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光明寺 (粟生光明寺) (京都府長岡京市) Komyou-ji Temple |
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光明寺 | 光明寺 |
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![]() 総門 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 寺紋「杏葉」 ![]() ![]() ![]() 表参道、「女人坂」ともいう。 ![]() ![]() 薬医門 ![]() ![]() 御影堂(本堂) ![]() 御影堂(本堂) ![]() 阿弥陀堂 ![]() 阿弥陀堂 ![]() 法然上人立像、1975年建立 ![]() 石段の上に、本廟(御廟)、納骨堂、勢至堂、善恵・浄音搭などがある。5月、石段の両側にはサツキの生垣が花をつける。石段から先は、一般の立ち入りは禁じられている。 ![]() ![]() 石段最上部にある本廟 ![]() 閻魔堂 ![]() 勧化所 ![]() 観音堂 ![]() 経堂 ![]() 手水舎 ![]() 鐘楼 ![]() 圓光大師石棺 ![]() 圓光大師石棺 ![]() 法然上人袈裟掛之松 ![]() モミの木 ![]() 勅使門 ![]() 書院本玄関 ![]() 大書院 ![]() 回廊、通天 ![]() 吊燈籠 ![]() 釈迦堂 ![]() 釈迦堂 ![]() ![]() 信楽庭(しんぎょうてい) ![]() 大書院の西の庭 ![]() ![]() 庫裏 ![]() 衆寮門 ![]() 講堂 ![]() 法然上人火葬跡(荼毘跡) ![]() 茂右衛門の屋敷があった地 ![]() 元祖法然上人他力念仏創称之処 ![]() 鎮護社 ![]() ビャクシンの巨木 ![]() 「熊谷蓮生逆馬の絵図」の碑 ![]() 塩田紅果の歌碑「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」 ![]() 総門前脇にある間地院 ![]() 安楽院 ![]() 西の山 |
西山の地、長岡京市の光明寺(こうみょう-じ)は、粟生(あお/あおう)光明寺ともいわれる。「もみじ寺」とも呼ばれる。 境内は、小塩山支峰・烏ヶ嶽の斜面を利用して建てられている。境内(1万7000坪、5万6000㎡)は、庫裏などの建つ「人界」、御影堂などの建つ「天界」、法然の本廟などがある「極楽界」の三つに分かれている。 山号は報国山、院号は念仏三昧院という。 西山浄土宗総本山。本尊は、御影堂に法然自作の法然源空像(張子の御影)、阿弥陀堂に阿弥陀如来像を安置する。 「西山三山」(ほかに、吉峯寺、楊谷寺)のひとつ。千手観音は京都洛西三十三所観音霊場第7番札所。法然上人(圓光大師)二十五霊場第16番。京の通称寺霊場元札所、抱留之弥陀(だきとめのみだ)。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代末期、1175年、法然は、西山の広谷(ひろたに、現在の寺域裏山? 、廟所付近とも)に住み、この時、円照につく。さらに、東山吉水に移ったともいう。(『法然上人絵伝』) 鎌倉時代、1198年、蓮生(れんせい、熊谷直美)は法然の勧めにより、この地、粟生に茅屋を建てた。さらに、仏殿を建て六尺の阿弥陀像を安置する。法然を開山とし、自らを2世とした。院名を念仏三昧院とする。意味は奥深い山里が、念仏三昧の道場にふさわしいとしたことによる。法然は親筆の寺額を与えたという。蓮生は、近江堅田・浮御堂の千体仏中尊・阿弥陀仏を遷し、本尊として安置したという。(『光明寺縁起』『平家物語』) その後、寺は法友の3世・幸阿弥陀仏(1172-1238)に託される。 1207年、法然は讃岐配流の途中、母の手紙で張子御影を自作した。その後も御影は当寺に安置されたという。 1208年、蓮生没後、遺骨は当寺に納められた。蓮生影像が安置され、蓮生は2世・祖師になる。 1227年、嘉禄の法難により、比叡山衆徒は法然の墓を破却した。(『明月記』)。法然の遺骸は嵯峨、太秦に遷される。 1228年、この地、粟生野幸阿のもとで法然の遺骸は荼毘に付された。本廟が建立される。(『法然上人絵伝』)。この時、広隆寺来迎坊の法然棺より瑞光が発せられ、午未(南南西)の方向を示した。弟子らは方角の地、この地に集まり法然の遺体を火葬したという。以後、法然祖師信仰の根本道場になる。 1233年、法然の遺骨は、湛空により嵯峨・二尊院に遷されたともいう。(『法然上人絵伝』) 1238年、3世・幸阿弥陀仏の没後、4世・証空(1177-1247)が入寺以来、西山浄土宗として栄える。楼門、三重の塔を建立したという。 証空弟子で西山義西谷流の祖・法興浄音(1201-1271)が6世として住し同流の寺となる。 1242年、倍山無壁の時、法然の棺が光明を放ったとして、第87代・四条天皇の勅額「光明寺」を贈られ念仏三昧院に改められる。 南北朝時代、1333年、元弘の兵乱により荒廃した。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。 1507年、15世・乗運空撮の時、第104代・後柏原天皇より西山義第一の寺であるとして、香衣を着しての参内を許される。 1534年、16世(17世とも)・舜空秀旭の時、第105代・後奈良天皇の勅願所になり紫衣の綸旨も受けた。 1535年、紫衣勅許の綸旨が下されるともいう。 1563年、第106代・正親町(おおぎまち)天皇により、「浄土門根元地」とする綸旨(りんじ、命令)を贈られる。 1571年、元亀の乱(元亀の法難)で焼失した。 安土・桃山時代、明智光秀(1528-1582)により、寺領が安堵される。 1582年、山崎の戦いで光秀により、方丈、庫裏が焼失している。 江戸時代、寛永年間(1624-1644)までに堂舎も復興し、徳川家康の外護も得る。 17世紀(1601-1700)半、32世・倍山俊意が本廟、伽藍を整備する。壇林の復興を行い、中興の祖になる。 1655年、常紫衣の寺になる。 1656年、御廟が再建された。 貞亨年間(1684-1688)初め、光明寺の後山の広谷に、広谷庵室跡が推定され、光明寺も知られるようになったという。(『山州名跡志』) 1734年、御影堂が焼失した。また、本廟、鐘楼以外は焼失したともいう。 1753年、17年の歳月をかけ御影堂が再建された。 1799年、阿弥陀堂が再建される。 1860年、長州藩士上洛時に山口直は光明寺を借入し、糧食を調達している。 1864年、禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩兵が布陣した。 現代、1986年、位牌堂が建てられた。 ◆円照 平安時代後期の念仏聖・円照(えんしょう、1139-1177)。男性。号は遊蓮房。父・藤原通憲(信西)。1159年、平治の乱で藤原信頼に殺された父に連座し、配流され21歳で出家した。西山の広谷に住し、善導大師を思い、称名念仏に励んだ。法然は円照により専修念仏に帰依したという。 臨終に当たり、9編の念仏を終えた師に対し、法然は、今一念と促し、円照は一念して息絶えたという。法然は師を、「浄土の門と遊蓮房とにあへるこそ、人界の生をうけたる思出にて侍れ」と評した。38歳。 ◆法然 平安時代後期-鎌倉時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。男性。幼名は勢至丸、諱は源空、号は法然房、勅諡は円光大師、通称は黒谷上人。美作国(岡山県)の生まれ。父・押領使・漆間時国、母・秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り、黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年/1189年、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10か月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。80歳。 粟生には、若い頃に来て、茂右衛門の家に立ち寄ったという。20年後にも再訪したという。1212年、法然は大谷の禅堂で亡くなる。遺骸は当初、禅房東の崖上に葬られ、墓堂(現在の知恩院法然廟)が建てられた。1227年、嘉禄の法難では、法然の墓を破却し、鴨川に流すと知った高弟の信空、覚阿弥陀仏らは、旧6月22日夜に遺骸を清凉寺に移した。さらに、旧28日、太秦広隆寺の来迎房円空のもとへ移す。翌1228年、旧1月25日、西山粟生の幸阿弥陀仏の地(光明寺)へ移され、信空らにより荼毘に付された。 ◆熊谷 直実 平安時代後期-鎌倉時代前期の武士・熊谷 直実(くまがい-なおざね、 1141-1208)。男性。法名は蓮生(れんじょう)、法力坊蓮生、通称は次郎直実。武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県)の生まれ。幼くして父・直貞を亡くし、兄とともに叔父・久下直光に養育された。平知盛に仕える。1180年、石橋山の戦で、平家方として源頼朝を攻め、その後、頼朝の配下となる。佐竹秀義の成敗の功により本領・熊谷郷の地頭職に補任された。1184年、義経に従い宇治川、 壇ノ浦、一ノ谷と転戦、16歳の平敦盛(清盛の弟・経盛の子)を討った。1187年、鶴岡流鏑馬所役を怠ったとのかどで領地を減じられる。1192年、直光との領地争いでの頼朝裁決を不当として、吉水の法然の門に入り、出家、法力坊蓮生と改名した。1196年、鎌倉に戻り頼朝に伝道兵法を説く。その後、帰洛、晩年は武蔵国で暮らし、没したとも、東山の草庵で没したともいう。68歳。 1198年、法然の勧めにより、この地、粟生に茅屋を建てた。仏殿を建て六尺の阿弥陀像を安置し、法然を開山とし、蓮生自らを2世とした。院名を念仏三昧院とする。 ◆幸阿弥陀仏 平安時代後期-鎌倉時代中期の僧・幸阿弥陀仏(1172-1238)。詳細不明。男性。法然の門弟。1208年、蓮生没後、念仏三昧院を継ぐ。66歳。 ◆証空 平安時代後期-鎌倉時代中期の僧・証空(しょうくう、1177-1247)。男性。善恵房証空、勅諡号は鑑知国師、西山(せいざん)国師、弥天国師。父・京洛の村上源氏の流れをくむ久我一門源親季の長男。加賀(石川県)の生まれとも。1185年、内大臣・久我通親の猶子になり、道元の兄弟に当たる。1190年、14歳で出家した。当初、親季は許さず、一条戻橋での橋占いにより、僧が法華経普門品の偈を唱えながら橋を渡っ たことから許したという。浄土宗開祖・法然の弟子になり、善恵房證空と名付けられた。以後、法然臨終までの23年間師事した。1198年、法然が九条兼実 の請により浄土宗の根本聖典「選択本願念仏集」を撰述した際に勘文の役を務めた。1199年、法然に代わり九条兼実邸で選択集を講じる。1207年、法然とともに遠流となる。慈円に預けられ京都に留まる。「七箇條起請文」を制定しその第四位に署名した。日野の願蓮に天台学、政春に台密も学ぶ。1211年、 太子御陵に二重の塔を建て仏舎利を納めた。1212年、法然没後、1213年、東山小坂から慈円の譲りを受け、善峯寺中尾・蓮華寿院に入り、道覚法親王に 譲り北尾往生院(三鈷寺)に移った。1215年、「観経玄義分観門義」を開講する。1217年、仁和寺経蔵より善導大師の「般舟讃」を発見した。1221 年、往生院で初の不断念仏を行う。仰木の公円より伝法灌頂を受ける。1225年、慈円の臨終の善知識になる。1227年、嘉祿の法難に際し流罪を免がれ る。西園寺公経の北山邸で念仏勧進をする。1229年、奈良・当麻寺の「観経曼陀羅」に感得した。寛喜年間(1229-1231)、関東から陸奥へ游化。 1230年、西山・三鈷寺塔を建てる。1231年、浄蓮寺、鵜野木光明寺を開基、復興した。1243年、第88代・後嵯峨天皇の勅により歓喜心院を創建する。1244年、生瀬浄橋寺の梵鐘鋳造になる。1247年、後の天台座主道覚法親王のために「鎮勧用心」を述べる。宮中で度々講じ円頓戒を授与した。建立 した主な寺院は、西山善峯寺北尾往生院、歓喜心院、浄橋寺、遣迎院など11寺になる。浄土宗西山義の派祖。著『自筆鈔』『他筆鈔』。70歳。 ◆円空 立信 鎌倉時代前期-後期の僧・円空 立信(えんくう-りっしん、1213-1284)。男性。大和(奈良県)の生まれ。清和源氏の一流多田氏で、大和六条の蔵人源行綱の末孫に当たる。1227年、浄土宗西山派の祖・証空に20年間師事し、その没後、真宗院を開き、後深草派の祖となる。三鈷(さんこ)寺、光明寺、誓願寺などの住持も務めた。歌人としても知られている。71歳。 ◆仏像・木像 ◈御影堂の本尊「法然源空像」は、張子の御影(はりこ-の-みえい)とも呼ばれる。鎌倉時代前期、1207年、建永の法難により、法然が讃岐に流される船上で、形見として自作したものという。法然の母・秦氏の法然宛の手紙を材にして作ったという。内衣法服は、第123代・大正天皇の貞明皇后より贈られた。 ◈脇壇に、中国浄土教の「善導大師(613-681)」、2世・「熊谷(蓮生)直実像」、4世・「西山国師(証空)像」、6世・「浄音像」が安置されている。 ◈阿弥陀堂には、本尊の丈六「阿弥陀如来像」を安置する。恵心僧都作ともいう。蓮生の秘計により、琵琶湖堅田の浮御堂、千体仏の中尊を遷したという。如来像の光背上部には、法然自作(念持仏とも)という黒く小さな阿弥陀仏が安置されている。 ◈美仏「十一面千手観音立像」(重文)(174㎝)は、平安時代前期作になる。奈良時代-平安時代前期作ともいう。京都洛西三十三所観音霊場の本尊だった。西山の浄土谷より発見されたという。13世紀以降に乗願寺観音堂より遷されたともいう。 42臂あり頭上面(後補)、化仏(後補)を載せる。細面で晦渋、眼は切れ長、眉は緩やか、唇はしまる。髪束の膨らみは緩やかに表される。脚部はやや長く腰高、肉身はふくよかに表される。条帛、天衣は丸みを帯び、裳は腹部で二段折り返し、細帯で締める。衣文は捻塑的な表現になっている。塑像様の木彫りであり、頭、体の主要部は一木造、内刳りは施さない。 木造、カヤ材、漆箔、彫眼、白毫(びゃくごう)は水晶嵌入。黄土彩の檀色像。現在は京都国立博物館寄託。 ◈釈迦堂の「釈迦如来立像」は、「頬焼如来」といわれる。頬に焼火箸で焼かれた傷痕がある。「御鉢の釈迦」とも呼ばれた。 ◈現在は観音堂に八番霊場、栗生観音寺の本尊が安置されている。かつて、子守勝手神社境内にあり、無住のために光明寺に遷された。 ◆建築 総門、閻魔堂、藥医門、茶所、観音堂、経蔵、勧化所、鐘楼、御影堂、阿弥陀堂、勢至堂、納骨堂、法然廟所、釈迦堂、書院、庫裡、浴室、専門寮、鎮守社などが建つ。 ◈「総門」は、江戸時代後期、1845年に建立された。1間1戸の高麗門、左右に築地塀。 ◈「薬医門」は、江戸時代前期、1676年に建立された。かつては表門として使われていた。 ◈「勅使門」は、江戸時代後期、1860年に建立された。四脚門 前後唐破風付、檜皮葺。築地塀は、江戸時代後期、1810年の築造による。 ◈「衆寮門」は、江戸時代末期の建立による。一間一戸、高麗門、本瓦葺。 ◈「御影堂(みかげどう、本堂)」は、江戸時代中期、1734年に焼失し、1753年に再建された。7代20年の歳月を経て再建された。長岡京市最大の建物になる。外陣、脇陣、内陣がある。18間4面(桁行27.6m、梁行25.8m)、総ヒノキ造、単層、入母屋造、向拝3間、本瓦葺。背後に本廟がある。 ◈「釈迦堂」は、江戸時代中期、1741年に建立された。 ◈「阿弥陀堂」は、江戸時代後期、1799年に再建された。平安浄土教の形式が残されているという。背後に位牌堂がある。9間4面(桁行13.4m、梁行10.9m)。単層、入母屋造、本瓦葺、総ヒノキ造。 ◈「観音堂」は、江戸時代後期に建立された。3間3間、前面入母屋、背面切妻造、桟瓦葺。 ◈「築地塀」は、江戸時代後期、1810年に築造された。 ◈「講堂」は、江戸時代後期、1833年、浄土宗寺院の壇林の数少ない遺構という。入母屋造、桟瓦葺。 ◈「書院本玄関」がある。書院には住持の対面所があった。 ◈「鐘楼」は、江戸時代前期、1657年に建立された、1659年に現在地に移された。切妻造、本瓦葺。 ◆本廟 境内最上部、御影堂の西にある石段上は、極楽界といわれ、法然の遺骨を祀る本廟(御廟、開山廟)がある。鎌倉時代後期、1228年、法然の17回忌に、太秦・広隆寺からこの地に移され、火葬された。遺骨の一部が廟に納められた。 「御廟」は江戸時代前期、1656年の建立で、禅宗様になる。組物に多くの彫刻、壁には、飛天女、雲、蓮の花など極彩色壁画が描かれている。正面1間、側背面2間、宝形造、方形堂、檜皮葺。 「御廟拝殿」は、江戸時代前期、1653年の建立で、山内で最も古い建物になる。3間2間、前拝1間、後拝廊2間、一重、入母屋造、檜皮葺。 法然火葬跡の灰と土を固めて造られたという五重の石塔が祀られている。石塔は鎌倉時代作で松香石製の層塔という。下に法然の遺骨(舎利)が納められている。また、廟塔碑、石台は古墳の石棺を転用したともいう。 また、蓮生の小型の石塔などが立てられている。 ◆庭園 勅使門の西、釈迦堂前庭として、枯山水式の「信楽庭(しんぎょうてい)」がある。現代、昭和30年代(1955-1964)に作庭された。作庭者は不明という。 名は、阿弥陀仏が人々のために立てた、48の誓願のうちの最も大切といわれる18願・念仏往生の願文に因む。また、浄土宗の『無量寿経』の「心から信じて願えれば、必ず救われる」を意味するともいう。 白砂と苔地に、18の石が据えられている。右手奥に、サツキの刈込の築山を背にして三尊石が立つ。阿弥陀如来、脇侍の観音菩薩、勢至菩薩という。その手前の石は「二河白道図」より、行者を表し、白砂の生死の大海を渡る姿が表現されているという。また、せめぎ合う二つの河を前に、現世で迷う人間を釈迦が後押しする様という。 ◆茶室 大書院の西に茶室「広谷軒」がある。 ◆文化財 ◈鎌倉時代(13世紀)の絹本著色「二河白道図(にがびゃくどうず)」(重文)は、『観経疏』の「二河白道」に基づく。衆生の煩悩を表す左に火の河の瞋憎(しんぞう)、右に水の河の貪愛、上(西)の彼岸・極楽浄土には阿弥陀仏の派遣迎二尊が立つ。下(東)の此岸・現世には釈迦仏が立つ。中央に信心・阿弥陀仏による救済を象徴する細い白道が縦に引かれている。行人は後方より群賊悪獣に追われ、左右を火の河と水の河で阻まれる。その間のわずか4-5寸の細い道を対岸まで100歩進むことになる。その時、東岸より道を勧める声、西岸より迎える声があり、西岸(彼岸)に無事渡ることができた。行人は西岸、東岸に二人おり、「異時同図」の技法により描かれている。「二河白道」の図中、最古の例になるという。 ◈鎌倉時代の「四十九体化仏阿弥陀聖衆来迎図」1幅(重文)、「阿弥陀二十五菩薩来迎図」、「阿弥陀三尊来迎図」。 ◈江戸時代前期の「光明寺縁起絵巻」全3巻、絵41段、(長岡京市指定文化財)。熊谷直美が一の谷で平敦盛を討ち取り、法然の荼毘などが描かれている。土佐派の絵師による。 ◆障壁画 「光明寺障壁画 附 紙本著色大和絵人物図屏風」(京都府暫定登録文化財)は、江戸時代中期、1709年に造営の京都御所常御殿の障壁画として制作された。狩野派の絵師により、厳島神社、山水人物図などが描かれている。 ◆光明 光明寺の寺名には伝承がある。 法然没後、比叡山延暦寺による専修念仏への弾圧は増した。宗論に端を発し、嘉禄の法難後、平安時代後期、1127年、東山大谷の法然の墳墓は、比叡山衆徒により破却された。弟子たちは、この破壊の直前に石棺を運び出し、当初は嵯峨へ、さらに、広隆寺来迎坊の円空の元へ移された。法然の遺骸を隠すために、石棺に納められたという。 翌1228年、法然の棺は、夜、地鳴りと共に光を放ち、南西の方角を照らしたという。翌日、円空は、光照らした粟生野の念仏三昧院に幸阿を尋ねた。幸阿も霊光を見たという。夜、法然の遺骸を入れた棺は、広隆寺から運び出され、この地で荼毘に付されたという。以後、寺名は、光明寺と改められたという。 ◆法然の墓 鎌倉時代前期、1212年に法然は大谷の禅堂・禅房(現在の知恩院勢至堂付近)で亡くなる。遺骸は当初、禅房東の崖上(現在の御廟)に葬られ、墓堂(現在の知恩院法然廟)が建てられた。 1227年旧6月の嘉禄の法難では、比叡山衆徒が法然の墓を破却し、遺骸を鴨川に流すと知った高弟の信空、覚阿弥陀仏らは、旧6月22日に遺骸を嵯峨清凉寺に一度移した。さらに、旧28日、太秦広隆寺の来迎房円空のもとへ移された。これらの動きに際して、帰依した関東御家人、宇都宮頼綱、千葉入道法阿らが、郎党と共に遺骸の警護に当たった。 翌1228年旧1月25日、西山粟生(あお、現在の光明寺)の幸阿弥陀仏のもとへ移され、ここで荼毘に付されたという。遺骨は弟子たちがそれぞれ分かち持ったという。1234年、法然の弟子・源智は、現在地、大谷の地に知恩教院大谷寺(後の知恩院)を建立し、法然の遺骨を廟堂に安置した。 ◆石棺 阿弥陀堂前に「圓光大師石棺」がある。法然の遺骸を16年間にわたり隠した石棺という。火葬後の空棺を安置したという。蓋は綱掛突起のある組合せ式石棺になる。古墳出土の石棺の転用という。 ◆弥陀次郎伝承 平安時代末、巨掠池の一口(いもあらい)の漁師・水次郎は殺生を好み、悪次郎と呼ばれていた。ある日、托鉢に訪れた僧の顔に焼け火箸を当てて追い返したという。だが、僧は怒ることもなく立ち去る。不思議に思った水次郎が跡を付けると粟生・光明寺に消えた。 寺の釈迦如来像が托鉢に出ると聞き、像の顔を見ると、確かに水次郎が付けた焼け火箸の跡が残されていた。水次郎は悔い改め、以後、念仏行者になる。弥陀次郎と呼ばれ、巨掠池で仏像を得たという。同様の縁起は巨掠池周辺に伝わる伝承という。久御山・安養寺、宇治・西方寺などにも伝わる。(『弥次郎縁起』「西方寺本尊縁起』) 光明寺が江戸時代に出した刷り物「御鉢釈迦牟尼如来略縁起」にも、弥陀次郎の話が綴られている。「頬焼けの釈迦」として信仰を集め、また、「御鉢釈迦」といわれるのは、左手に鉢を持つためという。上記伝承とほぼ同じ説話になる。ただ、弥陀次郎が引き揚げたというこの阿弥陀如来像は、淀水垂(みずだれ)の末寺・阿弥陀寺の本尊であるという。 ◆史跡 ◈平安時代後期、1156年に、24歳の法然は、この地の里にあった長者・茂右衛門(茂兵衛)の邸で一泊した。 その20年後に再訪した法然は、念仏往生強化の第一声になった。 ◈方丈前にかつて「紫雲松」があった。その後、枯死した。 鎌倉時代前期、1228年、この地、粟生野幸阿のもとで法然の遺骸は荼毘に付された。本廟が建立される。(『法然上人絵伝』)。この時、広隆寺来迎坊の法然棺より瑞光が発せられ、午未(南南西)の方向を示した。弟子らは方角の地、この地に集まり法然の遺体を火葬したという。荼毘所の西の松に紫雲棚引いたために「紫雲松」と名付けられたという。 「法然上人袈裟掛之松」が植えられている。かつては裏山にあった。法然が袈裟をかけた松という。現代、1982年、現在地に移されたという。 ◈「法然上人立像」は、現代、1975年に建立された。 ◈「熊谷蓮生逆馬の絵図」の碑が立つ。「東行逆馬」ともいう。蓮生は、関東への布教の旅に出る際に、阿弥陀のある西方に尻を向けることはできないとして、馬に逆さに乗り、西方を拝みながら進んだという。 ◈「表参道」はなだらかであり、「女人坂」ともいわれる。左手に「もみじ参道」がある。これらの敷き石は、元禄時代に信者により桂川から運ばれ集められたという。「念仏石坂」ともいわれる。 ◆古墳 境内には光明寺古墳、背後に烏ヶ丘古墳などがある。 ◆俳句・句碑 ◈「浄土門ここにはじまる照紅葉」は俳人・鈴鹿野風呂(1887-1971)、による。京都生まれで、高浜虚子に学ぶ。日野草城らと『京鹿子』を創刊した。のち主宰した。句集に『浜木綿』がある。 ◈「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」の塩田紅果(しおた-こうか、1894-?)の歌碑がある。三重県生まれで、本名は塩田親雄(ちかお)、弁護士で歌人だった。『蟻乃塔』を創刊し、金沢蟻塔会を主宰した。 ◆断層 京都盆地中部西縁に、灰方断層・光明寺断層・西山断層・金ヶ原断層がある。これらは、北西延長部で1つになり、老ノ坂断層(亀岡断層)になる。さらに亀岡盆地の東縁、北西の京都・西山断層帯北西半部(亀岡断層帯)に繋がっている。断層の長さ20km。 灰方断層・光明寺断層は、段丘面に低断層崖があり、東底下の上下位変位が見られる。 ◆樹木 ◈ビャクシン(長岡京市の天然記念物指定)の巨木がある。樹齢400-500年という。高さ15m、幹周り3.8m、根元は4.6m。 ◈サクラが植えられている。 ◈500本のカエデ、モミジの名所として知られる。 幕末の頃、当時の住職がもみじ参道(長さ200m、幅3m)にカエデ、ヤマモミジの木々を200本ほど集めて植えた。敷紅葉も知られている。紅葉の回廊もある。 ◈梅、椿、菩提樹、萩、竹林も広がる。秋、菊の品評会も行われている。 ◆精進料理 精進料理が頂ける。(要予約)。 ◆法然改葬荼毘念仏行脚 かつて、比叡山衆徒は法然の遺骸を暴こうとしたため、遺骸は密かに、東山大谷、太秦を経て、当地の粟生に移され荼毘に付されたという。 当時を偲び、法然上人改葬荼毘念仏行脚(1月24日)が催されている。夜に、僧たちは、太秦の西光寺を発ち当寺を目指す。松明、提灯を手にした念仏行脚であり、途中の松尾大社、西山派の各寺で休憩をとる。4時間余りの行程になる。 ◆年間行事 修正会(1月1日)、法然上人改葬荼毘念仏行脚(1月24日)、法然上人御命日(1月25日)、涅槃会(2月15日)、春のお彼岸(3月18日-24日)、花祭り(4月8日)、法然上人御忌(二十五菩薩の練り供養が行われ、阿弥陀如来来迎が演じられる)(4月19日-25日)、暁天講座(7月28日-30日)、お盆(8月13日-15日)、蓮生忌(9月15日)、秋のお彼岸(9月20日-26日)、西山忌(11月26日)、成道会(12月8日)、除夜の鐘(22時に整理券配布、23時45分頃に法要、23時50分より撞く。甘酒接待。)(12月31日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *一部の建物内は撮影禁止。釈迦堂、庭園は普段は非公開。 *参考文献・資料 『京の古寺から 29 光明寺』、『京都古社寺辞典』、『京都・山城寺院神社大事典』、「特別展 南山城の寺社縁起」、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都おとくに歴史を歩く』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『京都の寺社505を歩く 下』、『證空辞典』、『京都大事典』、『日本の名僧』、『事典 日本の名僧』、『古佛』、『仏像を旅する 京都』、『極楽の本』、『京都の歴史災害』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都洛西三十三ヵ所ガイド』、『週刊 京都を歩く 16 講談社 長岡京・八幡』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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