室町の「花の御所」に幕府を移す。1392年、南北朝を合一、全国統一した。北山文化が盛んになり、明の倭寇取締と共に、1404年から明との勘合貿易を再開した。春屋妙葩に帰依した。1395年、出家して道義と号した。1382年、相国寺を建立し、自らの上皇位を目前に急死した。
 義満が当社の復興に尽力したのは、八幡神を信奉する清和源氏の末裔であり、営んでいた北山第に近かったからという。尊氏、義満、義持らは当社に参詣し、紅葉狩りにも訪れたともいう。
◆建築 「本殿」は、江戸時代、1826年に建てられた。桁行3間、梁行2間の切妻造で市内に現存するものは少ないという。正面に間口1間の向拝付。
 柱、長押、頭貫、板扉に朱の弁柄塗り、板壁は白い胡紛塗り。組物、中備、内法長押などに極彩色の文様がある。
花の天井 神殿内陣天井は、江戸時代末期、1827年、画工・綾戸鐘次郎藤原之信により描かれた極彩色の花、植物など44面が黒塗りの格縁内に飾られ、「花の天井」と呼ばれている。また、内陣鴨居に、紅白熨斗(のし)袋に紅白梅、紅白椿の絵柄がある。
 梅ヶ畑一帯は、かつて薬の産地となっていたことから、これらの植物が題材に描かれたともいう。また、それよりも早く、室町時代に、花を愛した義満の「花の御所」に因んで描かれたともいう。
 正面(南)東面より奥(北)へ、高尾楓、藪甘草、芙蓉、昼顔、万年青、木蓮、寒蘭、立葵、笹百合、水仙、素馨、東に戻って大山蓮華、柘榴、枳殻、紫陽花、女郎花、枇杷、葡萄、山茶花、桔梗、鷄冠鶏頭、石楠花、東に戻って芥子、山桜、木槿、野菊、朝顔、蓮、山躑躅、河骨、山桃(梨)、連翹、桐、東に戻って菖蒲、黄蜀葵、水葵、椿、甘草、牡丹、梅、藤、芍薬、南天、擬宝珠が描かれている。
 花の天井は、1979年より一般公開され、毎年、春、秋に特別公開されている。
◆詫間派 平岡には鎌倉時代の絵仏師の流派、詫間派(たくまは)の絵師達が住んだ。宅磨派、宅間派とも書かれる。鎌倉時代初期の宅磨為遠、子・宅磨勝賀、為久がいる。公家、神護寺、東寺などで絵画を制作し、北宋仏画に倣う画風は慶派などにも影響を与えた。高山寺の明恵を描いた「樹上座禅図」の絵師・恵二地坊成忍もその一族の出身という。明恵もこの地を度々訪れたらしい。宅磨勝賀の作品としては、東寺に「十二天図屏風」が残る。
◆地主社 
境内の境内社である地主神社は、祭神・大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)を祀る。当社創建以前、太古より梅ヶ畑に祀られていた氏神という。氏子は、本社参拝の前に当社に詣でる。
 江戸時代中期、1718年までは、地蔵谷にあったという。場所については特定されていない。
◆鳴滝砥石 拝殿に曼荼羅型の砥石(といし)が奉納されている。
 この付近で産出した砥石は、黄褐色をしている。赤鳴(珪質頁岩)と呼ばれ、コノドント(中世代三畳紀)という微化石を含む。適度の硬度、吸水性に優れ、研磨用仕上砥石として用いられた。砥山は、梅ヶ畑、鳴滝、高雄にかけてあり、「本山合砥石(ほんやまあわせといし)」の名声を高めた。また、梅ヶ畑に産するものは「鳴滝石」「鳴滝砥石」ともいわれ、質量ともに日本随一とされた。
 鎌倉時代、1190年、梅ヶ畑の郷士・木(本)間藤左衛門時成が、菖蒲谷付近で砥石を発見し採掘した。源頼朝より「日本礪(れい)石師棟梁」の免許を付与されたともいう。以後、800年間にわたり採掘された。江戸時代初期、1607年、高雄近郊の砥山5か所の採掘権は本阿弥家、採掘・商いは鳴滝村の砥屋五左衛門に認められた。近代に最盛期を迎え、その後、休山になった。
花木・樹木 境内は、椿と高雄もみじの参道で知られている。
 樹齢200年の古木をはじめ、300本の椿の株が植えられている。花の見頃は例年3月頃という。
 椿は、日本の在来種であり、『日本書紀』には、第12代・景行天皇の豊後国の土蜘蛛成敗の際に使われ、邪悪を払う意味があった。このため、歴代の武将が賞用した。平安時代には、長寿、招福、吉兆の木とされている。江戸時代には、江戸鎮護の花木とされた。
 白い花を付ける「白玉椿」は、茶道の茶花として用いられてきた。当社の白玉椿には、願い事をすると一夜で白い花が咲き、成就したという故事がある。白椿の「一水」、「平岡八幡薮椿」がある。
 コジイ、モミがある。 ご神木のツブラジイの巨木は、樹齢600年ともいう。高さ15m、胸高幹周り4.8mで市内最大の幹周りという。枝長25m、30m。
◆年間行事 左義長祭(1月15日)、節分祭(2月3日)、例祭(三役相撲、鉾さし、お火焚き祭)(10月第一日曜)、創祀祭(僧形八幡神像の公開)(11月23日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『古建築の装飾』『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『明恵上人』『京都の地名検証』『京都滋賀 古代地名を歩くⅡ』『京都まちかど遺産めぐり』『京都大事典』『京都のご利益手帖』『京都 神社と寺院の森』


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草花の絵が44枚描かれた花の天井の写真、説明板より

平岡八幡弁財天(琴弾き弁財天)

豊臣秀吉寄進の証という瓢箪の紋(透かし部分)

絵馬にも白椿が描かれている。

地主神社、大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)、創建以前より梅ヶ畑に祀られていた。

若宮社、応神天皇、誉田別命(ほむたわけのみこと)

貴布弥社、罔象女神(みずはのめのかみ)

武内社、武内宿禰(たけしうちのすくね)

弓の名手といわれた源為朝(鎮西八郎為朝)の放った矢が射抜いたという石、いまは、俳人・鈴鹿野風呂の句碑になっている。「眞開らきの龍胆(りんどう)玉の如き晴れ」

さざれ石、獅子にも見えるという。

奉納されている曼荼羅型の砥石

ご神木のツブラジイの巨木

白玉椿

金魚の尾の形をしたという珍しい品種の金魚椿の葉

土俵、10月の例祭では「三役相撲」が行われる。

「後鳥羽天皇深縁之地」の石碑
 平岡八幡宮 〒616-8271 京都市右京区梅ヶ畑宮ノ口町23番地  075-871-2084
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