高桐院 〔大徳寺〕 (京都市北区) 
Kouto-in Temple

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表門



















石畳の参道、50mある。竹の手すり、当院の孟宗竹で作られている。毎年12月末に新しい竹と取り変える。







 高桐院(こうとういん)は、大徳寺境内西北にある。「楓の庭」で知られ、大徳寺塔頭のひとつに数えられる。清源院など5庵があり、高桐院派と称され、北派輪住で護持された。 
 臨済宗大徳寺派。本尊は釈迦如来像。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 安土・桃山時代、1601年、1602年とも、細川忠興(三斎)が、父・幽斎の菩提所として建立した。開山は忠興の叔父・玉甫紹琮(ぎょくほ じょうそう)による。以後、細川家の菩提寺となる。忠興の戒名の「松向寺殿前三議三斎宗立大居士」より、当初は「松向寺」と呼ばれていたという。
 江戸時代、1613年、玉甫紹琮没後、その塔所となる。2世に賢谷宗良が就く。
 1625年、清巌宗渭が大徳寺に入り、高桐院3世となる。
 慶安年中(1648-1652)、清巌は大仙院寮舎を移築し、子院・祥林軒を建立した。
 近代、1868年以後、神仏分離令後の廃仏毀釈により、子庵は破却、什物が散逸する。高桐院客殿(本堂)も取り壊された。
 明治期(1868-1912)末-大正期(1912-1926)、細川護立の寄進により現在の客殿が再建される。
◆玉甫紹琮 室町時代-江戸時代の臨済宗の僧・玉甫紹琮(ぎょくほ じょうそう、1546-1613)。半泥子。山城に生まれた。三淵伊賀守晴院の子、細川幽斎の異兄弟に当たる。大徳寺・古溪宗陳の法嗣。1586年、大徳寺130世。1588年、豊臣秀吉の命により古溪宗陳に代わり総見院2世。1613年、諡号は大悲広通禅師。高桐院に塔された。
◆細川幽斎 室町時代の武将・細川幽斎(ほそかわ ゆうさい、1534-1610)。藤孝(ふじたか)。父は三淵晴員、母は将軍足利義晴の側室(清原宣賢の娘)、実父は義晴ともいう。1539年、細川元常の養子となる。1554年、家督を相続。1565年、将軍義輝暗殺後、その弟・一条院覚慶(義昭)を大和興福寺より救出する。1568年、織田信長の援助を得て義昭の上洛に成功した。1573年、義昭が信長に追われると、信長家臣となり西岡(長岡)を得る。1582年、本能寺の変では姻戚の明智光秀の誘いを断わり、剃髪し丹後に隠居した。1583年、豊臣秀吉より西岡を与えられる。秀吉の九州攻め、小田原攻め、文禄の役にも加わる。1600年、関ケ原の戦では徳川家康方につき、田辺城に籠城したが生還する。
細川忠興  江戸時代の大名・細川忠興(ほそかわ  ただおき、1563-1646)。三斎。藤孝(幽斎)の長男として京都に生まれる。細川輝経の養子となる。明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)を妻とした。1580年、丹後を与えられる。1582年、本能寺の変後、ガラシアを離別し幽閉した。1589年、秀吉は幽斎と忠興に改めて丹後国を安堵した。1593年、朝鮮に出陣、1596年、越中守となる。秀吉没後、徳川家康に接近し、1600年、関ヶ原の戦に加わる。だが、ガラシャは人質として大坂城に入らず自刃した。戦後、その功により、豊前、豊後を与えられ中津城に配した。小倉城を築き本城とした。1620年、家督を譲り、中津に移り三斎宗立と号した。1632年、八代城に入り隠居領を領した。八代で亡くなる。
 教養人・茶人としても知られ、利休七哲の一人に数えられる。利休切腹の命の際には、利休を忠興と古田織部だけが見舞ったという。三斎流流祖。
◆細川ガラシャ 室町時代-安土・桃山時代の女性・細川ガラシャ(ほそかわ がらしゃ、1563-1600)。明智珠、玉、玉子。明智光秀の三女として越前に生まれた。母は煕子(ひろこ)。美貌の誉れ高く、1578年、15歳で父の主君・織田信長の仲介により、16歳で勝龍寺城の細川忠興に嫁いだ。1580年、長男・忠隆、その後2人の子が生まれた。1582年、父・光秀の起こした本能寺の変後、忠興の父・幽玄は光秀に与せず、玉の母、兄弟姉妹も自害した。忠興は豊臣秀吉への恭順を表すため、「逆臣の娘」となった玉を丹後味土野(みどの)に一時幽閉する。1584年、豊臣秀吉の取成しにより大坂玉造の細川邸に戻された。1587年、侍女・清原いと(マリア)の手引きにより、天満のイエズス会の洗礼を受ける。忠興は当初、受洗に反対したが、玉は信仰をやめず、夫は後に観念した。洗礼名ガラシャとは、神の恵みの意味という。邸内に孤児院を開く。1600年、徳川家康と対立した石田三成により、屋敷が包囲される。三成は諸大名の妻たちを人質に取り、家康打倒を目論む。玉は、夫が不利になることを悟り人質を拒否した。屋敷に火を放ち、信仰上自害が許されないため、家老・小笠原少斎に介錯を頼んだ。辞世の句「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」。38歳。忠興は大坂でキリシタンによる葬儀を営んだ。
◆塙直之 戦国時代-江戸時代初期の武将・塙直之(ばん なおゆき、1567-1615)。塙団右衛門ともいわれた。織田信長、羽柴秀吉、加藤嘉明に仕え、朝鮮出兵、1600年、関ヶ原の戦いに加わる。小早川秀秋、松平忠吉、福島正則らにも仕えた。一時期は仏門に入る。1614年、大坂冬の陣に豊臣方として参加、翌年の大坂夏の陣で討ち死にした。墓所は泉佐野市にある。境内にも墓所がある。
◆細川忠隆  安土・桃山時代-江戸時代の武士・細川忠隆(ほそかわ ただたか、1581-1646)。忠興の長男。1600年、関ヶ原の戦いで母ガラシャを見捨て脱した妻・千世を庇い父に追放される。後に出家し休無と号し、京都に棲む。
◆清巌宗渭
 安土・桃山時代-江戸時代前期の臨済宗の僧・清巌宗渭(せいがん そうい、1588-1662)。近江に生まれる。源氏奥村佐々木一門。大徳寺・玉甫紹琮につき出家した。賢谷宗良の法を継ぐ。1625年、大徳寺170世、高桐院3世、1649年、江戸品川・東海寺の住持。東海寺塔頭・清光院を創建。堺・南宗寺、塔頭・徳泉庵、臨江庵など各所に諸寺・庵を開く。京都では禅華庵の開創、上賀茂・慈眼庵などを中興した。
 書画、茶道に通じた。千宗旦参禅の師で今日庵を命名した。『茶事十六ヶ条』を著す。諡号は清浄本然禅師。
◆出雲阿国 安土・桃山時代の女性芸能者・出雲阿国(いずも の おくに、1572?- ?)。詳細不明。於国、国など。出雲国杵築中村の里・鍛冶中村三右衛門の娘ともいう。出雲大社の巫女(アルキ巫女)となり、文禄年間(1558-1570)、出雲大社勧進のため神楽舞をして諸国を巡回し、美貌もあり評判になる。1582年、奈良・春日大社で上演された「ややこ(稚児)踊り」は8歳の加賀と演じた。1600年、京都で菊とともに演じ、人気を博した。1603年、北野神社で男装した阿国の「歌舞伎踊」が披露された。1604年、伊勢国桑名、1607年、江戸城で興行した。その後の消息は不明。
◆興津弥五右衛門 江戸時代の武士・興津弥五右衛門(おきつや ごえもん、生没年不詳)。詳細不明。1647年、主君・細川三斎の三回忌に、高桐院の墓に詣で、船岡山の麓に建てられた仮屋で殉職したという。
◆大心 江戸時代中期の僧・大心(生没年不詳)。子院の清源庵2世、高桐院に住した。学僧として『正燈世譜』『宝山外志』などを著す。
◆高見祖厚 近代の国学者・高見祖厚(1842?-1917)。熊本藩士。中島広足に師事し、書・和歌を嗜む。宮内省に奉仕し、のち剃髪した。山岡鉄舟と親交があった。晩年は当院に庵を結び亡くなる。号は廣川、林泉など。境内に歌碑がある。
◆寺号 高桐院の寺号について由来はわかっていない。細川忠興の戒名は「松向寺殿前三議三斎宗立大居士」であり、当初は「松向寺」と呼ばれていたという。
 以後、細川家の家紋の桐より、「高貴な桐の紋の院」ということから高桐院と名付けられたともいう。
◆仏像 客殿(本堂)正面御霊屋に玉甫陶像、下に歴代の位牌、左に細川忠興木像と細川家歴代の位牌、右に本尊の釈迦如来像、達磨大師木像が安置されている。
◆子庵 3代清巌以後、境内に子庵が建てられている。細川休斎の泰勝庵、細川宗枕の清源庵、清巌の祥林軒、耕雲軒、佐久間宗岸の松泉庵があった。これらの庵は近代に入り破却されている。
◆建築 創建当初の建物は存在しない。書院「意北軒」は、江戸時代初期に、かつて聚楽第にあったという利休邸が移築されたともいう。1591年の利休の切腹後、忌まれ取り壊されようとした。玉甫が大徳寺に移し、その後、高桐院に移されたという。「意」とは心、「北」とは寂の意になる。
 「客殿(本堂)」は、明治期-大正期、肥後熊本旧藩主細川家第16代当主・細川護立(ほそかわ もりたつ、1883-1970)の再建による。
◆庭園 自然石の敷石の参道は、直線と直角により構成されている。竹の柵の外には苔地が広がり、楓などが植えられ、四季折々の変化を見せる。
 客殿南庭は「楓の庭」と呼ばれ、江戸時代初期の作庭による。苔の平庭には、中央に細川ガラシャの墓標の写しの灯籠が据えられ、周囲に楓10数本だけが植えられている。背後は竹林に蔽われている。現在の地苔を主にした庭になったのは、1971年に住職となった松山剛山による。
 意北軒南庭(鳳来前庭)には、朝鮮王城の礎石を持ち帰ったという蹲踞(つくばい)が据えられている。
茶室 本堂西に裏千家13代・円能斎(えんのうさい)好みの八畳の茶室「鳳来(ほうらい)」がある。板額は官僚・細川護立(1883-1970)筆の「鳳来」が掛る。床柱は北山杉のしぼり、天井は長板を組み合わせている。左に書院床。
 忠興好みの二畳台目の「松向軒(しょうこうけん)」の名の由来は、忠興の法名「松向寺殿三斎宗立」による。安土・桃山時代、1587年、豊臣秀吉による北野大茶会の際に、北野社の影向の松(ようごう)下に建てられた茶室を移築したものという。ただ、確定しておらず、また後世の改修が行われている。構造は真珠庵「庭玉軒」に似ているという。
 切妻造、こけら葺。三帖の水屋が付く。松の皮付柱、二段の棚、風炉先に下地窓、内部は珍しい黒壁となっており、聚楽土を用いている。天井は床前杉板の平天井、客座に竹垂木竹木舞の化粧天井、手前座に蒲落ち天井。床は畳床、天井は網代。手前座に中柱、床脇に太鼓張り紺の襖、一畳の間に給仕口、水屋に続く。西に躙り口、外に刀掛がある。扁額裏面に清巌宗渭の「寛永五年(1628年)」の銘文がある。ただ、その頃の建立とは確定されていない。
 利休邸を移したという「意北軒(いほくけん)」(六畳、八畳)がある。
◆欠灯籠 庭の西に六角形の火袋の石灯籠が据えられている。鎌倉時代のもので「欠灯籠」とも呼ばれている。忠興と細川ガラシャの墓標であり、遺髪(分骨とも)が埋められているという。基礎に蓮弁と格狭間の紋様、中台側面に走り獅子二頭ずつ陽刻、火袋に格狭間、笠石蕨手のひとつに欠損がある。花崗岩製、1.9m。
 もとは利休の持つ石灯籠だった。銘を「欠灯籠」、また俗称で「天下一」であったともいう。灯籠は春日形灯籠であり、高桐院型灯籠とも呼ばれている。寺院に石灯籠が使われ始めたのは室町時代以降のことであり、茶庭に用いたのは利休が初例という。李朝期(1392-1910)、多くの古朝鮮の石灯籠が海を渡り日本に持ち込まれた。
 秀吉がこの石灯籠を欲した時、利休はあえて裏面の三分の一を欠き、疵物であるとして秀吉の申し出を断ったという。利休切腹後、石灯籠は忠興に贈られた。完全を忌んだ忠興は、後にさらに蕨手、灯口、横を欠いたともいわれている。「無双」と銘をつけ、参勤交代の際もこれを携行し、江戸と九州を往来していた。自らの没後は墓石にするようにと遺言した。塔主・清巌宗渭は、この石灯籠を八代から当院へ移し据えたという。
◆降蹲踞 庭西にある袈裟形の降蹲踞(おりつくばい)、「浄水盤」(直径90㎝、高さ70㎝)は、武将・加藤清正(1562-1611)が朝鮮を攻めた文禄慶長の役(1592-1598)の際に、朝鮮王城羅生門の礎石を持ち帰ったものという。
 その後、三斎に贈られた。三斎は石灯籠とともに愛用し、熊本、江戸の参勤交代の際にも運ばせたという。その後、三斎80歳の時に当院に納められたという。また、船岡山より移されたものともいう。 
◆文化財 李唐筆の絹本墨画「山水図」2幅(国宝)は、南宋初期山水画で右幅に「李唐画」の隠し落款がある。「附 絹本墨画 楊柳観音像」となっており、かつて三幅対とされ山水図の間に楊柳観音像が置かれた。1551年陶晴賢の乱を避け、大内義隆は山口・龍福寺の玉堂に寄せた。その後、さらに大徳寺に納めた。
 元代の銭舜挙(?-1301)筆「牡丹図」2幅(重文)は、1587年の北野大茶会に使われたものという。堺商人・銭屋宗庵が清巌宗渭に寄進した。
 古岳宗亘(1465-1548)筆の絹本着色「稲葉良籌像(いなばりょうちゅうぞう)」(重文)。
 かつて本堂に、安土・桃山時代-江戸時代の長谷川等伯(1539-1610)筆の障壁画があったという。近代に入り失われたという。ほかに等伯作という1609年の開山頂相、自賛の絹本着色「玉甫紹琮像」(京都市指定文化財)(98.4×41.3㎝)、等伯作という絹本着色「高士騎驢図屏風」四曲一隻の屏風がある。
 江戸時代、土佐光起(1617-1691)作という六曲一双の屏風「日吉山王祭礼屏風」、千利休愛用だったという「緑毛」の銘が入った井戸茶碗「青井戸茶碗」、四ツ割高台。
 意北軒に狩野永眞(1613-1685)の山水画襖絵がある。江戸時代中期に寄進された。狩野永徳の孫、孝信の第三子になる。花鳥画の金屏風一双は曼殊院宮良尚法親王(1623-1693)筆。
 書院に南禅寺管長・柴山全慶(1894-1974)筆「花 語らず」の詩額がある。「花は黙って咲き、黙って散って行く そうして再び枝に帰らない けれども、その一時一処に この世の すべてを 托している 一輪の花の声であり 一枝の花の真である 永遠に ほころびぬ生命の よろこびが 悔なく そこに 輝いている」。
 表門表札は建仁寺派管長・竹田益州筆。
◆寮舎・子庵 東林庵は、伝庵宗器の開創による。乾英宗単が住した。江戸時代、天明年中(1781-1789)に廃された。
 祥林軒は、室町時代、弘治・永禄年中(1555-1570)に江隠宗顕の創建による。江戸時代、元和年中(1615-1623)、中島藤右衛門により再興される。清巌宗渭が江戸時代、慶安年中(1596-1615)に高桐院東北に移した。
 耕雲軒は、旧大仙院寮舎ともいう。慶長年中(1596-1615)、高桐院後に移され、大龍庵と改められる。その後、廃された。
 養華院は、文禄年中(1592-1596)、また慶長年中(1596-1614)に、玉甫紹琮の創建による。総見院の隅にあり、北派兼帯で護持された。寛政年中(1789-1801)に廃された。
 松泉庵(松泉軒)は、佐久間宗岸が開基、玉甫紹琮を開祖にする。北派兼帯。
 桂林庵は、江戸時代、寛永年中(1624-1644)創建された。
 清源庵は、清巌宗渭、天倫宗忽が隠退住した。細川宗枕が高桐院北に移し、北派独住により護持された。
 泰勝庵は、江戸時代、寛永年中(1624-1644)、大徳寺202世・実堂宗伝の開祖、細川休斎の開基による。高桐院西北隅にあった。北派独住により護持。
 子院・残月軒は、江戸時代、寛永年中(1624-1644)に創建された。
◆歌碑 南庭西に高見祖厚の歌碑が立つ。「しらくもの たちわかれても思ひやる 心はかよう庵の松風」。
◆墓 その遺言により利休灯籠を墓標とした細川忠興の墓、3代・清巌が熊本に赴き持ち帰った忠興歯塔、忠興の妻・細川ガラシャの墓がある。
 細川忠隆(長岡休無)などの墓がある。
 ほかに、大徳寺170世・清巌宗渭、大心義統、細川一族、森鴎外が乃木希典の殉死に影響されて書いた『興津弥五右衛門の遺書』(1912)のモデルとされる興津弥五右衛門の墓がある。
 外墓地に、歴代の墓、織田家一族の墓、歌舞伎の始祖・出雲阿国(雪岩宗白信女)、その夫・狂言師三九郎、阿国の師で玉甫に禅を学んだという名古屋山三郎(名古屋山三、名護屋九右衛門)の墓と伝えられる五輪塔もある。1955年に確定した戦国時代、江戸時代の武将・塙団右衛門(塙 直之、1567-1615)も眠る。同志社病院長・佐伯理一郎(1862-1953)の墓がある。
◆文学 室生犀星(1889-1962)は大徳寺を訪れ、当院も訪ねた。住持は手ずから茶を立てもてなした。犀星は、細川三斎の墓にも参り記した。「細川三斎の愛してた石燈籠を見たが、厭味がなく、静かにやつれていて、ほそみも眼立たない率直な石燈籠であった。」(『京洛日記』)
◆花暦 ツバキ(墓所に植えられているツバキの雪中花は、白に紅筋の入った単弁花で、子房に毛があり、葉は披針状楕円形になっている。)(2月-3月)。天津乙女がある。
 センリョウ・マンリョウ(9-11月)、庭園・参道の紅葉(11月)。
 境内周囲は孟宗竹林で囲まれている。ハチク、ダイミョウダケ、ツバキ、クス、カシ、エノキなどの樹木が鬱蒼と生い茂る。
◆年間行事
 宗全忌(5月6日)、開祖忌(6月8日)、宝物曝凉展(10月第2日曜日)、三斎忌(12月2日)。


*年間行事の中止、日時変更、拝観時間変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の古都から 13 高桐院』『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』『紫野大徳寺の歴史と文化』『京都・紫野大徳寺僧の略歴』『京都古社寺辞典』『京の石像美術めぐり』『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『京都・美のこころ』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』『京を彩った女たち』『女たちの京都』『別冊太陽 長谷川等伯』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都隠れた史跡の100選』『京都 神社と寺院の森』


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唐門、こけら葺、10年に一度葺き替えるという。

中門

玄関

客殿(本堂)

客殿(本堂)

客殿、仏間


客殿、茶室「鳳来」

書院「意北軒」

「意北軒」

「意北軒」

「意北軒」、南の露地庭

「意北軒」西庭、楓、ドウダンツツジ

「意北軒」西庭

茶室「松向軒」



客殿南庭、紅葉の頃。灯籠はガラシャの墓標の写しという。


細川家の家紋(寺紋)の丸瓦が縁石としても利用されている。



袈裟形の降蹲踞(おりつくばい)





忠興と細川ガラシャの墓、石灯籠(欠灯籠)

細川一族の墓

井戸

竹林
 高桐院 〒603-8231 京都市北区紫野大徳寺73-1  075-492-0068  9:00-16:30

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